「今日は、どこに行くの……?」

 日本のとある地域で、人々の記憶を奪う蝶が確認された。
 人間の記憶が、蝶にとっては生命の維持に必要な栄養素。
 特に感情の込められた記憶ほど、大きな栄養素となると一部では騒がれている。

「今日も、人の記憶を食べに行くの……?」

 蝶は主に陽が沈んだあとに活性化し、人間社会に紛れ込みながら獲物を選別していく。人間の記憶を糧に生きる異形の存在である蝶は、今日も美味しい記憶を探す。

「私も、連れて行ってください……」

 一部では、蝶は人々の辛い記憶を食べるために現れたと論じられている。
 一部では、蝶は人々に害をもたらす物の怪や呪いの類として論じられた。
 一部では、蝶は辛い記憶だけでなく、幸せな記憶も一緒に奪う恐れるべき存在と論じられた。

「私も、自由になりたい……」

 蝶の存在意義は不明のまま、蝶は今日も世界中をさ迷いながら記憶を食べ続ける。
 特定の目的や法則はなく、ただただ今日も存在し続けていく。
 望んで記憶を消してほしいという変わり者を除いて、蝶は今日も記憶を奪う存在として人類から敵視されている。

「お姉ちゃんっ!」

 紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)という名の蝶と、桜が舞う。

「誰と喋っていたの」

 世界が花びらで覆われるのではないかと勘違いしそうなくらいの美しさに溺れていると、和造りの部屋を支配する妹の冷たい声に背筋が凍る。

「……ごめんなさい」
「謝るなって言ってるでしょ!」
「……ごめんなさい」
「お姉さまが謝ったってね、何も解決しないのよっ!」

 私が蝶の言葉を理解できると気づいた、あの祭りの日以来。
 私は、妹の目を見ることができなくなった。
 いつも視線を下げて、私は妹の凍てつく視線から逃げ出す。

「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ちが悪い……」
「……ごめんなさい」

 蝶が舞うのは、夜の時間。
 蝶が踊るのは、暗闇の中。
 蝶が力を使うのは、良い子が眠りに就いた時刻。
 蝶が世界を飛び回る頃、妹は私を罵るためにやって来る。

「いい加減にして……」
「……ごめんなさい」
「蝶と話ができるなんて気味が悪い……」

 蝶が、私に語りかける。
 だから、私は逃げてと声を上げた。
 それが、すべての始まりだった。

「お姉さまみたいな子、生まれてこなければっ!」
「……ごめんなさい」

 蝶と言葉を交わすことができる私を、家族は気味悪がった。
 おまえは人の子ではないと言われた。
 おまえには、人として生きていく価値がないと言われた。

「お姉さまのせいで、北白川は没落したの……」
「……ごめんなさい」

 私は家族の輪から、外の世界へと追いやられた。
 いっそのこと殺してくれた方が楽になれたのかもしれないけど、北白川家から遺体が見つかることの方が問題だと父は言った。だから、私は生かされることになった。

「どうして私のお姉さまは、こんな醜い化け物なの……?」

 生きているけど、生きていない。
 食べ物も寝る場所も与えてはもらえるけど、ただそれだけ。
 ただそれだけの毎日は、繰り返された。

「私がいけないの……? ううん、私は悪くない……。お姉さまが悪いの……。お姉さまが悪い……」
「美怜ちゃん、大丈……」
「触らないで! 私が穢れてしまうでしょ!」

 妹を心配することも、妹に触れることも、私には許されない。
 私は、家族ではないと烙印を押された子。
 これから先も、北白川家の娘として生きていくことは許されないということ。

「……ごめんなさい」

 障子戸から漏れる風は、私の頬を切り裂くかのような冷たさをはらんでいた。

「今日は、私と筒路森の縁談がまとまる日」

 妹は誇らしげに微笑みながら、一畳間で一生を終える私のことを嘲笑った。

「私は、お母さんとお父さんに、多額のお金を贈ることができるの。価値ある人間なの」

 私は何も返さず、ただ、彼女の言葉を静かに受け止めようと思った。

「あの、世間から恐れられている筒路森(つつじもり)に嫁ぐなんて……っ」

 でも、ただ黙るだけだった私を、妹は気に食わなかったらしい。
 震える拳を強く握り締め、妹は感情を爆発させた。

「あんたが蝶と話す化け物だから、私が筒路森の嫁がされることになったの!」

 怒りに駆られた妹は私に近づき、狂気じみた瞳で姉を見つめる。

「ざまぁみろって思ってるんでしょ? いい気味だって、思ってるんでしょ? そうよ! 筒路森に嫁いだところで、私の未来は真っ暗よ!」

 そして、彼女の手が私の首筋に伸び、何をされるのかと不安に駆られた私は目を閉じた。すぐに首筋に、痛みが走った。

「っ」

 次に瞼を上げる頃には、妹の爪が自身の肌に食い込んでいたことに気づく。

「すべてはお金のため……お父様とお母様を、楽にするため……」

 痛みに顔が歪む。
 妹が爪先の力を緩めることはなく、部屋の中には緊張が張り詰めていく。

「ほんっとに、最悪」

 妹の手がゆっくりと離れ、彼女は汚い言葉を吐き捨てた。

「役立たず」

 足取りの重い彼女は、襖の引手へと手をかけた。
 その背中は、姉の存在を完全に無視しているように思えた。

「こほっ、こほっ」

 寒さが体に堪えるような季節に入った頃から、咳が止まらなくなった。
 呼吸を繰り返すことすら難しいくらいの苦しさに襲われているのに、その苦しさを和らげる方法を選ぶことができない。

「はぁ、はぁ」

 一畳分の広さしかない部屋の中で、なるべく体を安静にしようと寝転がる。
 その、寝転がるという行為ひとつすら、今の私には苦しい。
 瞼を下げて、深く眠りの世界に向かいたい。
 死の世界に誘われても構わないと覚悟があるのに、心臓だけは止まってくれない。
 ただただ、苦しい。