* * *
私の人生は、なんだったんだろう。
白く揺蕩う微睡の中で、私はまた問うていた。
何度も何度も、自分自身に訊いてきた問いだった。
ふと、過去がよみがえる。
父は、仕事のストレスから精神を病んでいた。それが原因で、元々あった小児性癖のコントロールができなくなった。当時まだ幼かった私は、正気を失った父に押し倒された。未遂に終わったとはいえ、あの時の父の苦悶に歪んだ表情が忘れられなかった。
ふと、過去がよみがえる。
小学生の時、私は絵画教室に通っていた。家庭に漂う暗い雰囲気を感じ取っていた私は、大好きだった絵に没頭することで気を紛らわせていた。
でも、私は春香の抱いている劣等感までは気づけていなかった。拠り所を求めるように春香の隣で絵を描き続けた結果、私は春香から距離をとられるようになった。悲しくて悲しくて、時には春香の描いた絵を模写して昔を思い出していた。でもそれが、余計に彼女の気持ちを逆撫でして、本格的ないじめに繋がった。
芽衣を含む仲の良かった友達全員に無視され、陰口を叩かれ、腫れ物に触るように扱われた。
そうした辛くしんどい日々が続いたある日、私が春香との思い出を描いた絵を破り捨てられた。
激情に支配されたその後のことは、よく覚えていない。気がつけば、私は病院のベッドに寝ていた。
ふと、過去がよみがえる。
いじめに心を痛め、抜け殻のようになった私の看病は家族がしてくれていた。しかし、元から確執の多かった家族はすぐにバラバラになり、父と母は離婚、兄はガラの悪い人たちとつるむようになった。それからしばらくして母は詐欺に遭い、精神を病んでそのまま帰らぬ人となった。
私がなにをしたというのか。
どうして私だけがこんな目に遭わないといけないのか。
私はどうすればよかったのか。
母方の親戚に引き取られてからも、私は自問自答をずっと続けた。
答えは、出なかった。
ふと、過去がよみがえる。
中身のない笑顔を振り撒いて、私は中学校、高校と進学していた。敬語で話す親族との関係に疲れ、楽しくて幸せだった過去を思い出しては悲しくなり、喪失感に苛まれていた私は、恋愛をしてみようと考えた。
せっかくの青春。いつかの漫画や小説で読んだ甘酸っぱくも切ない恋ができれば、私の心を癒してくれる唯一の理解者がいてくれれば、私はまた頑張れる気がした。
そんな時に出会ったのが優だった。口や態度は悪いけれど、憎めない素直さと優しさを彼は持っていた。そばにいてくれる人を求めていた私は、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれる優からの告白を受けた。
でも、それは失敗だった。父からのトラウマがあった私は優からの誘いを断った。それでも迫ってくる優に、私の心に残っていた恋への期待が崩れ去った。しかも彼は、あろうことか春香や透子とも付き合っていた。私は優を完全に拒絶した。
ここで私は、家族も、友達も、恋人も、誰も彼も信頼できなくなった。
私は、ひとりぼっちになった。
ふと、過去がよみがえる。
私は大学生になっていた。
私の通う大学は地元ではかなり有名なところで、見知った顔が数多くいた。この頃から、ぼんやりと復讐を考えるようになっていた。
そんな時に、インターン先で正一と出会った。当初は嫉妬と羨望が入り混じったような態度をとられていたが、やがてそれは過度な憧憬と期待に変わった。彼のパソコンにあった八つ当たりみたいな計画を見ればおよその理由は推察できたが、正直他人を信頼できない私にとっては、他人からの信頼はただの重石でしかなかった。
私は、疲れ果てていた。
持ち前の明るさを振り撒いてはいたけれど、いつ壊れてもおかしくはなかった。
いや、もしかしたら、もうとっくに壊れていたのかもしれない。
誰かの信頼に応えようとする自分と、誰も信頼できない自分。
不均衡な天秤の腕にかかる重みは、孤独な心の内をさらに歪ませ、着実に私を追い込み、精神をすり減らしていった。
ふと、過去がよみがえる。
ゼミ活動をしていた講義室で、私はお菓子を配っていた。休憩時間だろう。発表を終えて、私は気晴らしに作ったチョコレートのカップケーキを渡していた。誰も彼もが美味しそうにケーキを頬張り、楽しそうに笑っていた。
かつて私に酷いことをした人たち。苗字や外見が変わったこともあって私だと気づいていない人もいれば、私がもう気にしていないものだと思っている人もいる。本当にお気楽で、どこまでも幸せな人たちだ。
自分勝手で、他人の人生を平気で壊してきた人たち。
どうあっても、許すことはできない。
根底には、そんな強い気持ちがある。
それでも、僅かながらに楽しいと感じている私がいるのも、また事実だった。
ふと、今がよみがえる。
私が最後に信じてみようと思った人が、目の前に立っていた。
右手には拳銃、左手には起爆装置を持っていた。
苦悶に顔を歪め、呼吸は乱れ、汗が額からいく筋も頬を伝っては落ちている。
そろそろ時間だ。
きっと彼は、選べない。
みんなは火と煙にまかれて生き絶えるのだろう。
私はキュッと唇を結び、じっと耐える。
その時、視界の端に何かが煌めいた。
赤と白の光だった。
反射的に私は駆け出し、目の前の彼を思い切り突き飛ばした。
直後、鮮血が波打つ。
視界は赤に染まり、私は床に転がった。
呼吸をするたびに胸がつまる。咳き込む。痛い。痛い。痛い。
視界が揺れる。
泣きそうな顔をした、彼が見えた。
私の暴走を、彼はどう思っているんだろう。
失望しただろうか。恐怖しただろうか。呆れただろうか。驚いただろうか。悲しんだだろうか。怒っただろうか。絶望、しただろうか。
私と彼は対極にいた。
彼はどこまでも普通な人生を歩んできた人だった。
私と関わってしまったことで、彼はその平凡で幸せな人生を壊された。
結局のところ、私も同じなのだ。
私は、私が心から憎み、恨んだ人たちと同じことをしている。
わかっている。わかっていた。
でも、もうどうしようもなかった。
私の人生はなんだったんだろう。
なんで私は生きているんだろう。
私はどうすれば良かったんだろう。
答えのない問いが浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
今際の際になってすら、私はこんなことを考えている。
笑うしかなかった。
ぜんぜん、笑えなかった。
やがて彼の顔はぼやけて、白いもやが私の視界一面に広がっていった。
もう、過去も今も見えなかった。
私は間も無く死ぬ。
白の世界で、私は光に溶けていく。
結局、答えは出なかった。
これが、私の人生だったのだ。
赤嶺舞を最後に殺したのは、他ならぬ私だった。
それだけの、ことだった。
*
「……?」
目を開けると、見たことのある天井が広がっていた。
白い天井に、白いカーテン。
少し横に視線を這わせると、白い光が窓の外に溢れていた。
規則的な電子音が聞こえ、息を吐くたびにこもった空気が口周りに触れた。
声を出そうとすると、胸が痛んだ。
その痛みで、私は実感する。
私は、生きている……?
「あ、起きた?」
生の気配を内に感じると同時に、柔らかな声が聞こえた。
見れば、頭に包帯を巻いた彼が、優しげな眼差しを私に向けていた。
――真斗くん。
名前を呼ぼうとして、私は盛大に咳き込んだ。焼けるような痛みが胸のあたりに走る。
「喋っちゃダメだよ。傷口が開いちゃうから」
たしなめるような声。
私はぼんやりとした頭でその意味を反芻してから、こくりと頷いた。
「ここはね、あのペンションから程近いところにある病院だよ。夜のうちに運ばれて、今は朝の九時くらいかな」
朝の九時。ということは、あれから九時間ほど経っていることになる。
「覚えてるかな? あの時、僕と舞が話している時に、警察と救急隊が到着したらしいんだ。それで、警察は拳銃と起爆装置を持っている僕を犯人の共犯者と思って撃ったらしい。ペンションも燃えて崩れ始めていたから、交渉の余地なしと判断したんだってさ」
やはり、そういうことか。真斗くんには、悪いことしちゃったな。
でも、どうして警察と救急隊が来たんだろう。あのペンションは電波は通じないし、呼べる人はいなかったはずなのに。
「ああ。もしかして、どうして警察が来たかって思ってる?」
私の表情から読み取ったらしく、真斗くんはそう尋ねてきた。私は小さく首を縦に振る。
「警察を呼んだのは、邑木先生。舞のお父さんだよ」
「……ぇ?」
驚きのあまり、掠れた声が出た。ずきりと胸が痛むが、驚愕のほうが勝った。
邑木先生は、間違いなく崖下に突き落としたはずだ。私の名前を使って手紙で呼び出し、恨み辛みをぶつけてから狼狽して謝る父の身体を押して落としたのだ。血を流して動かなくなっているのも確認したのに、どうして……?
「邑木先生は幸いにも骨折で済んだんだって。スマホで崖下の写真を撮れるくらいだから、そんなに高い崖じゃなかったんだろう? 邑木先生はしばらく気絶してたけど、意識を取り戻してから自力で電波が繋がるところまで下りて、それから警察と消防に連絡したって言ってたよ」
なるほど、そういうことか。
私は小さく息を吐く。
本当に、あの男はどこまでも悪運が強いらしい。でも……。
「亡くなってなくて、良かったね。舞」
また私の心を見透かしたかのように、真斗くんが言った。私はふいっと視線を逸らす。
「……それからね、僕らが助かったのは邑木先生だけじゃなくて、みんなのおかげだよ」
「ぇ?」
また耳を疑う言葉が聞こえてきて、私が彼に視線を戻した時だった。
「おいっ! そこ通せよ!」
「ダメだ! ここにいる者はこれから警察病院に搬送する。部外者を通すわけにはいかん!」
「部外者ってなによ! ウチらはバリバリ関係者ですー!」
「ねぇ、通して。お願い」
「あっ、ねね、あっちから回ればいいんじゃない〜?」
「おーいいね。それじゃあみんな、このおじさんの相手よろしく。俺は一足先に失礼するよ」
「あっ、大輔ズルい! ボクもそっちから!」
「あ、こらっ! そこの君! 待ちなさい!」
複数の大きな声が廊下から響いてきた。顔を見なくてもわかる。どうして、みんなが……?
「あいつら、警官隊に救出された後に僕らのいる部屋まで案内したんだってさ。火の海だったらしいのに、火傷までしてよくやるよな」
「な……で?」
「せめてもの罪滅ぼしだったらしい。舞の過去のことも、全部聞いたよ。正直、理解できないことだらけだった。許せるはずもないし、そりゃ復讐もしたくなるよなって思った」
そこで、真斗くんは一度言葉を区切った。外の喧騒は、さらに大きくなっている。
「でも、ごめん。それでも僕は、やっぱり舞の行動は間違ってると思う。僕は、舞ほど酷い経験をしたことがないからかもしれないけれど。やっぱり、違うと思うんだ」
真っ直ぐに彼は私を見ていた。でもそこに、責めるような色はない。
「僕は、舞の気持ちも、みんなの気持ちも、本当の意味で理解することはできない。それでも、なるべくわかっていきたいとは思うんだ。舞の言っていた通り、結局最低最悪の本性が見えてしまうかもだけど。ただそれでも僕は、それが全てじゃないと思ってる。そうなんだって、信じたい。だから舞も……――」
そこで、乱暴にドアを開ける音がした。騒々しい足音が響いたあと、カーテンがそろそろと開かれる。
「えっ!? なんで真斗いんの!?」
「いやー、先に忍び込んでて」
「あ……もしかして、目が覚めたの?」
「なに!? こ、これは、急いで報告しないと……!」
バタバタと病院らしくない足音が響き、一瞬の静寂が下りた病室はまた騒がしくなる。
まったく、本当に意味がわからない。
私はみんなを、殺そうとしたのに……。
「舞っ!」
ぼやける視界の端で、警官に追い出される真斗くんがふいに私の名前を呼んだ。うるさい警官の怒鳴り声に負けない声で、彼が叫ぶ。
「罪は償っても、舞は舞のままでいて!」
その言葉を最後に、病室には静寂が戻った。足音も喧騒も、瞬く間に遠ざかっていく。
やっぱり、意味がわからなかった。
真斗くんは、いったいなにを考えているんだろう。
みんなも、なにを考えているんだろう。
開け放たれた窓から、涼風が吹き込んでくる。
白いカーテンが気持ち良さそうになびき、小さく波打った。
やがて病室のドアが静かに開き、警官が姿を現した。
「赤嶺舞さん、ですね?」
尋ねられた名前を、私はゆっくりと噛み締める。
どうやらまだ、私は生きているらしい。
私は真っ直ぐに警官の目を見据えて、頷いてみせた。
これから私は警察病院に移送されること、傷の回復に伴い取り調べが始まることなどが説明された。
そんな業務連絡を聞き流しつつ、私は真斗くんの言葉を反芻していた。
――僕は、舞の気持ちも、みんなの気持ちも、本当の意味で理解することはできない。それでも、なるべくわかっていきたいとは思うんだ。
――結局最低最悪の本性が見えてしまうかもだけど。ただそれでも僕は、それが全てじゃないと思ってる。そうなんだって、信じたい。
――罪は償っても、舞は舞のままでいて!
不思議と、彼の言葉は抵抗なく私の胸に馴染んだ。
私はやっぱり、みんなのことを許すことはできない。
けれど、みんなが私を助けようとしてくれたことは事実で、みんなと過ごした日々を楽しんでいたことも、また事実だった。
だから、これからのことはまた改めて考えようと思った。
とりあえず今は、心の中でお礼を言うに留めておく。
ありがとう。人殺しの大学生たち。
私の人生は、なんだったんだろう。
白く揺蕩う微睡の中で、私はまた問うていた。
何度も何度も、自分自身に訊いてきた問いだった。
ふと、過去がよみがえる。
父は、仕事のストレスから精神を病んでいた。それが原因で、元々あった小児性癖のコントロールができなくなった。当時まだ幼かった私は、正気を失った父に押し倒された。未遂に終わったとはいえ、あの時の父の苦悶に歪んだ表情が忘れられなかった。
ふと、過去がよみがえる。
小学生の時、私は絵画教室に通っていた。家庭に漂う暗い雰囲気を感じ取っていた私は、大好きだった絵に没頭することで気を紛らわせていた。
でも、私は春香の抱いている劣等感までは気づけていなかった。拠り所を求めるように春香の隣で絵を描き続けた結果、私は春香から距離をとられるようになった。悲しくて悲しくて、時には春香の描いた絵を模写して昔を思い出していた。でもそれが、余計に彼女の気持ちを逆撫でして、本格的ないじめに繋がった。
芽衣を含む仲の良かった友達全員に無視され、陰口を叩かれ、腫れ物に触るように扱われた。
そうした辛くしんどい日々が続いたある日、私が春香との思い出を描いた絵を破り捨てられた。
激情に支配されたその後のことは、よく覚えていない。気がつけば、私は病院のベッドに寝ていた。
ふと、過去がよみがえる。
いじめに心を痛め、抜け殻のようになった私の看病は家族がしてくれていた。しかし、元から確執の多かった家族はすぐにバラバラになり、父と母は離婚、兄はガラの悪い人たちとつるむようになった。それからしばらくして母は詐欺に遭い、精神を病んでそのまま帰らぬ人となった。
私がなにをしたというのか。
どうして私だけがこんな目に遭わないといけないのか。
私はどうすればよかったのか。
母方の親戚に引き取られてからも、私は自問自答をずっと続けた。
答えは、出なかった。
ふと、過去がよみがえる。
中身のない笑顔を振り撒いて、私は中学校、高校と進学していた。敬語で話す親族との関係に疲れ、楽しくて幸せだった過去を思い出しては悲しくなり、喪失感に苛まれていた私は、恋愛をしてみようと考えた。
せっかくの青春。いつかの漫画や小説で読んだ甘酸っぱくも切ない恋ができれば、私の心を癒してくれる唯一の理解者がいてくれれば、私はまた頑張れる気がした。
そんな時に出会ったのが優だった。口や態度は悪いけれど、憎めない素直さと優しさを彼は持っていた。そばにいてくれる人を求めていた私は、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれる優からの告白を受けた。
でも、それは失敗だった。父からのトラウマがあった私は優からの誘いを断った。それでも迫ってくる優に、私の心に残っていた恋への期待が崩れ去った。しかも彼は、あろうことか春香や透子とも付き合っていた。私は優を完全に拒絶した。
ここで私は、家族も、友達も、恋人も、誰も彼も信頼できなくなった。
私は、ひとりぼっちになった。
ふと、過去がよみがえる。
私は大学生になっていた。
私の通う大学は地元ではかなり有名なところで、見知った顔が数多くいた。この頃から、ぼんやりと復讐を考えるようになっていた。
そんな時に、インターン先で正一と出会った。当初は嫉妬と羨望が入り混じったような態度をとられていたが、やがてそれは過度な憧憬と期待に変わった。彼のパソコンにあった八つ当たりみたいな計画を見ればおよその理由は推察できたが、正直他人を信頼できない私にとっては、他人からの信頼はただの重石でしかなかった。
私は、疲れ果てていた。
持ち前の明るさを振り撒いてはいたけれど、いつ壊れてもおかしくはなかった。
いや、もしかしたら、もうとっくに壊れていたのかもしれない。
誰かの信頼に応えようとする自分と、誰も信頼できない自分。
不均衡な天秤の腕にかかる重みは、孤独な心の内をさらに歪ませ、着実に私を追い込み、精神をすり減らしていった。
ふと、過去がよみがえる。
ゼミ活動をしていた講義室で、私はお菓子を配っていた。休憩時間だろう。発表を終えて、私は気晴らしに作ったチョコレートのカップケーキを渡していた。誰も彼もが美味しそうにケーキを頬張り、楽しそうに笑っていた。
かつて私に酷いことをした人たち。苗字や外見が変わったこともあって私だと気づいていない人もいれば、私がもう気にしていないものだと思っている人もいる。本当にお気楽で、どこまでも幸せな人たちだ。
自分勝手で、他人の人生を平気で壊してきた人たち。
どうあっても、許すことはできない。
根底には、そんな強い気持ちがある。
それでも、僅かながらに楽しいと感じている私がいるのも、また事実だった。
ふと、今がよみがえる。
私が最後に信じてみようと思った人が、目の前に立っていた。
右手には拳銃、左手には起爆装置を持っていた。
苦悶に顔を歪め、呼吸は乱れ、汗が額からいく筋も頬を伝っては落ちている。
そろそろ時間だ。
きっと彼は、選べない。
みんなは火と煙にまかれて生き絶えるのだろう。
私はキュッと唇を結び、じっと耐える。
その時、視界の端に何かが煌めいた。
赤と白の光だった。
反射的に私は駆け出し、目の前の彼を思い切り突き飛ばした。
直後、鮮血が波打つ。
視界は赤に染まり、私は床に転がった。
呼吸をするたびに胸がつまる。咳き込む。痛い。痛い。痛い。
視界が揺れる。
泣きそうな顔をした、彼が見えた。
私の暴走を、彼はどう思っているんだろう。
失望しただろうか。恐怖しただろうか。呆れただろうか。驚いただろうか。悲しんだだろうか。怒っただろうか。絶望、しただろうか。
私と彼は対極にいた。
彼はどこまでも普通な人生を歩んできた人だった。
私と関わってしまったことで、彼はその平凡で幸せな人生を壊された。
結局のところ、私も同じなのだ。
私は、私が心から憎み、恨んだ人たちと同じことをしている。
わかっている。わかっていた。
でも、もうどうしようもなかった。
私の人生はなんだったんだろう。
なんで私は生きているんだろう。
私はどうすれば良かったんだろう。
答えのない問いが浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
今際の際になってすら、私はこんなことを考えている。
笑うしかなかった。
ぜんぜん、笑えなかった。
やがて彼の顔はぼやけて、白いもやが私の視界一面に広がっていった。
もう、過去も今も見えなかった。
私は間も無く死ぬ。
白の世界で、私は光に溶けていく。
結局、答えは出なかった。
これが、私の人生だったのだ。
赤嶺舞を最後に殺したのは、他ならぬ私だった。
それだけの、ことだった。
*
「……?」
目を開けると、見たことのある天井が広がっていた。
白い天井に、白いカーテン。
少し横に視線を這わせると、白い光が窓の外に溢れていた。
規則的な電子音が聞こえ、息を吐くたびにこもった空気が口周りに触れた。
声を出そうとすると、胸が痛んだ。
その痛みで、私は実感する。
私は、生きている……?
「あ、起きた?」
生の気配を内に感じると同時に、柔らかな声が聞こえた。
見れば、頭に包帯を巻いた彼が、優しげな眼差しを私に向けていた。
――真斗くん。
名前を呼ぼうとして、私は盛大に咳き込んだ。焼けるような痛みが胸のあたりに走る。
「喋っちゃダメだよ。傷口が開いちゃうから」
たしなめるような声。
私はぼんやりとした頭でその意味を反芻してから、こくりと頷いた。
「ここはね、あのペンションから程近いところにある病院だよ。夜のうちに運ばれて、今は朝の九時くらいかな」
朝の九時。ということは、あれから九時間ほど経っていることになる。
「覚えてるかな? あの時、僕と舞が話している時に、警察と救急隊が到着したらしいんだ。それで、警察は拳銃と起爆装置を持っている僕を犯人の共犯者と思って撃ったらしい。ペンションも燃えて崩れ始めていたから、交渉の余地なしと判断したんだってさ」
やはり、そういうことか。真斗くんには、悪いことしちゃったな。
でも、どうして警察と救急隊が来たんだろう。あのペンションは電波は通じないし、呼べる人はいなかったはずなのに。
「ああ。もしかして、どうして警察が来たかって思ってる?」
私の表情から読み取ったらしく、真斗くんはそう尋ねてきた。私は小さく首を縦に振る。
「警察を呼んだのは、邑木先生。舞のお父さんだよ」
「……ぇ?」
驚きのあまり、掠れた声が出た。ずきりと胸が痛むが、驚愕のほうが勝った。
邑木先生は、間違いなく崖下に突き落としたはずだ。私の名前を使って手紙で呼び出し、恨み辛みをぶつけてから狼狽して謝る父の身体を押して落としたのだ。血を流して動かなくなっているのも確認したのに、どうして……?
「邑木先生は幸いにも骨折で済んだんだって。スマホで崖下の写真を撮れるくらいだから、そんなに高い崖じゃなかったんだろう? 邑木先生はしばらく気絶してたけど、意識を取り戻してから自力で電波が繋がるところまで下りて、それから警察と消防に連絡したって言ってたよ」
なるほど、そういうことか。
私は小さく息を吐く。
本当に、あの男はどこまでも悪運が強いらしい。でも……。
「亡くなってなくて、良かったね。舞」
また私の心を見透かしたかのように、真斗くんが言った。私はふいっと視線を逸らす。
「……それからね、僕らが助かったのは邑木先生だけじゃなくて、みんなのおかげだよ」
「ぇ?」
また耳を疑う言葉が聞こえてきて、私が彼に視線を戻した時だった。
「おいっ! そこ通せよ!」
「ダメだ! ここにいる者はこれから警察病院に搬送する。部外者を通すわけにはいかん!」
「部外者ってなによ! ウチらはバリバリ関係者ですー!」
「ねぇ、通して。お願い」
「あっ、ねね、あっちから回ればいいんじゃない〜?」
「おーいいね。それじゃあみんな、このおじさんの相手よろしく。俺は一足先に失礼するよ」
「あっ、大輔ズルい! ボクもそっちから!」
「あ、こらっ! そこの君! 待ちなさい!」
複数の大きな声が廊下から響いてきた。顔を見なくてもわかる。どうして、みんなが……?
「あいつら、警官隊に救出された後に僕らのいる部屋まで案内したんだってさ。火の海だったらしいのに、火傷までしてよくやるよな」
「な……で?」
「せめてもの罪滅ぼしだったらしい。舞の過去のことも、全部聞いたよ。正直、理解できないことだらけだった。許せるはずもないし、そりゃ復讐もしたくなるよなって思った」
そこで、真斗くんは一度言葉を区切った。外の喧騒は、さらに大きくなっている。
「でも、ごめん。それでも僕は、やっぱり舞の行動は間違ってると思う。僕は、舞ほど酷い経験をしたことがないからかもしれないけれど。やっぱり、違うと思うんだ」
真っ直ぐに彼は私を見ていた。でもそこに、責めるような色はない。
「僕は、舞の気持ちも、みんなの気持ちも、本当の意味で理解することはできない。それでも、なるべくわかっていきたいとは思うんだ。舞の言っていた通り、結局最低最悪の本性が見えてしまうかもだけど。ただそれでも僕は、それが全てじゃないと思ってる。そうなんだって、信じたい。だから舞も……――」
そこで、乱暴にドアを開ける音がした。騒々しい足音が響いたあと、カーテンがそろそろと開かれる。
「えっ!? なんで真斗いんの!?」
「いやー、先に忍び込んでて」
「あ……もしかして、目が覚めたの?」
「なに!? こ、これは、急いで報告しないと……!」
バタバタと病院らしくない足音が響き、一瞬の静寂が下りた病室はまた騒がしくなる。
まったく、本当に意味がわからない。
私はみんなを、殺そうとしたのに……。
「舞っ!」
ぼやける視界の端で、警官に追い出される真斗くんがふいに私の名前を呼んだ。うるさい警官の怒鳴り声に負けない声で、彼が叫ぶ。
「罪は償っても、舞は舞のままでいて!」
その言葉を最後に、病室には静寂が戻った。足音も喧騒も、瞬く間に遠ざかっていく。
やっぱり、意味がわからなかった。
真斗くんは、いったいなにを考えているんだろう。
みんなも、なにを考えているんだろう。
開け放たれた窓から、涼風が吹き込んでくる。
白いカーテンが気持ち良さそうになびき、小さく波打った。
やがて病室のドアが静かに開き、警官が姿を現した。
「赤嶺舞さん、ですね?」
尋ねられた名前を、私はゆっくりと噛み締める。
どうやらまだ、私は生きているらしい。
私は真っ直ぐに警官の目を見据えて、頷いてみせた。
これから私は警察病院に移送されること、傷の回復に伴い取り調べが始まることなどが説明された。
そんな業務連絡を聞き流しつつ、私は真斗くんの言葉を反芻していた。
――僕は、舞の気持ちも、みんなの気持ちも、本当の意味で理解することはできない。それでも、なるべくわかっていきたいとは思うんだ。
――結局最低最悪の本性が見えてしまうかもだけど。ただそれでも僕は、それが全てじゃないと思ってる。そうなんだって、信じたい。
――罪は償っても、舞は舞のままでいて!
不思議と、彼の言葉は抵抗なく私の胸に馴染んだ。
私はやっぱり、みんなのことを許すことはできない。
けれど、みんなが私を助けようとしてくれたことは事実で、みんなと過ごした日々を楽しんでいたことも、また事実だった。
だから、これからのことはまた改めて考えようと思った。
とりあえず今は、心の中でお礼を言うに留めておく。
ありがとう。人殺しの大学生たち。