「こんな場所で会うとはな、宇津木」
「……」
かけられた声に、肩を揺らす。
聞き覚えのないそれは明らかにオレに対して向けられていて、浅く息を吐く。面倒なタイミングで遭遇してしまったと、内心舌打ちをした。
「直くん」
「……わかっている」
悠真の縋るような声に、つい身体がこわばる。
顔も覚えていないけど、そいつはオレの事を知っているような口ぶりだ。なら、多分だけどどこかで会った事があるのだろう。どうせろくでもない喧嘩のふっかけをオレにして、オレが殴った相手。
興味はなかったが付き纏われるのも厄介だからと一歩前に出たところで、聞こえたのはずっとオレの中で居座っている声。
『大切だと思う相手が傷つくのは嫌なんだ』
あの時の、悠真の熱量を含んだ言葉。
まずいと、素直に思う。
先日ファミレスであんな事を言われた矢先だ、それなのにこうも鉢合わせになるのはオレの運がないと言える。まるで呪いのような言葉に顔をしかめて、自分を落ち着かせるために深く息を吐いた。
「……なんの用だ」
「わかってるだろ、今度こそ勝ちにきたんだ」
そんな予感はしていたが、今この場でその喧嘩を買うのは得策ではない。第一悠真だっているんだ、できるはずがなかった。
「一度負けたんだろ、なら何回やっても同じだ」
挑発的だったかもしれないと反省はしたが、あいにくオレはこういった返し方しか知らない。案の定怒りにこちらに向けようとしたそいつを横目にまた歩こうとすると、ふとそいつはオレではなく悠真の方を見た。
「なんだお前、最近見ないと思ってたらこんな真面目くんとつるんでたのかよ」
「こいつは関係ないだろ」
悠真とそいつを無理やり引き剥がし、間に入る。
「慌てたって事は、そういう関係か?」
「違う、お前もう黙れ」
本当に、厄介なのに絡まれた。
なんとかこの状況を抜け出す方法を考えていたが、それは横から伸びてきた手にすべて持っていかれた。それは、悠真は目の前の名前も知らないそいつから離れるように、優しく抱き寄せてくる。
「直くんとはまだそういった関係ではありません、ご期待に添えず申し訳ない」
まだって言ったり期待って言ったり、お前この状況理解できてないだろ。
一息で爆弾発言を二つされてオレがたじろいでいると、当の本人はそんなオレの事など知らないと言わんばかりに腕を掴んできた。
「すみません、直くんとこの後大切な用事があるので失礼します」
「あ、おい、悠真!」
一方的に話を切り上げて、オレの手を引いていく。
「おい宇津木逃げるのか!」
「悠真止まれ」
「だめだ、あのままいたら直くんは喧嘩をするつもりだっただろ」
いやそれは、確かにそうだけど。
気分ではなかったからよかったと思う反面、さっきの名前すら憶えていなかった奴の事が気になる。知らない奴に突然邪魔に入られた上、あいつにとっての獲物であったオレを連れ出したんだ。面倒な事になったかもしれないと内心肩を落とす。
そんな中でも足を止めない悠真は、何個か角を曲がったがこちらに顔を向けようとしない。しばらく好きに歩かせてやるかと思ったが、さすがに目的地とは逆に行きかねないからと名前を呼んだ。
「聞けって悠真、なんで目を付けられるような、事を……」
振り返った悠真の顔を見たら、なにも言う事ができない。
だって、なんでお前が。
「……そんな顔すんなよ。シュウに聞いただろ、別に慣れてる」
「しかし、また直くんが傷つくところだったと思うと」
苦しそうな顔をした悠真にそれを言われてしまうと、もうなにも言い返す事ができない。申し訳なさに押しつぶされそうなのを必死に耐えて、言葉を飲み込みながら自由な左手でそっと頬を撫でてやった。
「オレが気にしていないんだ、怖い顔すんな」
触れるたびに顔を赤くした悠真は次第に落ち着いたのか、深く息を吐きながらゆっくりと瞬きをする。揺れる瞳に、オレを閉じ込めている。
「直くん、さっきの人は」
「知らない奴だ、オレが覚えていないだけだと思うけど」
だって、名前も知らない奴に喧嘩を売られたって全員の事をいちいち覚えていないから。
気にしてほしくないからと言った言葉も、悠真にはあまり効果がなかったらしい。しかし、と言葉を詰まらすと、じっとオレの事を見つめていた。
「けどなんで、直くんが痛い思いをしなきゃいけないんだ」
「お前……」
自分の事のように顔をクシャクシャにする悠真が、オレには苦しかった。
それはオレに対しての好意なのか、それともこいつの真面目で優しい性格からなのか。オレの身を案ずる言葉の真意がわからなくて、けれども悠真にこんな顔をさせているのはどちらにせよオレだからと思うと罪悪感がわき始める。
オレのせいで、こいつはこんなにも感情を剥き出しにする。
ずっと鋭く、尖ったナイフのような感情をオレに向けていた。
「直くんにはもう、痛い思いも苦しい思いもしてほしくない」
はっきり紡がれた言葉の後、少し時間を空けてハッと悠真は顔を上げる。自分の言った言葉を考え急に恥ずかしくなったのか顔を赤くして、力なく首を横に振った。
「……すまない、少し感情的になってしまった。今のは忘れてくれ」
そんな事を言われたって、忘れる方が難しい。
ぐちゃぐちゃになった感情の中でオレまで重い空気になっていると、すっかり切り替えた悠真は普段と変わらない表情を貼り付けている。
「行こう直くん、食べたいと言っていたチョコケーキがなくなってしまう」
「いや別に、食いたいとは言っていない」
確かに、気になっているとは言ったかもしれないけど。
また意地を張ってごまかしたところで、悠真はすでに慣れた様子でオレを見て嬉しそうに笑っている。
「それに、俺でも食べられると教えてくれたのは直くんだ」
「……何の事だ?」
意味がわからず、首をかしげた。
「ここのチョコケーキは甘すぎないから、付属のホイップクリームがなければ俺でも多分食べられると少し前に教えてくれたんだ。だから、とても楽しみなんだ」
「……そんな事も、言ったかもしれねえ」
覚えている、確かに少し前そんな話をした気がする。
忘れたふりをしても覚えているし、目の前の悠真もそれを見透かしているのか笑っている。
「確かに甘いものはまだ苦手だが……俺でも食べられると直くんに教えてもらってそれを口にするのは、とても楽しいと思えるんだ」
さっきまでの感情を剥き出しにしたのはどこへ行ったのか、嬉しそうにする悠真を見ているとどうでもよくなってしまう。
あぁけど、なんだろうか。
「……これで、終わればいいけど」
本当に、このままでいいのか。
胸の奥のつかえは、ずっと残ったままだった。
***
それが、きっかけだったらしい。
あからさまなくらい校外に出ると絡まれるようになったそれは悠真が一緒の時なら無視できたが、毎回それで通用するわけはない。悠真のいないところで応戦するのも考えたが、なかなか上手くいかない。一度始めたそれを止めるなんて方法はどこにもなくて、気づけば自然と一人で行動する事が増えた。
悠真を、周りの誰かを巻き込まないために。
おそらくこの前の奴がある事ない事言ってオレに喧嘩が向くよう仕向けているのだろうけど、それを悠真にはバレたくない。悠真がオレに傷ついてほしくないのと同じで、オレだって悠真にはこちら側を見てほしくない。
元々喧嘩なんて、したくてやってるわけじゃないんだ。心身どちらも摩耗するような事を、悠真には見せたくない。
けど、それが裏目に出たと放課後の調理実習室で、嫌でも理解する事になる。
「直くん、最近俺の事を避けていないか?」
投げられた言葉に、呼吸が止まる。
図星だった、悠真の言う通りだ。
悠真が一緒にいれば、きっといつかオレではなく悠真が狙われる可能性だってある。それが嫌で、距離を置こうとしていた。それなのにこいつはそんなオレの気持ちなんか微塵と気づかないで、我が物顔で近づいてくる。
嫌とは思わなくても、焦りは感じていた。
もし、本当に悠真に矛先が向いたら。
このままでは、悠真まで。オレのせいで悠真が危険な目に合う事だけは、絶対に避けたかった。
「……別に、お前には関係ない」
わざとぶっきらぼうに言葉で突き放しても、悠真は動じる事なく顔をずいと近づけてくる。
「直くん、なにか隠しているのではないか?」
「それは……」
言葉が咄嗟に出ず、悠真もそれを見逃さなかった。
まっすぐ射抜くような視線をオレに向けて、直くん、と強く名前を呼ばれる。
「隠し事はしないでほしいと、約束したはずだ」
「約束って、お前が勝手にしてきたんだろ」
「直くんと一緒にいたいからだ」
それは、オレも一緒だけど。
それでもきっと、オレと悠真では見ている方向が違う。
一緒にいるために隠し事はしたくない悠真と、一緒にいたいからこちら側にはきてほしくないオレ。
最後は同じなのにすべてに明確な違いがあって、だからこそすれ違ってしまう。
すれ違って、わからなくて。
そんなグラグラの感情の中で、悠真の言葉がトドメを刺す。
「隠し事はしないでほしい、直くんの横にいたい。それのためなら、俺はなんだってする」
「……なん、だって、する?」
言葉が、上手く絞り出せなかった。
なんだってするなんて、軽々しく言える言葉ではない。
だからこそ、わかってしまった。このバカ真面目の事だから、言った事はすべて実行する。それなら、今の言葉が本当なら、こいつはオレが殴られても相手に立ち向かってしまうだろう。
だめだ、今わかった。
このままこいつといたら、きっといつかこいつを不幸にする。
「……んなの、そんなの、ないって言ってんだろ!」
器用じゃない、不器用な自覚はあった。
「いちいちオレの行動に口出して、オレは頼んでなんかない……オレは、喧嘩したくないなんて思ってない」
だから今のオレは、こいつを上手く避ける方法なんて知らない。それならばいっその事、嫌われた方がマシだ。
ならやるんだ、宇津木直。できるだけ悠真に嫌われるように、嘘をつくんだ。早く、一刻も早く悠真を突き放さないと。
「自意識過剰なんだよ。だいたい、いつも勝手に着いてきやがって!」
叫ぶたびに、胸の奥が痛む。
苦しくて、感情ごと爆発しそうだ。
それでも一度吐き出した言葉は堰を切ったように溢れ、オレのものなのに止める事ができない。嫌われないと、突き放さないと。きっとこいつは、オレのせいで不幸になるから。
「すなお、くん」
悠真の視線とぶつかる。
揺れる瞳は悲しいよりも苦しいが見えて、オレまで苦しくなった。けど、ここでやめるわけにはいかない。言葉をやめたら、この言葉が感情とちぐはぐであるとバレてしまう。嘘の言葉と、バレてしまう。
これは、この偽りの言葉は隠し事になるのだろうか。
そう考えると一気に罪悪感は顔を覗かせて、オレの方を見つめている気がした。けど、悠真ほど頭がいいわけではないオレが出せる答えはこれしかなかった。
近くに置いてあった鞄に手を伸ばし、逃げるように背中を向ける。
「直くん、どこに」
「着いてくんな」
あえて鋭くした言葉で、悠真を刺す。
「一緒にいてくれなんて頼んでない」
吐き出すたびに、オレの中でなにかが叫ぶ。けど、それを聞いて止めてはいけない。こいつを守るために、また一つ嘘をつく。
「お前なんか……友達じゃない」
あの時と、いつだったか突き放した時と同じ言葉。
けど、明確に違うのは感情だった。
たくさんを知りすぎた、温かさを知りすぎた。だからこそ、これ以上巻き込みたくないんだ。
悠真の泣きそうな顔も、そんな悠真の瞳に閉じ込められた俺の顔も。
どっちも同じ顔で、鏡のように反射する。
「お前といたのは、ただの暇つぶしだ」
喉の奥から絞り出した偽物の、拒絶の言葉。
世界が、なにもかも凍る気がした。
***
「よーっす……ってあれ、スナ一人? ユウくんは?」
「興味ねえ」
「まさか喧嘩でもしたか?」
軽い口調で調理実習室に入ってきたシュウは、ドーナツを一人で齧るオレを見るなり失礼極まりない言葉をストレートで投げてくる。睨んだところで悪気はないらしく、あからさまなくらい大きく肩を落とした。
「……特進コースは、模試の対策期間だよ」
「お前興味ないって言いながらちゃっかりユウくんのスケジュール把握してるよな」
お前本当にそういうとこだと思ったが、正直言葉にするほど元気も残っていなかった。
あれは、喧嘩したと言うべきなのだろうか。ただ俺が一方的に突き放しただけの、それだけの話。オレの意思なのに胸の奥がずっと苦しくて、罪悪感で押しつぶされそうだった。
「お兄ちゃんが話聞こうか?」
「お前みたいな兄貴はいない」
「本当にお前ユウくん相手じゃないと辛辣だな」
お兄ちゃん傷つく、なんて演技じみた反応をしながらも、その目は笑っていない。なにかを見透かすように細めて、じっとオレの事を見ていた。
「まさかとは思うけど、わざと自分で遠ざけたのか?」
「……元々、あいつが勝手にきてただけだ」
「図星だろ、その返答は」
ニシシ、とわざとらしく笑ったシュウは、近くに置いてあった椅子を引き寄せて腰をおろす。
「ユウくんをお前が傷つけたくないのかわかる……けど、それってちゃんとユウくんに言ったか?」
投げられた言葉に、指先が跳ねた。
悠真は喧嘩とかそういった荒事とは無縁の奴だ、それをわざわざ言う必要はないしなにかをする必要だってない。そう、少なくともオレはそう思った。
「……言う必要がない」
「いや、言えよ」
呆れたように言われても、オレもそこまで器用ではない。
悠真を巻き込まない方法も、悠真を守る方法もなに一つオレは持っていないから。ただ、オレから遠ざける事しかできない。そう、思っていたのに。
「……情けねえ」
あの時、あの日悠真を突き放してから数日が経っている。
あれから悠真はここにきていないし、オレだって会いに行かない。ただ廊下ですれ違いそうになるとあいつがオレを見るから、オレの方から避けていると言った方が早いのかもしれない。なるべく、教室にはいないように。会わないようにしていると言った方が、正しいかもしれない。
今でも脳裏にあるのは最後に見た悠真の表情で、それを思い出すだけで胸の奥が苦しくなる。自分でやっておいて勝手に苦しくなって、本当にバカみたいだ。全部、オレが悪いのに。
「けど、オレはこれでよかったと思っている」
悠真はオレなんかみたいな問題児扱いされてる奴といるよりも、クラスの奴や友だちといた方がいい。オレより、もっと隣にいるのに相応しい奴がいるはずだ。
それなのに、それを望んでいたのに。
胸の真ん中に空いた、空っぽな空洞はなんなのだろうか。
なにもかも、悠真と出会ってからオレはめちゃくちゃだ。誰に嫌われたってよかった、一人好きなものを食べられればそれだけで幸せだと思っていた。それなのに、あいつのいない場所で食べるドーナツはひどく味がしない。きっと、砂糖をまぶした表面は甘くて、生地だって柔らかくて。それを悠真がどんな味かなんて聞いてくるから、それから。
「……なんで、今あいつの事考えたんだよ」
本当に、バカみたいだ。
突き放したのにずっとあいつの事を考えていて、悠真にオレが染められてしまったみたいに思えてしまう。
あの時から、あの日からだ。
きっとあいつに勘違いしそうになった日からオレは、もしかすると本当に勘違いしているのかもしれない。
悠真の事を考えると、胸の奥が満たされる。けれども同時に軋む音だってして、心と考えがチグハグになったみたいだった。
「わけ、わかんねえ」
絞り出したその言葉を、隣にいたシュウは拾っていく。なにかを考えるように笑うと、スナ、とオレを呼んでいた。
「ユウくんは、お前が思っているように弱くないし守られる存在でもない」
「……んな事、わかってる」
全部、他でもないオレ自身がわかっていた。
悠真がまっすぐすぎる事も優しい事も、なにに対しても動じない事も全部。オレが悠真をこの手に閉じ込めなくたってあいつは生きていけるし、それをやる必要だってない。それでも怖いと思えたのは、もしかするとオレが弱くなったのかもしれない。弱くて、悠真に絆されているオレが臆病になっているのかもしれない。
「お前がユウくんに骨抜きなように、ユウくんだってお前の事は大切だよ……そんな大切な人から突き放されたら、俺は悲しいけどな」
シュウの事は、どれもオレの柔らかいところを突き刺していく。
そんな事言われなくてもなんて、そこまで強い言葉は言えなかった。なにもかもが図星で、否定をする術をオレは持っていない。
「オレもあいつも、元に戻っただけだ。それだけの、話だ」
手の中に残っていたドーナツを無理やり口へ押し込んで、ろくに噛まずに飲み込んだ。
「……不味い」
甘くない、美味くない。
味のないガムを噛んでいるようなそれは、寂しさすら感じる。ずっと、甘さを感じられない。
「……帰る」
ドーナツのゴミを適当に捨てて、鞄を持って立ち上がる。
後ろに着いてきたシュウを無視して、半地下の階段を上がり校門を急ぎ足で出ていく。カツ、と聞こえた足音はオレ一人のもので後ろに目を向けると、シュウがなにかを考えているのか立ち止まっていた。
「スナ」
シュウの声は、凪のように静かに響く。
「いい加減、素直になれよ」
それができたら、オレはきっと苦労しない。
「……無理だ、そんなの」
自分に素直になるなんて、そんな事考えた事もない。それでも悠真から与えられる甘い言葉を嫌とは思わない自分がいて、それが怖いんだ。
オレが、オレではなくなっていく。
この甘い言葉を全部受け止めた時、きっとオレは戻れなくなる。
それが怖いと思うから、一歩が踏み出せない。
踏み出したら、返す事になるから。悠真から向けられた感情すべてに見合うものを返せないと、オレは思うから。
「……お前、見返りの事考えてるならそれはいらないと思うけど」
オレの脳みそが見えているのかと思うくらい的確な言葉が、突然投げられる。
「ユウくんにとって、多分お前という存在自体がすべてに見合うものだ。お前の隣にいるために、ユウくんは一緒にいるだけだと俺は思うけど」
「……知ったような口ぶり」
「あぁ、知っているから言ってんだ。見ていてわかるから、ユウくんがお前を大好きだって事。それと、お前もユウくんが大好きって事」
オレが、悠真を。
自分でも考えていなかったそれに、つい目を丸くする。
うるさい心臓の音はオレの気持ちを表しているようで、肯定にも思えてしまう。
「いらないところで二人とも意地張ってんだよ、もっと気楽に行け」
「……オレ、悠真の事をどう思っているかわかんねえ」
「……マジか、そこからかよ」
思った以上に重症だなと笑われたが、こればかりは本当の事だからなにも言い返す事ができない。むしろ会話の中でふつふつと沸くのは言葉にするには少し難しい、名前の知らない感情達。
「スナにとって、ユウくんはどんな存在だ?」
「どんなって、それは」
どんな、存在だろうか。
考えた事もなかった質問に一瞬戸惑ったが、案外言葉は自然と出てくる。
「今までのオレは喧嘩して、そこが居場所で。孤立したって、それでいいと思っていた」
悠真と出会う前がそうだったように、これがオレの居場所だった。そのはず、だったのに。
「……けど、悠真といるようになったら、そうじゃないと思えて。こいつならいいかとか、こいつと美味いもの食えたらそれでいいかって思えるようになって、一緒にいたいって思えて」
だからなおさら、悠真にはこちら側にきてほしくなかった。
オレと一緒にいたら悠真が汚れる気がして、けど悠真と一緒にいたくて。ずっとオレの中にちぐはぐな感情は同居したままで、それがずっと腹の中で消化されず居座っている。
「なぁシュウ――これって、おかしいのか?」
わかんねえよ、もう。
オレの気持ちも感情も、なにもわからない。
一度零れ始めたら止める術を知らなくて、雪崩のように流れていく。
同じ男にこんな事を思って、一緒にいたいと思っておかしいのか。
悠真だけは汚れてほしくないなんて、そんなエゴを向けるのはおかしいのか。
悠真を大切だと思うのは、おかしいのか。
呼吸のたびにとめどなく溢れる感情は、他でもなくオレそのものだ。
そんなオレを見て、オレの言葉を聞いたシュウから小さく息を飲む音が聞こえる。けどすぐに柔らかな表情をオレに向け、スナ、と普段通り名前を呼んでくれた。
「俺は、おかしいと思わない。性別だって年齢だって、なにも関係ない」
幼い頃から知っているその声は優しく、なぁスナ、とオレにだけ降ってくる。
「二人の間ではどうかよくわからないけど、それを世界は愛と呼ぶんだよ」
「……あい」
愛って、なんだろう。
きっと悠真がオレに向けているものと同じそれを、オレは持っているのか。
あの目が眩みそうなほど眩しかった感情に、オレは返す事ができるのか。
そんなわけ、返せるわけがない。らしくないくらい内気になった感情は追いつかなくて、肩を落とす。けど、それでももしオレの手の中にある感情が悠真に見合うものならば。
それは、どれだけ幸せな事なのだろうか。
「――オレ、さ」
やっぱりオレは、あいつに絆されているのか。
あいつに、笹川悠真という存在に染まりきってしまっているのか。
答えの見つからない感情に目を伏せると、ザリ、と突然砂を踏む音が聞こえる。
嫌な予感が、した。
「いたいた、宇津木」
「……」
嫌なのに目を付けられたと、あからさまに舌打ちをする。
「なんの用だ」
懲りずにきたそいつはニイと不気味に顔を歪めていた。
「あぁ、この前は逃げられて決着をつけられなかったからな。今回は俺の友達もお前に会いたいって言うから連れてきたよ」
友達なんて、どの口が。
どうせオレに勝てないと思ったからだろう、気づくとオレとシュウを囲むようにそいつらが立っている。
「スナ……」
「……お友達連れてこないと、オレに勝てないって思ったか?」
「あ?」
「馬鹿スナ、挑発するなって!」
オレを宥めるように身体を前に乗り出したシュウに気づいたそいつは、楽しそうに顔を近づけてくる。それはオレではなく、シュウに向けられている。
「なんだ、今日は別の連れているんだな」
「こいつは関係ない」
「おい、スナっ」
「シュウはもう帰れ」
「いや、お前一人にするのは」
「大丈夫だ、問題ないから」
大丈夫、今ここに悠真はいない。
シュウは怒るかもしれないけど、悠真ほどじゃないから。
「……悠真がいたら」
悠真が今ここにいたら、なにを言うのだろう。
悲しそうな顔をして怒るだろうなんて事を勝手に考えて、力なく首を横に振る。結局今のオレは悠真の事しか考えていない、そんな単純な奴だ。
「いいぞ、相手してやるよ」
愛を知ったところで、この感情が悠真に見合っているかなんて関係ない。
オレがあいつを突き放した事実に変わりはないし、それを正当化させるつもりもなかった。ただ、今まで通りに戻っただけ。悠真に出会う前に、戻っただけ。
今のオレには、飴玉一つだって甘く感じないから。
「……」
かけられた声に、肩を揺らす。
聞き覚えのないそれは明らかにオレに対して向けられていて、浅く息を吐く。面倒なタイミングで遭遇してしまったと、内心舌打ちをした。
「直くん」
「……わかっている」
悠真の縋るような声に、つい身体がこわばる。
顔も覚えていないけど、そいつはオレの事を知っているような口ぶりだ。なら、多分だけどどこかで会った事があるのだろう。どうせろくでもない喧嘩のふっかけをオレにして、オレが殴った相手。
興味はなかったが付き纏われるのも厄介だからと一歩前に出たところで、聞こえたのはずっとオレの中で居座っている声。
『大切だと思う相手が傷つくのは嫌なんだ』
あの時の、悠真の熱量を含んだ言葉。
まずいと、素直に思う。
先日ファミレスであんな事を言われた矢先だ、それなのにこうも鉢合わせになるのはオレの運がないと言える。まるで呪いのような言葉に顔をしかめて、自分を落ち着かせるために深く息を吐いた。
「……なんの用だ」
「わかってるだろ、今度こそ勝ちにきたんだ」
そんな予感はしていたが、今この場でその喧嘩を買うのは得策ではない。第一悠真だっているんだ、できるはずがなかった。
「一度負けたんだろ、なら何回やっても同じだ」
挑発的だったかもしれないと反省はしたが、あいにくオレはこういった返し方しか知らない。案の定怒りにこちらに向けようとしたそいつを横目にまた歩こうとすると、ふとそいつはオレではなく悠真の方を見た。
「なんだお前、最近見ないと思ってたらこんな真面目くんとつるんでたのかよ」
「こいつは関係ないだろ」
悠真とそいつを無理やり引き剥がし、間に入る。
「慌てたって事は、そういう関係か?」
「違う、お前もう黙れ」
本当に、厄介なのに絡まれた。
なんとかこの状況を抜け出す方法を考えていたが、それは横から伸びてきた手にすべて持っていかれた。それは、悠真は目の前の名前も知らないそいつから離れるように、優しく抱き寄せてくる。
「直くんとはまだそういった関係ではありません、ご期待に添えず申し訳ない」
まだって言ったり期待って言ったり、お前この状況理解できてないだろ。
一息で爆弾発言を二つされてオレがたじろいでいると、当の本人はそんなオレの事など知らないと言わんばかりに腕を掴んできた。
「すみません、直くんとこの後大切な用事があるので失礼します」
「あ、おい、悠真!」
一方的に話を切り上げて、オレの手を引いていく。
「おい宇津木逃げるのか!」
「悠真止まれ」
「だめだ、あのままいたら直くんは喧嘩をするつもりだっただろ」
いやそれは、確かにそうだけど。
気分ではなかったからよかったと思う反面、さっきの名前すら憶えていなかった奴の事が気になる。知らない奴に突然邪魔に入られた上、あいつにとっての獲物であったオレを連れ出したんだ。面倒な事になったかもしれないと内心肩を落とす。
そんな中でも足を止めない悠真は、何個か角を曲がったがこちらに顔を向けようとしない。しばらく好きに歩かせてやるかと思ったが、さすがに目的地とは逆に行きかねないからと名前を呼んだ。
「聞けって悠真、なんで目を付けられるような、事を……」
振り返った悠真の顔を見たら、なにも言う事ができない。
だって、なんでお前が。
「……そんな顔すんなよ。シュウに聞いただろ、別に慣れてる」
「しかし、また直くんが傷つくところだったと思うと」
苦しそうな顔をした悠真にそれを言われてしまうと、もうなにも言い返す事ができない。申し訳なさに押しつぶされそうなのを必死に耐えて、言葉を飲み込みながら自由な左手でそっと頬を撫でてやった。
「オレが気にしていないんだ、怖い顔すんな」
触れるたびに顔を赤くした悠真は次第に落ち着いたのか、深く息を吐きながらゆっくりと瞬きをする。揺れる瞳に、オレを閉じ込めている。
「直くん、さっきの人は」
「知らない奴だ、オレが覚えていないだけだと思うけど」
だって、名前も知らない奴に喧嘩を売られたって全員の事をいちいち覚えていないから。
気にしてほしくないからと言った言葉も、悠真にはあまり効果がなかったらしい。しかし、と言葉を詰まらすと、じっとオレの事を見つめていた。
「けどなんで、直くんが痛い思いをしなきゃいけないんだ」
「お前……」
自分の事のように顔をクシャクシャにする悠真が、オレには苦しかった。
それはオレに対しての好意なのか、それともこいつの真面目で優しい性格からなのか。オレの身を案ずる言葉の真意がわからなくて、けれども悠真にこんな顔をさせているのはどちらにせよオレだからと思うと罪悪感がわき始める。
オレのせいで、こいつはこんなにも感情を剥き出しにする。
ずっと鋭く、尖ったナイフのような感情をオレに向けていた。
「直くんにはもう、痛い思いも苦しい思いもしてほしくない」
はっきり紡がれた言葉の後、少し時間を空けてハッと悠真は顔を上げる。自分の言った言葉を考え急に恥ずかしくなったのか顔を赤くして、力なく首を横に振った。
「……すまない、少し感情的になってしまった。今のは忘れてくれ」
そんな事を言われたって、忘れる方が難しい。
ぐちゃぐちゃになった感情の中でオレまで重い空気になっていると、すっかり切り替えた悠真は普段と変わらない表情を貼り付けている。
「行こう直くん、食べたいと言っていたチョコケーキがなくなってしまう」
「いや別に、食いたいとは言っていない」
確かに、気になっているとは言ったかもしれないけど。
また意地を張ってごまかしたところで、悠真はすでに慣れた様子でオレを見て嬉しそうに笑っている。
「それに、俺でも食べられると教えてくれたのは直くんだ」
「……何の事だ?」
意味がわからず、首をかしげた。
「ここのチョコケーキは甘すぎないから、付属のホイップクリームがなければ俺でも多分食べられると少し前に教えてくれたんだ。だから、とても楽しみなんだ」
「……そんな事も、言ったかもしれねえ」
覚えている、確かに少し前そんな話をした気がする。
忘れたふりをしても覚えているし、目の前の悠真もそれを見透かしているのか笑っている。
「確かに甘いものはまだ苦手だが……俺でも食べられると直くんに教えてもらってそれを口にするのは、とても楽しいと思えるんだ」
さっきまでの感情を剥き出しにしたのはどこへ行ったのか、嬉しそうにする悠真を見ているとどうでもよくなってしまう。
あぁけど、なんだろうか。
「……これで、終わればいいけど」
本当に、このままでいいのか。
胸の奥のつかえは、ずっと残ったままだった。
***
それが、きっかけだったらしい。
あからさまなくらい校外に出ると絡まれるようになったそれは悠真が一緒の時なら無視できたが、毎回それで通用するわけはない。悠真のいないところで応戦するのも考えたが、なかなか上手くいかない。一度始めたそれを止めるなんて方法はどこにもなくて、気づけば自然と一人で行動する事が増えた。
悠真を、周りの誰かを巻き込まないために。
おそらくこの前の奴がある事ない事言ってオレに喧嘩が向くよう仕向けているのだろうけど、それを悠真にはバレたくない。悠真がオレに傷ついてほしくないのと同じで、オレだって悠真にはこちら側を見てほしくない。
元々喧嘩なんて、したくてやってるわけじゃないんだ。心身どちらも摩耗するような事を、悠真には見せたくない。
けど、それが裏目に出たと放課後の調理実習室で、嫌でも理解する事になる。
「直くん、最近俺の事を避けていないか?」
投げられた言葉に、呼吸が止まる。
図星だった、悠真の言う通りだ。
悠真が一緒にいれば、きっといつかオレではなく悠真が狙われる可能性だってある。それが嫌で、距離を置こうとしていた。それなのにこいつはそんなオレの気持ちなんか微塵と気づかないで、我が物顔で近づいてくる。
嫌とは思わなくても、焦りは感じていた。
もし、本当に悠真に矛先が向いたら。
このままでは、悠真まで。オレのせいで悠真が危険な目に合う事だけは、絶対に避けたかった。
「……別に、お前には関係ない」
わざとぶっきらぼうに言葉で突き放しても、悠真は動じる事なく顔をずいと近づけてくる。
「直くん、なにか隠しているのではないか?」
「それは……」
言葉が咄嗟に出ず、悠真もそれを見逃さなかった。
まっすぐ射抜くような視線をオレに向けて、直くん、と強く名前を呼ばれる。
「隠し事はしないでほしいと、約束したはずだ」
「約束って、お前が勝手にしてきたんだろ」
「直くんと一緒にいたいからだ」
それは、オレも一緒だけど。
それでもきっと、オレと悠真では見ている方向が違う。
一緒にいるために隠し事はしたくない悠真と、一緒にいたいからこちら側にはきてほしくないオレ。
最後は同じなのにすべてに明確な違いがあって、だからこそすれ違ってしまう。
すれ違って、わからなくて。
そんなグラグラの感情の中で、悠真の言葉がトドメを刺す。
「隠し事はしないでほしい、直くんの横にいたい。それのためなら、俺はなんだってする」
「……なん、だって、する?」
言葉が、上手く絞り出せなかった。
なんだってするなんて、軽々しく言える言葉ではない。
だからこそ、わかってしまった。このバカ真面目の事だから、言った事はすべて実行する。それなら、今の言葉が本当なら、こいつはオレが殴られても相手に立ち向かってしまうだろう。
だめだ、今わかった。
このままこいつといたら、きっといつかこいつを不幸にする。
「……んなの、そんなの、ないって言ってんだろ!」
器用じゃない、不器用な自覚はあった。
「いちいちオレの行動に口出して、オレは頼んでなんかない……オレは、喧嘩したくないなんて思ってない」
だから今のオレは、こいつを上手く避ける方法なんて知らない。それならばいっその事、嫌われた方がマシだ。
ならやるんだ、宇津木直。できるだけ悠真に嫌われるように、嘘をつくんだ。早く、一刻も早く悠真を突き放さないと。
「自意識過剰なんだよ。だいたい、いつも勝手に着いてきやがって!」
叫ぶたびに、胸の奥が痛む。
苦しくて、感情ごと爆発しそうだ。
それでも一度吐き出した言葉は堰を切ったように溢れ、オレのものなのに止める事ができない。嫌われないと、突き放さないと。きっとこいつは、オレのせいで不幸になるから。
「すなお、くん」
悠真の視線とぶつかる。
揺れる瞳は悲しいよりも苦しいが見えて、オレまで苦しくなった。けど、ここでやめるわけにはいかない。言葉をやめたら、この言葉が感情とちぐはぐであるとバレてしまう。嘘の言葉と、バレてしまう。
これは、この偽りの言葉は隠し事になるのだろうか。
そう考えると一気に罪悪感は顔を覗かせて、オレの方を見つめている気がした。けど、悠真ほど頭がいいわけではないオレが出せる答えはこれしかなかった。
近くに置いてあった鞄に手を伸ばし、逃げるように背中を向ける。
「直くん、どこに」
「着いてくんな」
あえて鋭くした言葉で、悠真を刺す。
「一緒にいてくれなんて頼んでない」
吐き出すたびに、オレの中でなにかが叫ぶ。けど、それを聞いて止めてはいけない。こいつを守るために、また一つ嘘をつく。
「お前なんか……友達じゃない」
あの時と、いつだったか突き放した時と同じ言葉。
けど、明確に違うのは感情だった。
たくさんを知りすぎた、温かさを知りすぎた。だからこそ、これ以上巻き込みたくないんだ。
悠真の泣きそうな顔も、そんな悠真の瞳に閉じ込められた俺の顔も。
どっちも同じ顔で、鏡のように反射する。
「お前といたのは、ただの暇つぶしだ」
喉の奥から絞り出した偽物の、拒絶の言葉。
世界が、なにもかも凍る気がした。
***
「よーっす……ってあれ、スナ一人? ユウくんは?」
「興味ねえ」
「まさか喧嘩でもしたか?」
軽い口調で調理実習室に入ってきたシュウは、ドーナツを一人で齧るオレを見るなり失礼極まりない言葉をストレートで投げてくる。睨んだところで悪気はないらしく、あからさまなくらい大きく肩を落とした。
「……特進コースは、模試の対策期間だよ」
「お前興味ないって言いながらちゃっかりユウくんのスケジュール把握してるよな」
お前本当にそういうとこだと思ったが、正直言葉にするほど元気も残っていなかった。
あれは、喧嘩したと言うべきなのだろうか。ただ俺が一方的に突き放しただけの、それだけの話。オレの意思なのに胸の奥がずっと苦しくて、罪悪感で押しつぶされそうだった。
「お兄ちゃんが話聞こうか?」
「お前みたいな兄貴はいない」
「本当にお前ユウくん相手じゃないと辛辣だな」
お兄ちゃん傷つく、なんて演技じみた反応をしながらも、その目は笑っていない。なにかを見透かすように細めて、じっとオレの事を見ていた。
「まさかとは思うけど、わざと自分で遠ざけたのか?」
「……元々、あいつが勝手にきてただけだ」
「図星だろ、その返答は」
ニシシ、とわざとらしく笑ったシュウは、近くに置いてあった椅子を引き寄せて腰をおろす。
「ユウくんをお前が傷つけたくないのかわかる……けど、それってちゃんとユウくんに言ったか?」
投げられた言葉に、指先が跳ねた。
悠真は喧嘩とかそういった荒事とは無縁の奴だ、それをわざわざ言う必要はないしなにかをする必要だってない。そう、少なくともオレはそう思った。
「……言う必要がない」
「いや、言えよ」
呆れたように言われても、オレもそこまで器用ではない。
悠真を巻き込まない方法も、悠真を守る方法もなに一つオレは持っていないから。ただ、オレから遠ざける事しかできない。そう、思っていたのに。
「……情けねえ」
あの時、あの日悠真を突き放してから数日が経っている。
あれから悠真はここにきていないし、オレだって会いに行かない。ただ廊下ですれ違いそうになるとあいつがオレを見るから、オレの方から避けていると言った方が早いのかもしれない。なるべく、教室にはいないように。会わないようにしていると言った方が、正しいかもしれない。
今でも脳裏にあるのは最後に見た悠真の表情で、それを思い出すだけで胸の奥が苦しくなる。自分でやっておいて勝手に苦しくなって、本当にバカみたいだ。全部、オレが悪いのに。
「けど、オレはこれでよかったと思っている」
悠真はオレなんかみたいな問題児扱いされてる奴といるよりも、クラスの奴や友だちといた方がいい。オレより、もっと隣にいるのに相応しい奴がいるはずだ。
それなのに、それを望んでいたのに。
胸の真ん中に空いた、空っぽな空洞はなんなのだろうか。
なにもかも、悠真と出会ってからオレはめちゃくちゃだ。誰に嫌われたってよかった、一人好きなものを食べられればそれだけで幸せだと思っていた。それなのに、あいつのいない場所で食べるドーナツはひどく味がしない。きっと、砂糖をまぶした表面は甘くて、生地だって柔らかくて。それを悠真がどんな味かなんて聞いてくるから、それから。
「……なんで、今あいつの事考えたんだよ」
本当に、バカみたいだ。
突き放したのにずっとあいつの事を考えていて、悠真にオレが染められてしまったみたいに思えてしまう。
あの時から、あの日からだ。
きっとあいつに勘違いしそうになった日からオレは、もしかすると本当に勘違いしているのかもしれない。
悠真の事を考えると、胸の奥が満たされる。けれども同時に軋む音だってして、心と考えがチグハグになったみたいだった。
「わけ、わかんねえ」
絞り出したその言葉を、隣にいたシュウは拾っていく。なにかを考えるように笑うと、スナ、とオレを呼んでいた。
「ユウくんは、お前が思っているように弱くないし守られる存在でもない」
「……んな事、わかってる」
全部、他でもないオレ自身がわかっていた。
悠真がまっすぐすぎる事も優しい事も、なにに対しても動じない事も全部。オレが悠真をこの手に閉じ込めなくたってあいつは生きていけるし、それをやる必要だってない。それでも怖いと思えたのは、もしかするとオレが弱くなったのかもしれない。弱くて、悠真に絆されているオレが臆病になっているのかもしれない。
「お前がユウくんに骨抜きなように、ユウくんだってお前の事は大切だよ……そんな大切な人から突き放されたら、俺は悲しいけどな」
シュウの事は、どれもオレの柔らかいところを突き刺していく。
そんな事言われなくてもなんて、そこまで強い言葉は言えなかった。なにもかもが図星で、否定をする術をオレは持っていない。
「オレもあいつも、元に戻っただけだ。それだけの、話だ」
手の中に残っていたドーナツを無理やり口へ押し込んで、ろくに噛まずに飲み込んだ。
「……不味い」
甘くない、美味くない。
味のないガムを噛んでいるようなそれは、寂しさすら感じる。ずっと、甘さを感じられない。
「……帰る」
ドーナツのゴミを適当に捨てて、鞄を持って立ち上がる。
後ろに着いてきたシュウを無視して、半地下の階段を上がり校門を急ぎ足で出ていく。カツ、と聞こえた足音はオレ一人のもので後ろに目を向けると、シュウがなにかを考えているのか立ち止まっていた。
「スナ」
シュウの声は、凪のように静かに響く。
「いい加減、素直になれよ」
それができたら、オレはきっと苦労しない。
「……無理だ、そんなの」
自分に素直になるなんて、そんな事考えた事もない。それでも悠真から与えられる甘い言葉を嫌とは思わない自分がいて、それが怖いんだ。
オレが、オレではなくなっていく。
この甘い言葉を全部受け止めた時、きっとオレは戻れなくなる。
それが怖いと思うから、一歩が踏み出せない。
踏み出したら、返す事になるから。悠真から向けられた感情すべてに見合うものを返せないと、オレは思うから。
「……お前、見返りの事考えてるならそれはいらないと思うけど」
オレの脳みそが見えているのかと思うくらい的確な言葉が、突然投げられる。
「ユウくんにとって、多分お前という存在自体がすべてに見合うものだ。お前の隣にいるために、ユウくんは一緒にいるだけだと俺は思うけど」
「……知ったような口ぶり」
「あぁ、知っているから言ってんだ。見ていてわかるから、ユウくんがお前を大好きだって事。それと、お前もユウくんが大好きって事」
オレが、悠真を。
自分でも考えていなかったそれに、つい目を丸くする。
うるさい心臓の音はオレの気持ちを表しているようで、肯定にも思えてしまう。
「いらないところで二人とも意地張ってんだよ、もっと気楽に行け」
「……オレ、悠真の事をどう思っているかわかんねえ」
「……マジか、そこからかよ」
思った以上に重症だなと笑われたが、こればかりは本当の事だからなにも言い返す事ができない。むしろ会話の中でふつふつと沸くのは言葉にするには少し難しい、名前の知らない感情達。
「スナにとって、ユウくんはどんな存在だ?」
「どんなって、それは」
どんな、存在だろうか。
考えた事もなかった質問に一瞬戸惑ったが、案外言葉は自然と出てくる。
「今までのオレは喧嘩して、そこが居場所で。孤立したって、それでいいと思っていた」
悠真と出会う前がそうだったように、これがオレの居場所だった。そのはず、だったのに。
「……けど、悠真といるようになったら、そうじゃないと思えて。こいつならいいかとか、こいつと美味いもの食えたらそれでいいかって思えるようになって、一緒にいたいって思えて」
だからなおさら、悠真にはこちら側にきてほしくなかった。
オレと一緒にいたら悠真が汚れる気がして、けど悠真と一緒にいたくて。ずっとオレの中にちぐはぐな感情は同居したままで、それがずっと腹の中で消化されず居座っている。
「なぁシュウ――これって、おかしいのか?」
わかんねえよ、もう。
オレの気持ちも感情も、なにもわからない。
一度零れ始めたら止める術を知らなくて、雪崩のように流れていく。
同じ男にこんな事を思って、一緒にいたいと思っておかしいのか。
悠真だけは汚れてほしくないなんて、そんなエゴを向けるのはおかしいのか。
悠真を大切だと思うのは、おかしいのか。
呼吸のたびにとめどなく溢れる感情は、他でもなくオレそのものだ。
そんなオレを見て、オレの言葉を聞いたシュウから小さく息を飲む音が聞こえる。けどすぐに柔らかな表情をオレに向け、スナ、と普段通り名前を呼んでくれた。
「俺は、おかしいと思わない。性別だって年齢だって、なにも関係ない」
幼い頃から知っているその声は優しく、なぁスナ、とオレにだけ降ってくる。
「二人の間ではどうかよくわからないけど、それを世界は愛と呼ぶんだよ」
「……あい」
愛って、なんだろう。
きっと悠真がオレに向けているものと同じそれを、オレは持っているのか。
あの目が眩みそうなほど眩しかった感情に、オレは返す事ができるのか。
そんなわけ、返せるわけがない。らしくないくらい内気になった感情は追いつかなくて、肩を落とす。けど、それでももしオレの手の中にある感情が悠真に見合うものならば。
それは、どれだけ幸せな事なのだろうか。
「――オレ、さ」
やっぱりオレは、あいつに絆されているのか。
あいつに、笹川悠真という存在に染まりきってしまっているのか。
答えの見つからない感情に目を伏せると、ザリ、と突然砂を踏む音が聞こえる。
嫌な予感が、した。
「いたいた、宇津木」
「……」
嫌なのに目を付けられたと、あからさまに舌打ちをする。
「なんの用だ」
懲りずにきたそいつはニイと不気味に顔を歪めていた。
「あぁ、この前は逃げられて決着をつけられなかったからな。今回は俺の友達もお前に会いたいって言うから連れてきたよ」
友達なんて、どの口が。
どうせオレに勝てないと思ったからだろう、気づくとオレとシュウを囲むようにそいつらが立っている。
「スナ……」
「……お友達連れてこないと、オレに勝てないって思ったか?」
「あ?」
「馬鹿スナ、挑発するなって!」
オレを宥めるように身体を前に乗り出したシュウに気づいたそいつは、楽しそうに顔を近づけてくる。それはオレではなく、シュウに向けられている。
「なんだ、今日は別の連れているんだな」
「こいつは関係ない」
「おい、スナっ」
「シュウはもう帰れ」
「いや、お前一人にするのは」
「大丈夫だ、問題ないから」
大丈夫、今ここに悠真はいない。
シュウは怒るかもしれないけど、悠真ほどじゃないから。
「……悠真がいたら」
悠真が今ここにいたら、なにを言うのだろう。
悲しそうな顔をして怒るだろうなんて事を勝手に考えて、力なく首を横に振る。結局今のオレは悠真の事しか考えていない、そんな単純な奴だ。
「いいぞ、相手してやるよ」
愛を知ったところで、この感情が悠真に見合っているかなんて関係ない。
オレがあいつを突き放した事実に変わりはないし、それを正当化させるつもりもなかった。ただ、今まで通りに戻っただけ。悠真に出会う前に、戻っただけ。
今のオレには、飴玉一つだって甘く感じないから。