「直くんは、今日も行くのか?」
「いや、なんでお前普通コースの校舎にきてんだよ」
 もう二度と聞きたくなかった声の襲来に、あからさまなくらい顔をしかめる。
 放課後で人通りも多い廊下、まるで待ち構えていましたと言わんばかりのそれは、オレの姿を見つけるなり嬉しそうに笑っていた。ほんの少し、数センチだけ高い視線の先でアイスグレーの瞳が揺れていた。
「それで、行くのか?」
「行かねえ」
 咄嗟に出た言葉とともに、肩を落とす。
 本校舎半地下、調理実習室。
 オレだけの秘密基地だったはずのそこは、この笹川悠真という男によってすべてを書き換えられた。どれだけごまかそうとこいつにはどれも通用しなくて、どちらかと言えば諦めのが強い。あしらうように投げた言葉だって聞いていないのか、廊下を歩くオレの横にぴったりとくっついていた。
「しかし、なぜ直くんはあそこにいたんだ? 利用には確か許可が」
「許可もなにも、あそこが部室の扱いだからだよ」
「部室……なるほど、直くんは社会福祉貢献部(しゃかいふくしこうけんぶ)なんだな」
「正式名なんて誰も覚えてねえよ、あそこは内申部だ」
 今のやり取りだけで部活名がわかる辺り、やっぱりこいつは優等生の部類なのかなと考えてしまう。あんな幽霊部活、普通の生徒なら名前すら知らない奴だっているのに。
 社会福祉貢献部、別名を内申部。
 とりあえず入っておこうとなる部活の代名詞で、ほとんど活動はない。
 ここ、大栄高校は福祉コースがある高校だからか社会貢献を目的にしたとなっているが、今ではオレが社会貢献の名目で調理実習室を使っているくらいだ。
 ただそれだけのはずなのに、それすら悠真はなにかを納得したように首を縦に動かすだけだ。
「行くなら、俺も一緒に」
「話聞いてなかったのかよ、行かねえ」
 少し強めに言葉を発すると、ガタとなにか音がした。それはクラスの奴がオレの声に怯えたのか椅子を動かした音で、それがきっかけでオレとこいつに向けられる視線にも気づいてしまう。
 好奇のものでしかないそれは、オレにはもちろんだが悠真の方へ向けられているのも少なからずある。それが、あまりよろしくないものである事は、他でもないオレが知っている。
「……もう、オレに関わるな」
 素っ気なく、顔も見ずに背中を向ける。
「なぜだ、なにか気に障るような事をしてしまっただろうか?」
「だから、オレに関わるなって言ってるだろ」
 こいつのせいじゃない、全部オレのせいだ。けど、きっと悠真はオレの話なんてちっとも聞いていない。
「直くん……俺は、お前の事をもっと知りたいだけで」
「オレは! お前となんか、友達じゃない!」
 思いのほか響いた声は、オレのものじゃないみたいだ。
 我に返ると、目の前には少しだけ悲しい表情を貼り付ける悠真がいる。ぐっと息がしずらくなり、浅く呼吸を繰り返す。オレ、今こいつに。なんて、なにを言った。
「っ……ついてくんな」
 絞り出すように、言葉を落とす。
 勢いに任せて走ると、様子を遠巻きに見ていた奴らから小さな悲鳴が聞こえる。そいつらの事も、悠真の事も見る事はなかった。逃げるように背中を向けて、廊下を小走りに抜けて行く。シューズボックスに入っていた靴と履き替えて校門へ走るのは、オレの方が逃げているみたいだ。なんだよ、なんでオレがあいつから逃げなきゃ行けないんだ。本当に、わけわかんねえ。
「……コンビニ」
 駅とは反対の道、人通りもほとんどない場所に入った事で、少しだけ冷静になった気がする。あぁは言ったけど部活は行くつもりだったから、あいつにはまた嘘をついた。
 鞄から黒いキャップを取り出し、目深に被る。
 なんとなくでらしくないと思われるのが嫌で、いつからか鞄に忍ばせるようになった黒のキャップ。案外帽子を被れば人間はバレないもので、そのまま同じ学校の奴が遠回りだからと寄り付かないコンビニのドアをくぐった。ちょうどよく調整された室内の温度は、やけに身体に染みる。
 迷う事なく向かった冷蔵のコンビニスイーツのコーナーはそれなりに充実した品揃えで、それだけで足取りが軽くなる。
「お、新作入ってる」
 甘い物が、昔から好きだった。
 可愛いものも、嫌いじゃない。
 だからと言ってオレの人間像と合うかと聞かれればそれは答えが出なくて、無意識に隠してしまったのがきっかけだ。
 だって、らしくないだろ。
 甘いものが好きなんてそんな、バレるくらいなら死んだ方がマシだ。
「適当に甘いの買って、それから」
 調理実習室で、食べて。
 そう考えたのに、なぜか脳裏を過ぎったのはあのバカ真面目の顔。
 オレが食べている顔を見て嬉しそうに笑っているのも、さっきの悲しそうな顔をしている悠真も、全部。オレのなかでぐるぐる回っていて、思い出すだけで呼吸が浅くなる。
「……友達、じゃない」
 あいつに自分で言った言葉なのに、なんでオレが傷ついてんだよ。目の前に並んだコンビニスイーツもいつもよりくすんで見えて、気分がよくない。
 全部、あいつのせいだ。
 あいつがオレの前に現れてから、なにもかもぐちゃぐちゃだ。
 深く息を吐いて、目の前にあったバウムクーヘンへ手を伸ばす。隣にあった新作を狙っていたはずなのに、そんな気分はどこかへ行ってしまった。どうせ食うなら、あいつがいたほうがいいだろ。なんて、ついそんな事を考える。どこからきた思考なのかは、オレのものなのにオレが一番わからない。
 セルフレジで会計を終わらせると、足は自然と学校へ向いている。帽子を取りながら戻ると帰宅部は出た後なのか、校庭からサッカー部の声がする。乾いた音ともに聞こえたボールの音、校舎から響く吹奏楽の音楽。普段は何気ないはずの音が全部、今はやけにうるさい。
「……さっさと食って帰るか」
 ズンと、気分は暗いままだった。
 誰かに見られないように細心の注意を払いながら向かった先、誰もいないはずの調理実習室の前で、足が止まった。
「――え?」
 電気が、ついている。
「……まさか」
 いや、あれだけ突き放したのにそんなはずは。
 そう思いドアに手をかけたが、そこにいたのは案の定さっき怒鳴りつけた奴で。笹川悠真がなにをするわけでもなく、椅子に腰をかけていた。
「あ、きた」
「…………」
 オレの姿を見つけるなり、そいつは嬉しそうに笑っていた。
「行かないと行ったのに、直くんは嘘つきだな」
「なんでいるんだよ」
「着いてくるなとは言われたが、ここにくるなとは言われていない」
「……勝手にくるな」
 わざと、低い声で威嚇する。
 それすらも悠真には効果がないらしく、それよりもオレの手の中にある袋をじっと見ていた。
「それは、コンビニのものか?」
「そうだよ、悪いか」
「いや、すまない。ただこの前のようにお菓子を作るわけではないんだなと思い」
 若干残念そうなその声に、喉の奥が詰まる。
 けれどもそれも一瞬の話で、その反応にオレは少しだけ頬を緩めた。
「あぁ残念だったな、いつもお菓子を作るわけじゃない。この前みたいな見世物はないから適当に帰れって」
「いや、直が美味しそうに食べる姿を見たいから構わない」
「っ……」
 一歩オレが下がれば、一歩半近づいてくる。
 不思議で厄介で、それなのに嘘がつけない相手。 
 今までにないタイプのそれは、嬉しそうに笑い本当にオレの事をただ静かに見ているだけだった。どれだけオレが突き放しても、こいつは気にせず近づいてくる。
「なんで、どうしてオレに構うんだ」
 昨日から、ずっと不思議でたまらなかった。
 どうして、学校で煙たがられているオレなんかといるんだ。
 なんで、オレが突き放しても近づいてくるんだ。
 そんな疑問を投げつけると、悠真は最初なにを言っているかわからないという表情で目を丸くしていた。けど、それも一瞬。すぐに頬を緩めると、それは、と穏やかに言葉を続けてくる。
「言ったはずだ、俺は直くんの事が知りたいんだ……直くんが良ければ、これから仲良くなっていきたい」
「意味わかんねえ」
 本当に、意味がわからない。
「じゃあ、なんでオレが殴らないって思ったんだ」
「それは……」
 ふと、悠真の表情が和らぐ。
「それは、直くんはそんな人ではないと思ったからだ。だって、あんなにも幸せそうに好きなものを楽しんでいたのだから」
「なんだよ、それ……」
 それだけの理由で、オレに近づいたのか。
 それだけの理由で、オレが殴らないって思ったのか。
 そんな裏のない言葉のために、こいつはオレを知りたいって。
 考えれば考えるほど湧き上がるのは嬉しさよりも罪悪感で、吐き気すら込み上げる。悠真に対してではない、オレに対して。
「廊下で嫌でもわかっただろ、オレに構うと変な目で見られる」
 オレに関わる人が、オレのせいでなにかを言われるのは避けたかった。他でもない、オレがそれを嫌だと思ったから。
 口にはせずともそんな願いを込めて落とした言葉を、こいつはどう拾ったのだろう。ぱちりと瞬きをすると、じっとオレの顔を見つめている。
「なるほど、つまり直くんは俺が周りから浮かないように突き放してくれたのか」
「は、いや、そんなんじゃ……」
 ごまかして嘘をつこうとした言葉を、少し飲み込んだ。
 そうかもしれない、だってオレは慣れているけどこいつは一人に慣れていないだろうから。オレなんかのために、この先の交友関係を壊す必要はない。だから、これが最善だと思っていた。
 そのはずなのに、こいつの悲しそうな顔を見たら苦しくて。オレまで悲しくなって、どうする事もできない。オレがオレじゃなくなるみたいで、深く息を吐いた。
 やっぱり、こいつに出会ってからなにもかもぐちゃぐちゃだ。ミキサーでかき回されたみたいな思考が、ずっとオレの腹の底で居座っている。
「……けど、さっきの、廊下のは言いすぎた。悪い」
 もごもごと、言葉を転がす。
 自分でも情けないと思うくらい小さな声はじゅうぶん悠真に聞こえたようで、最初は目を丸くしていたがすぐ嬉しそうな顔をオレに向けてきた。
「俺は気にしていない、むしろこちらからいきなり押しかけてすまなかった」
 たったそれだけの言葉で、悠真はオレを許した。
 懐が広いのか、それとも他の理由があるのか。正直オレにはわからない。ただその許しに裏はなく、純粋な許しであるとわかるからこそなにも言う事ができない。本当に、そんなのでいいのか。言葉は喉元まで出かけて、すぐに飲み込んだ。
「本当、調子狂う奴」
 カチ、と手を伸ばしてコンロのスイッチを押す音が、二人きりの調理実習に響く。中火にしたそこに小鍋を置くと、悠真が不思議そうに首をかしげていた。
「今日は、なにも作らないのではなかったか?」
「作らねえけど、少しアレンジ」
 少しだけ気分が乗ったからとは、口が裂けても言わなかった。
 水と砂糖で濃いめのカラメルを作り、さっきコンビニで買ってきた袋の中を漁る。適当なりにちゃっかり買ってあったバウムクーヘンを取り出すと、そのまま躊躇う事なく鍋の中へ入れる。
「直くん、なにを」
「見てろって」
 軽く絡めたらすぐに取り出して、余熱を取る。横でじっとオレを見ている悠真が面白くてつい頬を緩めると、早く、と急かされた。
「もう後は固まるだけ……お、できたな」
 フォークで軽く叩くと、バウムクーヘンにしてはやけに軽い音が聞こえる。ふわと甘い香りが漂ってきて、つい唾を飲み込む。
「バウムクーヘン、クレームブリュレもどきだ」
「なるほど、とてもいい匂いだ」
 フォークをそのまま入れると、パリ、と音が鳴る。元々美味いものに美味いものを掛け合わせたんだから、不味いわけがない。
 流れるようにまた一切れ口に放り込むと、ふと悠真の視線を感じた。
「悠真も、一口食うか?」
「俺、か?」
「オレとお前以外に誰がいるんだよ」
 別に、独り占めしたいわけでもない。
 差し出したそれを見た悠真も一瞬嬉しそうにしたが、すぐ申し訳なさそうに目を伏せた。
「……ただ、直の誘いはとても魅力的なのだが」
「なんだよ」
 やけに言葉を濁すそれを睨みつけると、それは、と慎重に言葉を続けてくる。
「あいにく、俺は甘いのが得意ではなく」
「本当にお前、なんできてんの?」
 オレの好きな物を知ったんだから、なおさら居ずらいだろ。気にせず食べたオレの方が申し訳なくなるが、悠真は言葉の割にあっけらかんとしているようにも見えてしまう。
「甘いものは得意でなくとも、直くんと一緒にいる事はできる」
 それは、やけに感情が乗った言葉だった。
 悠真の言葉に驚き詰まりかけたバウムクーヘンを無理やり飲み込むと、視線がぶつかる。からかっているのではない事は見なくてもわかって、それがなんだかオレにとって落ち着かない。
「なんだよ、お前……」
 笹川悠真。まっすぐで少し天然で、バカ真面目。そのくせ、甘いものは得意じゃないのにオレといる不思議な奴。
「言っただろ、直くんの事がもっと知りたいんだ」
 やっぱり、こいつといると調子が狂う。
 オレはこんなにもこいつの言動にぐちゃぐちゃにされているのに、きっと悠真にとってはこれが全部普通なのだろう。慣れるしかないと言い聞かせて、またバウムクーヘンにフォークを入れる。パリ、と音を鳴らしたそれはカラメルが少なめな部分で、そのままフォークを突き刺した。
「ほら、一切れ」
「直くんから食べさせてくれるのは本当に嬉しいが、さっきも言った通り俺は甘いものが」
「砂糖少なめのカラメルにしたから、多分お前でも食えるはずだ」
「……そうか、なら」
 おそるおそる、覚悟を決めたように口を開ける。
 ザク、と控えめに咀嚼を何度かしたのを黙って見ていると、視線がぶつかる。嬉しそうにしっかり頷くと、大丈夫だ、と悠真が言った。
「……とても美味い」
「そーかよ」
 安心して、釣られるように頬が緩む。
 きっと、自分らしくないだらしない表情になってるだろうけど、今だけは気にしないでおく。普段自分のためだけに作るそれも、誰かに食べてもらえるのは悪くない。
 ただ悠真はそれだけではないらしく、それに、なんてもったいぶった言葉が聞こえてきた。
「直くんに食べさせてもらえて、とても嬉しい」
「それは」
 それは、どういう意味なのか。
 想定外の言葉に対して咄嗟に返せるほど言葉は持ち合わせていなくて、口に含んだ苦味すらわからなくなる。
 残っていたバウムクーヘンを口へ押し込んで、ろくに噛まず飲み込む。ごくり、と大きな音がしたが気にせずに、オレはその場に立ち上がり鞄に手をかけた。
「どこかへ行くのか?」
「帰るんだよ」
 だめだ、このままこいつといると完全にペースが持っていかれる。
 なんとか飲み込まれないように鞄を持ちながら立ち上がると、悠真の奴もオレの後ろにくっつきながら同じように立ち上がる。
「ならば、俺も一緒に帰る」
「は、なんでお前となんか」
「だめだろうか?」
「……だめとは、言ってない」
 だめだ、やっぱりこいつのペースに飲まれている。
 諦め半分廊下に出ると、ぴったりと悠真が横にくっついてきた。普通コースや特別教室のある本校舎と、特進コースがいる東校舎は少しだけ離れている。半地下を上がってしばらく歩くと、普通コースのシューズボックスが並んでいる。
「直くん」
「なんだよ」
「特進コースの出入口で、待っているからな」
「…………」
 念押しをする言葉に、返事はしなかった。
 オレの行動一つ一つが見透かされたような、そんな感覚。けど確かに、悠真の念押しがなければ一人で帰るつもりだったのも事実だから、なにも言い返す事はできず自分の靴をしまってあるシューズボックスを開けた。スニーカーのかかとを踏まないように履くと、ふと我に返り大きく肩を落とした。
「……いや、なにやってんだオレ」
 別に、あいつと帰る義理なんてこれっぽっちもないはずだ。
 悠真の言葉に一喜一憂しているのも、正直自分の中でバカみたいだと思っている。けどそれ以上に、オレを怖がる事なく近づいてくる悠真を見ていると、あいつの気持ちも無碍にできないと思えた。本当に、たったそれだけの事だ。
「……あいつ、どうせ待ってるし」
 早いところ合流してやらないと、バカ真面目なあいつの事だからいつまで経っても帰らないだろう。だからこれは、悠真がちゃんと帰るためにオレも一緒に帰るだけ。
 他でもない自分自身に言い聞かせて、普通コースよりも校門に近い特進コースの校舎へ向かった時だ。
「笹川くん、大丈夫なの?」
 そんな、悠真ではない声に指先が跳ねる。
 咄嗟に身体が動き、柱の後ろに身を隠す。幸いそこにいる誰にもバレていないようで、そっと見えないだろう角度から覗き込み声のした方へ顔を向けた。
 頭一つ飛び出した悠真と、それを囲む三人の女子達。
 しばらく聞き耳を立てていると、それは、と悠真の声がこちらまで聞こえる。
「大丈夫とは、なにがだ?」
「笹川くん、今日廊下で宇津木くんといたよね」
「あの子、普通コースでも問題あるっていうか……喧嘩をよくしてるし、笹川くん脅されているとかない?」
「あ、私もこの前怪我しているの見た、北工業の不良グループと喧嘩したって聞くし」
「入学式の時も喧嘩したらしいよね」
 最悪なタイミングに出くわしたと、内心舌打ちをする。
 別になんと言われようが、慣れているはずだった。
 それなのにこうしてわざわざ隠れているのは、自分でも不思議な行動を取ったと思う。
「……バカみてえ」
 悠真に会ってから、なにもかも調子が狂う。
 自分が自分ではなくなるみたいな、悠真の奴に丸ごと飲み込まれていくような感覚。少し前の自分なら、こんな事しなかったのに。
 なぜだか鉛を付けられたように重たい感情は居座っていて、それの正体もわからない。
 もしかして、オレは。
 悠真がこの後なんて言うのか、怖いのだろうか。
「……いや、いやいや」
 一瞬考えた言葉は飲み込んで、小さく首を横に振る。なにもかも、本当にバカらしい。そう他でない自分に言い聞かせて、一人帰ろうとした時だ。
「心配してくれるのは嬉しいが、直くんはそんな人間ではない」
 あまりにもまっすぐで、それどころか感情のこもった言葉はオレのために投げられたものだ。囲んでいたそいつらもその返答が予想外だったのか、言葉を詰まらせている。
「直くんは、確かに勘違いされやすいが……優しくて、絶対に俺の事は殴らない。それに、可愛いところもあるんだ」
「可愛っ!」
 お前、突然なにを言い出すと思えば!
「だから俺は、直くんをもっと知りたい……みんながなにを思っているかはわからないが、直くんに近づいたのは俺の方からなんだ」
 シン、とその場が静まり返る。
 一瞬より長い間の中で、ふと悠真の笑う声だけが聞こえる。そのままゆっくり身体をオレの方へ向けると、隠れていた柱の前に立ち止まる。
「そうだろ、直くん」
 わざとらしく覗き込んできたその顔は、オレを掴んで逃がそうとしない。揺れる瞳に映るオレを、静かに閉じ込めていた。
「……お前なぁ、気づいていたなら言えよ」
「すまない、直くんが小さくなって隠れているのが面白くつい」
 悠真に話しかけていた奴らからひっ、と乾いた声が聞こえたが、当の悠真は気にしていないらしい。オレしか見えていないと言いたげなくらいの表情で、ふとなにかに気づいたように顔を近づけてスン、と鼻を鳴らす。
「直くん、すごく甘い匂いがする」
「当たり前だろ、言わせんな」
 さっきまでクレームブリュレもどきのバウムクーヘンを作ってたんだ、匂いがしない方がおかしい。
「そうだな、確かにその通りだ」
 本当に、調子が狂う奴。
「待たせてすまなかった、先に帰らないで待っていてくれたようで嬉しい」
「……別に、お前が帰ったか確認しにきただけで、一緒に帰ろうとしたわけじゃない。一人で帰るつもりだった」
「ふふ、そうか」
 こいつ、絶対信じていないな。
 楽しそうに笑いながらもオレの腰に手を回し引き寄せてきた悠真は、おもむろにさっきまで一緒に話していた三人へ視線を向けた。
「この通り、直くんは嘘つきでも悪い人でもない。心配してくれてありがとう」
 なぜだかその言葉には、怒りに近いなにかが孕んでいるように見えた。わかりにくいはずの表情の中で顔をしかめる悠真は、ふとなにかを考えるように目を伏せて嬉しそうに笑う。
「ただ、それでも周りから直くんが怖い存在だと見られているならそれでも構わない……直くんの事を知れば、きっとみんな直くんを好きになってしまうだろうから」
「ゆうまっ、お前!」
 まだ絡むようになって日は浅いけど、こいつが恥ずかし気もなく言う言葉達はこの先もずっと慣れる事ができないだろう。それくらい熱を孕んだ言葉に、オレがつくような嘘はなかった。
「さて、帰ろう」
「いや、おい悠真っ」
 手を引かれて、そのまま校舎を出る。日も落ちかけた中で二人きり、溜息のように零した声すらお互いの耳に届いてしまう。
「おい、なんだよ今の」
「今の、とは?」
「……わかっているだろ」
 オレの柔らかいところに触れるような、茹だるかと錯覚するような言葉も全部。
 こいつが意図したものなら気にも止めないはずなのに、悠真の言葉を聞けばどれも本心であるとわかってしまう。だから、なおさらタチが悪いんだ。
「思った事を言ったまでだ、嘘ではない」
「それはわかってるって」
「直くんの事を他に取られたくないと、そう思ってしまったんだ」
「っ……」
 言葉が詰まる、思考が止まる。
 こいつ、さっきからなに言ってんだよ。
「……そう、思ってしまうのは、おかしな話だろうか」
 決して無理強いするわけではない。それなのに、そんな言葉を突き放す事ができない。浅い呼吸の中で無理やり自分を取り繕った。
 だめだ、このままじゃ本当にこいつに飲み込まれる。
「や、やっぱり一人で帰れ!」
 きっと、耳まで真っ赤になっているのはこいつに見られたと思う。
 それでも火照った身体もなにもかも投げ出して、こいつから距離を取りたかった。手を振りほどいて、全力で校門の方まで走る。頭の中が悠真でいっぱいで、それすらもオレらしくないと思った。
「直くん!」
 悠真の、鋭くも優しい声が背中に刺さる。
「また明日、会おう」
 後ろは、なんとなく振り向かなかった。
 心臓はけたたましいくらいにうるさい気がして、思考はずっとぐるぐる回っている。嘘のないまっすぐな言葉で茹ってしまうようで、浅い呼吸を繰り返した。 
『直くんは嘘つきでも悪い人でもない』
 ずっと、怖がられていた。
 好きなものだってらしくないと否定されるのが怖くて、隠していた。
『直くんの事を知れば、きっとみんな直を好きになってしまうだろうから』
 それでいいと、そんなものだと思っていたのに。
 あいつは、笹川悠真はそんなオレの気持ちをこじ開けて我が物顔で近づいてくる。
 土足で上がり込んできて、甘いお菓子より柔らかな言葉ばかりオレにかけてくる。どれだけ嘘をついてもごまかしても聞いてくれなくて、それを突き放す事もできなくて。
 こんなのは知らない、こんな言葉は知らない。
 なにもかも初めてで、不快感とぬくもりが同居しているようだ。
 このままでは、オレは。
「……こんなの、勘違いしちまうだろ」
 名前の知らない感情だけが、ずっとオレの事を覗き込んでいる。
 この名前の正解は、まだ見つける事ができない。