隆史は三四郎に見つめられ、あのときのことを思い出した。
「ほら、いえよ」
 稔が三四郎を床に倒し、腹に足を乗せて迫った。
「そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ……」
 三四郎は咳き込みながら、稔が命じた芸人のネタを言った。そのときも下着一枚にされていた。派手なビキニではなかった。
「あんま面白くなくね?」
 もうやめろよ、と呆れて昭二が言った。
「は? 面白くなるまでやらせるってーの」
 残酷な笑いを浮かべて稔が言った。
 三四郎は稔にさんざんな目に遭わされた。
 それは高校のあいだずっとだったと思う。隆史は二人が三四郎をいびるのに、参加はしなかったが止めるわけでもなかった。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 現実に引き戻された。三四郎が急にうずくまり、隆史の足を抱えてせがんだ。シンクロした? と一瞬びくりとした。いやな思い出を思い出させてしまったのかもしれない。
 三四郎が顔をあげ、にやりと笑った。
「やめろよ……!」
 隆史はびくりとして、三四郎を離そうとした。
「あのとき、いつだって隆史に助けてもらいたかった。でも、助けてくれなかった」
 三四郎は隆史の脛を撫でながら言った。

「おい、こいつ裸にしたら面白いっていったやつ誰だよ」
 あのとき、稔は周りを見渡して言った。
 教室にはクラスメートが何人か遠くで見守っていた。
「お前じゃん」
 昭二が言った。
「そっか。裸だけじゃ笑いってとれないもんなんだなー」
 こんなひどいことをしているというのに、稔はまったく悪びれもせず言った。
「いやこいつの問題でしょ? 無駄に暗いから」
 昭二は止めたいというのに、しょうもない相槌を打った。稔が怖いのだ。
「たしかに」
「だねえ」
「お前さ、明日までに俺らがどっかんどっかんウケるギャグ考えとけよ」
 稔はしゃがんで、三四郎の頬をたたきながら言った。「二十四時間猶予やるからさ」
 教室の空気を察したのか、稔と昭二は悪ぶって口笛を吹きながら去っていった。
 あのとき、隆史は止めなかった。
 たしか、かなみはいなかった。
 かなみだけが「やめろ」と稔に言った。三四郎がかわいそうだからではなかった。かなみは稔のことを気にかけていて、問題を起こすな、といつだって喧嘩をしていた。だとすれば、愛子もいなかったはずだ。愛子はかなみとべったりだった。
 美保は?
 思い出せ。思い出せ。
 いた、気がする。
 そして、とても冷たい顔をしていた気がする。
 いや、そんな顔、美保がするはずはない。
 きっと自分が捏造したのだ。
 でも、なんでそんな顔を捏造する必要があるのだろうか?

「雨の日は、くだらないことばっか思い出すよ」
 三四郎は仰向けに寝転んで言った。
 こんな日は、やたらと過去といまをいったりきたりする。
 なにかが歪んでいる。
「あがったよ、雨」
 雨音はもう聞こえない。隆史は窓を開けた。
「だったらよかった」
「みんな、忘れてるよ」
 隆史の言葉に、返事はなかった。「みんな、昔自分がなにをやったのかなんて忘れる」
 いま、このビルで身体を売っていることだって、どうせいつか忘れる、と思った。だったらなにをしたっていい、思った。
「やられたやつだけしか覚えてないっていいたいわけ」
 三四郎が起き上がった。
「そういうつもりじゃないけど」
「誰が忘れたってかまわない。俺が覚えている。あいつら全員殺してやる」
 三四郎は厳しい顔をしていた。
「俺も?」
「ああ、あんたもな」
 三四郎は含みのある笑顔を向けた。
「いつ」
「近日中」
「そっか」
「楽しみにしとけ。でもま、お前もうすでに終わってるかもな、そっちの気もないくせにこんなとこで働いて。だいたいノンケはさ、小遣い欲しい体育会系がスカウトされてやってくるもんなのに、自分からのこのこやってきちゃって。しかも地元のやつと鉢合わせとか、ガチでウケる」
「こういうとこで働いてみたら、自分が無になれるんじゃないかな、って思ったんだ」
 隆史は窓の外を見たまま言った。
 隣のビルの壁しか見えなかった。
「は?」
「自分の知らない部分がどんどん見えてきて、もっとわけがわからなくなるんじゃないかなって」
 「なんにもなれねえよ、どうやったって。なにブンガクみてえなこと言ってんだよ、ぼーっとしてるくせに」
 部屋の電話が鳴った。
「指名かな」
 三四郎が興味なさそうに言った。
「うん」
 隆史が出ると、やはりマネージャーからで、三十分後に個室で九十分の予約がついたという連絡だった。
 三四郎は、電話を受けて、うんうんと、頷く隆史の姿を見て、面白いな、と思った。相手に見られていないのに頷いてやがる、と。
「昨夜 メトロポリタンの前で電車からとび下りたはずみに 自分を落としてしまった
 ムーヴィのビラのまえでタバコに火をつけたのもーーむかい側に腰かけて乗ったのもーー窓からキラキラした灯と群衆とを見たのもーーむかい側に腰かけたレディの香水の匂いも みんなハッキリ頭に残っているのだが 電車を飛び下りて気がつくと 自分がいなくなっていた。」
 三四郎は昔読んで印象に残っていた一節を暗誦した。
 なぜそれが、覚えてしまうほどに気になってしまうのか、わからなかった。
 他人のことはわかってしまうというのに、なぜ自分は自分のことがわからないのだろう? もしや、自分というのは、一番他人なのかもしれない。
 であるのなら、いまそんなことを考えているすかした自分とは一体何者なのだろうか。
 いつも考えていることを再び思い、くだらねえな、といつものように中断した。