隆史が電話を切ったとき、
「誰?」 
 とわかっているのに、三四郎は訊ねた。
「妹」
 隆史はそっけなく答えた。
「ふーん」
 三四郎は押し入れを見た。なかにある、プラスティクの衣装ボックスに、あれがある。
 処分せずに、とってある。「で、いくんだ」
「そりゃ行かなくちゃならんだろ」
「こんな東京でひどい暮らしをしている兄ちゃんがいって、迷惑じゃないのか」
 もしそのとき、隆史がいかないと言ったら、多分しないと決めたろう。
「まあでも、相手ば昭二だし」
 と一瞬隆史が三四郎に、申し訳なさそうな目線を送った。
「へえ、稔とかくるのかな」
 と口にして、胸糞悪くなった。
 ああいうやつが、一番世の中でいなくなって良い人間だ。
 自分のしていることが、ひどいことだとわかっていない。わかっていても、自分勝手にありえない理屈をこねて正当化する。
 愚かな、そしてどこにでもいるタイプの人間。
 そして三四郎は気づいた。
 自分は、隆史以外は全員、死んでくれたってかまわないのだ、と。自分のことを優しくしてくれた人すら。なんの関係もない、ただすれちがった人ですら、どうでもいいのだ。
 しかし、それもまた人間の一面ではないのだろうか?
「いつ?」
「来月」
「そりゃむちゃくちゃ早くないか」
「うん」
「ガキができたとか?」
「違うみたいだ。それに」
 隆史の妹が、かつて婚約していた相手と死別し、その後流産したことは、聞いていなかったが知っていた。頭に勝手に情報が流れ込んでくるのだ。
「別に、どーでもいい」
 逡巡する隆史を遮って、三四郎は寝転んだ。
 万年床のようになっている二つ並んだ布団。埃と汗の混じった匂い。自分と隆史がまざりあっている、臭くて、良い匂いだった。
「どうしようかな」
「どうしようもないだろ」
 決まっているんだ。べつに止めてほしいわけでもない。
 そして、自分は、自分のなすべきことを、する。
 隆史と過ごすようになってから、夢の中で、あの女と接続することが何度かあった。隆史が会いたがっているからかもしれなかった。
 あの女は、いつまでたっても成仏しない。
 それは誰かが想っているから、なんてロマンティックなものでもなんでもない。
 人間は未練を残し、だいたいのやつが死んでいく。
 あいつの場合、悔しくて仕方がないのだろう。
 なにせ、あいつは負けたのだ。
 俺に。
 そして自分の生命に。
 あいつは過信していた。
 あいつもまた、空洞だった。
 その空洞の暗闇を、勝手に生き物だと思っていた。
 しかしそれは等からずだ。
 闇は、どこか生き物めいている。そして人を惑わす。
 闇同士が共鳴した。
 からっぽの男と女だった。
 そしてそれは戦いになる。それが、心中という形になっただけだった。
 こんなことを説明したって、誰もわかってくれないに決まっている。しかし、それが真実だ。
 世の中のつながり。連鎖。風が吹いたら桶屋が儲かる。そんな感じ。
 人は理由を求める。自分の納得する理由を。
 しかし、だいたいの真実は、人を幸福にはさせないし、身も蓋もなく、理解できないものなのだ。
「スーツ買おうかな」
 隆史が言った。
「ああ、せめて見栄えだけでもよくしとかないとな」
「ひでえなあ」
「見た目を気にしたら、少しはましになる」
 お前の良さを、みんながわかってくれる。普通ぽいのが好き、なゲイのおっさんの汚れたメガネ越しっだけでなく。
「なあ、髪とかさ、少し変えてみたらどうだ」
「面倒だなあ」
「あと、眉毛も整えてさ」
「なんかそんなことばっかしてたらなにからなにまで総とっかえしなくちゃいけない気になるな」
「整形したがる女じゃあるまいし」
「いや、そこまででなくとも、脱毛とかさ」
「毛があるほうが喜ばれるぞ。サッカー選手じゃあるまいし、ツルツルなんて」
「まあ、そりゃそうだけどさ」
 こんな他愛のないやりとりをしているうちに、三四郎は立ち上がり、そしてそっと、隆史を抱きしめた。
「なんだよ」
 隆史も別に嫌がることももうない。
 いつものからかいみたいなもの、と思っている。そして隆史は、よくわかっている。こういう触れ合いを、三四郎が求めていると。
 三四郎がどういう境遇なのかを隆史は知らない。しかし、直感で感じ取っている。
 それに気づいたとき、ああそうか、実は人間は、誰だって自分みたいな能力を持っているんだ、と思った。
 ただ鈍感になっているだけ。自然にやってのけている。
「どうした」
 あまりに長いこと三四郎が隆史を抱きしめるから、不思議に思ったらしい。隆史は三四郎の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「別に」
「だったら離れろ」
「セックスしたい」
「はは、金取ろうかな」
 冗談と受け取ったらしかった。
「いいよ、俺の全財産やるよ。老後のために貯金してたんだ。結構ある」
「老後って。俺らまだ二十歳になったばかりだよ」
「備えは必要だよ。俺がいなくなったら全部やるよ」
「わかった、ありがと」
 隆史は三四郎を見て、笑いかけた。
「笑ってんじゃねーよ」
「なんで泣いてんの?」
「人はたまに泣いておかないと、水分溜まって身体がむくむんだよ」
「そうか」
 隆史はなにかが起こっているんだと気づいても、知らないふりをする。それが三四郎にもわかり、余計に泣きたくなった。
「やらせろ」
「まあ、いいけど」
「いいのかよ」
「いままでもやらせろとか言ってもなにもしてこなかったじゃん」
「今日はする」
「いいよ」
「なんだよ、やらないと思ってんの?」
「違う。真剣に、自分のことを求めてくれている人に、だめって言えないよ」
「客ともしたのかよ」
「しないよ。だってみんな、俺じゃなくてもいいじゃん」
 その言葉に三四郎は、鼻を啜った。
 二人は布団に寝転んだ。
「なんか初体験みたいだな」
 隆史が言った。
「誰が」
「お前が」
「べつにたいしてやってもねーくせに」
「まあそりゃそうなんだけど」
「むしろ俺の方がやりまくりだったから」
「でしょうね」
「リードしてやろうか?」
「されたいんだろ」
「うん」
 素直に三四郎は頷いた。
「あんま誰かと比べんなよ」
 隆史が言うと、
「くらべらんねーし」
 と三四郎は言った。「でも、できんの」
「努力する」
「努力してするもんじゃねえよ。じじいじゃあるまいし」
「うん」
 三四郎の悪態を塞ぐように、隆史の顔が近づき、三四郎は目を瞑った。
 自分がひどく怯えた小娘みたいにでもなってしまったようで、気恥ずかしく、そして、心地よかった。