◆
瑠衣の悪い予感は当たった。
障子を破る、襖を倒す、お皿を割る、掃除中に桶をひっくり返す……等々。考え付く限りの失敗を試してみたのだが、白銀は怒ることもなく、美桜は嫌な顔一つせず片づけをしてと、完全に空振りに終わってしまった。
最終手段として、仕事の邪魔をしてやろうと、白銀の横に将棋盤を持ち込んで相手をさせた。ところが白銀は強く、片手間に何度もこてんぱんに負かされてしまい、むぐぐと唇をへの字に曲げる羽目になったのが今日だった。
「はあ……全然、駄目ですね……」
夕餉も終わり、寝所で瑠衣はぐったりと伏せていた。
体力的ではなく、精神的に疲れてしまった。一体、何をどうすれば白銀を怒らせることができるのか。口調こそぶっきらぼうなところがあるが、行動は心から自分のことを大切にしているとしか思えない。
「困りました……」
呪力があれば何か手があるのかもしれないが、瑠衣はただの人間として何とかするしかない。妖が好むという香が効かなかった時点で、多くの手段は残されていなかったのだ。
喰らわれずに生き延びるよりも、喰らわれるほうが簡単だと思っていた。この扱いはどうにも調子が狂う。
(……わからない)
布団の表面に指先で落書きをしているうちに、しだいに目の前がぼんやりとしてきた。精神的な疲れは、抗えない眠りへと彼女を誘う。頬や背中を撫でてくれる手がとても心地よくて、ますます頬が緩む。
(……手?)
はっ、と瑠衣は目を開いた。その前にいたのは、畳に胡坐をかいて、瑠衣の背中へと手を伸ばしていた白銀の姿。
「あ、わりいな。目が覚めちまったか。あんまりに無防備に眠ってたから、つい、な。これ以上、何かしようとしたわけじゃねえからな?」
きまり悪そうに白銀は手を引っ込めて視線を逸らす。
うつ伏せながら、瑠衣は見事に両手を大の字に広げて眠っていたようだ。これでは白銀の眠る場所がない。瑠衣は弾かれたように起き上がった。
「も、申し訳ありま……もがっ!?」
「あー、もうそれは聞き飽きた」
最後まで言う前に、白銀の大きな手が瑠衣の口を塞いだ。
「どうせまた、お詫びにお前の身体を、とか言うんだろ?」
まさにその通りだったので、瑠衣はもがもがと口籠るばかり。
「何が悲しくて嫁を喰わなきゃいけねえんだよ? どうせなら別の意味で食いたいんだが、それは瑠衣のほうがまだ準備できてねえみたいだからな」
意味ありげな視線を向けられて、ひょえ、とばかりに瑠衣の背筋が伸びる。その姿を見て、腹を抱えて白銀が笑った。
口元を塞いでいる手を振り払い、瑠衣は憮然と布団の上に座り直した。完全に弄ばれている。もう、どうにでもなれ、とばかりに唇を尖らせた。
「白銀様のご期待に沿えるような夜ではなく、申し訳ありま……」
「だから、謝るのはそのへんでやめておけ」
被せるように白銀が言う。笑いを引っ込めて真面目な様子で瑠衣の顔を見た。
「なーんか、瑠衣ってさ。自分のこと生贄かなんかと勘違いしてないか?」
「いえ、違いま……」
冷やりとしたものを感じながら瑠衣は否定しようとするも、考えを改めた。小細工が効かないのなら、正攻法でいってしまえと思ったのだ。
「はい。妖の元に人間が送られるとなると、それは供物と同義。特に今回は人間側から、村を安堵して頂くよう申し入れがあったと聞いております。生贄としての役目を果たせないのであれば、わたしがここに居る意味が無くなってしまいます。どうか白銀様。わたしを煮るなり焼くなり、ご自由になさってください。もしも、哀れに思うのでありましたら、眠っている間に終わらせて頂ければと」
「なるほどなあ。やっぱりそうだったのか」
腕を組んで納得がいったとばかりに白銀が頷く。
「最初に助けたときから悲壮な顔をしてたもんな。いつか喰われると思ってちゃ、そりゃあ、安心なんてできねえよなあ」
「そ、そのようなことは! わたしはそのために……!」
「やせ我慢だな」
身を乗り出して訴える瑠衣の手へ白銀が触れる。
「ほうら。こんなに震えてる」
「え……」
慌てて瑠衣は自分の手を引っ込めた。たしかに震えているのを自覚したからだ。
怖くなんてないはずなのに、どうしてだ。
一旦、それを認めてしまうと、その震えは指先から肩に腰、そして足にまで伝わってきて、自分では止められなくなってしまった。過呼吸のようになり、喉を押さえて喘いだ。
「ど、どうして……っ」
「だから、もっと楽にしろって言ったろう?」
我を失いそうになった瑠衣を、白銀のひんやりとした妖力が包み込む。気が付けば白銀の腕の中に、己の身体はすっかりと収まっていた。
「ゆっくり息を吸って、吐いて……そうだ。瑠衣はお利口だな」
白銀に導かれるようにして、浅い呼吸がゆっくりとしたものへと変わっていく。ガタガタと震えていた身体が、嘘のように楽になった。
「一人じゃ辛いよなあ。寂しいよなあ。オレももう少し違った手段を取りたかったんだが……すまねえな」
(冷たいのに、暖かい……)
家の庭に積もった雪で、母がかまくらを作ってくれた光景が脳裏に浮かぶ。
あの時も不思議に思ったものだ。どうして冷たい雪で作ったのに、かまくらの中は暖かいのだろうと。今の白銀がそれにそっくりだ。冷たい妖力が二人をくるみこみ、その中で彼の体温が瑠衣へ直に伝わってくる。そこに邪な気持ちは全く感じられず、全てを忘れて全身を委ねてしまいそうになった。
「村のことは安心しろ。悪いようには絶対にしないから」
とろんと落ちかけた意識が、村という単語で覚醒した。こんなところで心を動かされている場合ではない。
「だ、だめなのです……!」
腕に渾身の力を入れて抗う。意外にも白銀はすぐに力を緩めてくれたおかげで、瑠衣は後方へ尻もちをつくような形で、彼の腕から抜け出すことができた。
ぜいせい、と大きく肩を上下させ、息を荒げて瑠衣は叫ぶ。
「妖の言葉を、どうしてわたしが! 村のみなさんのために、わたしは……!」
「んー……、まあ、そうか」
白銀は怒る様子もなく、むしろ困ったように鼻の横をかいた。しばらく考えている風情だったが、うん、と頷いて提案してくる。
「妖のオレがいくら主張しても、信じ切れねえのは当然だよな。結界の修繕もあるし、明日は瑠衣も一緒に村へ下りるか」
「村へ?」
たしかに、それはよい案だ。村の状態を見れば、白銀の言葉に嘘が含まれているかは一目瞭然だからだ。
しかし、だからこそ瑠衣は、ずっと屋敷に留められていたのではないのだろうか。
「お前の匂いもだいぶ収まったからな。妖に襲われることもねえだろうよ。もっとも、別の問題もだな……まあ、これはいいか」
白銀の話を聞きながら、瑠衣は自分の肌をくんくんと嗅いだ。長らくあの香に慣れてしまったおかげで、今の自分がどんな匂いを発しているかわからない。
「とにかく、決まりだな」
布団の端っこに寝転がりながら、白銀がぽんぽんとその横を叩く。
いつもなら、そのまま喰らわれることを期待して、素直にそこへ身体を寄せていた。だが、なぜだか今日ばかりは面白くなかった。
絶対に言う通りになんてしてやるものか。
「わたしは、こちらでいいです」
布団の反対側の端っこに横になって、さらに背中を向ける。背中越しに白銀が苦笑したような気配を感じた。
「ま、お前が元気になったのなら、オレは何でもいいよ。おやすみ――瑠衣」
瑠衣の悪い予感は当たった。
障子を破る、襖を倒す、お皿を割る、掃除中に桶をひっくり返す……等々。考え付く限りの失敗を試してみたのだが、白銀は怒ることもなく、美桜は嫌な顔一つせず片づけをしてと、完全に空振りに終わってしまった。
最終手段として、仕事の邪魔をしてやろうと、白銀の横に将棋盤を持ち込んで相手をさせた。ところが白銀は強く、片手間に何度もこてんぱんに負かされてしまい、むぐぐと唇をへの字に曲げる羽目になったのが今日だった。
「はあ……全然、駄目ですね……」
夕餉も終わり、寝所で瑠衣はぐったりと伏せていた。
体力的ではなく、精神的に疲れてしまった。一体、何をどうすれば白銀を怒らせることができるのか。口調こそぶっきらぼうなところがあるが、行動は心から自分のことを大切にしているとしか思えない。
「困りました……」
呪力があれば何か手があるのかもしれないが、瑠衣はただの人間として何とかするしかない。妖が好むという香が効かなかった時点で、多くの手段は残されていなかったのだ。
喰らわれずに生き延びるよりも、喰らわれるほうが簡単だと思っていた。この扱いはどうにも調子が狂う。
(……わからない)
布団の表面に指先で落書きをしているうちに、しだいに目の前がぼんやりとしてきた。精神的な疲れは、抗えない眠りへと彼女を誘う。頬や背中を撫でてくれる手がとても心地よくて、ますます頬が緩む。
(……手?)
はっ、と瑠衣は目を開いた。その前にいたのは、畳に胡坐をかいて、瑠衣の背中へと手を伸ばしていた白銀の姿。
「あ、わりいな。目が覚めちまったか。あんまりに無防備に眠ってたから、つい、な。これ以上、何かしようとしたわけじゃねえからな?」
きまり悪そうに白銀は手を引っ込めて視線を逸らす。
うつ伏せながら、瑠衣は見事に両手を大の字に広げて眠っていたようだ。これでは白銀の眠る場所がない。瑠衣は弾かれたように起き上がった。
「も、申し訳ありま……もがっ!?」
「あー、もうそれは聞き飽きた」
最後まで言う前に、白銀の大きな手が瑠衣の口を塞いだ。
「どうせまた、お詫びにお前の身体を、とか言うんだろ?」
まさにその通りだったので、瑠衣はもがもがと口籠るばかり。
「何が悲しくて嫁を喰わなきゃいけねえんだよ? どうせなら別の意味で食いたいんだが、それは瑠衣のほうがまだ準備できてねえみたいだからな」
意味ありげな視線を向けられて、ひょえ、とばかりに瑠衣の背筋が伸びる。その姿を見て、腹を抱えて白銀が笑った。
口元を塞いでいる手を振り払い、瑠衣は憮然と布団の上に座り直した。完全に弄ばれている。もう、どうにでもなれ、とばかりに唇を尖らせた。
「白銀様のご期待に沿えるような夜ではなく、申し訳ありま……」
「だから、謝るのはそのへんでやめておけ」
被せるように白銀が言う。笑いを引っ込めて真面目な様子で瑠衣の顔を見た。
「なーんか、瑠衣ってさ。自分のこと生贄かなんかと勘違いしてないか?」
「いえ、違いま……」
冷やりとしたものを感じながら瑠衣は否定しようとするも、考えを改めた。小細工が効かないのなら、正攻法でいってしまえと思ったのだ。
「はい。妖の元に人間が送られるとなると、それは供物と同義。特に今回は人間側から、村を安堵して頂くよう申し入れがあったと聞いております。生贄としての役目を果たせないのであれば、わたしがここに居る意味が無くなってしまいます。どうか白銀様。わたしを煮るなり焼くなり、ご自由になさってください。もしも、哀れに思うのでありましたら、眠っている間に終わらせて頂ければと」
「なるほどなあ。やっぱりそうだったのか」
腕を組んで納得がいったとばかりに白銀が頷く。
「最初に助けたときから悲壮な顔をしてたもんな。いつか喰われると思ってちゃ、そりゃあ、安心なんてできねえよなあ」
「そ、そのようなことは! わたしはそのために……!」
「やせ我慢だな」
身を乗り出して訴える瑠衣の手へ白銀が触れる。
「ほうら。こんなに震えてる」
「え……」
慌てて瑠衣は自分の手を引っ込めた。たしかに震えているのを自覚したからだ。
怖くなんてないはずなのに、どうしてだ。
一旦、それを認めてしまうと、その震えは指先から肩に腰、そして足にまで伝わってきて、自分では止められなくなってしまった。過呼吸のようになり、喉を押さえて喘いだ。
「ど、どうして……っ」
「だから、もっと楽にしろって言ったろう?」
我を失いそうになった瑠衣を、白銀のひんやりとした妖力が包み込む。気が付けば白銀の腕の中に、己の身体はすっかりと収まっていた。
「ゆっくり息を吸って、吐いて……そうだ。瑠衣はお利口だな」
白銀に導かれるようにして、浅い呼吸がゆっくりとしたものへと変わっていく。ガタガタと震えていた身体が、嘘のように楽になった。
「一人じゃ辛いよなあ。寂しいよなあ。オレももう少し違った手段を取りたかったんだが……すまねえな」
(冷たいのに、暖かい……)
家の庭に積もった雪で、母がかまくらを作ってくれた光景が脳裏に浮かぶ。
あの時も不思議に思ったものだ。どうして冷たい雪で作ったのに、かまくらの中は暖かいのだろうと。今の白銀がそれにそっくりだ。冷たい妖力が二人をくるみこみ、その中で彼の体温が瑠衣へ直に伝わってくる。そこに邪な気持ちは全く感じられず、全てを忘れて全身を委ねてしまいそうになった。
「村のことは安心しろ。悪いようには絶対にしないから」
とろんと落ちかけた意識が、村という単語で覚醒した。こんなところで心を動かされている場合ではない。
「だ、だめなのです……!」
腕に渾身の力を入れて抗う。意外にも白銀はすぐに力を緩めてくれたおかげで、瑠衣は後方へ尻もちをつくような形で、彼の腕から抜け出すことができた。
ぜいせい、と大きく肩を上下させ、息を荒げて瑠衣は叫ぶ。
「妖の言葉を、どうしてわたしが! 村のみなさんのために、わたしは……!」
「んー……、まあ、そうか」
白銀は怒る様子もなく、むしろ困ったように鼻の横をかいた。しばらく考えている風情だったが、うん、と頷いて提案してくる。
「妖のオレがいくら主張しても、信じ切れねえのは当然だよな。結界の修繕もあるし、明日は瑠衣も一緒に村へ下りるか」
「村へ?」
たしかに、それはよい案だ。村の状態を見れば、白銀の言葉に嘘が含まれているかは一目瞭然だからだ。
しかし、だからこそ瑠衣は、ずっと屋敷に留められていたのではないのだろうか。
「お前の匂いもだいぶ収まったからな。妖に襲われることもねえだろうよ。もっとも、別の問題もだな……まあ、これはいいか」
白銀の話を聞きながら、瑠衣は自分の肌をくんくんと嗅いだ。長らくあの香に慣れてしまったおかげで、今の自分がどんな匂いを発しているかわからない。
「とにかく、決まりだな」
布団の端っこに寝転がりながら、白銀がぽんぽんとその横を叩く。
いつもなら、そのまま喰らわれることを期待して、素直にそこへ身体を寄せていた。だが、なぜだか今日ばかりは面白くなかった。
絶対に言う通りになんてしてやるものか。
「わたしは、こちらでいいです」
布団の反対側の端っこに横になって、さらに背中を向ける。背中越しに白銀が苦笑したような気配を感じた。
「ま、お前が元気になったのなら、オレは何でもいいよ。おやすみ――瑠衣」