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(――これは、やっぱり動くしかなさそう、かな)
 とりあえず数日ほど様子を見てから、瑠衣はそのように判断していた。
 相変わらず白銀と美桜は至れり尽くせり。美味しいご飯に暖かい寝床。退屈しないようにと、双六や将棋盤、書物まで与えてくれる。夜一緒に眠るのだけは未だに慣れないが、どうやら白銀は添い寝をしているつもりのようで、瑠衣の身体にそれ以上触れてくることはない。
 妖狩りの屋敷に居た時も、前長である志乃の娘ということで、呪力のない役立たずにもかかわらず冷遇はされていなかった。
 しかしそれは、いつか妖の生贄になる未来が決まっていたからだ。へりくだって接してくる相手の瞳は、どこか哀れみの感情を含んでいて、悪気はないと理解していてもいい気持ちではなかった。
(ここは……まるでお姫様みたいな生活)
 白銀の元へ来てからの数日を振り返って嘆息する。生贄が太るまで待っているのかもしれないが、一朝一夕に身体に肉が付きはしない。村を解放するためには、一刻も早くこの身体を喰らわせて、白銀を倒さなければならないのだ。
(それに……)
 このままでは、夢のような生活を手放したくなりそうな自分が怖い。命を惜しんでしまいそうだ。甘い夢を見せられれば見せられるほど、死への恐怖は大きくなる。
「わたしは、妖に魅入られてなんかいない」
 瑠衣はそう呟いて立ち上がると、与えられていた部屋を出た。庭ではまだ子供のような犬の妖が、虫を追いかけて遊んでいた。表面だけ見れば、とても可愛い姿で微笑ましい光景である。
「あの……」
「瑠衣様! どうされましたか?」
 子犬の口から童子のような声が聞こえて、彼が妖であることを思い出させる。瑠衣は気を引き締めて問いかけた。
「白銀様はどちらに? 今日もお出かけになっているのですか?」
「今日はおられるはずですよ。あちらの角の二つ目の居間におられるかと」
 ありがとう、と礼を言ってから教えてもらった部屋へ向かう。昼間はどこかへ出かけていることが多い白銀。今日は運よく屋敷にいるようだ。
(何をしているのかは知らないのだけど)
 縁側の角を曲がると、お目当ての部屋の障子は開いていた。そこから中を覗くと、白銀が長机の上に広げた半紙になにやら筆を滑らせているところだった。
「白銀様」
「おう。誰かと思えば瑠衣か」
 白銀は顔を上げると、縁側で平伏している瑠衣へ声を掛けた。
「どうした? って、その主従みたいな態度はやめてくれねえかな。オレとお前は婿と嫁。同格なの。わかる?」
「そ、そうなのですか……」
 促されて瑠衣は顔を上げた。どうしても白銀の前では調子が狂う。
「そんで、どうした。退屈したのか? すまねえな、昼間はいつも構ってやれねえで。オレも仕事があってよう。サボると美桜に怒られちまうんだよな」
「いえ、退屈など」
 何の仕事をしているのだろうか。少しだけ気になったが、今日は他のことを頼みに来たのだ。少しだけ膝を進めてから、瑠衣は声を励まして頼んだ。
「いくら嫁と申しても、何もせずにご飯を頂いて遊んでいるだけでは、わたしも落ち着きません。屋敷の掃除でもさせて頂こうかと」
「掃除つったってなぁ。オレの配下がいつもやってくれてるからな。瑠衣ができるほどのことは残ってな……」
「いいんじゃないですかー、白銀様」
 渋面を作る白銀に対して、助け舟を出してくれたのは美桜だった。両手にいっぱいの小袖や、何枚もの布を抱えている。どうやら洗濯をしていたようだ。
「瑠衣様がせっかく申し出てるんですから。手始めにわたしのお手伝いをしてほしいなー。白銀様はぜーんぜん、手伝ってくれないしー?」
「うるせえ。お前こそ算盤系は全部オレに押し付けやがって」
 瑠衣の側で立ち止まった美桜へ、がうっとばかりに白銀が言い返した。あっという間に二人の間で口喧嘩が始まる。このまま放っておくといつ終わるかもわからない。瑠衣は思い切って口を挟んだ。
「では、わたしは美桜さまのお手伝いを……」
 立ち上がるように見せかけて、瑠衣はわざと自分の小袖の端を踏んだ。当然、ちゃんと立ち上がることはできず、身体がぐらりと前に傾く。
「あわっ……」
 そのまま数歩よろけ、洗濯物を抱えた美桜へ飛び込むような形になる。驚いたように目を見張る美桜と一緒に、大きな音を立てて庭へと転がり落ちてしまった。
「あいたったぁ……。瑠衣様、お怪我はありませんかー?」
 瑠衣を守るようにして下敷きになった美桜が小さく呻く。倒れた拍子に切ったのか、美桜の額には血が滲んでいた。当然、洗濯物は地面に落ちてしまっている。
「あああ……」
 慌ててその上から瑠衣は飛び退き、自分のしでかしたしまったことに全身を震わせる。その勢いのままに頭を下げた。
「も、申し訳ありません」
 これは瑠衣の捨て身の作戦。白銀の前でわざと大きな失敗を犯す。意図はしていなかったが、美桜にまで傷を負わせてしまったのだ。絶対に白銀は怒るはずだ。
「せっかく洗濯したものを汚してしまいました。さらには、美桜さまにお怪我までを……。これは、万死にも値する罪。この身体でもって贖いを――」
「おい、瑠衣! 大丈夫か!」
 瑠衣が全部を言う前に、だだだっ、と大きな足音が響いた。白銀が長机を飛び越えて縁側へ降りてきたのだ。額を地面にこすりつけていた瑠衣はあっさりと起こされ、身体のあちこちを触られる羽目になる。
「あ、あの……白銀様?」
「手を擦りむいてるじゃねえか。ちょっと見せてみろ」
 引っ込める間もなく右腕を取られ、転んだ時に擦っていた前腕に、白銀が手の平を当てる。冷気を一瞬感じたかと思うと、何もなかったかのように元通りになっていた。
「骨とかは……折れたりはしてねえみたいだな。人間の身体は弱いからなぁ。軽い怪我でよかったな」
「いえ、よくはありません。わたしは美桜さまにお怪我を……」
「瑠衣様、慌てすぎですってー!」
 あっけらかんとした声のしたほうに顔を向けると、そこには自分で治療したのか、無傷の美桜がせっせと洗濯物を拾っていた。
「あんなの怪我のうちに入りませんよー! 洗濯物だってまた洗えばすむ話です。そんなに瑠衣様が気に病む必要なんてないですから!」
「そうだぞ、瑠衣。まあ、妖の中に人間一人で心細いのもわかるが」
 立てるか、と瑠衣に手を差し伸べ、そのまま一気に引き上げる。
「もっと気楽にやってくれ。なるべく早く馴染めるように、オレも美桜も協力を惜しまないつもりだ。そんなに悲鳴を上げられると、他の配下も驚いちまうしな」
 周囲を見回すと、いつの間にやら妖達が息を呑んでこちらを見守っている。先ほどの子犬の妖が、とても心配そうに耳と尻尾を垂れていた。
 白銀の手が瑠衣の肩に当てられ、同じ視線で彼が覗き込んできた。
「わかったな、瑠衣」
「……は、はい」
 この作戦も上手く行かないかもしれない。
 二の矢を考えながら、既に瑠衣は自信を無くしつつあった。