「――んっ……」
 顔にかかった太陽の光に、瑠衣はゆっくりと覚醒した。目をこすりながら身体を起こすと、庭に面したほうの障子が大きく開け放たれている。
「夢……か……」
 久しぶりに母である志乃の夢を見た。妖狩りとしての厳しい訓練が始まる前の夢だ。あの頃は一人で寝るのが怖くて、眠るまで一緒の布団にいてもらったものだ。
(……って!)
 昨夜のことを思い出し、自分の身体をペタペタと触って確認する。牙を立てられたような形跡はどこにもない。恐れていたもう一つの方面の形跡もない。白銀は本当に何もしなかったようだ。布団に触れると少し暖かさが残っていた。
(眠っている間に終われば楽なのに)
 そうすれば痛みも恐怖も感じることもない。
「これは、長期戦になるのかもしれない……」
 自分が助かる道がないわけではない。
 毒とは別に掛けられている、妖を弱らせる術。白銀の側にいることで、その力を弱らせる。十分な頃合いを見計らってから、妖狩りの者を呼ぶのだ。
(さすがに、そんなに間抜けとは思えないけど)
 無理だろうな、と首を振ってそれは諦める。下手に希望は持たないほうがいい。
 瑠衣を連れてきて、山を下りずに潜んでいた妖狩りにも気が付いていた。大熊の妖を撃退した妖力は、うっかりその妖力に包まれたいと思うほどに美しく力強かった。遅かれ早かれ、瑠衣に掛けられた術は露見する。
 どちらかというと、その術は見破らせて、相手を怒らせるためにあるのだ。生贄として捧げられた瑠衣が、逆に妖を害する存在だったと。そうして、逆上した妖に我が身を喰らわせる。
 一番避けるべき事態は、己の命を惜しんで、毒のことまで悟られることだ。この身が喰らわれないとなれば、それこそただの犬死だ。
「おはよ~ございます、瑠衣様!」
 元気な声に顔を上げると、美桜が縁側の向こう側から歩いてくるとこだった。
「朝餉ができたところでちょうどよかったです! 白銀様も先ほど目覚めたところで、瑠衣様を起こすか悩んでいたところです。一緒に食べましょう」
 朝餉という単語に、瑠衣の腹の虫が激しく反応した。慌ててお腹を押さえるも、ばっちり美桜には聞かれていたらしい。ケラケラと笑いながら瑠衣を先導する。
(き、昨日がほとんど何も食べていなかったから)
 心の中で言い訳をしながら、瑠衣は美桜の後をついて行き、昨日の大広間となっていた部屋に到着。そこはちょうどよい広さに障子で区切られ、二つ並んだ膳の前で白銀が待っていた。白銀が瑠衣へにこっと笑いかけてくる。
「思ったより寝坊助じゃなかったな。瑠衣、おはようさん」
「おはようございま……」
 す、と返しかけて、瑠衣はふと気が付いた。
 状況に流されるがままに来てしまったが、これは大いなる失態ではないのだろうか。屋敷の主人を差し置いて、ぐっすり眠ってしまった。嫁いできたとはいえ、妖の中に人間一人。それも、和睦のためという、生贄のような存在だ。昨日は初日だから歓迎されたのであって、二日目からも同じ調子ではいけないのではないか。
 そうすると、おのずと行動は決まってくる。瑠衣はがばっと畳に這いつくばると、震える声で謝罪の言葉を並べた。
「も、申し訳ありません、白銀様。妻としての役目を果たしもせず、のうのうと眠っておりました。この罪は万死にも値するもの。この身をもって贖いますので、どうか怒りを収めてくださいますよう……」
「……はあ? まだ頭の中が寝てんのか?」
 ところが、瑠衣渾身の演技も、返ってきたのは白銀の呆れたようなため息だった。
「メシは美桜が用意してくれたからな。お前だってこの屋敷に慣れていないだろうが。とりあえずはゆっくりしておけ」
「で、ですが……わっ!?」
 白銀の妖力が瑠衣を包んだかと思うと空中へ持ち上げられ、暴れる暇もなく、湯気の上がるご飯とみそ汁が乗った膳の前に下ろされた。身を乗り出して小声で言ってくる。
「ついでに教えておいてやると、美桜はメシを残されるのが一番嫌いだからな。あいつを怒らせると怖いんだ。気をつけろよ」
「し・ろ・が・ね・さ・ま? 聞こえていますよ!」
 背後から呪詛のような妖力とともに、美桜の声が流れてきて、瑠衣はびくっと背筋を伸ばした。これは喰らわれるとは別の意味で怖い。
「大丈夫ですよ、瑠衣様!」
 うってかわって、ニコニコ笑顔になって美桜が言った。
「あたしはそのくらいのことでは怒りませんから! 安心して瑠衣様は白銀様に甘えてください。お口、あ~ん、とか?」
「は、はぁ……」
 ポカンと口を開けている間に、白銀は箸を取ると両手を合わせた。
「ほれ、冷める前に食うぞ」
 パクパクとご飯を口に放り込む白銀を見て、瑠衣も箸へ手を伸ばした。いただきます、と小さく言ってから茶碗を取る。
 ご飯に味噌汁。卵焼きに香の物。めざしが二匹に、野菜と豆腐の小鉢が一つずつ。朝から結構なご馳走が並んでいる。
 最初に卵焼きを一口食べてみると、口の中に仄かな甘みが広がった。
「……美味しい」
 正直、昨日は妖の宴会に圧倒されて、全く味がわからなかった。
「美桜、よかったな。美味いってよ」
「ええ! お口に合うようで何よりです!」
 白銀の声に顔を上げると、美桜が満面の笑みを浮かべていた。
「そちらの小鉢もわたしが作りましたからねー。足りなかったらじゃんじゃんお代わりどうぞ!」
 二口目を食べるともう止まらない。瑠衣は夢中になって箸を進めた。話しかけてくる白銀に相槌を打ちながら、ご飯のお代わりまでしてしまった。
「――ごちそうさまでした」
 ほう、と息を吐いて、出されたお茶を啜る。なんだか心まで満たされた気がする。
(って、いやいや)
 心の中でぶんぶんと首を横に振って自分を戒める。目の前の妖を倒しにきたのに、絆されそうになってどうする。これでは妖に魅入られてしまうではないか。
「それだけ食えりゃ十分だな。昨日はほとんど箸をつけてなかったから心配してたんだ」
 爪楊枝を使いながら、白銀が満足したように頷いた。
 瑠衣は茶碗に立った茶柱を見詰める。この朝餉は、果たして自分にとって吉兆なのだろうか。それとも、破滅へ追いやる一歩手前か。
「……すみません。昨日は緊張していましたので」
「じゃあ、これからは安心だな。瑠衣は背丈の割に軽いからよう。どんどん食って、もう少し肉をつけてくれ」
(太らせてから喰らおうとしている……?)
 少しだけ見えた気がした希望が、いっぺんに吹き飛んでしまった。妖の目的が知れたのだとしたら、むしろ喜ぶべきところなのだが。
 これから食事を一緒にするたびに、喰らわれるための身体になっていくことを意識しなければいけない。それを考えると、なぜだか気分がとても憂鬱になった。
「あーあ、白銀様……。瑠衣様を怒らせてしまいましたね?」
 瑠衣の気分が沈んだのを見て取った美桜が半眼になる。
「へ……? オレなんか変なこと言ったか?」
 全く自覚のなさそうな白銀の声。はああ……と、大きなため息を吐きながら、美桜が白銀の耳元で何やらゴニョゴニョと内緒話をする。なるほど、とばかりに白銀の表情が真剣なものに変わった。
「瑠衣よ、これはオレが悪かった」
「な、何がですか、白銀様?」
 ずずい、と身体を寄せてきて、瑠衣の両手をがしっと握ってくる。
「オレは大きいほうが好きだとか、そういうつもりで言ったわけじゃねえんだ」
「は、はい……?」
 何の事やらさっぱりわからない。美桜に視線を移すと、めっ、とばかりに白銀を睨みつけていた。
「あくまでもオレが欲しかったのは、瑠衣なんだからな。それだけは信じてくれ」
「よ、よくわからないのですが……」
 意味不明な圧が凄くて、瑠衣は頷くしかなかった。
「わ、わかりました」