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 くんくん、と鼻を寄せて美桜が瑠衣の身体を嗅ぐ。
「う~ん。まだ少し香が残ってますけど、このくらいなら大丈夫でしょう!」
 問答無用で湯船に放り込まれた瑠衣は、じっくりと半刻ほども時間をかけられて洗われた。もう綺麗になったから、と主張しても聞いてもらえない。五年をかけて染み込ませた香を全て落とすかのような勢いで、頭からお湯をかけられ続けて、危うく溺れてしまいそうになったくらいだ。
(まあ、このほうがよかったのかもしれない)
 美桜に着物を着せてもらいながら、瑠衣は自分を慰める。
 白銀に香の匂いが効かないのなら仕方がない。むしろ、他の妖に襲われる可能性を考えたら、香は使わないほうがいい。大熊に襲われた時のような絶望は味わいたくない。
「はい、できましたよー。我ながらバッチリです!」
 袖を上げて、瑠衣は自分の姿を確認する。
 白銀の瞳を彷彿させるような、濃い赤を基調とした着物。帯もこれまた白銀の髪のような純白。着物には金糸と銀糸で、豪快に舞い散る雪が描かれている。とても派手な着物なのに、嫌味がなく上品に見えるのが不思議だ。手触りも先ほどまで着ていた衣装よりも上等でとても滑らか。
「このような素晴らしい着物をありがとうございます」
「いいえ~。わたしは瑠衣様にお仕えするのが仕事なので! それと、わたしのことは美桜、とお呼びください」
 前に立って美桜が屋敷を案内する。
 屋敷の門をくぐった時は緊張で気付かなかったが、広さの割には質素な造りだ。屋根は茅葺だし、部屋の調度品も実用性重視といった感じだ。歩いている廊下や、張られている畳はさすがに手入れが行き届いているが、豪華さという点では、住んでいた妖狩り屋敷のほうが勝る。瑠衣に着せられた着物が一番高いものにすら見える。妖ということで、あまり人の世の高級品には興味がないのかもしれない。
 きょろきょろと屋敷の間取りを覚えているうちに、目的の大広間へと到着したらしい。立ち止まってから美桜が大きな声を出した。
「みなさーん! お待たせしました。瑠衣様ですよーっ! さっきみたいに、自分のエサみたいな目で見たら、この美桜が成敗しますからね!」
 美桜が障子を開くと、そこには白銀が待ち構えていた。
「――来たな。お前には赤が似合うと思っていたが、想像以上だ」
 瑠衣の着物とは対照的に、濃紺の着物が白銀の白い肌を際立たせる。舞い散る雪の柄は瑠衣とお揃いだろうか。
 大広間へ視線を向けると、先ほど見た妖達が、左右二列になって準備を終えていた。こちらも人型の妖は身ぎれいな着物姿。犬などの獣姿をした妖も、ふわっふわに毛並みが整えられていた。
「さあ、行こうか」
「え、ええと……? これは?」
「瑠衣の方がよく知ってんだろ。人間の世界でいうシュウゲンってヤツだ」
 戸惑い目をパチクリとさせる瑠衣の手を、白銀が取ると、二列の妖達の間を通り、ゆっくりと上座へと歩いて行く。
(シュウゲン……?)
 単語の理解が追いつかない。生贄を喰らう前の儀式のようなものなのだろうか。
 混乱したまま上座へ到着すると、静かに後ろを歩いていた美桜が三方を二人へと掲げる。その上に乗せられている首飾りへ、瑠衣の視線が吸い寄せられる。装身具としては珍しいものだが、妖狩りは己の呪力を制御するために使う者もいるので、初見というわけではない。
 それよりも瑠衣が注目したのは、銀糸に繋げられている幾つもの獣の牙だ。大きさ的に小さな獣、もしくは幼獣から抜けた牙だろう。野性味がありながらも真珠のような光沢はどこか気高さも感じられる。
(はて……どこかで見覚えがあるような)
 心の中で首を捻っていると、白銀がその首飾りを手に取り瑠衣へと向き直った。
「これはオレからの贈り物だ。受け取ってくれ」
 白銀の手が瑠衣の首の後ろへ回ったと思うと、すぐに瑠衣の首に首飾りがかかっていた。白銀の妖力が籠っていたのか、自分の身体へ流れ込んでくる妖力の感覚に「ん……」と目を閉じて耐える。
「ん~、おかしいな……」
 小さな呟きが聞こえて目を開けると、どこか当てが外れたといった表情の白銀が立っていた。
「ま、とりあえずいいか」
 それは一瞬だけのこと。すぐに白銀の表情が元に戻り、瑠衣の肩を引き寄せた。
「んで、美桜よ。シュウゲンとやらは、これからどうすんだ?」
「え? 知りませんよ。わたしもこんな雰囲気~、ってのを外から見ただけなんですから」
 微妙な雰囲気が、人型の妖二人の間に流れる。美桜の期待を持った瞳が瑠衣へと向けられた。
「瑠衣様はこれから、シュウゲンをどう進めたらいいか知りませんか?」
(ああ……シュウゲンとはあの祝言だったのか)
 そこでやっと、瑠衣は妖達が何をしようとしていたかに思い当たる。そういえば、白銀も嫁だとか何とか言っていた。
 尤も、瑠衣も未婚だし祝言とやらに参加したこともなかったので頼られても困る。ここから先は二つくらいしか知らない。とりあえず、当たり障りのない方を告げてみる。
「宴会……とかでしょうか」
「そうか! それなら準備万端だな。腹も減ったし、さっさとおっぱじめようぜ!」
 事の成り行きを見守っていた妖達へ白銀が叫んだ。
「これからはお待ちかねの宴会だ。今日は潰れるまで飲んで食って騒げ!」
 おおおっ、という妖達の雄叫びが上がった。
 美桜がパチンと指を弾くと、あら不思議。閉まっていた四方の障子が開き、あっという間に開放的な空間となる。それと同時に、料理を乗せた膳が幾つも飛んできて、白銀と瑠衣、そして妖達の前に置かれていく。ゴロゴロという音の方を見れば、酒樽が何個も転がってくるところだった。
 まさに妖という力に、瑠衣は瞳を丸くするばかり。
 そこからは、絵に描いたようなどんちゃん騒ぎが始まった。
 何処からか笛や太鼓の音が響き、吹き上がる色とりどりの花火が、すっかり暗くなった屋敷を明るく照らした。妖達は大いに食べ、大いに飲む。料理や酒が無くなれば、美桜が指を弾くたびにお代わりが空を飛んで運ばれてきた。
 白銀へ何人もの人型の妖が酌をし、瑠衣の杯には白銀自らが注いでくれる。
(これが妖の宴会?)
 妖は祝言とやらの意味を間違えている、と瑠衣は思った。きっと、この宴会の主菜が瑠衣なのだろう。盛り上がりが最高潮となったあたりで、がぷりとやられるに違いない。
 その時はまだかまだかと、身を硬くして待っていた瑠衣だったが、待てど暮らせどその時は訪れない。しまいには、食の進んでいなかった瑠衣を心配したように、美桜から声をかけられてしまった。
「瑠衣様。お口に合いません? 人間の好きな味に合わせたつもりでしたけど」
「そ、そのようなことはありませんよ。とても美味しいかと。このお魚とか、とても油がのって甘い味がいたします」
「瑠衣様……それ、芋のてんぷらです」
「うっ……ご、ごめんなさい」
 傷ついたような表情の美桜へ、慌てて頭を下げて謝ってしまう。自分でも何をやっているのかよくわからなくなってくる。
 夜はどんどん更けていき、酔い潰れた妖が一人、また一人と増えていった。ほとんどの妖が眠ってしまい、静かになったところで白銀が杯を裏向きに置いた。
「この辺でお開きにするか」
「そうですねー。瑠衣様も、眠そうなお顔をしていますし」
 ふぁ、と欠伸をしかけていたのがばれていたらしい。瑠衣はぶんぶんと首を横に振った。
「とても楽しかったですよ。このように歓迎されるとは、思ってもおりませんでした」
 正直な感想を述べる。本当に純粋な宴会だったようだ。
「それはよかったです! この美桜。頑張ったかいがありました! 芋のてんぷらをお魚と間違えられたときは、どうしようかと思ったのですけど」
「で、ですから、それは本当にごめんなさい!」
 五体投地して謝りたい気分だった。美桜は気にしている様子もなく、瑠衣が立ち上がるのを助けてくれる。
「ですが、もうこのような時間。瑠衣様を寝所へ案内いたしましょうか」
「おう! オレは湯だけ浴びてくるから、後は頼むわ」
 呑んだ呑んだー、と言いながら、白銀が風呂場の方向へ消えていく。
「瑠衣様は、こちらへー!」
(やっと一日が終わった……)
 白銀の考えていることがさっぱりわからない。
 いきなりばっくりやられることも覚悟していたのに、これはどういうことだろう。妖が好む香を落とされ、綺麗な着物を与えられた。そして、まるで本当の祝言――本物を見たことはないのだが――のように祝われてからのどんちゃん騒ぎ。何人もの妖狩りを退けた、凶暴な妖のすることとは、とても思えない。
(どこかで喰らうつもりだとは思うのだけど……)
 屋敷へ入った時の白銀の言葉を思い出す。「おこぼれくらいはお前らにもやるさ」と。あの台詞は、喰らうことを考えているから出たに違いない。
 つらつらとそんな考察をしていると、いつの間にか寝所へと到着していた。少し大きめの布団が一つだけ敷かれている。そこで白い夜着へ着替えさせられた。
「では、瑠衣様! 今夜はごゆっくりお楽しみください!」
 にまっと笑って、美桜が寝所の襖を閉める。
「ふぁ……」
 一人残されると、張っていた気が緩んだのか、急に眠気が襲ってきた。お酒が少し入っているのもあるだろう。我慢しようと思っても欠伸が止まらない。
(今日はもう寝るべきなのかもしれない)
 白銀にどのような意図があろうと、今日喰われることはない気がした。自分から喰らわせにいくとしても、もう疲れすぎた。上等な手触りのする布団は、それだけで眠りを誘ってくる。
「――まだ起きてたか。待たせたな」
「し、白銀様!?」
 勢いよく襖が開いて、横になりかけていた瑠衣は飛び起きた。
「ど、どうしてここへ?」
「どうしてって、そりゃあ、夫婦だからに決まってんだろ」
 何を言ってんだとばかりに、瑠衣と同じ白い夜着をまとった白銀は、ずんずんと部屋へ入ってきた。布団の上で呆気にとられる瑠衣の目の前に座る。
「お前も眠いんだろ。ほれ、一緒に寝るぞ」
「えええっ!?」
 思わず悲鳴を上げるも、問答無用で肩を押されて布団の上に倒される。
(こ、これは……もしや、初夜!?)
 祝言の後に残っているものとすれば、宴会の他には一つしかない。やっとそこに考えが至り、ほろ酔い気分が吹き飛んだ。
 妖に身体を喰らわせる覚悟はしていたが、こちらの覚悟は全然していなかった。そういえば美桜が去って行く際に、意味深な笑みを浮かべてはいなかったか。
(待って、待って! どうすれば!)
 そんな話は聞いていない。全くもって想定外だ。喰らうの中にはもう一つ意味が含まれていたのか。迫り来る夫婦の夜の営みという事態に、絶賛大混乱中の瑠衣は、抵抗することも忘れて、あわわ、と情けない声を上げることしかできない。
「なんで、そう、今にも襲われそうな顔してんだ? 別に何もしやしねえよ」
 ところが白銀は、心底不思議そうな声を出したかと思うと、背後から優しく瑠衣の腰へ手を回してきた。
「今日は疲れただろう? おやすみ」
 耳元でそう囁かれたかと思うと、すぐに軽い寝息が聞こえてくる。
「こ、これだけ……?」
 拍子抜けした声が自分の口から出る。
 白銀は本当に、一緒に寝るだけ、としか考えていなかったらしい。その先のことまで勝手に想像して、一人で大慌てをしてしまった。馬鹿みたいだ。
(安心したら、なんか眠く……)
 眠る時に誰かが近くにいる。こんなことはいつ以来だろう。
 悪い気分ではない自分に戸惑いながら、瑠衣は静かに瞼を閉じた。