繰り返しの空間を破ってからひと月が経過した。
 外の世界では、突如として現れた結界――要するに、瑠衣と白銀が起こした妖力の暴走に驚いていたようだ。何をしても破ることができず、内部の様子を窺い知ることもできない。他の地域の妖狩りの総力を結集してもどうにもならず、中にいる者は全て死んだと思われていたらしい。
 それが、出現したときと同じように、これまた突然消失した。しばらくは不気味過ぎて、妖狩りも用心して近づけなかった。
 繰り返しの空間内に捕らえられていた妖狩り達は、何が起きたかきれいさっぱり忘れていたようだった。それは、舞衣や美桜、他の妖達も同様で、どうして白銀の屋敷で倒れているのか全員把握していなかった。たしかなのは政重が倒れたことだけ。
 他の者達が起きる前に、舞衣だけには先に真実を伝えていた。本当に悪事を働いていたのは、盆地の村を治めていた前の領主であり、この屋敷に住んでいた妖は、むしろ村を守ろうとしていたのだと。そして、政重は前の領主と通じており、その悪事を瑠衣が成敗した、と。
 さすがに瑠衣と血を分けた妹。おぼろげながら記憶が残っていたのも説明を早くした。瑠衣は白銀の側にいる都合上、もう表舞台に立つことはできない。後始末を舞衣に拝み倒して押し付けて、その場から離れたのだった。
 そして、後始末も終わったころ、村の近くの森の中で、瑠衣は別れを惜しんでいた。
「お姉ちゃん、行っちゃうんだ」
「いつまでもここへ留まるわけにはいきません。何しろわたしは死んだのですから」
「……ほんとは、そんな風にはしたくなかったんだけど」
 寂しそうな舞衣の声に、瑠衣は努めて明るく笑った。
 舞衣の考えた筋書きの中では、瑠衣は政重と協力して妖と戦い、そして相討ったことになっていた。それが一番誰もが納得する内容であり、余計な波風も立てなくてすむ。
「それに――」
 瑠衣の背後に立つ白銀を見て、舞衣は小さく肩をすくめた。
「お姉ちゃんのそんな幸せそうな顔。見てたら邪魔するなんて絶対にできないし」
 完全に不貞腐れた表情。拗ねていると表現してもいい。白銀に姉を取られて面白くないと全身で表現している。
「ごめんなさい。本当はわたしも舞衣を残していくのは心が痛いの」
「わかってるよ。あたしだってお姉ちゃんが生きていてくれて嬉しいんだから」
 繰り返しの部分の記憶は、やはり一回目に瑠衣が斬られたあたりはないらしい。舞衣にはそこも含めて話していたので、大いに泣かれたものだ。
「ま、今生の別れってわけでもねえからな」
 白銀が頭の後ろで腕を組んで呑気に言う。
「頃合いを見てまた会いに来るさ。お前こそ、妖にやられて瑠衣を悲しませたら承知しねえからな」
「あったり前じゃん!」
 むっ、としたように舞衣が眉間に皺を寄せた。びしっとばかりに白銀を指差してまくし立てる。
「白銀こそお姉ちゃんを悲しませたりしないでよね。一回でも泣かせたら、絶対に成敗しに行ってやるんだから!」
「おお、怖い怖い」
 大げさに白銀が肩をすくめる。
 そんな二人のやり取りを、いつまでも見ていたいと瑠衣は思ったが、太陽の位置を確認してそろそろ時間だと判断する。
「では、舞衣。わたしたちはこのあたりで」
「うん。またね!」
 泣きそうな顔になるも、舞衣はそれを堪えて大きく手を振った。涙を見られる前にと言わんばかりに素早く背中を向け、森の外の街道へと走っていく。その姿が見えなくなってから瑠衣は反対側へ足を進めた。
「行きますよ、白銀」
「そうだな」
 人里を敢えて離れて、山の中の獣道を選んで進む。
 街道を使わないのは全ての封印が解けたからだ。白銀曰く、今の瑠衣は「とても美味しそう」な匂いを振りまいており、妖を引き寄せやすい体質になってしまっているそうだ。何も考えずに村へ下りると、妖に襲われて迷惑をかけるかもしれない。
「よいしょ……っと」
 白銀が差し出してくれた手を握り、苦労しながら急な坂を登る。少し上がった息を整えていると白銀が言ってきた。
「なあ、本当に封じなくていいのかよ」
「呪力がないと白銀のただのお荷物ですからね。五年間の空白を取り戻して、白銀を守れるだけの力をわたしもつけませんと」
「いや、だから、そこはオレが守ってやるって」
 それこそ、繰り返しの空間でもないのに、何度も繰り返したやり取り。瑠衣は毅然としてその申し出を突っぱねた。
「白銀こそ。わたしの呪力を封じたら、美味しい匂いとやらが嗅げなくなってしまうのではないですか?」
「そりゃ、そうだがなあ……だからって、他の妖にお前の呪力を見せたくないっつーか」
 子供っぽい独占欲を発露する白銀だが、それに付き合う義理はない。ふふふ、と笑いながら瑠衣は続けた。
「それに、白銀の妖とも約束しましたからね。繰り返しを抜けるのに協力してくれたら、わたしの呪力を報酬に、と」
「それこそ、誰も覚えてねえから無効じゃねえのか? 美桜ですら忘れてるぞ」
 本当に面白くなさそうに白銀が唇を尖らす。
「だからといって、約束を反故にするわけには参りませんよ」
 白銀は人々の願いから生まれた妖だ。繰り返しの空間の中で、みんながそれぞれ願えば、白銀の妖力が増幅され、繰り返しを脱出できるのではないか。
 それが瑠衣の考えていた作戦だった。政重の奇襲や白銀の妖力の枯渇などで、思い描いていた経過ではなかったが、結果としてはその目論見は見事に当たった。
 たしかに瑠衣が約束した、呪力の件を覚えている妖は誰もいない。だが、白銀の配下の妖は、二人の進む道に危険な妖がいないか偵察してくれているのだ。その恩をただで受け取るのは瑠衣も気が引ける。
「――ふう。やっと到着しました」
 小高い丘を登り切り、瑠衣はうっすらと額に浮いた汗を拭った。
 眼下に広がるは盆地の村。白銀が悪徳領主を追い出して守った村だ。
「村ではたくさんお世話になりました」
 繰り返しの中で、何度も何度も祝ってもらえた。その恩は何も返せていない。その心中を読み取ったのか白銀の手が瑠衣の肩に触れた。
「舞衣が上手くやってくれたろ」
「はい」
 悪徳領主を告発したのは舞衣だ。新たな領主が派遣されたと聞いている。どうか今度はよい領主でありますように。瑠衣としてはそう願うしかない。
「それで、これからどうする?」
 白銀の問いかけに、瑠衣は小首を傾げた。
「どう、とは?」
「いつまでもここに突っ立ってるわけにはいかねえだろ。寝床を探して結界を張らねえとな。お前の望む場所に作ってやるぜ? 川の側がいいか、それとも海の側か? 山の上も涼しくていい感じだぞ。二人きりで朝までべったりだ」
 あからさまな愛の巣を作るぞ発言に、瑠衣の頬が赤く染まるも、次に何をしたいかはすでに結論が出ていた。白銀を正面に見て、宣言するように口を開く。
「わたしは、旅をしたいと思います」
 ほう、と白銀の眉が上がる。
「白銀は多くの人々の願いを叶えてきたのですよね。それはとても素敵なことではないでしょうか。わたしも困っている人々を助けたい」
「瑠衣……」
「五年間。香のおかげもあって、屋敷で軟禁生活をしておりました。ですから、あまり外のことを知らないのですよ。外ではどのようなことがあり、誰が困っているのか。きっと楽しいことも辛いことも、同じくらいあるのでしょう。それらを、わたしは白銀と一緒に見たいのです」
 どこかの山奥に定住して、白銀の腕に抱かれて一生を終えるのも選択肢の一つだろう。だが、白銀の話にこそ、瑠衣は魅力を覚えていた。
 多くの助けがあったからこそ、こうして白銀の隣にいられるのだ。同じような助けを待っている人も絶対にいるだろう。幸いにも呪力は戻り、鍛錬をすれば白銀の足を引っ張らない程度にはなれるはず。白銀の望みとは違う行動かもしれないが、この気持ちは絶対に理解してくれるはずだ。
「……そうか」
 白銀の大きな手が瑠衣の頭を撫でた。
「やっぱりお前はいい嫁だな!」
「そ、そうですか?」
 ぐらぐらと意外に強い力で頭が揺さぶられる。少し目が回ってしまい、白銀の胸にもたれかかる形になってしまった。
「ああ、オレの自慢の嫁だ」
 さすがにそれは照れてしまう。
「……褒めても何もありませんよ」
「えー? それはおかしいだろ」
 不服そうな声音に顔を上げると、そのまま顎に手を添えられ、顔の位置が固定される。
「お前の願いは叶えてやるが、オレの願いも少しは考えて欲しいんだがなあ?」
「……もちろんです」
 逃げるつもりはない。
 自分だって少し期待していたのだから。
 瞳を閉じると、そっと白銀の唇が重なった。
 この先には、自分の知らない世界ばかりだろう。さまざまな人に出会い、大きな事件に巻き込まれるかもしれない。それでも、白銀が隣にいるなら、どんな苦難でも乗り越えられる気がした。
(白銀……ありがとう)
 優しい抱擁を受けながら、瑠衣は期待に心が高鳴るのだった。

〈了〉