「――ったく。なんて匂いをさせてんだ?」
 はっ、と目覚めた時は白銀の腕の中だった。
 いつの間にか意識を失っていたらしい。二人を氷らせていたはずの氷は無くなり、薄い膜のような結界が張られていた。
 それは徐々に大きく広がっていき、意識を失って倒れている舞衣や美桜、妖達や、妖狩りをも包んでいく。今や空を覆っている黒い渦と拮抗するようになっていた。
「オレの口元で、あんな美味そうな匂いさせるんだぜ? そりゃ、死者でも蘇っちまうってもんだ」
「白銀……」
 願いが届いたのだ。じわりと目の前が滲みそうになる。
「おっと、泣くのはまだ早いぜ」
 白銀は立ち上がると右手を頭上に掲げた。その上には黒い渦の中心がある。
「お前も手伝ってくれるよな? まさか願うだけ願って、後のことはオレ一人にさせるつもりじゃねえだろうなあ?」
「わたしはあなたの嫁ですよ。当り前です!」
 瑠衣は勢い込んで頷いた。白銀の隣に立つと、背伸びをしてその手に自分の手を重ねようとする。届かないと見るや、白銀が腰を抱えてくれた。
「行くぜ?」
「いつでもどうぞ」
 同じ高さの位置に白銀の顔がある。それだけでとても心強く感じた。
 瑠衣は瞳を閉じると、願いを――己の呪力を白銀に注ぎ込んでいく。
「お前の呪力はやっぱり美味いな。全部喰っちまいそうだ」
「あなたの側にいたいのですから、半分くらいは残しておいてください」
 茶目っ気たっぷりに片目を瞑った瑠衣を見て、白銀が思わず吹き出した。
「そうだな。これでもう、十分だ」
 白銀の右手に妖力が収束していく。計り知れないほどの力を集めているというのに、白銀はどこか楽しそうな表情。
「さあ、このくそったれな空間をぶっ壊すぜ!」
 笑いながら放った白銀の妖力が、黒い渦の中心を貫いた。まばゆい太陽がその向こうから現れ、黒い渦は急速に霧散していく。いくらも経たないうちに、繰り返しとなっていた空間は消えていき、通常の――本当の世界が戻ってくる。
 その様を、呆然と瑠衣は見詰めていた。信じられないといった思いが強い。また死んだら戻ってしまうのではないだろうか。そんな焦りもあって前を向くと、微笑みを浮かべる白銀の顔があった。
「白銀……」
「ありがとよ。お前のおかげで助かった。他のヤツらもな」
 促されて周囲を見回すと、倒れている人や妖達。舞衣と美桜も気を失っているが、その胸が微かに上下しているのを見て、やっと安心する。
「白銀、わたし……わたし……っ!」
 じわじわと実感が広がってくる。再び目の前が滲みそうになったところで、瑠衣の身体を抱え直して白銀が真正面から見据えてきた。
「お前の願いを叶えたんだ。オレの願いも叶えてくれるか?」
 真摯な瞳だ。何か本気の願いがある。
 それを感じて瑠衣は気を引き締めて頷いた。
「もちろんです」
「一生、オレの側にいてくれるか?」
 そこで――瑠衣の涙腺は一気に崩壊した。
「白銀ぇっ……!」
 わんわん泣きながら、白銀の首へと腕を回す。
 もう、自分が何をしているか、何を叫んでいるかも理解できていない。ただひたすらに、白銀の名を叫び、絶対に離すまいと必死にしがみつくしかできなかった。
「だから、そんないい匂いをオレに押し付けるんじゃねえ!」
 少しばかり怒ったような口調すら、瑠衣にとっては心地よい。やがて、白銀も諦めたのか、瑠衣の背中に腕を回すと痛いくらいに抱きしめる。夢見心地になりながら瑠衣はそれを受け入れた。
「それで、返事くらいもらってもいいと思うんだがなあ?」
 耳元で囁かれ、収まりかけていた涙が再び頬を伝った。
 返事などもう決まっている。言うまでもない。
 けれど、その願いに対して、瑠衣は言葉にしてこたえるべきだと思った。
「……はい! わたしのほうこそ、お願い致します!」
「ありがとよ」
 白銀の唇が近づいてきて、瑠衣の目尻の涙を吸った。くすぐったくて、反射的に首をすくめてしまう。それにも構わず何度も唇が触れた。
「お、美味しいのですか?」
「しょっぱい」
 正直な感想に、思わず瑠衣は笑ってしまうも、続けられた言葉に慌てる羽目になる。
「お前の口の中は甘かったよなあ。まさか、氷の中で口付けしてくるとは思わなかったんだぜ?」
「そ、それは……んっ!」
 言い訳をしかけた瑠衣は、問答無用で唇を塞がれた。
(白銀のほうこそ、甘いではないですか)
 しばらくは離してもらえそうもない。
 そんな予感を覚えながら、瑠衣は己の全てを委ねる。
 これからは、繰り返しなどせずに白銀の隣にいるのだ。
 それこそ、死が二人を分かつまで。
 繰り返さない日々を、一日も無駄にせず過ごすのだ。
 その決意を見せつけるかのように、白銀を抱く腕に力を込めたのだった。