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「――んっ」
 肉体へ戻って来たような感覚に、瑠衣は微かに呻いてゆっくりと瞼を開けた。いつの間にか布団の上に寝かされている。横を見れば白銀が心配そうな表情で座っていた。それほど時間は経過していないのかもしれない。
「上手くいかねえな……呪力だけでも戻っていればいいが。気分はどうだ?」
「……いろいろと思い出しました」
 政重の言葉にまんまと乗せられて初任務へ赴いた。今思えば、あれは瑠衣を葬るための口実だったに違いない。
 そこで妖の大群に襲われ、次々と妖狩りが倒されるのを目にした。次は自分の番だと覚悟を決めたのだが、目が覚めると政重の妖狩り屋敷の中だった。その時には既に、自分の身体には毒が埋め込まれていた。
「白銀が、わたしの記憶に封印をしていたのですか?」
「オレがそんなことをするわけねえだろ。まだ寝ぼけてるのか?」
 起き上がろうとすると、激しく眩暈がした。倒れかけたところを白銀の手が彼女の身体をすくい、膝の上に乗せてくれた。
「たしかに、オレも封印をかけたが、それは匂いに対してだな。あのままじゃ、わんさと妖に襲われて、長生きできねえと思ったんだ。だがな、その術を悪用されて、お前の記憶まで封じられちまった……いや、都合のいいように塗り替えられちまったんだ」
「……もしかして、わたしが呪力を失っていたのは」
「オレのせいだな」
 とんでもないことを、さらりと白銀は言った。
「妖狩りなんぞ、危険なことはさせたくなかったからな。それがオレも予想外の方向へ転がっちまってな。こうして、お前を手に入れるまでに五年もかかっちまった」
 大切な者を危険な目に遭わせたくない。そんな白銀の想いは痛いほどに理解できる。自分だって舞衣を投げ飛ばしてまでして、任務に行かせるのを阻止したのだ。あの時には心を鬼にしていた。たとえそれで嫌われてしまったとしても。
「呪力を封じたのは白銀……では、記憶を封じたのは……」
 考えるまでもなかった。
「政重様ですか」
「その通りだ。お前が毎日浴びていたという香が鍵だった。無理やり解除すると瑠衣の身体が耐えられない可能性があったからな。少しずつ解除していったんだ」
 なるほど、と瑠衣は納得する。だから二度目、三度目と繰り返す度に、徐々に情報量が増えていったのだ。
 それから、五年間を白銀は教えてくれた。
 呪力さえ失えば、瑠衣は妖狩りを止める。白銀はそう思っていたらしい。ところが、妖狩りの屋敷に留められ、何やら怪しげな術を掛けられたという情報を得て大いに慌てた。己の目論見とは別方向に物事が動き、瑠衣が窮地に追いやられてしまった。
 それからは瑠衣を取り戻したい一心で白銀は動いた。村へ横暴を働いていた悪徳領主へ戦いを挑み、派遣されてきた妖狩りもろとも退けた。そして、和睦の証として瑠衣が派遣されるように仕向けたのだ。
 半ば予想していた経緯だったが、それでも瑠衣は呆れてしまった。
「無茶なことをしましたね……」
「妖狩りの屋敷に殴り込みをかけるよりはマシだと思うがなあ?」
「うっ……」
 一度目の状況を思い出し、瑠衣は視線を彷徨わせた。こっそりと政重の元へ戻ったがために、白銀に無理なことをさせてしまった。
(もしかして……この繰り返しも政重様が?)
 ふと、そんなことを考えるも、どうもそちらは辻褄が合わない。
 瑠衣を始末するだけなら、一回目の出来事でいいはずだ。妖に魅入られたとして、斬り殺すには十分な理由である。白銀と一緒に始末できなければ意味がないと考えているのだろうか。それにしては術が大掛かりすぎる。同じ時間を繰り返すなんて瑠衣には絶対に無理だし、果たして政重にそれだけの呪力があるのだろうか。
「白銀には目星がついているのですか? この繰り返しの原因について」
「あー、それはなー……」
 嫌なことを聞かれた。そんな風情で白銀が視線を逸らした。
「何か知っているのですか? 呪力を封じたのは許しましたけど、これ以上わたしに隠し事をするなら許しませんよ」
 自分の知らないところで事件が進むのはもうこりごりだ。それに、この繰り返しから抜け出さなければ、元の生活をすることができない。
 はぐらかされたりはしたくないと、白銀をしっかりと見据えていると、根負けしたように白銀が鼻の横を掻いた。
「妖狩りの屋敷に襲撃をかけたとき、お前はもう虫の息だった」
 すみません、と小さくなる瑠衣の肩を叩きながら白銀は続ける。
「オレも手傷を負ってヤバイ状況になった。さすがに妖狩り屋敷の結界じゃ、本来の力は発揮できねえからな。その時にお前は何をした?」
「ええと……願いました。わたしに構わず逃げてほしいと」
 そして――来世では一緒になりたい。
 それはもう、全身全霊をかけて願った。滅茶苦茶に願った。呪力のない自分にはそれくらいしかできることがなかったのだから。
「そこで問題だ。オレは何の妖だ?」
「白銀はみなさんの願いから生まれた妖……あっ」
 そこまで言ってから瑠衣は目を見張る。薄っすらと先の展開が読めた気がした。
「お前の願いは、オレに力を与えてくれた。オレも経験したことがないくらい膨大な力だ。だがな、それには問題があった」
「問題?」
「瑠衣の身体には、オレと政重の術が掛けられていたからな。その二つと、お前の願いが変に干渉しあった結果、力が暴走しちまって妙な空間に囚われちまった」
「それは、もしかして……」
 冷や汗をかきながら、瑠衣は自分の出した結論を口にする。
「わたしの願いが、この繰り返しを引き起こしてしまった……?」
「お前だけのせいじゃないぞ。お前が願ってくれなきゃ、あの場で二人ともお陀仏の可能性だってあったんだからな」
 慰めるような白銀の言葉だったが、瑠衣はそれどころではない。
 繰り返しの原因は政重でも白銀でもない。自分自身だった。その事実はさすがに衝撃的で、このまま失神してしまいたかった。もう一度繰り返したら、別の理由に変わったりはしないだろうか。
「政重のつけた匂いも弱くなってきてたからな。繰り返しが解けねえかって、さっきも試してみたんだが、やっぱり駄目だった」
 悔しそうに顔を歪める白銀を前にして、瑠衣も途方に暮れる。あれは記憶の封印を解いてくれるためだけではなかったのだ。
 うーん、と頭を捻っていると、天啓のように一つの案を閃いた。
「繰り返すたびに香が弱くなっているのなら、もう何度か繰り返せばよいのでは?」
「……お前、何を言ってんだ?」
「だから、わたしが死ねばよいのですよ。そうすれば、繰り返しが起きて、今度こそ白銀が術を――」
「阿呆」
 容赦のない手刀が脳天に振り下ろされ、瑠衣はその場で見悶えた。頭が二つに割れたかと思った。抗議の声を上げようとすると、そのまま布団に押し倒される。頭の両側に手を置かれ、完全に逃げられないような体勢にされた。
「何をするのです、白銀」
「そりゃ、こっちの台詞だ。いくら繰り返しから抜けるためとはいえ、お前を殺すわけねえだろ! 次にそんなことぬかしたら、ぶっ飛ばすぞ!」
 額と額がくっつかんばかりに顔を近づけて白銀が怒鳴った。その剣幕に瑠衣は思わず首をすくめる。これは本気で怒っている。
「すみません……」
 視線を横に逸らしながら瑠衣は謝った。白銀の言う通りだ。如何なる理由があろうとも、自分の大切な者が死ぬのを見たいわけがない。たとえ繰り返すとわかっていてもだ。さすがに混乱して馬鹿なことを言ったと反省する。
 本当に瑠衣が後悔しているのを理解したのだろう、白銀の手が優しく髪を梳いた。横を向いたままの彼女へ小さな声が届く。
「それにな。オレの妖力も無限じゃねえ。空間が崩壊しないよう維持しているが、それももう限界だ。この繰り返しで終わりだろうな。次に瑠衣が死ねば、この空間ごとオレの命も終わる。それだけじゃねえ。美桜や舞衣、政重の野郎……は、どうでもいいが。とにかく、この空間は崩壊してみんな死ぬ」
「そんな……」
「いや、残りの妖力を全部お前に注ぎ込めば、もしかしたら生き残れるかもしれないな。それがオレの本当の願いだしな。よし、そうと決まれば今から……イデデ」
 白銀が悲鳴を上げたのは、瑠衣が下から手を伸ばし彼の頬を思いっきりつねったからだ。低い声で怒りを露にしながら告げる。
「さっきのわたしのようなことを言わないでください」
「……悪かった」
 しょんぼりと白銀。耳と尻尾があれば垂れ下がっているに違いない。瑠衣が手を背中に回すと、白銀が覆いかぶさるようにして強く抱きしめてくる。少しだけ震えているのは、大切な者を守り切れない恐怖だろうか。
(白銀……)
 出会った頃の雪景色が、頭の中に鮮やかに蘇る。
 あの時は、彼の酷い怪我を治療するために、自分の呪力を分け与えていたものだ。怪我が完治してからも白銀はしばらく留まってくれていた。鍛錬に疲れたら、ふさふさとした白い犬の腹に身体を埋めるのが至福の瞬間だった。それは、彼が人型となっていても同じだ。今も同じ匂いがする。
 このまま、最後となるかもしれない一夜を過ごしても――
「……匂い?」
「どうした?」
 ただならぬ瑠衣の呟きに、白銀が身体を起こして顔を覗き込んでくる。
 瑠衣は胸元の首飾りを手にして鼻へと近づけた。白銀の妖の気配が色濃く残っており、これが初任務で救ってくれたのだと今ならわかる。彼が持ち去ったのは、それこそ他の妖狩りに見咎められればおしまいだったからだ。しかし、このさらに奥に、別の何かがあるような気がする。それこそ、白銀すら見落としている何かが。
(美味しい呪力……使い方……)
 諦めかけていた瑠衣の心に希望の光が灯る。白銀と一緒にこの空間から抜けられるかもしれない。もちろん、舞衣や美桜も助けられる。
「まだ諦めるのは早いようですよ」
 首飾りを握り締めながら瑠衣は、自分に言い聞かせるように言った。
「一つ、手を思いつきました。この繰り返しで終わるなら、賭けてみませんか?」