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(あれから、五年か)
 準備の三日間は慌ただしく過ぎ、当日の衣装の着付けをしてもらいながら、遠い日の自分に思いを馳せる。
 生まれつき瑠衣は、呪力が弱かったわけではない。むしろ、数十年に一度の強力な呪力を持つ存在として、大いにもてはやされていたくらいだ。
 それが変わったのが五年前。十三歳という異例の若さで初めて妖狩りの任務に赴いた。だが、そこで妖の大群に襲われ、瀕死の重傷を負ってしまった。何とか一命はとりとめたものの、その時から呪力を失ってしまった。
 瑠衣の身体に、妖を殺すための毒が埋め込まれたのは、その傷が癒えてからすぐのことだった。舞衣はもちろんのこと、政重も反対してくれたらしいのだが、呪力の消えた娘を無駄飯食らいとして置いておくほど、妖狩りという組織は甘くはなかった。全ての意思は無視をされ、瑠衣の身体には毒を埋め込まれた。
 その日から毎日、妖の好む香を浴びるのが日課となっていた。人間にとってはいい匂いでしかないが、妖にとっては美味に感じる香らしい。屋敷を囲む結界の外に出ると、妖をおびき寄せてしまうとして、屋敷に軟禁状態となっているうちに、五年の月日が経過したというわけだ。
「――瑠衣様。できあがりました」
 大きな姿見の前で、瑠衣は小さく頷いた。
 淡い黄色の着物は、妖の食欲をそそるものとされていた。人間の娘が喰われるおどろおどろしい絵柄も、妖の食欲のため。いつもの香も着物に染み込ませてあるし、瑠衣自身もいつも以上に念入りに浴びていた。今の瑠衣は、大抵の妖が正気を失うほどの御馳走にしか見えないだろう。
 姿見に映る瑠衣の背後には、着付けを手伝ってくれた妖狩りが数人。みんな一様に暗い顔をしている。瑠衣はくるりと振り返ると、朗らかに笑った。
「ありがとう。これから贄になるというのに、このような立派な衣装……もったいないのでは。いっそ裸で放り込んでくれたほうが、妖も食べやすいと思うのだけど」
「い、いけません! 瑠衣様をそのような扱いなど、とてもとても……」
 周囲の重苦しい雰囲気を払おうとした軽口だったのだが、どうやら失敗したらしい。一番年長の者が涙を流しながら、その場にひれ伏した。
「妖狩りの元長である、志乃様の娘様。本来ならばわたくし達がお守りせねばならぬところを、なんと情けない……」
「泣くことは許しませぬ」
 瑠衣は敢えて強い口調で言った。妖狩りとは、常に死の危険と隣り合わせ。自分一人のために、この者達の心に傷を負わせたくはない。
「この日のために、わたしという存在はあったのですから。ここで逃げたら、それこそただの役立たず。お母様の名前を汚すことになってしまいます」
「ですが……」
「それ以上の反論は許しませんよ」
 ぴしゃりと言ってから、ふと口元を緩める。
「妖を葬ることに成功したら、お母様に報告はお願いできますか。娘は見事に役目を果たしました、と」
 あまり湿っぽい場面が続くと、自分の決心が揺らいでしまいそうだ。最後の挨拶もそこそこに、瑠衣は部屋を出た。
(舞衣とはあれっきりか)
 屋敷の正門へ向かいながら、それだけが瑠衣の心残りだった。あれから、顔はおろか姿すら見ていない。嫌われてしまったのだろう。
(ううん。わたしは間違っていない)
 舞衣の部屋へ行こうかと思ったが、未練を振り切るように足を早めた。別れの姿は見せない。今日からは姉など居なかったものとして振るまってほしい。
 表門では瑠衣を乗せるための輿と、それを運ぶ妖狩りの男が待っていた。その横には政重が袂に手を突っ込んで立っている。
「これがもしも花嫁の姿なら、志乃も喜んだであろうにな」
 残念そうに……いや、無念そうな表情で政重が呟いた。
「どうなのでしょうか」
 自分の姿を一瞬だけ見下ろしてから、小さく瑠衣は笑った。
「わたしにはわかりません。もしかしたら先日、舞衣を投げ飛ばしたのを怒っているかもしれませんよ」
「儂からも言って聞かせたのだが……すまんな。とうとう舞衣は顔を見せなかったな」
「いいのですよ」
 最後に一度だけ振り返ってから、瑠衣は前の輿へと歩く。
「きっとわたしを恨んでいるでしょう。ですが、そのくらいで丁度いいのです。下手に追いかけてこられても困りますから」
 瑠衣はしずしずと足を進め、政重の手を借りて輿の上に座る。それを担ぐのは四人の妖狩り。道中を考えてか、刀とお札を持ち完全武装した姿だ。
 瑠衣は輿の上に両手をついて頭を下げた。
「では、政重様。お勤めを果たして参ります。舞衣のことは頼みました」
 うむ、と政重が頷くのが見えた。瑠衣は輿に座り直すと、輿を運ぶ妖狩り達へ言った。
「では、行きましょうか」
 はっ、と妖狩りが返事をすると、輿がふわりと宙に浮いた。妖狩りが呪力で浮かせているのだ。四方を囲むようにして、妖狩り本人も空中を飛ぶ。
 見下ろしているうちに、どんどん輿の高度は上がっていき、屋敷の中庭の全貌が見えるようになった。ここで見納めかと、視線を前に向けたところで、屋敷の中から転がるように人影が一つ出てきた。
「――死なないでっ!」
 涙混じりの高い声が、雲一つない青空に響いた。舞衣が一生懸命に手を振っている。
「ごめんなさい! あたし、もっと強くなるから!」
「舞衣……」
「だから、お願い! 生きて戻ってきて! 勝ち逃げなんて許さない!」
 両手を広げて口に当て、舞衣がもう一度叫んだ。
「だから、絶対に――死なないでっ!」
 舞衣の姿はもう小さくしか見えない。けれど、ボロボロと大粒の涙を流す姿が容易に想像できて、瑠衣は堪え切れずに前を向いた。
(舞衣……ありがとう)
 最後に嫌われていなかったのがわかったのだ。それだけで報われた気持ちだった。
 これで何の心残りもなく、この身を妖に喰らわせることができる。