薄暗い三畳ほどの畳の間に、一人の少女が静かに正座をしていた。
 背筋をピンと伸ばし、合わせた膝の上には軽く握った拳。瞑想をしているのだろうか。細く長い息を吸って、吐いてを繰り返している。
 少女の前には、鈍く光る香炉が置かれていた。薄紫色の煙がゆらゆらと上がり、部屋の中に漂っている。いや、充満していると表現してもよい。少女がどのくらいの時間、その部屋にいたのかは、小火でも起きたのかと思うほどの煙が物語っていた。
「……少し、薄くなってきましたか」
 尤も、咳き込みそうなほどの煙は、少女にとってはいつものことのようだった。わずかに瞼を開くと、脇に置いていた香包みを手に取った。その所作は相変わらず姿勢が良く、凛とした佇まいは静謐さすら感じる。
 少女は香炉の蓋を取り――
「お姉ちゃんっ!」
 ところがその静寂は、バタンと開かれた引き戸の音と、屋敷中に響きそうなほどの大声で破られた。
「げほげほっ、大丈夫!?」
 入ってきた拍子に香の煙を吸い込んでしまったのだろう。乱入者は激しく咳き込みながらも、部屋の主である少女――瑠衣(るい)の許可も取らずに、ずかずかと部屋に入ると、閉め切っていた障子や木の戸を全開にしていく。狭い部屋の煙は、あっという間に新鮮な空気へと入れ替わっていった。
 焚いたばかりの香が無駄になってしまった。瑠衣は眉をひそめて、部屋へ入ってきた三つ年下の妹を睨んだ。
舞衣(まい)。あと四半刻は時間があったはずなのだけど?」
「ああ、よかった」
 尤も、舞衣は全く別の感想を持ったらしい。健在な瑠衣の姿を見て、ほっと大きく息を吐き出す。
「煙だらけで、とうとう離れ座敷が火事になっちゃったかと思ったんだよ。香を焚くのはお姉ちゃんの日課だけど、いくらなんでもこれはやりすぎじゃない?」
「わたしがそのような失敗をするわけがないでしょう。あなたこそ、鍛錬中に呪力を操り損ねて、危うくお屋敷を焼いてしまうところだったのを忘れてはいけませんよ」
「あは、あはは……厳しいなぁ」
 乾いた笑い声を上げながら舞衣が視線を逸らす。瑠衣は諦めて香を包みんでから、桐の箱へと戻した。またあの密度の香を焚くとなると、夕餉の時間となってしまう。
「お姉ちゃん、そんなに怒らないで。ここに来たのは政重(まさしげ)様が呼んでいるからなんだよ」
「政重様が?」
 珍しいこともあるものだと、瑠衣が訊き返すと、舞衣は顎を小さく引いた。
「うん。妖のお話があるから、すぐに来いってさ」
「そう。では、待たせるわけにはいきませんね」
 瑠衣は香道具を片付けるのもそこそこに立ち上がった。離れ座敷から出ると、広い中庭では、数人の男女が武器を片手に呪力を打ち合っていた。一人が炎の塊を放つと、別の一人が生み出した鎌鼬がそれを叩き落とす。妖狩りに必要な呪力の鍛錬だ。
 彼らの邪魔をしてはいけない。こっそりと中庭の端を通っていると、弾かれた炎が運悪く瑠衣の方へ向かってきた。
「危ないっ!」
 舞衣が庇うようにして前に立つと右手で印を結んだ。すると、下から植物の蔦が素早く伸びて、炎を包み込んで消し去った。
 今のが自分に直撃していたら、黒焦げになっていただろうな。そんな呑気なことを考えながら、瑠衣は自分を守ってくれた蔦を見上げた。
「腕を上げましたね、舞衣」
「えへへ。お姉ちゃんに褒められちゃった……じゃなくて。こらーっ!」
 一瞬だけ照れ笑いを浮かべるも、舞衣はすぐに中庭へ向かって叫ぶ。
「お姉ちゃんを殺す気!? ちゃんと気を付けてよ!」
「も、申し訳ありません! 瑠衣様はお怪我ありませんか」
 鍛錬していた者達もすぐに二人に気が付いたようで、真っ青な顔をしてパタパタと駆けてきた。瑠衣の前で震えながら平伏する。
「舞衣のおかげで助かりましたのでお気になさらず。それに、声をかけなかったわたしが悪いのですから」
 瑠衣は微笑みながら、妖狩りの者達に立つよう促した。
「どうぞ鍛錬をお続けになってください。わたしは見守ることしかできませんが」
「そのような勿体ないお言葉……。我々も鍛錬によりいっそう身が入ります」
 もう一度頭を下げてから鍛錬へ戻る妖狩り達。その姿はとても頼りになると思う一方で、自分の不甲斐なさも見せつけられているようで、瑠衣は少しだけ心が沈んだ。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
 しばらく立ち止まっていると、横から心配そうな表情で舞衣が覗き込んできた。瑠衣は小さく首を横に振ると、母屋へ向かって足を進めた。
(わたしに妖の話とは……)
 きっとろくな話ではない。憂鬱な気分になっているうちに母屋へ到着し、縁側から廊下へと上がった。前から歩いて来た妖狩りが、二人を見て横へ避けて一礼する。瑠衣はそれに小さく応えてから目的の部屋を目指した。
 この屋敷は姉妹二人の家であると同時に、妖に対抗する呪力を持った『妖狩り』と呼ばれる者が集まる屋敷でもあった。住み込みで働く者もいるし、任務で必要な時に訪れる者もいる。大名屋敷のように広い敷地に立派な建物は、この地方で一番の実力を持つという証明だ。
 二人は廊下を進んでいき、四方の障子が開け放たれた広い部屋へと入った。そこでしばらく待っていると、廊下から足音が聞こえ、四十代前半で瘦せ型の男が入ってきた。姉妹二人の育ての親である政重だ。
「日課の途中に呼び出してすまなんだな」
「いえ、問題ありませんよ。舞衣に小火と勘違いされてしまいましたし。今日は少々やり過ぎてしまったようです」
 瑠衣の返答に、政重は小さく笑うも、すぐに表情が暗くなる。
「まずはこれを読んでもらおうか」
 瑠衣の前に折り畳んだ書簡が差し出される。隣に座る舞衣を見ると小さく首を傾げていた。彼女も何も知らされていないらしい。瑠衣は書簡を手に取ると、舞衣にも見えるよう畳に広げた。
 そこには近隣の村で二年ほど前から起きている、妖騒ぎの報告が書いてあった。どうやら、村の領主を追い出して、妖がその座に収まってしまっているらしい。
 それを読み終わったあたりで、政重が口を開いた。
「報告にある妖はな、どうやら村に重税を課したり、女を攫ったりとやりたい放題しているようなのだ」
「妖狩りは、派遣されていないのですか?」
 嫌な予感を覚えながら瑠衣は問いかけた。隣では、舞衣が不安そうな表情でそわそわしている。
 妖出現の報告があれば、すぐさま討伐のための妖狩りが派遣されるはず。それが二年も放置されるわけはないはずだ。
「元々は別の場所に持ち込まれた話であったのだ」
 瑠衣の嫌な予感を裏付けるような話が、政重の口から続けられた。
「その妖は強く、もう何人もの妖狩りを退けておる。困ったことに倒せる見通しも立たないらしい」
「なるほど……」
 瑠衣はもう一度、報告に目を通しながら頷いた。他家で対応しきれない問題が、この家に持ち込まれたというわけだ。
「それで、政重様が行かれるのですか?」
 瑠衣の問いかけに、政重は無言で首を横に振った。瑠衣は低い声で問い詰めた。
「まさか……舞衣を? さすがに無理では。いくら才能があるとはいえ、ついこの前十五になったばかり。初仕事はもっと楽なものを……」
 妖狩りは十五歳で任務を受けることを許されている。その成果を以て元服とし、やっと一人前の妖狩りとして認められるのだ。
「だ、大丈夫だよ、お姉ちゃん!」
 途中から舞衣も話の流れを感じ取っていたのだろう。健気にも己を奮い立たせるような明るい声で叫んだ。
「あたし、やるよ! ここで手柄を立てれば、この家のためになるんだし。そうすればお姉ちゃんだって……」
「いいや、舞衣。お前でもないのだよ」
 政重の静かな否定に、しん、とその場が静まり返った。
(……そういうことか)
 妖狩りの話で、どうして自分が呼ばれたのか不思議に思っていたのだが、やっとその意味を理解する。
 しばらく時間を置いてから、瑠衣は重々しく口を開いた。
「それだけの相手が現れた、ということですか」
「ダメだよ、お姉ちゃん! 行っちゃダメっ!」
 悲鳴のような声を上げて、舞衣が瑠衣へと縋り付いてきた。
「お姉ちゃんが行くとか、意味がわからない! 政重様も、何を言っているの!?」
 半狂乱となった舞衣を無視して政重が言う。
「幸運にも、相手のほうから申し出があったようでな。娘を一人寄越すのなら、村の安全は保障してやるそうだ」
「それで、送られる娘として、わたしが選ばれたわけですか」
「だから、ダメだってば、お姉ちゃんっ!」
 瑠衣の襟元を掴んで、舞衣が力任せに揺さぶってくる。半ば首が締まったような状態になり、瑠衣は顔をしかめてその手を払った。
「わかってちょうだい、舞衣。わたし以外にできる人がいないから、この依頼が持ち込まれたのよ」
「だって、お姉ちゃん、呪力ないじゃん。何もできないよね?」
 瞳を潤ませながらも怒ったような口調で詰め寄られ、思わず苦笑してしまう。
 才能があると言われている舞衣に比べれば、自分の呪力などないに等しい。十八歳にもなったというのに、一度も任務を成功させたことがない。一度を除いて、任務を与えられたことすらないのだ。本来ならば、この屋敷から追い出されても文句は言えないが、未だに居場所を与えられていたのには理由がある。
「たしかに、わたしは舞衣と比べたら、赤子のような力しかない。だけど、この身に宿すものをあなたは知っているはず。手に負えない妖が現れたときのために、わたしという存在が作り出されたのよ」
「お姉ちゃん……死ぬつもり?」
 疑問形になっているが、舞衣はその意味を理解している。
 瑠衣の身体には、妖が食べれば死に至る毒が巡っている。そして、妖が長時間彼女の近くにいれば、その力を徐々に削ぐ術も掛けられていた。もちろん巧妙に隠してはいるが、妖が術に気付くのは時間の問題。逆上した妖が瑠衣を殺し、その心の臓を喰らえば、瑠衣の任務は完遂される。
「だからって、こんなの……!」
「もう決まった話だ」
 なおも食い下がろうとする舞衣へ、沈痛な面持ちで政重が告げた。
「儂も何とかしようと反対をしたのだが……妖狩りの上層部からは、この日のために瑠衣を育ててきたと言われてしもうたな。志乃の娘として、見事に妖を退治すべしとのことだ」
 亡き母の名を出されて、瑠衣は背筋を伸ばして頷いた。
「ええ、もちろん」
 毒の件がなければ、とっくの昔に無謀な妖退治に狩りだされて潰えていた命。もしくは、屋敷の外に放り出されて野垂れ死にしていたかもしれない。
 舞衣はこれからどんどん強くなっていく。蕾のうちに散らせるわけにはいかない。それを守るためならば、この命を使うことに不服はない。
「……お姉ちゃん、勝負しよう」
 納得いかない様子で舞衣が呟いた。昏い瞳で真正面から睨み付けてくる。
「もちろん呪力ありで。勝った方がその妖を倒す。政重様もそれでいいよね」
 絶対に瑠衣が勝てない条件の勝負。政重は、好きにしろ、とでも言うように小さく肩をすくめた。
「決まりだね」
 瑠衣には反論させないとばかりに舞衣は立ち上がった。
「じゃあ、お姉ちゃん、庭にで……えっ!?」
 横を舞衣が通り過ぎる瞬間、瑠衣は素早く動いていた。
 座った状態から畳に両手を突き、腰をぐるりと捻ると、その勢いで舞衣へ足払いをかける。完全に油断していた舞衣は、転倒することだけは避けたが大きく体勢を崩す。その致命的な隙を逃さず、舞衣の袖を掴むと、勢いよく背中越しに投げ飛ばした。
 ずだん!
 大きな音が屋敷を揺らした。
 怪我はさせないよう手加減はした。それでも、受け身を取り損ねて、苦悶の表情を浮かべる舞衣を見下ろしながら告げる。
「わたしの勝ちね」
「ひ、卑怯だよ……お姉ちゃん」
「何を言っているの?」
 涙目になりながら訴えかけてくる舞衣へ、努めて冷たい表情をして見せる。
「妖は卑怯なものなの。正々堂々なんてない。これが実戦なら舞衣は死んでいた。わたしが選ばれた理由、これで納得した?」
「うっ、うっ……うわぁぁああああっ!」
 負けた悔しさか、それとも姉を失う悲しみか。舞衣の慟哭が屋敷中に響いた。それを耳から追い出しながら、勝負の行方を見届けた政重へと振り返る。
「わたしがその妖を、見事に倒して参ると致しましょう。わたしが亡き後は、どうか舞衣のことをよろしくお願いします」
「……すまぬな。立派な妖狩りに育てることを約束してやろうぞよ」
 気丈に振る舞う瑠衣を見て、悼むように政重が瞼を伏せた。
 舞衣を救えるのなら、この命など安いものだ。
 固く決意しながら瑠衣は準備をすべく、離れ座敷へと戻ったのだった。