「――いま帰ったぜー!」
 どすどす、と廊下から聞こえた大きな足音に、瑠衣ははっと我に返った。慌てて文を細長い筒に戻し、薬袋を袂に入れる。その直後、「入るぜ」という声とともに、部屋の障子が勢いよく開いた。
「お、お帰りなさい、白銀」
「おう。ただいま……って、ってこりゃすげえな」
 一気に華やかになった瑠衣の部屋を見回して、白銀は感嘆の声を上げる。
「美桜から話は聞いたぞ。やっとオレも認められたってわけだ。瑠衣が書いてくれた報告のおかげだな」
「は、はい……そのようですね」
 曖昧な笑みを浮かべながら瑠衣は頷いた。今の行動を見られていなかったかと、胸がバクバクと鳴った。
「しかし、暗いな。灯りくらい入れたらどうだ」
 白銀に指摘されて、初めてそんな時間になっていることに気が付く。庭側の障子を白銀が開けると、空が茜色に染まっていた。太陽は半分ほど沈んでおり、すぐに夜がやってくるだろう。
 荷物の中には燭台もあった。それを部屋の中央に置いて白銀が叫ぶ。
「せっかくもらったものは使わねえとな。美桜、火を頼む!」
 はーい、と美桜が蝋燭を持ってすぐにやって来る。白銀がそれを受け取り燭台に配置すると、パチンと弾いた指から飛んだ火花が蝋燭に灯りをつけた。
「もうすぐ夕餉の準備ができますけど、どうします? 今日はこちらで食べます?」
「そうするか。瑠衣もそれでいいだろ?」
 白銀に訊ねられて、瑠衣は首を縦に振ってこたえた。
「んじゃ、先に一杯やりてえな」
「もうほとんど準備できてますから! お二人とも、すぐに持ってきますからねー」
(舞衣を助けるためには……)
 上機嫌に嫁入り道具の一つ一つを眺めている白銀。その背後で瑠衣は一つ決心をしていた。縁側の角を曲がろうとした美桜の背中に声を掛ける。
「あの、美桜様」
「はーい。どうしました?」
 瑠衣はまだ片付けきれずに積まれていた箱から、一対のぐい呑みと徳利を取り出した。真っ白な磁器に、風に揺れるススキが青く描かれている。
「今日はこちらを使って、わたしがお酒の準備をしたいと思うのですが」
「おー、それは素晴らしい案ですね! 白銀様が泣いて喜びます」
 美桜が茶化すと、まんざらでもなさそうな顔で白銀が言った。
「今日は美味い酒が飲めそうだぜ」
 美桜と一緒に台所へ行き、徳利に酒を入れる。それを湯煎して適度な熱さになったところ瑠衣は問いかけた。
「お盆はどこかにありませんか?」
「あー、すみません! これは気が利かなかったですねー」
 お盆お盆、と美桜が壁際の棚へ近寄った隙を見計らって、瑠衣は袖から薬袋を取り出した。素早く薬袋を開けて、粉を徳利の中へ流し込む。空になった薬袋を袖に隠すのと、美桜がお盆を持ってきたのは同時だった。
「瑠衣様、これでどうですか? 肴も一緒に用意しておきましたよ!」
 漆塗りのお盆の上には、味噌と豆の乗った小皿が二つ乗せられている。瑠衣は礼を言ってから、お盆の上に徳利を置いた。そのままこぼさないように白銀の元へ戻る。途中で手が震えそうになるのを、瑠衣は必死に押しとどめた。
「お持ちしました」
 縁側で星の見え始めた空を眺めている白銀の横にお盆を置く。穏やかな表情で、白銀がこちらを向いた。
「見ろよ、素晴らしい星空だ。オレたちのことを祝ってくれてるとは思わねえか?」
「はい、それはもう」
 泣きそうになりながら、瑠衣はその星々を見上げた。
 これからの裏切り行為を、こんなにも多くの星が見ている。自分の守りたい者のため、愚かで卑劣な手段に手を染めようとしている。
「今日はわたしがお酌をいたします」
 いつもは手酌で勝手に飲む白銀へ、瑠衣はぐい呑みを差し出した。それを嬉しそうに受け取る姿を見て、さらに心が痛んだ。
「……では」
 気を抜くと手が震える。零してしまいそうだ。動揺を見せるわけにはいかない。毒の入った酒をなみなみと注いだ。その香りを嗅いでから、おっというように白銀が笑った。
「さては美桜のヤツ、今日はとっておきの酒を出したな」
 そういえば、奥のほうにしまわれていた瓶から徳利に注いでいた。
 ほくほく顔の白銀は、何の疑いも持たずぐい呑みを唇へと近づける。瞬きをすれば、次の瞬間には、ぐい呑みの中身は白銀の胃の中に収まっているだろう。
 ――やっぱり無理だ。
「だめです、白銀!」
 ぐい飲みが唇へ触れる寸前、瑠衣はその手を払っていた。ぐい呑みが宙を飛び、かしゃんと小さな音を立てて割れた。
「る、瑠衣……?」
 突然の出来事に対し、呆気にとられたようにポカンと白銀が口を開ける。
「申し訳ありません……! これで……これで、愚かなわたしをお許しください!」
 瑠衣は徳利を両手で持つと、一気に煽った。ごくりごくり、と毒入りの熱い酒が胃の腑へと落ちていく。
「一体何が……って、オイ!」
 白銀が我に戻った時には、すでに即効性の毒が瑠衣の全身を駆け巡っていた。すぐに呼吸が苦しくなり、喉を押さえながら瑠衣の身体が庭へと落ちそうになる。それを支えながら白銀は叫んだ。
「美桜! 毒消しだ! 何でもいいから持ってこい!」
 白銀の指が口に突っ込まれそうになるのを、渾身の力を持って拒否した。いまさらそんなもので助かるほど少ない量を飲んではいない。吐き出した毒が白銀の身体にかかるほうを恐れた。
「わたし……は、もう、無理です……」
「バカ、しっかりしろ!」
「妖狩りは……諦めてはいませんでした……気を付けて……」
 朦朧とする意識を必死に繋ぎ止めながら瑠衣は口を動かした。愚かな嫁の願いを叶えてくれるだろうか。
「わたしには、妹が……舞衣が……。助けて……」
「もういい! 喋るな!」
 急激に体温が下がり、全身の感覚が無くなってくる。もう呼吸がほとんどできない。
 そんな死の間際にありながら、これだけは伝えておこうと、最後の力で唇を開く。
「愛しています……しろがね……」
 白銀の腕の中で、がくり、と瑠衣の細い首がのけぞる。あまたの星々が見詰める空の下、瑠衣は二度目の死を迎えたのだった。