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「あの……白銀様?」
 その夜。寝所の布団の上で、瑠衣は困惑する羽目になっていた。
 予定では白銀が寝た後に、こっそり屋敷を抜け出すつもりだった。夢の中と同じように死んでしまうだろう。それでも白銀の潔白は証明したかったし、村が前の領主に虐げられていたという事実は、絶対に知らせるべきだと思ったからだ。
 だが、これはどういうことだろう。
 いつもは隣で寝ろと言うのに、今日は寝所へ入るなり瑠衣を押し倒すと、ぎゅぅぅっ、といきなり腕の中に抱きしめてきたのだ。
 お仕置きとはこのことだった――なんの心の準備もしておらず油断していた瑠衣は、慌てて暴れたのだが、白銀は頑として離してくれない。妖に力でこられると、さすがに抵抗しきれない。これが行動を変えた結果なのだろうか。
 ところが、目を閉じて身体を固くしているも、白銀は夜着の上から背中や髪を撫でてくるだけ。夜着を脱がされることもない。恐る恐る目を開けたというわけだった。
「何をしておられるのですか?」
「何をって、そりゃあ、お仕置きに決まってんだろ」
「は、はぁ……?」
 当然とばかりに言い返されて、瑠衣はさらに困惑した。仰向けになった白銀の上に乗せられ、腰に腕を回されている。身動きできない状態というのは間違いないが、これがお仕置きなのだろうか。
「へえ、もしかして瑠衣は、この先も考えていたのか?」
「わ、わ、わわわ、わたしは嫁としてここにいるのですから」
 思いっきりどもってしまった瑠衣を見て、白銀がくすくすと笑う。
「ばーか。震えてるヤツにオレがそんなことするわけねえだろ。ここで瑠衣に無理やりしちまったら、他の妖と同じ、酷い妖になっちまうと思わねえか?」
 瑠衣の精神状態を完全に見抜いている。とはいえ、この密着した状態は、何もされないとわかっていても恥ずかしすぎる。
「白銀様。そこまで考えておられるのなら、わたしを解放して欲しいのですが」
「そいつは駄目だなー。それじゃ、お仕置きじゃなくなっちまうじゃねえか」
 瑠衣のささやかな抵抗は、あっさりと拒否された。明日の朝までこの状態なのだろう。
(それは困るのだけど……)
 白銀が眠っている間に抜け出そうとした計画がご破算になってしまう。明日以降も同じ決意ができるか、いささか自信がない。どうやって白銀に諦めてもらうか。必死に思考を巡らせていると追撃があった。
「それとなあ、瑠衣。もう一つお仕置きがあるんだが」
「な、なんでしょう、白銀様」
 これ以上、何をしようというのか。びくつきながら続きを待った。
「その、白銀『さま』っていうのはやめてくれねえか」
「……は?」
 何を言っているのか理解できなかった。白銀の胸の上で顔を上げる。
「それは一体どういう?」
「『さま』付けはなーんか他人っぽくていけねえな。オレたち夫婦だろ? オレのことは白銀って呼んでくれ」
「そんな。恐れ多い……」
 さすがにそれはできない。生贄のように放り込まれた自分と対等な関係とかあり得ない。
「できません」
「えー、白銀って呼ぶだけだぞ? 簡単じゃないか」
「無理です。白銀様」
「し・ろ・が・ね。次に様を付けたら、瑠衣の心の臓を食べたくなっちゃうかもな」
(それは、いけない……!)
 白銀の言葉に瑠衣は大いに焦った。自分の心の臓を食べれば死んでしまう。せっかく白銀のことを理解したのに、殺してしまうではないか。
「白銀様、どうかそれだけは、おやめください! それ以外のことであれば、何でもいたします。ですから、どうか……どうかそれだけは!」
「へぇ? 何でも?」
 勝ち誇ったように白銀の唇が綻んだ。まるで悪童のように。
(え……これは、もしかして……)
 瞬時に、負けた、と思った。
 この狼狽ぶり。瑠衣の心の臓に仕掛けがあるという証拠を提示してしまった。
 白銀の狙いはこれだったのだ。瑠衣との信頼を築いていき、最後の最後、ここぞという場面で本性を現す。その罠に完全に嵌ってしまった。このまま殺されて、どこかに捨てられて自分は終わりだ。
 青褪めて、ガタガタと震える瑠衣の耳元へ、白銀の唇が近づいた。
「じゃ、これから、白銀って呼ぶんだな」
「……え?」
 このまま首でも刎ねられるかと思っていたのに、意外な展開。瞳を真ん丸に見開いた瑠衣を見ながら、白銀が真剣な表情で告げてくる。
「一回、それで呼んでくれ」
 何を考えているのだろう。完全なる失態を犯したのに、白銀はそれに気付いていないのだろうか。そんな馬鹿なことはないと思いながらも、混乱した瑠衣は、促されるままに口を開いた。
「し、し、し……しろがねさ――」
 いつもの癖で様を付けそうになる。しまったと思ったそのときには、瑠衣の唇は何か柔らかいもので塞がれていた。
「んっ……」
 白銀の顔が目の前にある。自分の唇を塞いだのが彼の唇であることに気付いたのは、白銀が唇を離してからだった。
「はい、もう一回。難しいならこうやって、オレが何回でも手伝ってやる」
 そんな無茶苦茶な。
 瑠衣の胸は早鐘のように激しく打ち続けている。頬が今までに感じたことがないくらいに熱い。こんなのを何度も続けられたら、冗談でなく死んでしまう。
「し、し、し……」
 どこかでプツン、と何かが切れた音がした。
 どうして自分だけこんな思いをしないといけないのだ。何も悪いことはしてない。村の少女を救ったのを褒めてくれたっていいくらいだ。それなのに、お仕置きと称して白銀に弄ばれている。そう考えるとだんだん腹が立ってきたのだ。
「――白銀」
「お、いいね、その怒ったような表情。まるでオレを殺してしまいそうな感じだ。今日は瑠衣の違った一面が見えて嬉しいよな」
「嫁を怒らせて楽しむとか趣味が悪いです。放してください、白銀。わたしは逃げたりはしませんから」
 離れようと腕に力を入れるも、それは許されなかったらしい。骨が軋むくらいに強く強く抱きしめられてしまった。
「悪い悪い。お詫びに、今夜はずっとこうしてやる」
(そんなこと、頼んだ覚えはないのだけど)
 白銀の胸の上で頬を膨らましていると、それを人差し指でつつかれた。
「初めての喧嘩って感じで、オレは嬉しいんだぜ。今までの瑠衣って、あんまり感情を見せてくれなかったから寂しかったんだ」
「……すみません」
 たしかにそうかもしれない。
 白銀を騙して殺すために嫁となったのだ。それなのに、こうして白銀に惹かれてしまっている。そんな自分を押しとどめるために、どんどん不愛想になっていたのかもしれない。
「これから、たくさん喧嘩しようぜ」
「……はい」
 瑠衣は小さな声で呟いた。
 もう、この腕からは逃れられない。そんな気がした。