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「本当に一人で大丈夫か? 駕籠も使えるんだぞ?」
 屋敷の前まで見送りに来た白銀が心配そうに訊ねてくる。
「白銀様は、わたしを過保護にしすぎですよ」
 夢の中でも繰り返したやり取り。瑠衣は紅葉色の小袖の裾をつまんでくるりと回る。首には白銀からもらった首飾りをかけていた。
「お忙しい白銀様に迷惑をかけるわけにはいきませんから。このように動きやすい小袖も頂きましたことですし。こう見えてもわたし、健脚なのですよ?」
 今日は白銀の不正を暴こうと村へ下りた日。夢の中の場面とは異なり、瑠衣は一人で村へ行こうと決めていた。果たして政重の言葉は正しいのか。それを見極める。
「だからって一人はなあ」
 なおも渋面を作る白銀へ、瑠衣は敢えて挑発するように腰に両手を当てた。
「あら、白銀様。自信がないのですか? 約束は覚えておられますよね。何かおかしなことがあれば、わたしが生贄としての役目を果たし、村を人の手に戻すと。もしや、わたしに見られて困るようなことでも隠しているのでしょうか?」
「そんなものはねえけどな……しょうがねえなあ」
 本当に渋々といった様子で、白銀は手を振った。
「気を付けて行ってこいよー」
 ありがとうございます、と手を振り返してから、瑠衣は街道を盆地へ向けて下った。
 もう一度振り返ると、白銀の姿は屋敷の中へと消えていた。
(さて、どうなるのだろうか……)
 急に一人になった気がして、瑠衣は自分の身体を両手で抱いた。盆地から吹いてきた風が、後ろで一つにまとめた髪を撫でる。さわさわと街道沿いのススキが揺れた。
 今度こそ、村の人達が喋ってくれることは、真実として確信できる。白銀が悪い妖だという情報は得られるのだろうか。
 もしも――同じ情報しか得られなかったら、きっと自分は夢の中と同じ行動を取ってしまう気がする。政重をきちんと説得できなければ、この命は潰えてしまう。その未来は予感ではなく、確信めいたものとしてはっきりと瑠衣の目の前に見えていた。
 道の先から風が吹いてきて、藁の香りが鼻をくすぐる。そういえば、と瑠衣は自分の身体の匂いを嗅いだ。なんだか、夢の中の時よりも香が薄くなっている気がする。
(気のせい……かな?)
 考えているうちに、瑠衣の足は稲穂の広がる盆地へ到着していた。目に見える範囲内には、数人の村人が収穫を行っている。そのうちの一人へ瑠衣は声を掛けた。
「す、すみません。少しよろしいですか?」
「おや、見慣れない嬢ちゃんだの。このような村に珍しい」
 収穫をしていた手を止めて、初老の男が瑠衣の元へと移動してくる。
(たしか、この方は源九郎)
 村ではまとめ役をやっているような雰囲気を感じた男だ。話を聞くには最適だろう。
「この村での生活は楽ですか?」
「どうされましたかな。いきなりそのような」
 きょとん、と不審げな表情で見詰め返されてしまい、これは失敗だったと反省する。見ず知らずの娘から訊ねられるような質問ではない。とはいえ、瑠衣も口が達者なほうではない。このまま押し通してしまえと腹を括った。
「山の麓の村で噂を聞いたのです。この村は二年前から妖に支配されている、と。もしそれが本当なのであれば、妖狩りの方に伝えねばと、決死の思いで山を越えてきたのです」
「それはそれは、勇敢な娘さんですなあ」
 ははあ、と源九郎の目が感心したように変わった。
「たしかにこの村は、二年前から妖が領主様になっておりますな」
 白銀が妖であることを、この村の人達は知っているのだ。夢の中では出てこなかった情報に、瑠衣は固唾をのんで続きを待った。
「二年前までは人のお方が領主様だったのですが、それはそれは税が重く、妖が出ても見て見ぬふり。害獣が田畑を荒らしても、我々自身で追い払うしかなく、大変な生活をしておりましてのう。それを白銀様が変えてくれたのじゃ」
 うんしょ、と源九郎は腰を叩いて伸ばした。
「妖が前の領主を追い出したときには驚きましたの。じゃが、白銀様は我々の税を軽くし、妖除けの結界を張ってくださった。まるで人間を慈しむかのように。我々にとっては、とてもとてもよい領主様ですじゃ」
「……妖に支配されていたとしても、ですか?」
 信じられないといった感情が声音に出たのだろう。源九郎は大きな声で笑った。
「その通りですのう。外の者には信じられないでしょう。ですが、我々は長年虐げられ過ぎたのじゃ。たとえ妖の支配でも、それが楽なものであれば、諸手を挙げて受け入れようと思っておりますぞ」
「そうですか……。お話、ありがとうございました」
 村人達が白銀を慕っていた理由が判明した。それと同時に、妖狩りに伝えられた情報は、やはり間違っていたのだと確信する。
(許せない)
 嘘の情報を妖狩りに教え、自らの悪行を全て白銀のせいにしようとした。今度こそ確実な情報を得た。これなら、伝え方を工夫すれば、政重も納得してくれるだろうか。
 念のために源九郎へした質問を、他の者にも何人かしてみたが、みんな同じような答えが返ってきた。白銀に感謝している姿も変わらない。
(だけど……)
 どうして白銀は、人間の村を助けようなどと思ったのだろうか。妖は人間を襲う。その肉や心の臓を喰らい、そして魂をも喰らう。妖にとって人間とは食事でしかない。
 ところが、瑠衣の知る限り、白銀の妖屋敷では、普通の人間が食べるような食事を食べている。白銀はもちろんのこと、配下の妖も長年そうしてきたとしか思えないほど、その食事風景が馴染んでいる。
「わからない……」
 一つの謎は解けたが、別の謎が出てしまった。途方に暮れてあぜ道で空を見上げる。ふわふわと浮かぶわた雲は動かない。
「――きゃああああっ! だ、誰かたすけてえええっ!」
 突如、響いた悲鳴に、瑠衣はびくりと目を見開いた。もう一度聞こえ、その方角へ弾かれたように走り出す。まだ幼い子供の声だ。幸いにも今日は動きやすい小袖を着ている。瑠衣の動きに合わせて、しゃららん、と首飾りが音を奏でた。
(たしか、このあたり……)
 そう思っていると、森のほうから子供達が転がるようにして飛び出してきた。その背後からのっそりと現れた姿に、瑠衣も表情が青褪める。
「あ、妖!?」
 ぐるる、と猛獣のような唸り声を上げているのは、猪の妖だった。全身から溢れる妖力が突風を起こし、最も妖の近くにいた子供が転んだ。
「ひ、ひぃ……」
 腰を抜かしてしまった子供へ猪の妖が迫る。
(間に合わない!)
 咄嗟に瑠衣は足元の石を拾った。助走をつけて思いっきり投げる。その石は当たらなかったが、猪の妖と子供の間を勢いよく転がっていった。ゆっくりと猪の妖の視線が瑠衣へと向く。
「こっちに来なさい!」
 もう一つ石を投げると、瑠衣のことを明確に獲物と認識したようだ。地面を一度、二度と引っ掻いてから、猛烈な勢いで突進してくる。
(は、早い!)
 くるりと背中を向けて逃げ出すも、あっという間に追いつかれてしまう。ぎりぎりのところで右へ飛んで回避すると、猪の妖は勢い余って通り過ぎていった。
 受け身を取って素早く起き上がると、猪の妖が方向転換しているのが見えた。
(ど、どうすれば!)
 子供を助けたい一心で妖の注意を引いたが、瑠衣自身に呪力はないのだ。この身を喰らわせてやれば倒せるが、それでは白銀に毒のことが露見してしまう。猪の妖も、お肉をちょこっとだけ……なんて、小食ではないだろう。見るからに腹を空かせている。ばくばく喰らわれるだろう。
 再び猪の妖が突進してくる。また、ぎりぎりでやり過ごそうとすると、今度は猪の妖が妖力で突風を生み出した。
「しまっ……きゃあっ!」
 身体が突風にあおられ、軽々と宙を舞った。前後の感覚を失い、そのまま地面へと叩きつけられる。幸いにも藁が積まれた場所に突っ込んだおかげで怪我はなかったが、瑠衣が起き上がった時には、猪の妖が間近に迫っていた。
「くっ……!」
 避けるのが間に合わない。腕一本くらい噛みちぎられるかもしれない。それだけあればこの程度の妖は余裕で葬れる。食あたりと説明して白銀は納得してくれるだろうか。それでも、他に手段はなく覚悟を決める。口を開けた猪の鋭い歯が光った。
「え……?」
 激痛を予想して目を半ば閉じていると、石と石がぶつかったかのような衝撃音に、瑠衣は驚いて声を上げた。
 薄い膜のようなものが、瑠衣を円形に覆っていた。その力の出所を探ると、胸に下げている首飾りだ。そこから白銀の妖力を感じる。なんだか懐かしい。
 次の瞬間、薄い膜の外側で猛吹雪が起こり、あっという間に猪の妖は氷漬けにされた。
「まったくよう。もうちょっと上手く逃げるとかできねえのか?」
「白銀様……」
 声のした方に顔を向けると、そこには怒ったような表情の白銀が腕を組んで立っていた。視線がとてもとても怖い。一瞬、自分もあの猪の妖のように、氷漬けにされてしまうのだろうかと思った。
「ど、どうしてここに……」
 辛うじてそれだけを言うと、決まりが悪そうに白銀は鼻の横を掻いた。反対側の手で瑠衣を覆っている結界を触ると、あっさりと霧散する。
「何か起きたら、って思ってな。こっそり後をつけてたんだ。瑠衣は怒るだろうが、こうして正解だったな」
 たしかに、密かに尾行されているのを知れば、瑠衣は自分が信用されていないとばかりに激怒しただろう。結果を見れば、その行動が瑠衣を救った。
 けれど、白銀の手の平の上で転がされていたようで面白くない。複雑な気持ちになっていると、ぱたぱたと駆けてきた子供の一人が瑠衣へ声をかけてきた。
「お、お姉ちゃん……」
 猪の妖から助けた小さな女の子。怖かったのだろう。ぶるぶると震えている。瑠衣はしゃがみ込んで視線を合わせた。
「怪我はないかな? 怖かったねぇ」
 よしよしと頭を撫でてやると、瑠衣の胸元へ飛び込んできた。その時には、騒ぎを聞きつけた村の大人達が何人もやってきて、二人を囲んでいた。その中にいた源九郎が、代表するように一歩前に出る。
「これはこれは、白銀様。危ういところを助かりました。ありがとうございます」
「いいってことよ。オレも瑠衣を助けられたんだからな」
「おや、白銀様は、その娘さんとお知り合いですかの?」
 うむ、と白銀は頷いた。彼が右手を差し出してきたので、瑠衣はそれを掴んで立ち上がった。すると、腰に手を回されて引き寄せられる。
「もう少ししたら知らせようと思ってたんだがな。この美人さんの娘は、瑠衣だ。オレの元に嫁にきてくれたんだ」
 突然の紹介に、おおお、と大人達が騒めく。夢の中で予行演習をしていたからか、さすがに瑠衣はそこまで驚かずにすんだ。
「ねえねえ、お姉ちゃん。お兄ちゃんのお嫁さまなのー?」
 袖を引っ張ってきた女の子の声に、瑠衣は微笑んで頷いた。村人達を見回してから、ぺこりと頭を下げる。
「瑠衣です。さっきは変な質問ばかりしてごめんなさい」
「なるほど、そういう事情があったのですのう」
 得心がいったように源九郎が頷いた。
「妖の元に嫁いで不安だったのですな。ですが、白銀様はこの通り、この村の恩人ですじゃ。そのお人に嫁いだ瑠衣様となれば、我々一同、歓迎いたしますぞ」
 そこから先は、夢の中と同じように質問攻めになるも、適当なところで源九郎が切り上げて解散にしてくれた。
「――さぁて、妖が出ちまったからな。結界の修繕をしねえとなあ。その前に、瑠衣には屋敷に戻ってもらうか」
「いえ。邪魔にならないのであれば、ご一緒したいのですが」
「オレの仕事ぶりを見たいってか? まあ、いいぜ。オレの側にいりゃ、さっきみたいな危険な目には遭わせねえしな。少し歩くぞ」
 こっちだと妖が出た方角へ歩き出す。その後ろを歩こうとすると、隣を歩けとばかりに手を引かれた。
「白銀様。先ほどは本当にありがとうございました」
「オレのほうこそ、黙って尾行して悪かったよ」
「いえ、白銀様がいなければ、今ごろわたしは猪の妖に喰らわれていました」
「ほんっと、無茶なヤツだよなー。今の状態じゃ何もできねえだろうに、妖に喧嘩売ってんだからな。今日は帰ったら、たっぷりお仕置きをしてやる」
 瑠衣へ一瞬だけ意味ありげな視線を向ける。白銀の唇には、これぞ妖といったような極悪の笑みが浮かんでいた。
「お、お手柔らかにお願いします……」
 お仕置き……一体何をするつもりなのだろうか。
 少なくとも、この身を喰らうようなものではないのは確実。屋敷の掃除を全部一人でやるだとか、ご飯抜きだとかでもないだろう。瑠衣を苛めるような真似は絶対にしてこないはず。予想ができなくて逆に怖すぎる。
 ぶるぶる、と瑠衣は首を横に振って気を取り直す。白銀に質問があって残ったのだ。
「あの、白銀様。村の人にお話を聞きました」
「そうだろうな。それで、瑠衣は納得できたか?」
「はい。白銀様がこの村を救っていただいたことは」
 白銀は嫌な顔をするわけでもなく、当然だとばかりに頷いた。
「ですが、同時に疑問もわきました」
「なんだ?」
「白銀様は、どうして人間を助けるのですか? 妖にとって人間は餌のようなもの。だからこそ、妖には生贄として人間を供えるのです」
 妖を鎮めるための生贄はよくある話だった。生贄が美味であればあるほど、妖は満足をする。
 瑠衣が身体に毒を仕込まれたのは、瑠衣自身が特に美味であると、妖狩りに判定されたからだ。そうでなければ、十三の時に妖に魅入られたとして、始末されていてもおかしくはなかった。
(そう。十三からのわたしは、妖の餌として育てられた)
 生贄であり、妖を倒す毒。それを再認識して自然と顔が下を向く。
「まあ、そう思う人間が多いのは当然だよな」
 落ち込んだ瑠衣を意識したのか、手を握る白銀の手の力が強くなる。
「妖ってどうやって生まれるか知ってるか?」
「長い年月を生きた獣が変わると聞いております。もしくは、その獣同士の子供」
 瑠衣の回答に、正解だと白銀が頷いた。
「だがな、もう一つあるんだよ。それは人間の願いや祈りだ」
「どういうことですか?」
「ほら、よくお稲荷さんとかお寺で祈りを捧げるだろう? それが力となって、祈った物に宿るんだよ。それが集まって妖に変化することがあるんだ」
 ほう、と瑠衣は感心して白銀を見上げた。呪力はないとはいえ、妖狩りとしての知識は持っている。その瑠衣が知らない情報だった。
「それで、白銀様は、何の妖なのですか?」
「まだ気が付かない鈍いヤツには教えてやんねえ」
「……はい?」
 まさかの鈍い発言。瑠衣の眉間に皺が刻まれる。
「ま、とにかくだ。人間がたくさん願いごとをして、それをオレが叶えていく過程で、この白銀って妖が生まれたんだ。人間によくしてやりてえって思うのはそれが理由だ」
「……なるほど。そうでしたか」
 実に納得できる理由だった。人間の願いから生まれてきた妖ならば、人間を助けたいと思うのも当然だろう。
(やっぱり、わたしには白銀を殺せないらしい)
 白銀の横顔を見詰めながら、瑠衣はそれだけは絶対だと思った。
「どうした? オレの顔になんかついてるか?」
 いえ、と瑠衣は首を横に振って、自分から身体を寄せた。
 明日はもう、自分はこの世にはいないかもしれない。今のうちに白銀の体温にたくさん触れておきたかった。