「――瑠衣や。珍しい物を持っているね」
「お、お母様!?」
不意に部屋の障子が開き、犬の牙が連なった首飾りを眺めていた瑠衣は、それを慌てて文机の下に隠した。
「ふふ。隠す必要はないよ。見せなさい」
声音こそ優しいながらも、有無を言わせぬ志乃の口調。これは抵抗しても無駄だ。いきなり捨てられることはないだろうと思い、渋々と瑠衣は大切な首飾りを手渡した。
十三歳になり、妖狩りとしての鍛錬も厳しさを増してきた瑠衣は、毎夜何もする気が起きないほど疲れ切っていた。鍛錬なんて投げ出したいと思う日々。それを支えてくれたのがこの首飾りだった。
荒行を初めて間もなかった時に出会った、美しい白い犬の妖。重傷を負っていた彼は、瑠衣が教えた秘密の場所で大人しくしてくれた。傷は見た目よりも深く、完治までは少し時間がかかったが、犬の妖は瑠衣の修行風景を見守ってくれていて、時々助言などをくれたりした。
そんな犬の妖の傷が完治して去る時、お礼にとくれたのが首飾りだった。なんでもお守りとして機能し、悪い妖から瑠衣を守ってくれるらしい。見たこともない装身具に、瑠衣の心はときめき、それからは鍛錬で辛いことがあるたびに眺めるようにしていた。
志乃はしばらく首飾りを調べてから、瑠衣へ問いかけてきた。
「ふうん。これはよい物だ。一体、どこで手に入れたのかね?」
「そ、それは……お小遣いを貯めて買いました」
どもりながら苦しい言い訳をする。まさか妖に貰ったとは言えない。
志乃に対して反抗をしたことはない。妖狩りの長である立派な母を目標としているのだ。所作も母を真似たし、剣術も真似た。瑠衣の横で薄く紫煙を上げている香もだ。そんな瑠衣が、秘密としている犬の妖の件。気まずくてまともに視線を合わせられない。
おやおや、といった風情で志乃が前に座った。
「お前が妖狩りとして鍛錬を始めたときから、わたしが常々教えてきたことを覚えているかい?」
「はい……。妖は全てが人間に害を成すわけではない。いい妖もいるのだと」
瑠衣は正座をした膝の上に拳を置いて俯いた。志乃はそんな神妙な様子の娘に対して、思い出させるように言う。
「私の呪力をお前は強く受け継いでいる。それは、妖に好まれる特殊な呪力だ。時には味方になり、時にはお前を滅ぼす原因ともなる。だから人一倍努力が必要だし、扱いには気を付ける必要がある」
責められているように聞こえて、瑠衣は俯いたまま顔を上げられない。
夢に出てくるほど教え込まれた志乃の言葉。自分の特殊な呪力は妖を呼び寄せる。ある意味、妖狩りから疎まれる呪力だ。志乃はそれを上手く活用することで、妖狩りの長の座にまで上り詰めた。
「お前が何かを見つけたのを私は知っていたのだよ」
「え……」
「あれは、美しい白い犬の妖でしたね」
さああっ、と瑠衣の表情が青褪める。隠しおおせていたと思っていたのに、全てを見られていたのだ。瑠衣は畳に額をこすり付けんばかりにして頭を下げた。
「も、申し訳ありません! お母様に隠し事をしておりました。そうです、あの妖は森へ迷い込んできたのです。わたしは、それを報告もせず……」
「それは謝る必要はないのだよ。私も若い頃は、お前のように秘密の一つや二つはあったのだから」
厳しく叱責されると思いきや、意外な志乃の言葉に瑠衣は驚いて目を見張った。
「私が見ていたのは、犬の妖が人間にとってどのような妖だということだ。それをお前は、幼いながらも正しく判断した。あの犬の妖は、お前の生涯の味方になってくれるかもしれないね。この首飾りが証拠だ」
志乃は頭を上げた瑠衣へ、自ら首飾りを下げる。小さな歯が触れあい、しゃららん、と小気味よい音を立てた。
「とはいえ、私に隠し事をしていたということで、一つ罰を与えないといけないね」
「……何なりと」
無事に戻ってきた首飾りに触れながら瑠衣は言った。この調子なら、屋敷の掃除か、追加の鍛錬くらいだろうか。秘密が露見すれば、もっと重い罰を賜ると覚悟していたので、いつもの数倍増しで頑張りたいと思う。
「今日はこれを毎日使いなさい」
志乃が懐から小さな包みを取り出す。
「これは……香でしょうか?」
「そうだよ。お前に合わせて調合した香だ。幼い頃はいつもこれを使っていたのだがね」
志乃は包みを開くと、瑠衣の横にあった香炉の蓋を取りそれを焚く。
(わたしに合わせて?)
瑠衣は手で扇いでその煙を吸い込んだ。甘やかながらも、どこか涼し気な香り。いつも母が使っている香と同じ匂い。それなのに、どこか違った気配を感じる。具体的に言葉では言い表せない。強いて言うならば、身体の中の何かが抑え込まれるような感覚。
「お前はもう十分に強い。だがね、その呪力を使うのはまだ早い」
志乃の香は、封じるというほど強いものではなかった。呪力は自在に操れるし、出力もこれなら変わらないだろう。一体何のためのものなのかわからない。
「本当に必要だと思ったとき、自分の力でそれを解きなさい。なあに、簡単な封印だ。お前が真に願えばすぐに解除できる」
「わたしの何かを封じたのですか?」
瑠衣の質問を、志乃ははぐらかすように笑った。
「それが理解できれば、お前はわたしを超えるだろうよ」
まるで謎かけだ。眉根を寄せて思案する瑠衣の肩を一つ叩いてから、志乃は立ち上がった。
「これから数日。仕事で屋敷を空けます。その間に、じっくりと意味を考えてみるとよい。舞衣のことも頼みますよ」
「はい。お任せください」
志乃が部屋を出て、廊下を去っていく足音が聞こえる。瑠衣の部屋には相変わらず、志乃の香の香りが漂っていた。まだたっぷりと残っていて火は消えないだろう。
(この意味……か)
謎を解こうと目を閉じて瞑想する。自分の奥深くへ染み込むような香は、いつしか違和感すら覚えなくなっていった。
――志乃の死を知ったのは、それから数日後だった。
「お、お母様!?」
不意に部屋の障子が開き、犬の牙が連なった首飾りを眺めていた瑠衣は、それを慌てて文机の下に隠した。
「ふふ。隠す必要はないよ。見せなさい」
声音こそ優しいながらも、有無を言わせぬ志乃の口調。これは抵抗しても無駄だ。いきなり捨てられることはないだろうと思い、渋々と瑠衣は大切な首飾りを手渡した。
十三歳になり、妖狩りとしての鍛錬も厳しさを増してきた瑠衣は、毎夜何もする気が起きないほど疲れ切っていた。鍛錬なんて投げ出したいと思う日々。それを支えてくれたのがこの首飾りだった。
荒行を初めて間もなかった時に出会った、美しい白い犬の妖。重傷を負っていた彼は、瑠衣が教えた秘密の場所で大人しくしてくれた。傷は見た目よりも深く、完治までは少し時間がかかったが、犬の妖は瑠衣の修行風景を見守ってくれていて、時々助言などをくれたりした。
そんな犬の妖の傷が完治して去る時、お礼にとくれたのが首飾りだった。なんでもお守りとして機能し、悪い妖から瑠衣を守ってくれるらしい。見たこともない装身具に、瑠衣の心はときめき、それからは鍛錬で辛いことがあるたびに眺めるようにしていた。
志乃はしばらく首飾りを調べてから、瑠衣へ問いかけてきた。
「ふうん。これはよい物だ。一体、どこで手に入れたのかね?」
「そ、それは……お小遣いを貯めて買いました」
どもりながら苦しい言い訳をする。まさか妖に貰ったとは言えない。
志乃に対して反抗をしたことはない。妖狩りの長である立派な母を目標としているのだ。所作も母を真似たし、剣術も真似た。瑠衣の横で薄く紫煙を上げている香もだ。そんな瑠衣が、秘密としている犬の妖の件。気まずくてまともに視線を合わせられない。
おやおや、といった風情で志乃が前に座った。
「お前が妖狩りとして鍛錬を始めたときから、わたしが常々教えてきたことを覚えているかい?」
「はい……。妖は全てが人間に害を成すわけではない。いい妖もいるのだと」
瑠衣は正座をした膝の上に拳を置いて俯いた。志乃はそんな神妙な様子の娘に対して、思い出させるように言う。
「私の呪力をお前は強く受け継いでいる。それは、妖に好まれる特殊な呪力だ。時には味方になり、時にはお前を滅ぼす原因ともなる。だから人一倍努力が必要だし、扱いには気を付ける必要がある」
責められているように聞こえて、瑠衣は俯いたまま顔を上げられない。
夢に出てくるほど教え込まれた志乃の言葉。自分の特殊な呪力は妖を呼び寄せる。ある意味、妖狩りから疎まれる呪力だ。志乃はそれを上手く活用することで、妖狩りの長の座にまで上り詰めた。
「お前が何かを見つけたのを私は知っていたのだよ」
「え……」
「あれは、美しい白い犬の妖でしたね」
さああっ、と瑠衣の表情が青褪める。隠しおおせていたと思っていたのに、全てを見られていたのだ。瑠衣は畳に額をこすり付けんばかりにして頭を下げた。
「も、申し訳ありません! お母様に隠し事をしておりました。そうです、あの妖は森へ迷い込んできたのです。わたしは、それを報告もせず……」
「それは謝る必要はないのだよ。私も若い頃は、お前のように秘密の一つや二つはあったのだから」
厳しく叱責されると思いきや、意外な志乃の言葉に瑠衣は驚いて目を見張った。
「私が見ていたのは、犬の妖が人間にとってどのような妖だということだ。それをお前は、幼いながらも正しく判断した。あの犬の妖は、お前の生涯の味方になってくれるかもしれないね。この首飾りが証拠だ」
志乃は頭を上げた瑠衣へ、自ら首飾りを下げる。小さな歯が触れあい、しゃららん、と小気味よい音を立てた。
「とはいえ、私に隠し事をしていたということで、一つ罰を与えないといけないね」
「……何なりと」
無事に戻ってきた首飾りに触れながら瑠衣は言った。この調子なら、屋敷の掃除か、追加の鍛錬くらいだろうか。秘密が露見すれば、もっと重い罰を賜ると覚悟していたので、いつもの数倍増しで頑張りたいと思う。
「今日はこれを毎日使いなさい」
志乃が懐から小さな包みを取り出す。
「これは……香でしょうか?」
「そうだよ。お前に合わせて調合した香だ。幼い頃はいつもこれを使っていたのだがね」
志乃は包みを開くと、瑠衣の横にあった香炉の蓋を取りそれを焚く。
(わたしに合わせて?)
瑠衣は手で扇いでその煙を吸い込んだ。甘やかながらも、どこか涼し気な香り。いつも母が使っている香と同じ匂い。それなのに、どこか違った気配を感じる。具体的に言葉では言い表せない。強いて言うならば、身体の中の何かが抑え込まれるような感覚。
「お前はもう十分に強い。だがね、その呪力を使うのはまだ早い」
志乃の香は、封じるというほど強いものではなかった。呪力は自在に操れるし、出力もこれなら変わらないだろう。一体何のためのものなのかわからない。
「本当に必要だと思ったとき、自分の力でそれを解きなさい。なあに、簡単な封印だ。お前が真に願えばすぐに解除できる」
「わたしの何かを封じたのですか?」
瑠衣の質問を、志乃ははぐらかすように笑った。
「それが理解できれば、お前はわたしを超えるだろうよ」
まるで謎かけだ。眉根を寄せて思案する瑠衣の肩を一つ叩いてから、志乃は立ち上がった。
「これから数日。仕事で屋敷を空けます。その間に、じっくりと意味を考えてみるとよい。舞衣のことも頼みますよ」
「はい。お任せください」
志乃が部屋を出て、廊下を去っていく足音が聞こえる。瑠衣の部屋には相変わらず、志乃の香の香りが漂っていた。まだたっぷりと残っていて火は消えないだろう。
(この意味……か)
謎を解こうと目を閉じて瞑想する。自分の奥深くへ染み込むような香は、いつしか違和感すら覚えなくなっていった。
――志乃の死を知ったのは、それから数日後だった。