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(すみません、白銀様)
 その夜。白銀を起こさぬよう、最大限の注意を払って瑠衣は布団を出た。
 忍び足で歩いて縁側から庭へ。そのまま息をするのすら押し殺して、屋敷の門から外へ出たところで、ほっと安堵の息を吐いた。誰にも見咎められずに屋敷を脱出できた。
 夜の冷たい風が薄い夜着を通り抜けて、瑠衣はぶるりと身体を震わせた。一度だけ屋敷を振り返ってから、未練を断ち切るかのように足を早める。向かう先は盆地とは反対側の山の麓の村だ。
(きっと、これは何かの間違い)
 白銀の不正を暴こうと村の様子を探りに行ったはずだった。しかし、そこで見せられたのは、いかに白銀が慕われているかということだった。
 村の子供達の様子を見れば、白銀の人柄もわかろうというものだ。幼い子供は思考を挟まない分、直感的に妖を見破ることがある。七歳までは神の子とも呼ばれるように、存在そのものが妖に近いのかもしれない。少なくとも優秀な妖狩りは、子供の直感を馬鹿にしたりはしない。
 村の大人達だってそうだ。瑠衣を妖の生贄にされた哀れな少女ではなく、頼りになる主の元に嫁いできた娘として祝福してくれた。
 これで疑う方がどうかしている。
 瑠衣は足を早めて駆け足となった。彼女がいなくなったことを、白銀がいつ気が付くか分からない。その前になるべく距離を引き離す必要がある。妖除けの結界がある村まで下りれば、白銀も簡単には追って来られないだろう。
(お願いだから、妖には遭遇しませんように)
 ホーホー、という梟の声にびくつきながらも、瑠衣は息を切らして走り続けた。ここで妖に出くわしたら一巻の終わりだ。その願いが届いたのか、山際が白み始めた頃に、妖除けの結界に覆われた村にたどり着いた。
「はぁっ……はぁっ……」
 上がった息を整えながら、瑠衣は村を歩く。
「たしか、どこかに……あった」
 少し歩いて、何頭もの馬が繋がれている小屋を見つける。馬を驚かせないようにこっそりと近づくと、一頭の馬が瑠衣へ視線を向けてきた。穏やかそうな瞳をしていて、暴れる様子もない。これなら自分にも御せるかもしれない。
(後で返しにきます。今だけは勝手を許して)
 なるべく音を立てないように準備をしてから、瑠衣は馬に跨った。掛け声を一つすると、すぐに早足で走り出す。
 白銀の屋敷へ来る時は空からだったおかげで、どの道を通れば妖狩りの屋敷に戻れるか把握している。最短となる道を選びながら馬を急がせる。一度休憩を挟み、太陽が半分ほど姿を現したあたりで目的の町へと着いた。
 街へ入ると早起きの者が、外へ出て通りを箒で掃いていた。朝餉を準備する煙もある。
 その中を薄い夜着姿の娘が馬を走らせている。驚いたような目で見られたが、呼び止められるよりも早く、次の角、次の角へと人の間をすり抜けるようにして走った。
(あと少し……見えた!)
 やっと妖狩りの屋敷が見えて、最後は全速力のように駆け抜けて馬から飛び降りた。
「瑠衣です! 入れてください!」
 門番が呼び止めようとしたが、瑠衣の姿を認めて慌てて門を開く。転がるようにして瑠衣は久しぶりの屋敷へと入った。
「お、お姉ちゃん!?」
 中庭で朝の鍛錬をしていた舞衣が、疲労で倒れかけた瑠衣を慌てて支えてくれた。
「そんな格好でどうしたの? 妖を倒したの!?」
「政重様……政重様はどこに?」
 膝に手をついて息を整えながら、瑠衣はやっとのことでそれだけを言った。ただならぬ気配を感じたのだろう。舞衣は何も聞かずに急いで政重を呼びに走る。
「お姉ちゃん、連れて来たよ!」
 幾らも待たないうちに、舞衣が走って戻ってきた。その背後から、早足で政重が現れる。酷い瑠衣の状態を見て盛大に眉をひそめた。
「一体、何というはしたない姿で現れたのだ。そのような姿では、志乃も泣いてしまうぞ」
 そんなことは承知の上だ。土埃と汗にまみれて、あられのない姿になったとしても、伝えなければならないことがある。
「それで、何を慌てて、ここへ戻って来たのか」
「政重様にご報告があります」
 白銀の元に嫁いでからのことを、順序を追って瑠衣は報告した。
 相手の妖は、本当に人間を娶ろうとしていたこと。瑠衣がどんなに仕掛けても、決して喰らおうとしなかったこと。それだけではなく、虐げられていたと聞いていた村は、邪な気配もなくよく治められていたこと。村人達も白銀を受け入れ、心から信頼している様子だったこと……。
 それらを、瑠衣は一生懸命に説明した。
「村の一件はどこからの情報なのでしょうか。わたしが教えられた話とは全く違いました。この目で確認しましたが、重税に喘いでいる姿など、どこにもなく……」
「なるほど。それでお前は戻って来たというわけだ」
 すっ、と刃のように細められた瞳に、瑠衣は小さく喉を鳴らした。政重の背後に怒りのような呪力の塊が見えた気がしたからだ。
「妖からどのような話を聞いたのか」
「いえ、わたしはこの目でしっかりと……」
「妖に連れられて村に下りてか? お前も甘いな。村を支配している張本人が隣にいるのに、素直に苦しいですと告げる馬鹿がおると思うか」
 政重の指摘に、瑠衣はぐっと詰まった。
 その可能性くらい瑠衣だって考えた。しかし、あの子供達の表情は、明らかに演技ではない。無邪気な年相応の笑顔だった。
「大方、妖に大切にされるうちに、命が惜しくなって戻って来たのだろう。それが妖の手練手管とも知らずにのう」
「それは違います! 政重様、わたしは見事に役目を果たすつもりでした!」
 近づいてくる政重を前にして、瑠衣は一歩も引かずに声を大きくした。
 命を惜しんだつもりはない。白銀が村人達の上に君臨し、思うがままに蹂躙しているとなれば、喜んでこの身を喰らわせて倒していただろう。そのような妖ならば、瑠衣の仕掛けた罠にとっくの昔に掛かっていたはずなのだから。
 政重との距離は詰まり、もう手を伸ばせば届くほどだ。冷淡な視線が瑠衣を射抜いた。
「妖は人をたぶらかす。自らそう言っておきながら、見事にたぶらかされて帰ってきおって。この痴れ者が」
「あの妖は……白銀は違います! あくまでも人間の味方で、人間を大切に想っております。白銀を倒すのは――」
 政重の右腕が閃いた。
 そう思った次の瞬間、瑠衣は己の胸の真ん中を、深々と貫いた刃に目を見開いていた。
「これは……な、ぜ……」
 ぐらりと視界が傾ぐ。
 引き抜かれた刃の感触が、妙に冷たく身体の芯に残った。
 熱い塊が喉にせり上がってきて、ごぽりと吐き出したものは、真っ赤な鮮血。
「どう……して……」
 政重の向こう側で、口元に両手を当てて絶句している舞衣の姿が見えた。そこから視界に映る景色が屋敷の塀から空へと変わっていき――どう、と大きな音を立てて、瑠衣は背中から地面に倒れた。
 ――この傷は致命傷だ。
 漠然と考えるうちにも、どくどくと流れ出した血が、地面にどす黒い染みを作っていく。
 ぶん、と刀が振るわれ、飛んだ血が瑠衣の頬にかかる。僅かに頭を動かして瑠衣が認識できたのは、政重が抜き身の刀を握っていたことだった。
(わたしは……政重様に斬られたのか)
 近付いて来た政重はすぐ横で足を止めると、刀を瑠衣の心臓の位置に合わせた。
「やはり、お前は五年前に死んでおくべき娘だったな。妖討伐に赴き失敗し、そして妖に連れられて戻った。すでに人の世で生きられる者ではなかったのだ」
「それは……ちが……」
 ごぽりと、再び吐き出した血が、瑠衣の反論の声を奪う。
 まるで物でも見るような瞳で、政重が言い放った。
「これ以上、生き恥を晒すことがなくなったことを、むしろ喜んでほしいくらいだがな」
(違う。白銀様は本当に……)
 甘かった。
 説得できるなんて最初から無理だったのだ。
 妖は人間とわかり合うことはない。妖狩りは、それを何の疑問もなく信じている。瑠衣のように、妖と対話をしようなどという者は、例外なく妖に魅入られたと断じられてしまう。妖と同じ物になり果てたということだ。
(白銀様……すみません)
 この屋敷へ知らせに戻ったのは自分の失策だ。政重の考えを変えられるなど、どうして思ってしまったのだろう。その甘さがこの命を奪う。
 けれど、もうどうしようもない。身体がどんどん冷たくなっていくのを実感する。もう、指一本動かすこともできない。
 せめてもの救いは、自分が原因で彼を殺さなくてすんだことか。
 もはやこれまで。
 静かにその時を待っていると、突如として屋敷の門を破られたような轟音が響いた。
「――瑠衣ーっ!」
「なに、貴様はっ!」
 意識が途切れる直前、盛大な爆発音が響いた。戦いのような物音がしたかと思うと、何も感じなくなりつつある身体が乱暴に抱き起された。
「死ぬな! しっかりしろ!」
(……え?)
 そんな馬鹿なと思いながらも、瑠衣は重い瞼を開けた。
 そこにいたのは、白い髪の美しい青年の姿。自らが血に染まるのに構わず、瑠衣の身体を抱きかかえている。
(これは、夢?)
 追いかけて来るかもしれないとは思っていた。だからこそ、密かに白銀の屋敷を抜け出し、必死に走って妖狩りのいる人里まで下りたのだ。だが、こうして、妖狩りの屋敷に突撃するとまでは思っていなかった。
(白銀様……)
 馬鹿だな、と思った。
 自分一人のために、我が身の危険を顧みず飛び込んできてくれた。あの妖屋敷の長のはずなのに、万が一討たれてしまったらどうするつもりなのか。一緒に殺されてしまったら、せっかくの努力が無駄になってしまうではないか。自分のことなどには構わず、さっさと逃げてほしい。
 けれど、もっと馬鹿なのは自分だ。
 こうして最期を看取らせるようなことをしてしまう。
 白銀の顔が霞んできた。彼の必死の呼びかけも聞こえない。
(もしも、生まれ変わることがあるのなら)
 瑠衣は強く強く願った。生まれ変わったその世界に届けとばかりに。
 生贄でも何でもいい。
 己の全てを白銀へ捧げるのだ。
 もちろん、それは毒ではない。魂すら喰らえる極上の自分自身だ。
 白銀へわたしの全てを――
 そして、瑠衣の身体から最後の力が抜ける。
 泣き叫ぶ白銀の腕の中で、瑠衣はその短い生涯を閉じた。

 ――はずだった。