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「やぁ~っ!」
 森の中で響くのは、幼い少女の声。十歳になった瑠衣が、ちょこちょこと雪に可愛い足跡を付けながら走っていた。右手には木刀を持ち、小さな体で精一杯振り回している。
 まだ呪力があった頃は、こうして鍛錬の毎日だった。人並み外れた呪力……それも珍しい特殊な呪力を持つからこそ、それを操るために人一倍厳しい鍛錬を課されていた。娘には優しい母ではあったが、妖狩りとしての修行は妥協を許さなかった。それが娘を守る武器となると知っていたからだ。
「はぁっ……はぁっ……」
 息を整えてから、幼い瑠衣はまた木刀を振った。
 妖のいない安全な森とはいえ、一人で森の中で過ごす荒行は、幼い少女にはとんでもなく大変だった。木の枝に躓いて何度も転ぶ。その度に半べそになったが、健気にも立ち上がって、木刀を振りながら走り回る。
 一刻ほどもそうしていただろうか。さすがに幼い瑠衣も疲れ果ててしまい、肩で息をするようになっていた。
「休憩しようかな……あれ?」
 何気なく向けた視線の先に人ならぬ姿を見つけて、はっ、と息を呑んだ。
 雪化粧をした大木の根元に倒れていたのは白い犬だった。大人の人間を乗せて走れそうなほどに立派な体躯。そして、弱々しいながらも、おかしな気配を放っている。
「だ、大丈夫?」
 幼い瑠衣は大変とばかりに、パタパタと白い犬へと駆け寄った。
 これが初めて上級の妖を目にした時で、おかしい気配を危険とも思わなかった。何も知らないからこそ、恐れも知らずに白い犬へ近づくことができた。
「不思議な感じ……妖に似てるけど、どこか違う」
 首を捻りながら幼い瑠衣は、白い犬へと触れる。恐怖という感情はなく、好奇心で瞳がきらきらと輝いている。
「綺麗な犬さん……」
 雪の色よりも真っ白な毛皮に触れると、とても手触りがよくて暖かかった。それを何度も何度も繰り返していると、白い犬の瞳がゆっくりと開いた。
「うわぁ……真っ赤な瞳! 紅みたい!」
 幼い瑠衣の小さな手が、その瞳の近くに伸びた。
「……お前、オレが怖くねえのか?」
「うあぁっ! 喋った!?」
 さすがに幼い瑠衣も驚いてしまい、声を裏返してその場で尻もちをついてしまう。それでも、白い犬の美しさに魅了された瑠衣は、四つん這いのへっぴり腰で近づいた。
「どうして? 白い犬の……たぶん、妖さん? あなたから怖い気配は何もしない。それに……こんなに酷い怪我をしている」
 尻もちをついた拍子に、白い犬の妖の身体の影で隠れた雪が、赤く染まっていることに気が付いたのだ。反対側へ回ってみると、脇腹のあたりの白い毛皮には、べっとりと血が付着していた。血は止まっているが深い傷だ。これでは自由に動けないだろう。
「わたしが助けてあげる。隠れるいい場所を知っているの」
「おいおい、大人を呼んで来なくていいのかよ。オレを見逃したら酷い目に遭うぜ?」
 呆れたような白い犬の妖の声。ううん、と首を横に振って、幼い瑠衣はそのふかふかの首元に顔を埋めた。
「あなたから人間の血の匂いはしないもの。妖狩りに追われて、それでも傷つけずに逃げてきたのだとしたら、あなたはとっても優しい妖さん」
「ふん。買いかぶり過ぎじゃねえか?」
 皮肉気な白い犬の妖の声に、幼い瑠衣はがばっと顔を上げて主張する。
「あなたは絶対にいい妖なの! だって、わたしを嫌な目で見ていないし」
 無邪気な決めつけに、白い犬の妖はポカンと口を開けた。どこか珍獣でも見るかのような瞳に、幼い瑠衣は頬を膨らませた。
「とにかく! 頑張ってわたしについてきて。わたしは瑠衣。あなたのお名前は?」
「しょうがねえなあ。助けられてやるとするか」
 恩着せがませるようにして、のっそりと白い犬の妖が身体を起こした。
「オレの名前はだな――」
 白い犬の妖が名乗ろうとした瞬間、靄のようなものが幼い瑠衣を包み込み、全ての記憶を奪っていった。