二ヶ月。
あっという間だった。本当に。
引継ぎのために与えられた時間だったが、正直それだけでは足りなかった。残業を余儀なくされ、継ぐ方も継がせる方も半泣きで業務を教える羽目に。
それというのも、全て自分に原因があるのだけれど。
ミエはため息をついた。このため息をすることすらも、おこがましいのではないかと職場では憚られた。
あれこれと噂が流れていたらしい。結婚するからだとか、ほかの職場で正社員採用されたからだとか。
あまりにもミエが唐突に辞め、なおかつ次のことを誰にも漏らさないからだろう。告げるほど仲良くないというと聞こえが悪いが、職場の同僚はそれ以上でもそれ以下でもない。休日遊びに行くような仲ではなかったのだから、あえて辞める理由を告げる必要性も感じなかった。
とりあえず二年間お疲れ様、として花束とちょっとしたお菓子を貰った。それが昨日のこと。今日から自分はいないが、いないだけで職場は回る。そう思うと、ちょっとだけ寂しい。
―――でも。
気を取り直して、前を向く。
目の前には雑木林。都会の喧騒を少し外れた先にこんな緑があったのかと、向かうたびに驚いてそわそわしてしまう。明日にはなくなってしまうのではないか、夢だったのではないかと。
けれどそれはミエの向かう先に必ずある。
足場のコンクリートが継ぎ目を見せずに土と混じり合い、一歩踏み出せばそこはもうまるで異空間。
音が変わる。踏み込めばどこかで走る自動車のエンジン音が遠くへ消える。静謐。あるいは森閑とした空間を歩き続けると、それは姿を現した。
赤い屋根の小さなお店。ミエがこれから夢を営む、本屋と併設のカフェ。いわゆるブックカフェというもの。
玄関の扉の前で、ミエは一息ついた。大きく深呼吸する。それから、そっと扉を押し開いた。
「こ、こんにちはー……」
いや、お疲れ様かな。どっちだろう。わからない。
おずおずと中を覗くと、ぱっと黄昏さんと目が合った。うっかり顔が赤くなりかけ、慌てて打ち消す。
「ミエさん」
手を上げて黄昏さんは微笑む。そのまま、手招きをした。
ミエは促されるままに中に入り、あっと立ち止まる。
カウンターに知らない人がいた。人、というか子ども。二人いる。どっちも男の子だ。
どちらもミエが入ってきても気にしない様子で振り向きもせず、カウンターの椅子に腰かけて背中を丸めている。手元にはコップがあった。中にミルクが入っている。
たどたどしく黄昏さんの傍に向かい、ミエは改めて顔を上げてもくれない二人の子どもを見た。
「どちら様?」
なぜか小声で訊ねる。
「お得意さん」
「近所の子?」
「いーや、違うよ」
いまいち要領を得ない。ミエは首を傾げ、声をかけるべきか迷いつつ二人の丸い後頭部を見つめる。
―――双子かなあ。
赤いサロペットと青いサロペットを着ている。テーブルの脇には同じ色の帽子が置いてある。かばんもまた同じ色。目を引く箇所といえば、あとはサロペットの上から身に着けている麻っぽい素材のエプロンだろうか。
どうしてエプロンなんか着ているのか。ミルクを零した時、汚れないためだろうか。それにしてはエプロン自体が汚れているけれど。
ミエはそのエプロンの胸の中央に絵柄があるのに気づいた。じっと目を凝らすと、それはネズミのイラストだった。
―――ネズミ……。
「あっ、ネズミ配達便!」
ミエが口に出した途端、二人の子どもははっと顔を上げた。丸い瞳がミエを捉える。おんなじ顔。やはり双子のようだ。口元がミルクで丸く象られているのがかわいらしい。
ややあって、青い子が口元を拭った。
「先週はいなかった。誰?」
「あ、有堂ミエです」
「で、誰?」
赤い子が言った。誰、とはどういう意味だろう。なんて答えるべきか迷っていると、黄昏さんの手が伸びて二人の目の前にある空のカップを下げた。
「君たちの新しいお得意さんだよ」
すると、二人は顔を見合わせた。それから無表情のまま、同時にミエに向き合う。
「僕ら、配達屋さん。何でも運んであげるけど、頼まれないと持ってこない。何を持ってきてほしい?」
訊いたのは、青い子と赤い子、どっちだろう。見分けがつかないほどそっくりで、声も同じ。表情もないから余計にわからない。
ミエは困惑した。とりあえず、訊かれたことに答えないと。
「ええと……」
「卵?」
「小麦粉?」
「バター?」
「お砂糖?」
「それから牛乳も?」
全部お菓子の材料だ。持ってきてほしいかと問われれば、ほしい。
ミエは黄昏さんの顔を伺った。カウンターの縁に手をついて寄りかかった体勢で、ミエに一つ頷いてみせる。
「じゃあ、お願いします」
と頼む。双子は相変わらず無表情のまま同時に立ち上がると、「じゃ」と帽子をかぶって出て行ってしまった。ぱたぱたとすばしっこい動き。あっという間に店内は二人きりになる。
あっという間だった。本当に。
引継ぎのために与えられた時間だったが、正直それだけでは足りなかった。残業を余儀なくされ、継ぐ方も継がせる方も半泣きで業務を教える羽目に。
それというのも、全て自分に原因があるのだけれど。
ミエはため息をついた。このため息をすることすらも、おこがましいのではないかと職場では憚られた。
あれこれと噂が流れていたらしい。結婚するからだとか、ほかの職場で正社員採用されたからだとか。
あまりにもミエが唐突に辞め、なおかつ次のことを誰にも漏らさないからだろう。告げるほど仲良くないというと聞こえが悪いが、職場の同僚はそれ以上でもそれ以下でもない。休日遊びに行くような仲ではなかったのだから、あえて辞める理由を告げる必要性も感じなかった。
とりあえず二年間お疲れ様、として花束とちょっとしたお菓子を貰った。それが昨日のこと。今日から自分はいないが、いないだけで職場は回る。そう思うと、ちょっとだけ寂しい。
―――でも。
気を取り直して、前を向く。
目の前には雑木林。都会の喧騒を少し外れた先にこんな緑があったのかと、向かうたびに驚いてそわそわしてしまう。明日にはなくなってしまうのではないか、夢だったのではないかと。
けれどそれはミエの向かう先に必ずある。
足場のコンクリートが継ぎ目を見せずに土と混じり合い、一歩踏み出せばそこはもうまるで異空間。
音が変わる。踏み込めばどこかで走る自動車のエンジン音が遠くへ消える。静謐。あるいは森閑とした空間を歩き続けると、それは姿を現した。
赤い屋根の小さなお店。ミエがこれから夢を営む、本屋と併設のカフェ。いわゆるブックカフェというもの。
玄関の扉の前で、ミエは一息ついた。大きく深呼吸する。それから、そっと扉を押し開いた。
「こ、こんにちはー……」
いや、お疲れ様かな。どっちだろう。わからない。
おずおずと中を覗くと、ぱっと黄昏さんと目が合った。うっかり顔が赤くなりかけ、慌てて打ち消す。
「ミエさん」
手を上げて黄昏さんは微笑む。そのまま、手招きをした。
ミエは促されるままに中に入り、あっと立ち止まる。
カウンターに知らない人がいた。人、というか子ども。二人いる。どっちも男の子だ。
どちらもミエが入ってきても気にしない様子で振り向きもせず、カウンターの椅子に腰かけて背中を丸めている。手元にはコップがあった。中にミルクが入っている。
たどたどしく黄昏さんの傍に向かい、ミエは改めて顔を上げてもくれない二人の子どもを見た。
「どちら様?」
なぜか小声で訊ねる。
「お得意さん」
「近所の子?」
「いーや、違うよ」
いまいち要領を得ない。ミエは首を傾げ、声をかけるべきか迷いつつ二人の丸い後頭部を見つめる。
―――双子かなあ。
赤いサロペットと青いサロペットを着ている。テーブルの脇には同じ色の帽子が置いてある。かばんもまた同じ色。目を引く箇所といえば、あとはサロペットの上から身に着けている麻っぽい素材のエプロンだろうか。
どうしてエプロンなんか着ているのか。ミルクを零した時、汚れないためだろうか。それにしてはエプロン自体が汚れているけれど。
ミエはそのエプロンの胸の中央に絵柄があるのに気づいた。じっと目を凝らすと、それはネズミのイラストだった。
―――ネズミ……。
「あっ、ネズミ配達便!」
ミエが口に出した途端、二人の子どもははっと顔を上げた。丸い瞳がミエを捉える。おんなじ顔。やはり双子のようだ。口元がミルクで丸く象られているのがかわいらしい。
ややあって、青い子が口元を拭った。
「先週はいなかった。誰?」
「あ、有堂ミエです」
「で、誰?」
赤い子が言った。誰、とはどういう意味だろう。なんて答えるべきか迷っていると、黄昏さんの手が伸びて二人の目の前にある空のカップを下げた。
「君たちの新しいお得意さんだよ」
すると、二人は顔を見合わせた。それから無表情のまま、同時にミエに向き合う。
「僕ら、配達屋さん。何でも運んであげるけど、頼まれないと持ってこない。何を持ってきてほしい?」
訊いたのは、青い子と赤い子、どっちだろう。見分けがつかないほどそっくりで、声も同じ。表情もないから余計にわからない。
ミエは困惑した。とりあえず、訊かれたことに答えないと。
「ええと……」
「卵?」
「小麦粉?」
「バター?」
「お砂糖?」
「それから牛乳も?」
全部お菓子の材料だ。持ってきてほしいかと問われれば、ほしい。
ミエは黄昏さんの顔を伺った。カウンターの縁に手をついて寄りかかった体勢で、ミエに一つ頷いてみせる。
「じゃあ、お願いします」
と頼む。双子は相変わらず無表情のまま同時に立ち上がると、「じゃ」と帽子をかぶって出て行ってしまった。ぱたぱたとすばしっこい動き。あっという間に店内は二人きりになる。