強い太陽の光をまぶたの裏に感じる。

―――うち、遮光カーテンなのに。

ぼんやりと寝ぼけつつ寝返りをうち、ミエははっと目を覚ました。勢いよく飛び起き、窓の傍へ駆け寄る。まだ太陽も目を覚ましたばかりで、白んだ外の景色。

知らない場所。いや、昨日通ったばかりの森。
部屋を見渡す。昨日は暗くてよく見えなかった空間。ベッドのほかにはサイドテーブルがあるだけで、さっぱりと何もない。店内はあれだけ本でいっぱいだったのに。ここは客間らしい。

―――私、黄昏さんの家に泊まったんだった。

部屋を出て階段を降りる。まっすぐ前にある店につながる扉は、しまっていた。けれど人の気配がする。黄昏さんは向こうにいるのだろう。
そっと扉を開けた。同時に、店の玄関の扉が閉じかけるのが目に入った。
誰かが来ていたのかな。閉まる寸前、縞模様の長い尾のようなものが見えたけれど。

―――ネコ連れ?まさかね。

ミエは首を傾げかけた。が、その答えはすぐに理解した。

「……わ、すごい」

思わず感嘆の声を漏らす。その声に気づいた黄昏さんは、両手に腰を当ててにっこりと微笑んだ。

「すごいでしょ。一晩でここまできれいにしたんだよ」

あれだけ大量にあった本は、全て戸棚に整然と収まっている。無理だと思っていたのに、まるでそこが自分の居場所ですとでも言いたげな背表紙。埋もれて一切見えなかった足元は、埃を払われ水拭きまで完了していた。
ミエはカウンターキッチンを撫でた。裏側の水回りはかろうじて見えていたが、席の側もちゃんと現れている。木でできたスペースは、五人は座れそう。

「あとは二人掛けのテーブルを発注したから、届いたらそこの丸窓の傍に置こう」
「すごい……。本物のお店みたい」
「本物のお店なんだって」
「あ、ごめんなさい」

口元に手をやる。

「今までは本を売り歩くのが主だったから、あんなに汚かっただけ。こうしてみるとこの店も悪くないね」
「悪くないどころか、素敵です。本当に絵本に出てくるお店みたい」

そう言いつつ、ミエは何となく調理台に目をやった。皿が置かれている。そういえば昨日、ここにミエの焼き菓子を並べていた。けれどそこにはもう何も残っていない。

「とってもおいしかったです、だって」
「え?」

ひょいと横から顔を出して、黄昏さんは誰かの伝言を言った。

「全部食べちゃうつもりはなかったけど、あんまりお腹が空いていたからつい。今度はできたてのお茶を飲みに来ますって」
「誰の言葉?」
「さて、誰でしょう」

黄昏さんはにっこりと笑う。
掃除を手伝ってくれた人かな、とミエは首を傾げつつ皿を手に取った。焼き菓子のかけらとともに、はらりと一本の毛が落ちる。茶色く力強い。ミエはそれを摘まんで、頭上にかざす。

―――これは……。

「ネコのひげ?」

がっくりと黄昏さんが体を傾ける。苦笑の滲む表情を浮かべた。

「そんなわけあるか。話の流れをよく考えてよ。もっと心当たりがあるでしょうが」
「心当たりって……」

考え悩みながら、ミエは皿を洗おうと蛇口をひねる。が、水が出ない。

「あれ?」

何度試しても、左右にしても全く出ない。掃除で栓が壊れてしまったのかな、と黄昏さんの顔を窺った。

「水切れだよ」
「断水ってこと?」
「まあね。しばらくしたら戻ると思うけど」
「昨日あんなに雨が降ったのに」
「ねえ、本当に気づかないの?」

黄昏さんは訊ね、ミエの瞳をじっと見つめる。そうされてしまうと、考えられることもできなくなるというのに。向こうは気づかないらしい。ミエは首を振った。

「まあいいや。そのうち気づくっしょ」

何に、というのは教えてくれないらしい。

「それよりお腹空いたね。うち、もう何もないから喫茶店に行こう。向こうの洗面所は水が出るから、顔を洗って」

ミエと黄昏さんは、二人が昨日出会った喫茶店へ向かった。朝ご飯を食べるついでと、傘を返すついでと、ミエが仕事を辞めて黄昏さんのお店でご厄介になることを報告するついでに。
マスターは多すぎるついでに笑った。そしてミエの一歩を我がことのように喜んだ。

「よかったなあ。ミエちゃん、頑張れよ!」
「はい。ありがとうございます」

といっても、急に仕事は辞められない。二週間は今の会社で引継ぎをすることになるのだけれど。
それが終わったらいよいよ夢を叶えられる。一夜明けてみると、昨日まで悩んでいて自分の優柔不断さが嘘のよう。壁を越えた先はあまりにも広かった。
マスターは注文されたソーセージとフライドポテトを皿に盛りつけている。

「ブックカフェって言うんでしょ?いいねえ、そのうち俺も行ってみようかな」
「はい。ぜひ」
「お店の名前はどうするの?新しくするんだろ?」

そういえばこれまでの黄昏さんのお店の名前すら知らなかった。そのまま引き継いだ方がいいと思うけれど。とミエが口を開こうとする。

「そうだなあ。宵の明星のころに出会ったから、『ゆうづつ』ってのはどう?」
「ゆうづつ?」
「夕方の星、で夕星。堂もつけて夕星堂。キザすぎ?」
「いいと思います。素敵」

ミエは思わず息を吐いた。君の瞳に乾杯と詩的に表現すると、こうも美しいのか。いや、黄昏さんにその気概がないのは十分理解しているが。ストレートな物言いをする分、伝わり方もまっすぐ胸をつく。ミエは恥ずかしくなって顔を俯けた。
マスターの腕が二人の間に伸び、皿が置かれる。

「でも俺はちょっと心配だなあ」
「どうしてですか?」

見ると、確かに彼は眉を下げて案じるような顔つきを見せている。

「だって女の子二人で何かあったらどうするのさ」
「……えっ」
「近頃物騒だし、強盗とか押し入ってきたら倒せる?」
「ち、ちょっと待って」

ミエは目を丸くしてマスターを止めた。

「今なんて?」
「強盗倒せるかって?」
「その前」
「女の子二人で?」
「そう、それ。……え?」
「え?」

思わず固まったミエに、マスターはきょとんとする。次いで、俺何か悪いこと言ったか、と黄昏さんに目配せをした。ゆっくりと、ミエも黄昏さんを見る。まるで錆びた人形が無理やり首を回しているみたいに。
黄昏さんはアイスクリームを平らげ、肩をすくめた。

「だってミエさん、僕のこと男だと思ってたみたいだし」
「え、え、違うの?僕って」
「最初の印象に合わせたほうがいいかなって」
「……気づかなかった」
「俺は最初から女の子だって気づいてたけどなあ」

横からマスターが口を出した。黄昏さんはフライドポテトを摘まむ。

「それはマスターがそうだって思ったからだよ。合わせてるんだ」
「じゃあどっちなのさ」

にこっと黄昏さんは笑う。

「さて、どっちでしょう」

その言葉はミエに対しても向けられている。あんぐりと口を開けて、ミエは今一度黄昏さんを見た。

「……やっぱりオオカミなんだ」

思わずミエは呟く。
オオカミは自分と同じ仲間を探し続けた。『け』と言いながらブタやウサギの間を通って。けれど最後は自分自身を見つけたのだ。
自分は自分。自分以外は誰も自分にはなれず、自分もまた誰にもなれないように。自分はやっぱりオオカミなのだと気づいて。

マスターの耳には届いていなかったが、横にいる黄昏さんには聞こえていたらしい。返事のかわりにいたずらめいた微笑を手向けられた。

「ミエちゃん、黄昏さんこういう人だよ。大丈夫?」

からかわれたマスターは冗談の滲んだ声で心配する。

「大丈夫って、ねえ?」

黄昏さんは相変わらず微笑んだまま。頬杖をついてミエを見つめる瞳。いつでも傍にいる安心感と、幼いころの懐かしさを秘めている。不思議な感覚を抱かずにはいられないその瞳。

「はい。頑張ります!」

ミエは頷いた。これまで以上に、はっきりと。



*出てくる本
『おちゃのじかんにきたとら』作:ジュディス・カー 訳:晴海耕平 童話館出版 1994年9月発行
『やっぱりおおかみ』作・絵:ささきまき 福音館書店 1973年10月発行