本で埋もれて見えなかった裏側は、汚れのないきれいな洗い場だった。たぶん使っていないからきれいなのだろう。横は小さな調理台になっている。
ということは、ここはカウンターキッチンだ。向かい側が実はテーブルになっているのだろう。積まれた本に高さがあったのも、このせいか。
黄昏さんは屈んで下の棚を開くと、小鍋を取り出した。

「茶葉は?」

ミエが訊く。

「あるある。どっかに」
「どっかって」
「ちょっと待ってね」

奥にあるという台所に向かうため、扉の向こう側に姿を消した。覗いてみたい気もしたが、さすがにそこまでは気が憚られる。黙って待っていると、黄昏さんは紙製の未開封の袋と牛乳パックを手に戻って来た。

「じゃーん。これは使えるやつ」

使えないやつもあるのか、その奥に。ミエはうっかり身を引きそうになるのを耐え、二つを貰った。念のため期限を確認する。
期限は大丈夫だが、気になった箇所が。

「“ネズミ配達便”?」

製造元はたぶんどこかの専門店なのだろうが、パッケージの裏側にハンコでその社名が押されている。聞いたことはない。別の動物なら、あるんだけれど。
動きを止めたミエに、黄昏さんは横から手元を覗いた。

「かじってないから大丈夫だよ」
「そこは別に心配してな……。え、本当にネズミ?」
「お湯これくらいでいい?」
「あ、はい」

小鍋には少し多めに水が張ってある。返事をしたもののちょっと多いかな、と考え直す。使っているのかいないのかよくわからない茶葉をそのまま放置するよりかは、すぐに飲める状態のほうがいいのかもと思い直し、結局そのままにする。
話をはぐらかされたのでは、と気づいたのは湯が沸騰してからだった。
火を止めてからまた追及している暇はない。紅茶の封を切った。
袋を開くと、途端にバニラの甘い香りが。ただの茶葉じゃない。フレーバーティーだった。
これは、ミルクとよく合うぞ。

ミエは慣れた分量より多めを意識し、目測で量を図る。手際よくティースプーンで茶葉をすくい、火を止めた小鍋の中に入れた。乾燥した葉が柔らかく湯の中で踊り出すたびに、バニラのにおいが濃くなる。
四分待って、スプーンで中を時計回りに一度だけかき混ぜる。それから湯より若干少ない量を目分量で決め、ゆっくりと注いだ。淡いミルクティーになる。けれどこのままだとぬるいしミルクとかみ合わない。もう一度火をつける。沸騰寸前で火を止めた。
華やかな香りが広がる。ミエは心躍るその甘さに、自然と笑顔が零れた。

「ティーポットってある?」
「どっかに」
「茶こしは?」
「うーん。たぶんある」

カップと揃いの柄のポットが発掘された。それから銀の茶こしも。編み目に茶渋が一切ないから、一度も使っていなかったのだろう。
蛇口の栓をひねる。赤と青の識別があるから、ぬるくても湯も出るのだろう。しばらく待つと、微かに温水に変わっていった。
ミエは先に少しだけ中に湯を注いで、揺らした。

「何してるの?」
「中を温めているの。冷たいポットに紅茶を注ぐと、風味が落ちちゃうから」

外側に手を当て、だいぶ温まったことを確認する。中の湯を捨て、ミエは茶こしを使ってそっと中にミルクティーを注いだ。

「最後の一滴はゴールデンドロップって言って、一番おいしいの。紅茶が自然に流れ落ちるのを待たないと、その一滴は生まれない。だから茶こしをポットや小鍋の縁で叩いちゃだめ」
「へえ、よく知ってるねえ」

本心から、黄昏さんは感心している様子。ミエは思わずぽっと顔を赤くなった。
焦らず最後の一滴を待ち、やがてポトリと落ちる。ポットの中に波紋を浮かべ、溶けて消えた。

「……できました」
「いいにおいだね」

ミエは気恥ずかしげに肩をすくめた。
洗って冷えたカップをポットと同じ要領で温め、中にバニラミルクティーを注ぐ。

「フレーバーティーだから砂糖なしでも甘く感じると思う」

最近ではもともと甘く味つけがされているハニーティーなんてものもある。これもその類だと砂糖を加えれば余分に甘いかもしれないけれど。一口飲んで、杞憂だったと息をつく。

―――目分量ながら、うまくいったかも。

ミエはほっとした。セイロンティーのつもりだが思わず濃くてミルクを注いで調整した時と、もとからミルクティーを作るつもりで濃いめに紅茶を淹れた時では風味が全く違う。後者の方が難しい。配分を間違って茶葉が多くなると、手直しが利かないのだ。
ミエは黄昏さんを伺った。口に合うといいが。

「ああ、おいしい」

低い感嘆の息をついて、黄昏さんは微笑んだ。ミエも思わず笑みが零れる。

「上手じゃないか。お店開けるよ」
「別に、これくらい誰だって」
「僕はできないから。ティーバッグだって苦く淹れるような人だよ」

ミエは口をつぐんだ。それに関しては否定はできない。わかっていて言っているのだから、黄昏さんとしてもミエの反応を大して気に留めておらず。ふう、と冷まして、もう一口飲んだ。

「甘いのが欲しくなるねえ」
「あ、甘いのある。ちょっと待って」

かばんの中を探り、大きめの巾着を取り出す。お菓子はかばんの中に常に入れて持ち歩いている。
会社のデスクの引き出しの中にもストックが。OLの常というか、ミエ個人の嗜好かもしれないが、ないと落ち着かないのだ。飴でも何でもいい。今日持ち歩いていたのは先日の休日に手作りした焼き菓子だった。

「アイスボックスクッキーってやつだ」
「いっぱいあるよ」

誰にあげるでもないのにラッピングまでしていたクッキーを手渡す。黄昏さんは包みごと天にかざした。
そんなに嬉しそうにされると、ミエとしては残り全部上げてもいい気持ちになる。巾着の中のものを取り出し、並べた。

「随分あるねえ」

驚いたように黄昏さんは息を漏らす。

「あげます。絵本のお礼に」
「絵本?ああ」

『おちゃのじかんにきたとら』を貰った。
いつも心にあったけれど、こうして再会するまではすっかり忘れていた。思い出させてくれた。たとえ人をもてなすことが夢のままに終わるとしても、傍に置いて眺めている分にはいいじゃないか。
黄昏さんはお皿を取り出し、個包装のまま焼き菓子を並べた。

「こうしてみると売り物みたいだよ」
「それは、それっぽく並べれば見えますから」
「強情なオオカミだなあ」

うっと息を詰まらせる。
優柔不断なくせに、頑固に首を縦に触れない。思い切って飛び込めないまま、しり込みしている状態。背中を押してくれているのに、縁にしがみついてぐずぐずしている。
全部自覚している。
黄昏さんは包みの一つを開いて、クッキーをかじった。

「すごくおいしいよ」
「ありがとうございます」
「それだけじゃ不安?」
「色々と……。どこでやるかとか、何をコンセプトにしたらいいかとか。ターゲット層とか」
「現実的な悩みだねえ」
「派遣社員だから辞めるのは簡単だけれど、自分で新しいことをはじめるのは慣れてないから……。今までも紹介されてばかりだったから」
「うちでやったら?」
「そうオファーしてくれれば私としても頑張ろうって。……え?」