「びっくりしましたよね、ごめんなさい」

反射的にミエは首を横に振る。

「本、多いんですね」
「そりゃあ、世界中から集めてますし」
「世界中?旅してるんですか?」
「旅ってほどでもないけど、それなりに」
「へえ……」

だとしたらすごい労力と忍耐力だ。よほど好きでないとそこまでできない。
ただぼんやりと子ども時代の空想をいつまでも引きずっている自分とは、やはり違う。
比べるのもおこがましいのに、心に焦燥感が生まれる。かき消そうと、ミエはもらった紅茶を一口飲んだ。

―――に、にがっ。

かろうじて、吹き出すのを堪えた。
茶葉の分量を間違えたのかと思ったが、先ほど黄昏さんはティーバッグだと言っていたのを思い出す。どうしてこんなに濃くなるのか。時間通り待てばいいだけなのに。
うっかり表情に出てしまったので、おそるおそる黄昏さんを見る。ただ熱すぎると感じただけだと思ってくれればいいのだけれど。

「苦いね、これ」

自分で淹れたのに、黄昏さんはうえっと顔をしかめる。それきりもう口をつけなくなった。ミエもそれに倣って控えられる、と心の中でほっと息をついた。

「ミエさんは、お店を開きたいんですか?」

ミエはぎくりとする。直球で来られて、黙り込みたくなった。
けれどたぶん、この人はミエが答えるまで待つのだろう。ほとんど勘だけれど、なぜかそんな気がしたから。
茶色い紅茶に反射する自分の目を見つめた。持つ手に力がこもり、水面が揺れる。
ややあって、ミエは目線を落としたまま口を開いた。

「実は、迷ってて……」
「迷う?何と?」
「自分みたいな何の資格もない普通の派遣社員が独立したところで、どうせうまくいく気がしないっていうか。カフェをやりたいっていうのも、なんか、幼稚園児が将来の夢を聞かれた時に答える時のふんわりした感じのままっていうか。どうせすぐに赤字になってお店を畳む未来が見えてるっていうか。それなら、最初からやらないで今のままのほうがいい気がしてて」
「ふうん」

黄昏さんは紅茶を飲もうとして、やめる。

「ミエさんはその未来が見えてるの?というか、そうなるってもう知ってるの?」
「知らなくても察するの。他の経営者もそれなりに続けられる人もいるけど、そういう人ってほんの一部だし。私がその一部に入れるとは思えなくて」
「どうして?」
「人脈とか、お店の立地とかそういう条件があって。宣伝とかもしないといけないんだろうし。私にそういうの、できる気がしなくて……」
「難しいねえ」
「でしょ?だったら、普通の派遣社員としてこのまま続けた方がいい気がして。このままならそのうち無期雇用になれるし、慎ましく生きていく分には困らないし。実際、同じ会社の人もそうやって続けているから安心できるし」
「ミエさんは、道を踏み外したくないんだ?」

思いがけない言葉に、ミエはぎょっとした。
けれど、事実だった。

「……そう、そうかも。私、人と違う道を歩いて、間違うのが怖いんだと思う」

「確かに人と違う道を歩くのって、怖いよね。何があるかわからないし」

黄昏さんは膝を曲げて座った、その足の間にカップを置く。空いた腕を立てた膝の上に乗せて両手で頬杖をついた。

「でもミエさんはミエさんだし。無理に足並み揃えて歩いても、やっぱりどこかで違うって違和感を持つと思うよ」
「そう、かなあ」
「そうっしょ」

すくっと立ち上がり、黄昏さんは周囲を見回す。周囲と言っても、本しかない。
何かの本を探しているのだけれど、たとえタイトルを聞いたところでこの山の中からミエが見つけられるはずもない。四葉のクローバーを探すよりも難しい気がする。
所在なさげに待っていると、やがて黄昏さんが本の山から見つけ出したらしい。はい、と一冊手渡された。

「『やっぱりおおかみ』?」

真っ黒いシルエットのオオカミの表紙。あんぐりと開いた口が印象的だが、怖い絵本なのだろうか。

―――手渡されたってことは、読めってことだよね。

おずおずと開く。

オオカミは世界でたった一人のオオカミだった。
どこかに自分と似た人はいないか。同じ人はいないかと探すも、見つからない。そのたびにオオカミは「け」と独り言を呟く。そのうちオオカミは、もうどこにも自分と同じ人はいないのだと諦めてかけてしまうが……。

「別に、誰かと一緒じゃないと生きていけないわけじゃない。自分は自分だって認めて、夢を叶えるために違う道を歩いたっていいじゃないか。『け』って思いながら生きていくよりも」

黄昏さんは微笑を見せた。
本を踏まないように歩いて、一際高く本が積み上がって列を連ねているその裏側に持っていたカップを置いた。

「た、黄昏さん、はそうなの?」

思えばまだ一度も名前を呼んでいなかった。そう呼んでもいいのかわからず、たどたどしく口に出す。

「さあねえ。僕は気づいたらこうして本屋をしていたから、あんまり意識したことはなかったかも」
「そう、なんだ……」

期待する回答ではなかった。けれどそれ以外でずっと気にかかっていた謎が一つ解けた。

―――『僕』って、言った。ってことは……。

やはり黄昏さんは男性なのだ。確信が持てたことのほうに意識がそれそうになり、慌ててミエは首を振る。今そんなこと考えたって、何も得しないし。

自分は自分だ。自分のやりたいことをすればいい。
けれど、道を踏み外すのは、やはり怖い。前途が見えない霧の中、手探りで断崖を歩いているようなもの。落ちたら終わり。
だから、怖い。
せめて誰かと一緒ならと思うが、それもまた難しい。ミエの友人は結婚して家庭を持っていたり、今の仕事を嫌だと思っていたとしても、辞めて友人とカフェを営もうとは思わないだろうから。
はあ、とため息をつく。

―――言うのは簡単だよね。だってしょせん、自分のことじゃないんだもの。

顔を上げて黄昏さんに目をやる。本に埋もれてこちらからはよく見えない。特に手元は一切。
ジャー、と水の流れる音がした。蛇口があるのか、とミエは目を丸くする。

「そこ……」

思わず訊ねると、黄昏さんは顔を上げた。

「お茶、淹れ直そうと思って」
「そこ、水場なの?」
「一応ね。奥に台所があるから、こっちはあんまり使ってないけど」

なんでこんな設計にしたんだっけな、と低い声で呟く。腕を組んで天を見上げている。
あっと、黄昏さんが声を上げた。思い出したのだろうかと覗き込むと、満面の笑みでミエを見ていた。

「ミエさん、ちょっとお茶淹れてよ」
「えっ?」
「お腹を空かせたトラのために紅茶を淹れる練習してたんでしょ。僕のことはトラだと思って」
「ええ……でも」
「いいから、ね?」

意外と無茶苦茶言ってくる人だな、とミエは苦笑いを浮かべる。
全然引いてくれそうにないので、ミエは黄昏さんの歩いた道を慎重に辿りながら、彼の横に立った。