「ないねえ」
「ないんかい」
「そりゃ孤立無援の砂の城みたいなもんだし」
「つつけばあっさり崩れるってことかあ」
「固めればそれなりに強いけれどね」

あっさりと言った。
脱力すると同時に、安堵している自分がいることに気づき、ミエは心が重くなる。どうして安心しているのか、頭の隅ではもう知っていた。

―――やっぱり堅実な道のほうがいいに決まってる。

人から言われてようやく道を選べる自分。選べないから誰かに決めてもらいたかったのかもしれない。心が重くなったのは、後悔は必ず生まれると察しているから。どうせどちらを選んでも生まれるのだろうが。

―――優柔不断だなあ、私。

ミエは心の中でため息をついた。
椅子を引いて立ち上がる。このまま派遣会社に継続を希望すると返答して、明日を迎えよう。そのほうがきっと、将来の自分のためにいいのだから。

「私、そろそろ帰ろうかな」
「おやミエちゃん、帰るの?雨まだ降ってるよ」

言われてはっと思い出す。そういえば自分は雨宿りでもう一度店内に戻ったのだった。
振り向いて窓の外を見ると、反転した喫茶店名の奥でしとしとと雨が降り続いたまま。

「傘、借りてもいいでしょうか?」

訊ねると、マスターは入り口横に備えてある傘立てに目をやった。

「いいんだけど、一本しかないんだ。探せばどっかにあるだろうが、骨組みが折れてるかもしれないし当てにはできないしなあ」

つまりミエに貸し出してしまうと、黄昏さんの分がないということか。その逆もまた同じ。水が天敵である本を抱えた黄昏さんと自分を天秤にかけ、ミエは一も二もなく自分がずぶ濡れになることを選んだ。

「じゃあ私……」

とミエは言いかける。

「なら一緒に運んでほしいんですけど、いいかな」
「え?」

黄昏さんはちょっと眉を下げていた。本心から手助けしてほしいような。

「傘を差しながら一人で本を抱えるにはちょっと大変で。よければミエさんに手伝ってもらいたくて。だめでしょうか」

言われてみれば片手に傘を差して、これまで両手で抱えていた本を片手で持ち運び直すのは難しいかもしれない。風呂敷で包んでも雨に打たれ続ければそのうち濡れる。そもそも大きな絵本と単行本サイズを雑多に積み上げて運ぶこと自体危険が伴う。いつ崩れるともしれないではないか。

「うちの店、ちょっと離れたところにあるんですけど。手伝ってくれれば駅までお送りしますから」
「いいえ、そんな。……私でよければ、ご一緒します」

ミエの返答に、黄昏さんは穏やかに笑みを浮かべて一つ、頭を下げた。
本を半分に分け、傘は少し背の高い黄昏さんが持つことに。心持ち軽い絵本の束をミエに渡してくれたらしく、そのささやかさにはうっすらと恥じ入らざるを得ない。

一本の傘の中に並んで歩くので、当然至近距離になる。ミエは改めてその横顔を覗いて、久しぶりに緊張した。思えば相合傘なんて、自分史上初めてかもしれない。しかも夜だから余計に。
何か話をと、思いつく限りの話題を探るが何も出てこない。天気も悪いし、お互いに初対面だし、何より雨の音が喧しい。沈黙を意識するには雨足は強くなりすぎていた。

―――これは予想外の嵐になりそう。

マンションのベランダに万年吊るしたままの雑巾がある。その辺の水滴やほこりを拭きとる用途として使っている灰色の。風にはためいて雨にやられて、惨めに小汚くみすぼらしい状態になってミエの救出を待っているのだろう。

―――いや、雑巾にしか待たれていない私が惨めなのか。

ミエは自分一人で自虐的になった。
優柔不断でちっぽけな自分が、独立してカフェを営みたいなんて大それた夢。人をもてなしたいという切ない願いは、社会の一つの歯車としてしか還元する方法がないのかもしれない。

鬱々と考えながら傘の下を歩き続けるうちに、辺りがしんと静まっているのに気がついた。いや、雨は相変わらず降り続けている。静寂と感じたのは、人の気配というか喧騒から離れたためだった。気づけば電灯の灯りも背後に残してしばらく経っていたらしい。夜の雲に隠れた仄明るい月だけが足元を確かにさせていた。

はっとして顔を上げる。周囲は森、だった。

いつの間にかミエは新緑の溢れる森林の中に入り込んでいた。取り囲む背の高い木。ブナかイチイかわからないが、頭上に生い茂る葉が雨に打たれさわさわと鳴り続けている。
道を歩いていた。だがコンクリートで舗装されたものではなく、あくまで踏み慣らされた土の道というか。その道の続き先に、小さな家がぽつんと一軒建っている。蔦が漆喰壁に程よく絡んだ茶色い屋根の家。丸い窓は当たり前だが閉ざされている。原色を使われておらず、全体的に暖かい色を帯びた優しい小さな家。

言うまでもない。あれが黄昏さんのお店なのだと。

「かわいい……」

思わずうっとりと声を上げてしまう。事実、絵本に出てくるような外観だったのだ。
玄関は色合いの異なる煉瓦で段差を作られている。人の気配を探知したためか、淡い灯火が灯る。茶色い楕円の扉がミエを出迎えた。

「入ってください」

黄昏さんに促されるまま、ミエは家の中に足を踏み入れる。
中もさぞ夢のようなのだろう。本屋というほどなのだから、西洋家具で整えられた本棚いっぱいに本が並んでいる光景を思い浮かべる。あるいはあっさりとした室内が広がり、魔法のかかった奥の間に本が宙に浮いて眠っている光景を。
背後でゆっくりと玄関扉の閉まる音が。次いで店の灯りが灯った。
全貌が明らかになり、ミエは瞠目した。それも、どちらかというと悪い意味で。

「……おお」

思わず低い唸り声をあげてしまう。
無理もない。というのも、想像を絶するほどの混沌だったから。
本棚は、ある。だがそれ以上に本が多すぎて入り切っていない。溢れた分は床なのか机なのか、もはや境界が判然としないほどに高く積まれ、正直足場がない。崩れていると感じなかったのは、雪崩ておらずどことなく列を感じさせたから。それにしても、ではあるが。
足場がないせいで埃臭いのか、際限なく積み上げられた本のせいで窓が開けられないからなのか。外から見た丸い小窓の奥の闇は、室内に灯りがないせいではなく本のせいだった。

「ちょっと待ってください」

動けず立ち尽くすミエを通り過ぎ、黄昏さんは持っていた本をその辺の本の上に重ね、ひょいひょいと自分の歩き慣れた道順で中に進む。ミエも続こうとはするが、どこが通っていい道なのかわからず、結局言われた通り待つことに。
黄昏さんは木製の椅子を抱えて戻って来た。
とん、と床に置く。ちょうど四本の足は本と本の隙間にはまり込んだ。そういう場所を狙っておいたのか。まさか本が避けたわけではあるまい。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「今紅茶淹れてきます。ティーバッグですけれど」
「あ、お構いなく」

奥に扉があったらしく、黄昏さんは行ってしまった。
ミエはおずおずと座る。持て余したように視界をぐるりと店内に巡らせた。店内と言っていいのか、はなはだ疑問ではあるが。
床は本で埋まっているが、壁もまた同じ。
壁のほうがやや下地が見える。漆喰の淡いクリーム色が覗いている。立て掛けている時計はアンティークだろうか。十二時の真上に小窓があるから、タイミングによって何かが顔を出すのだろう。三時と九時の対角線上にも絵柄が刻まれてあり、どちらも魔女らしい女が描かれている。

ややあって黄昏さんは両手にカップを持って戻って来た。片方をミエに手渡す。
それから自分は本を持ち上げて発掘した床に胡坐をかいた。自然とミエが見下ろす形になる。
黄昏さんは自分の膝に頬杖をついて、その目を見上げた。上を向く時頬杖をつくのが癖なのかもしれない。