「すみません、降ってきちゃって」

そう言いながらマスターに苦笑を向けると、驚いた顔がすぐに破顔した。

「いや、いいよ。座りなよ」

一度奥に姿を消す。その間にミエはさっきまで自分が座っていた椅子に座り直し、かばんを置いていた反対側の椅子に彼が座った。
カウンターの机にどさっと重たい音を立てて本を置く。あまりにも重たい音に、一体どれほど積んでいたのだろうかとミエは好奇心に駆られた。
だが見つめすぎてしまうとまた目が合いそうなので、気にしないふり。
あの瞳は、どことなく不思議と引き寄せられる。何か懐かしいものを見たような、そんな気分にさせられる。
マスターはタオルを持って戻って来た。濡れていないミエにも渡してくれる。一番大きなものをミエの隣に。

「はい、黄昏さん」
「ありがとうございます」

―――た、黄昏さん?

およそ人の名前とは思えない名前に驚くミエ。目を合わせないように、と気をつけていた意気込みはどこ吹く風で、今度は凝視してしまう。
彼、黄昏さんは慣れた様子でマスターからタオルを受け取ると、真っ先にカウンターの上に置いた風呂敷を解いた。

「いやまずは自分の頭を拭きなさいよ」

マスターは呆れ半分で言った。どうやら初対面ではないらしい。すぐに新しく一枚持って来て、黄昏さんに手渡した。今度はちゃんと頭の上にかぶせた。と言っても、本当に乗せただけなのだが。
拭くところもないタオルを握りしめたまま、ミエはマスターと黄昏さんの間の虚無に目線を置く。なんとなく、どこに視点を合わせればよいか決めかねていたから。
するとマスターがようやく二人の測りにくい距離感に気がついた。

「あっ、ミエちゃんはこの時間までいないから知らないのか。この人ね、黄昏さん」

どうやらミエと入れ違いでたまに訪れる客らしい。
雨宿りにこの軒下を選んだのも、それが理由ということか。ミエは一人で納得した。

「で、こちらが有堂ミエちゃん」
「ウドウ、ミエ?」

さっと黄昏さんの目線が持ち上がり、ミエに向く。
改めて目を合わせた黄昏さんの瞳は、夜のように青黒さを秘めている。
月に照らされた雲のない夜の闇。虹彩はまるで星のよう。静謐な沈黙の中に佇む、一つの瞬き。あるいは薄暮の訪れを感じさせる凪いだ海。

「いい名前ですね」

あなたのほうが、と言いたい気持ちよりも、思いがけず褒められた気恥ずかしさに胸が詰まって結局何も言えなかった。ややあって控えめに「いいえ」となけなしの小さな声で言うが、ちょっと出遅れた。

黄昏さんは気にせずに積み上げた一冊一冊を点検しはじめている。
絵本だった。児童書も混じっている。
どれもミエが小さい頃に読んだり、図書館の棚で見かけたりした記憶がある本ばかり。
幼稚園か小学校の先生なのかな、と眺めつつ、ミエは視線を移しその本の束に目を留めた。

「あっ、『おちゃのじかんにきたとら』!」

思わずミエは嬉しい声を上げてしまい、慌てて口を閉じる。まるで偶然の再開に驚きと喜びの混じったような声。自分でも驚いたが、何より二人の顔がミエに向いたのが恥ずかしい。

「これだね」

低い穏やかな声で黄昏さんは数冊の中から一冊、絵本を抜き取る。ミエに差し出した。
白い背景に女の子と、大きなトラの絵。
覚えがある。というより、繰り返し何度も親に読んでもらっていた。これは自分がもてなすということに興味を覚えるきっかけとなった本なのだから。

「何?怖い本?そのトラが女の子を食べちゃうとか?」

カウンターを挟んで向かいに立つマスターが、身を乗り出して表紙を覗き込んで茶化す。

「違いますっ」
「違うよ」

ほとんど同時にミエと黄昏さんが否定した。はっと恥ずかしくなり、ミエは肩を丸く縮める。双方から否定されたマスターもひょっと肩をすくめた。
黄昏さんが淡く微笑みを浮かべた。視線をミエの手元の絵本に移す。

「お腹を空かせた行儀のいいトラが女の子の家のお茶の時間にやって来たんだ。ところがトラは家中のものを食べ尽くしてしまう。サンドイッチもケーキもビスケットも、水道の水まで。でもそんなトラにも、女の子の家族は優しくもてなしをしてあげるんだよ」
「そうなんです。私、小さいころ玄関のチャイムが鳴るたび、開けたらトラがいるかもって、いつもドキドキしてたんです。だからいつでもおもてなしができるように、紅茶を淹れる練習したり、焼き菓子をいっぱい作ってレパートリー増やしたりして……」

久しぶりに共通の話題を見つけたミエは、自分で喋りすぎたと気づいてすぐに口をつぐんだ。恥ずかしくて俯いてしまう。

―――いい大人が絵本で興奮するなんて。

「すみません、私ったら」
「ああ、だからミエちゃんはカフェを開きたいの?」
「え?」

マスターの言葉に私は目を丸くした。

「だってお茶を淹れたりお菓子を作ったりするの、好きなんだろ。理由もなく何となくっていう感じじゃなかったから、なんでだろうって思ってたんだ。これが理由だったんだなあ」

しみじみとマスターは腕を組んだ。
理由、と言われてようやくそれを意識した。
今まで薄靄の中にあったぼんやりとした夢。手を伸ばして掴もうとするとすかしを食らってしまうそれが、立体的に浮かび上がった気がする。なぜ、どうして、どうやって、という必要な輪郭の一つが埋まったのを感じた。

「ミエさん?」

優しげな低い声で名を呼ばれ、はっと黄昏さんに向く。

「よければそれ、差し上げます」

それ、と目でミエの手元を示す。ミエは慌てて首を振り、黄昏さんに返そうと腕を伸ばした。が、黄昏さんも首をゆっくりささやかに左右にさせた。

「いいんです。必要になればまた、手に入りますから」
「でも。なら、せめてお金を」
「こちらの好意なので」

穏やかだが頑として曲げない態度の黄昏さんに、ミエが折れざるを得なかった。遠慮がちに頷くと、黄昏さんは微笑がさらに濃くなる。そう微笑まれると、ミエとしては気が気ではないというのに。

「黄昏さん、この子カフェを開きたいんだって」

唐突にマスターが言った。

「本屋さんやってるよね。どうやって開業したかとか、ミエちゃんにアドバイスしてあげてよ。僕も自営業だけど、僕とは時代が違うでしょ」
「本屋さん?」

確かに言われてみれば。ではこの大量の絵本たちは仕入れたものなのか。通常の新刊書店ではなく、古書店なのだろう。手元の絵本の擦り切れ具合から察せられる。
黄昏さんは少し困ったように笑いカウンターに片肘を乗せて、頬杖をつく。

「自営なんてかっちりした言いかた。うちは雲の上で商売してるようなもんだからなあ。あんまりあてになんないよ」
「雲の上って、仙人相手に商売してるんじゃないんだし。いや、それも接客か。とにかくさ、これからはじめたいって人の背中押すようなコメントない?」
「コメントねえ」

頬杖をついたまま目を閉じ、考える素振りを見せる。踏ん切りのつかない自分のためにひねり出そうとしてくれている姿を見て、ミエは肩身の狭い思いがした。
ややあって、黄昏さんは閉じた目のまま口だけ開いた。