「何もないのね、ここ」
「何もないわけじゃ、ないんですけど……」
今目の前に本があるじゃないか。たった一秒前まで眺めていたくせに何もないなんて、大丈夫かこの子は。ミエは何となく不愉快な気持ちになりながらも、一応はお客様相手なので笑顔を作る。
「お茶を出します。何がいいですか?」
「何があるの?」
そう言いながら、少女はカウンターの席に着く。よかった。言うだけ言って帰る気ではないらしい。
「そうですね。アップルジンジャーティーとかいかがですか?今時期なら炭酸水と混ぜて、ティーソーダにできます」
「それ、カロリーあるの?」
「え?」
ミエは目を丸くした。カロリーって言ったのか、この子は?
「い、いえ。お茶は基本ありませんけど……」
「ならそれにする。あっ、でも砂糖とかはちみつとかは、絶対に入れないでちょうだい!ガムシロップも無理!」
「構いませんけど……。甘い方がおいしく感じられますよ」
「いいのよ!太りたくないの!」
ふん、と腕を組んでそっぽを向く。
嫌なら帰ればいいじゃん、と言いそうになるのを抑えてミエは冷蔵庫から作り置きのアップルジンジャーティーを出す。横で黄昏さんがそっと耳打ちをした。
「それ、昨日の夜にりんごと生姜を煮詰めたやつだよね?大丈夫?」
そういえば、そうだった。
皮をむいて切ったりんごと生姜をすりおろして作ったシロップに、セイロンティーを混ぜたもの。証拠に、ポットの底にはりんごが沈んでいる。
「確かに……。どうしよう、嘘つけないし」
助けを求めて黄昏さんを見ると、ちょっと肩をすくめて少女に訊ねた。
「どうして太りたくないの?」
直球の質問にミエだけでなく少女も目を丸くした。みるみる少女の肌が赤くなって震えだす。結んだ唇は、それでも色味の悪いままだ。
「関係ないじゃない。いいでしょ別に!」
「こちらも提供する身なんでねえ。後でクレームになっても嫌だし」
「ちゃんと言われた通りに出してくれれば、怒ったりしないわよっ」
そこでミエが気まずげにポットを持ち上げた。
「正しくはアップルジンジャーシロップと紅茶を混ぜたものを、炭酸水で割るんです。だからカロリーがないわけじゃなくて」
「はあ?じゃ、騙そうとしたの?最悪!何よこの店!」
激怒した少女が、帰ろうと勢いよく立ち上がる。が、途端にふらついた。
「あっ、危ない!」
思わずミエが叫ぶ。そのまま後ろに倒れそうになるところを、イダテンが支えた。といっても、背の低い彼に支えられる部分は足のみなのだが。
立ち眩みから回復できない少女は自分で立つことができないようで、イダテンの支えに身を任せている。半開きの目は、もう焦点があっていない。
「ちょちょちょ、重い重い!誰か手伝ってくれ!」
足元でイダテンの苦しそうな悲鳴。はっとしてミエがカウンターから出て少女の肩に触れる。そして、驚いた。あまりにも細く、骨ばかりだったから。
「こんなに痩せてるのに……」
―――まだ痩せたいの?
黄昏さんも傍に来て、少女の目を覗き込む。
「あー、マズいね」
「何がマズいんですか?」
横にさせようとしたが、少女の意識は曖昧だがあった。肩を抱いてもとに椅子に座らせる。無理に寝かせると、今度は起き上がる時同じ現象が起きるからだ。
「見える?イダテン」
黄昏さんはイダテンを呼んだ。横に並んで少女の目の中を伺った後、はあ、と重いため息をついた。
もしかして、重い病気なのだろうか。ミエは不安げに、少女の白い頬に手の甲を当てた。冷たい皮膚。透明感のある白さだと思っていたが、不健康に青白いだけだった。
「星の輝きがもう半分もない。これでは消えてしまう」
「星の輝き?」
ミエが訊き返した。
うつらうつらと意識がもうろうとしている少女をすり抜け、黄昏さんは本棚から一冊本を抜き出す。ミエに渡した。
「『ピーター・パンとウェンディ』?あれ、ちょっと待って。私の記憶とは違うけど」
子どものころ、飽きるほど映画で見ていたタイトルは『ピーター・パン』。ウェンディとはついていなかった。
同じ内容なのだろうか。絵本とは異なり児童文学なので、すぐには読み終わらないだろう。黄昏さんが概要を説明した。
「ウェンディとその二人の弟は、ある星のきれいな夜に家に忍び込んできたピーター・パンとティンカーベルに誘われて、永遠の子どもの国ネバーランドへと冒険に行く。子どもの心を持った人にしか行くことのできないネバーランドは、海賊や人魚が済む不思議な国。訪れた三人の子どもたちには、危険で愉快な冒険が待ち受けていた。って、話」
「なんだ。やっぱり映画と同じじゃない」
「ほとんどはね。物語は寓話的で僕はそんなに好きじゃないんだけど」
ミエはちらりと少女を見た。
「この子と何の関係が?」
「ほら、よく見て。この目の中」
悪びれもせず少女の下まぶたを眼医者のように下げて、ミエにも見えやすいようにさせる。
「し、失礼します」
ちょっと困惑しながらも、ミエは中を覗いた。
琥珀の瞳。焦点が定まっていないせいで目が合っているという印象がないが、それはまあ置いておくとして。何を見たらいいのだろう。けれど二人ともこの瞳に映る何かに気づいて、マズいと言ったのだ。なおもミエは目を凝らした。
すると、瞳の奥で何かが瞬いた。それはほんの一瞬で、あとはまた虚空を覗いているかのよう。ミエは顔を離した。
「何かが光りました。これが星の輝きってことですか?」
黄昏さんとイダテンは同時に頷く。
「ネバーランドに行くためには二番目の星を右に曲がる必要がある。でもどこから数えて二番目なんだかわからない。わからないから、瞳の中に星を宿す。その星を一番だと思えばいいんだから」
「ええと……。わからないです」
黄昏さんは苦笑した。
「だよね。僕もわからない」
そう言えばウェンディにネバーランドの住所を尋ねられて、ピーターが口から出まかせで言った件があったような気がする。
「え、じゃあこの子、ネバーランドの住人ってことですか?」
そんな馬鹿な。
いや、ものいう動物がいるのだ。ネバーランドという不思議な異世界があってもおかしくはない。ああ、もし自分が子どもだったら喜んでいただろうに。今は驚くばかりで、自分が大人になったことにがっかりしてしまう。
ミエの喜びと悲しみが同時に訪れた複雑な顔に、黄昏さんは声を立てて笑った。
「ネバーランドは架空の世界だよ。存在しない。いや、してるのかもしれないけれど僕は知らないなあ」
「じゃ、じゃあこの子はどこから?」
「もっとよく見て。考えてごらん」
そんなこと言われても。渋々ミエは少女の容貌を観察する。美しい金の髪。落ちた瞼に影を落とす睫毛。人間じゃないみたい。まるで、精霊か何かのよう。
「……あっ、妖精?」
黄昏さんは答える代わりに一度だけ頷いた。
フェアリーテイルなんて物語が編まれている。海外のほうでは宗教と歴史の狭間に妖精物語が眠っており、今でもまだ語り継がれている。かの有名なシャーロックホームズの作者、コナン・ドイルは妖精の存在肯定派だった。つまり、妖精という種族は諸説あるが基本的にいると考えてもいいのだ。
「何もないわけじゃ、ないんですけど……」
今目の前に本があるじゃないか。たった一秒前まで眺めていたくせに何もないなんて、大丈夫かこの子は。ミエは何となく不愉快な気持ちになりながらも、一応はお客様相手なので笑顔を作る。
「お茶を出します。何がいいですか?」
「何があるの?」
そう言いながら、少女はカウンターの席に着く。よかった。言うだけ言って帰る気ではないらしい。
「そうですね。アップルジンジャーティーとかいかがですか?今時期なら炭酸水と混ぜて、ティーソーダにできます」
「それ、カロリーあるの?」
「え?」
ミエは目を丸くした。カロリーって言ったのか、この子は?
「い、いえ。お茶は基本ありませんけど……」
「ならそれにする。あっ、でも砂糖とかはちみつとかは、絶対に入れないでちょうだい!ガムシロップも無理!」
「構いませんけど……。甘い方がおいしく感じられますよ」
「いいのよ!太りたくないの!」
ふん、と腕を組んでそっぽを向く。
嫌なら帰ればいいじゃん、と言いそうになるのを抑えてミエは冷蔵庫から作り置きのアップルジンジャーティーを出す。横で黄昏さんがそっと耳打ちをした。
「それ、昨日の夜にりんごと生姜を煮詰めたやつだよね?大丈夫?」
そういえば、そうだった。
皮をむいて切ったりんごと生姜をすりおろして作ったシロップに、セイロンティーを混ぜたもの。証拠に、ポットの底にはりんごが沈んでいる。
「確かに……。どうしよう、嘘つけないし」
助けを求めて黄昏さんを見ると、ちょっと肩をすくめて少女に訊ねた。
「どうして太りたくないの?」
直球の質問にミエだけでなく少女も目を丸くした。みるみる少女の肌が赤くなって震えだす。結んだ唇は、それでも色味の悪いままだ。
「関係ないじゃない。いいでしょ別に!」
「こちらも提供する身なんでねえ。後でクレームになっても嫌だし」
「ちゃんと言われた通りに出してくれれば、怒ったりしないわよっ」
そこでミエが気まずげにポットを持ち上げた。
「正しくはアップルジンジャーシロップと紅茶を混ぜたものを、炭酸水で割るんです。だからカロリーがないわけじゃなくて」
「はあ?じゃ、騙そうとしたの?最悪!何よこの店!」
激怒した少女が、帰ろうと勢いよく立ち上がる。が、途端にふらついた。
「あっ、危ない!」
思わずミエが叫ぶ。そのまま後ろに倒れそうになるところを、イダテンが支えた。といっても、背の低い彼に支えられる部分は足のみなのだが。
立ち眩みから回復できない少女は自分で立つことができないようで、イダテンの支えに身を任せている。半開きの目は、もう焦点があっていない。
「ちょちょちょ、重い重い!誰か手伝ってくれ!」
足元でイダテンの苦しそうな悲鳴。はっとしてミエがカウンターから出て少女の肩に触れる。そして、驚いた。あまりにも細く、骨ばかりだったから。
「こんなに痩せてるのに……」
―――まだ痩せたいの?
黄昏さんも傍に来て、少女の目を覗き込む。
「あー、マズいね」
「何がマズいんですか?」
横にさせようとしたが、少女の意識は曖昧だがあった。肩を抱いてもとに椅子に座らせる。無理に寝かせると、今度は起き上がる時同じ現象が起きるからだ。
「見える?イダテン」
黄昏さんはイダテンを呼んだ。横に並んで少女の目の中を伺った後、はあ、と重いため息をついた。
もしかして、重い病気なのだろうか。ミエは不安げに、少女の白い頬に手の甲を当てた。冷たい皮膚。透明感のある白さだと思っていたが、不健康に青白いだけだった。
「星の輝きがもう半分もない。これでは消えてしまう」
「星の輝き?」
ミエが訊き返した。
うつらうつらと意識がもうろうとしている少女をすり抜け、黄昏さんは本棚から一冊本を抜き出す。ミエに渡した。
「『ピーター・パンとウェンディ』?あれ、ちょっと待って。私の記憶とは違うけど」
子どものころ、飽きるほど映画で見ていたタイトルは『ピーター・パン』。ウェンディとはついていなかった。
同じ内容なのだろうか。絵本とは異なり児童文学なので、すぐには読み終わらないだろう。黄昏さんが概要を説明した。
「ウェンディとその二人の弟は、ある星のきれいな夜に家に忍び込んできたピーター・パンとティンカーベルに誘われて、永遠の子どもの国ネバーランドへと冒険に行く。子どもの心を持った人にしか行くことのできないネバーランドは、海賊や人魚が済む不思議な国。訪れた三人の子どもたちには、危険で愉快な冒険が待ち受けていた。って、話」
「なんだ。やっぱり映画と同じじゃない」
「ほとんどはね。物語は寓話的で僕はそんなに好きじゃないんだけど」
ミエはちらりと少女を見た。
「この子と何の関係が?」
「ほら、よく見て。この目の中」
悪びれもせず少女の下まぶたを眼医者のように下げて、ミエにも見えやすいようにさせる。
「し、失礼します」
ちょっと困惑しながらも、ミエは中を覗いた。
琥珀の瞳。焦点が定まっていないせいで目が合っているという印象がないが、それはまあ置いておくとして。何を見たらいいのだろう。けれど二人ともこの瞳に映る何かに気づいて、マズいと言ったのだ。なおもミエは目を凝らした。
すると、瞳の奥で何かが瞬いた。それはほんの一瞬で、あとはまた虚空を覗いているかのよう。ミエは顔を離した。
「何かが光りました。これが星の輝きってことですか?」
黄昏さんとイダテンは同時に頷く。
「ネバーランドに行くためには二番目の星を右に曲がる必要がある。でもどこから数えて二番目なんだかわからない。わからないから、瞳の中に星を宿す。その星を一番だと思えばいいんだから」
「ええと……。わからないです」
黄昏さんは苦笑した。
「だよね。僕もわからない」
そう言えばウェンディにネバーランドの住所を尋ねられて、ピーターが口から出まかせで言った件があったような気がする。
「え、じゃあこの子、ネバーランドの住人ってことですか?」
そんな馬鹿な。
いや、ものいう動物がいるのだ。ネバーランドという不思議な異世界があってもおかしくはない。ああ、もし自分が子どもだったら喜んでいただろうに。今は驚くばかりで、自分が大人になったことにがっかりしてしまう。
ミエの喜びと悲しみが同時に訪れた複雑な顔に、黄昏さんは声を立てて笑った。
「ネバーランドは架空の世界だよ。存在しない。いや、してるのかもしれないけれど僕は知らないなあ」
「じゃ、じゃあこの子はどこから?」
「もっとよく見て。考えてごらん」
そんなこと言われても。渋々ミエは少女の容貌を観察する。美しい金の髪。落ちた瞼に影を落とす睫毛。人間じゃないみたい。まるで、精霊か何かのよう。
「……あっ、妖精?」
黄昏さんは答える代わりに一度だけ頷いた。
フェアリーテイルなんて物語が編まれている。海外のほうでは宗教と歴史の狭間に妖精物語が眠っており、今でもまだ語り継がれている。かの有名なシャーロックホームズの作者、コナン・ドイルは妖精の存在肯定派だった。つまり、妖精という種族は諸説あるが基本的にいると考えてもいいのだ。