「我々は去ります。もはやかつての住まいは安住の地とは程遠い。他にもっと良いところがあるはずです。我々はそこを目指すことにしました」
「他って、どこだよ?」
「わかりません。もうないかもしれません。けれどないと決めつけて諦めるよりも、希望を抱いて旅を続けたほうが心地いいものですから」

つまり、もう戻るつもりはない。そういうことだ。
今まで過ごしてきた家を離れなくてはならない。人間の快適のために追われてしまった動物たち。本心を語れば、嫌だろう。できれば勝ち取って、もう一度みんなでかつての楽しさのまま暮らし続けたいはず。
けれど現実は、一時的な勝利だけ。もうじき工事が再開され、草と土は更地に変わり、更地の上にマンションが建つ。そうなれば動物たちの住処は影も形もなくなるだろう。
思わずしんみりしかけるミエに、ウサギさんが言った。

「勝手に同情されちゃあ困るぜ。俺たちもう次の目星はついてるんだ。こんなコンクリートばっかりの固ってえ道を歩かずに済むと思うと清々するぜ」
「夏は鉄板みたいに熱いし、冬のくせに雪が降らないんです。僕、雪が好きなのに」
「キツネの希望を取り入れて、北のほうへ行きます。土地が広ければ、キツネの好奇心だって人間にばれずに満たせることでしょうからな」

だから気にするな、と動物たちなりに慰めた。
タヌキさんの愉快な目元がくるりと双子に向く。

「一緒に行くかね?」
「行かない」
「絶対に」

にべもなく断られ、タヌキさんは驚いたように目を見開いた。

「君たちにとってもここは住みやすい場所ではないだろう?」

双子の目がミエに向いた。ほんの一瞬、だけだったが。

「ここにいたいから、いいの」
「そうかい」

これ以上食い下がることは礼儀作法にかなっていないと判断したのか、タヌキさんは豊かに微笑んで引き下がる。

「よい友だちを持ちましたなあ、黄昏さん」
「僕っていうよりミエさんでしょ」

黄昏さんは肩をすくめた。

「全くよい用心棒ですぞ、ミエさん」

愉快そうに笑うタヌキさんの表情の中には、微かな畏怖が見て取れた。なぜそんな感情を抱くのか、ミエには全く想像もつかない。けれどその畏れは、双子の泰然とした態度に対して表れているようだった。
その流れを察した時、ミエはようやくあの時の四つの光源を悟った。

―――やっぱりこの子たち、人間じゃないんだ。

改めてミエは双子の姿を眺めた。どこからどう見ても人間の子どもなのに。もし自分が想像する動物が化けているとして、何かの弾みで正体が現れるのだろうか。
いや、キツネさんがうっかり化けの皮を剥がしてしまったような失態を犯すはずがない。なんとなく、二人の表情の乏しい様子からそうだと感じただけだけれど。
そしてこの二人だけでなく、ものいう動物たちと古くからの知り合いである黄昏さんも、また。

ミエはそこまで考えて、やめた。
正体を知ったからといって今さら何になるというのか。とんでもない悪人や犯罪者でない限り、嫌いになんてならない。そしてとんでもない悪人なら、こうのんびりお店なんか構えているはずがない。
双子がすくっと席を立った。本棚へと足を向ける。背表紙を眺め、一冊抜き取ってミエに手渡す。ということは、読み聞かせではないということだ。ミエは絵本の表紙を見た途端、思わず「おっ」と声を上げてしまった。横から黄昏さんが表紙を覗き込み、それに倣ってタヌキさんも席を立ちつつ伺った。

「おお、『ぐりとぐら』ですか」
「おおそうじだね」

なんという……。なんという、らしさというか。いかにもというか。
なぜか身構えてしまいつつ、ミエはページをめくった。

「にんじんクッキーかあ」

カステラではないのか。ちょっとほっとした。あれを作るのは簡単そうに見えて意外とハードルが高い。膨らまない上にパサつきやすいから、修行が必要なのだ。何度か作ったことがあるが、そのたびに出来にばらつきがある。
にんじん、と耳にして目を輝かせたのは他でもない、ウサギさんだ。

「にんじんのクッキーとは洒落てるなあ!餞別に貰って行こうか」
「僕らがリクエストしたんだ。僕らがいっぱい食べるんだ」
「けち臭いこと言うなっ。分けろ!」
「嫌だもん」

大人げないおじさん(といっても顔は白ウサギだが)と、つんと澄ましたいけ好かない子ども、という構図。見ていて飽きないが、いつ止めようか機会をうかがっていると、とんとんと軽い調子で扉が叩かれた。

「イタチくんでしょう」

タヌキさんが立ち上がる。ゆっくりと開けてあげると、ちょこんと小さいイタチが……。ではなく、これまた人間サイズの体のイタチが立っていた。だがタヌキさんよりは小さい。言うなればウサギさんと双子の間くらいの大きさ。それでも、野生のイタチよりはずっと図体があるが。
襟付きのジャケットだけを羽織ったイタチは、両手を体の前で組んで優雅にお辞儀をした。

「このたびは私の不甲斐なさのせいで、誠にご迷惑をおかけしました」
「いやいや、イタチ。お前は悪くないぞ。悪いのはこのキツネなんだからな」

ウサギさんはふんと鼻を鳴らす。キツネさんはちょっと面目なさそうに肩をすくませたが、イタチが無事に戻ったとあってもうしょんぼりとはしていなかった。
タヌキさんがその背に手を回し、中に入れてあげる。

「こちらはイタチのイダテンくん」
「はじめまして」

名前があるのか。それはそうか。訊かなかっただけで、タヌキさんたちにもあるのだろう。ひとまずミエも挨拶を返す。顔を上げた拍子に、イダテンのきょとんとした目と合った。

「こちらはこのお店の店主の黄昏さんとミエさん。ミエさんは人間の女性だよ」
「有堂ミエです」
「ウドウ、ミエ?」

改めて名前を呼ばれると気恥ずかしい。そう言えば黄昏さんにも同じ訊き直し方をされたが、変な名前なのだろうか。首を傾げかけた瞬間、イダテンははっしとミエの手を取った。

「えっ」
「誠に良い名だ。夕星堂とは、彼女の名から取ったのだな?」

最後の問いは黄昏さんに対してだった。よくわからないままミエも黄昏さんを見ると、ちょっと微笑むだけで何も答えなかった。
けれどそれがもはや答えのようなもの。イダテンは目を輝かせて、ミエに向き直った。心なしかミエが身を引いていることも気づかずにじっと見つめる。ややあって、イダテンは口を開いた。

「タヌキよ、俺はここに残ろうと思う」
「えっ」

思いがけない言葉に、ミエだけでなく黄昏さんも声を上げた。

「こことは、この店のことかね?」
「そうだ」
「なぜ急に?」
「これが俺の運命だからさ」
「運命とは大げさな。まあ、我々は構わないが……」

タヌキの目が伺うように黄昏さんを捉える。黄昏さんはちょっと肩をすくめた。

「僕も別にいいけど。どうする?ミエさん」
「えーっと、どうするって……」

握られたままの手を見て、苦笑いしか浮かばない。
何が運命なのかさっぱりだが、どうやら自分はイタチに惚れられたようだ。一目ぼれなんて今までされたことがない。第一号がイタチだというのは、面白い気分にならざるを得ない。

「私も、黄昏さんがいいのなら」
「では決まりだ。俺は残るぞ、みんな達者でな」

―――いいのか、それで。

あれだけ救出に手を焼いたというのに、あっさりと別れてしまっても。けれど淡白なのが動物の性なのか、タヌキさんをはじめウサギさんやキツネさんまでも了承する始末。

「何で残るのさ」

双子が不満げに声を上げた。

「何でって、店の用心棒にでもしてくれたらいい」
「僕らいるのに」
「お前たち配達屋だろ。いつもはいないじゃないか」
「頼まれればいるもん」
「俺は頼まれなくてもいる」

おじさんと子どもの言い争い再び。しかも不毛な平行線を辿るだけの会話にしか発展しなさそう。
イタチとネズミが喧嘩をする物語があった気がする。何だったか覚えていないけれど、確かイタチがものすごく怖かった。このイダテンは声こそ低いが怖くはない。何より双子のほうが堂々としていて立場が逆に思われた。

「あの、にんじんクッキーいらないんですか?」

思い切って、ミエが声を上げる。瞬間言い争いは止み、双子は大人しく椅子に座り直した。クッキーの件を知らないイダテンも、その場にしゃんと居直る。
そわそわとウサギさんがミエの目を覗き込む。

「できれば旅の共にしたいんだが……」
「大丈夫です。いっぱい作るので」
「そうかっ。そいつはいい!」

ぱっと花が咲いたように喜ぶウサギさんは、ミエがいつもかわいいと写真で眺めている野ウサギそのものだった。悪人を成敗しすぎて自分が悪人面に変貌しているこのウサギさんも、素直にしていれば案外かわいい顔なのかも。

クッキーの生地に、茹でてから細かく刻んだにんじんを混ぜる。フードプロセッサーでもあればもっと粒感を消せるのだが、あいにくここには置いていない。スプーンとフォークを駆使してどうにかするしかない。ミエだけの力では時間がかかりすぎるので黄昏さんにも手伝ってもらう。普段重たい本を持ち運びしている甲斐もあってか、想定していたよりも早い時間でにんじんは滑らかな塊になった。
それを生地と混ぜて、少し冷蔵庫で寝かす。それから型抜きをしてオーブンに入れる。焼けたら、出来上がり。
旅の休憩にとラッピングをかけ、さらにお茶を用意することに。タヌキさんは目を覚ましていたいからと濃いめのストレート。反対にウサギさんは夜も飲みたいがしっかり眠りたいとのことだったので、カモミールティー。キツネさんははじめから砂糖を溶かしたミルクティーを。
出来立てのクッキーをかじっている双子にはガムシロップ入りのミルクを用意した。

「イダテンさんは?」
「俺は、ミエのおすすめで」
「ミエって」

黄昏さんがふっと笑う。聞こえるか聞こえないかの大きさだった。事実ミエには聞こえなかった。だがイダテンの耳にはしっかり聞こえていたらしい。目ざとく黄昏さんの前で仁王立ちをした。

「何か?」
「何でも」

じろじろと疑わしく睨む目。そらそうと思えばできるが、黄昏さんはあえてそれをしなかった。絶えず笑みを孕んだまま目を合わせ続けた。どちらかが先に折れる手前、紅茶を持つミエの手が間に入ったのでそれは終わった。

「マスカットのフレーバーティーです」
「これは爽やかないい香りだ。ありがたくいただこう」

イダテンはにこっと笑みを見せた。イタチの姿でなければもっとその意味がよくわかるのだが、あいにく獣のままではかわいらしいだけ。
がやがやと騒がしい店内。イダテンとタヌキさんたちは急ではあるが今日でお別れになってしまうので、思い出話に興じている。無言の双子は双子で、クッキーを掴む手が止まらない。

「人、増えちゃったなあ」

ぽつりと黄昏さんが呟く。

「ごめんなさい」

思わず謝ると、黄昏さんは首を振った。

「いいんだよ、人が多い方がにぎやかでいいしね」
「でも以前はずっと、一人でやられていたんでしょ?」
「売り歩くのは一人で十分だったし。店を構えてやるのも悪くないよ」

それより、と少し声を低める。

「訊かないんだね。僕が人間なのかそうではないのか」
「……訊いて教えてくれるのなら、訊きますけど」

教えてくれないでしょう、と目で訴える。黄昏さんはちょっと意外そうに目を開いてから、緩く微笑む。あの、物言わぬ微笑を。

「そのうち気づくので、いいです」

ミエは言った。
このお店に来るお客様も、そうやってミエが気づくまで言おうとはしないつもりだったのだ。無理に詰めて渋々言わせるくらいなら、ミエ自身がその心づもりでいたほうが楽。
その言葉に、黄昏さんは小さく声を立てて笑った。カウンターの縁に手をついて寄りかかり、いたずらっぽく微笑みを浮かべる。

「じゃあ、そのうち気づいてね」

ミエもまた、挑むように頷いた。
紅茶とお菓子の甘い香りが漂う店内で、ものいう動物たちのおしゃべりと双子のクッキーをかじるぽきんぽきんという音が響いている。



*出てくる本
『カスピアン王子のつのぶえ』作:C.S.ルイス 訳:瀬田貞二 岩波書店 1966年7月刊行
『ねむいねむいねずみ』作・絵:ささきまき PHP研究所 1979年6月発行
『ぐりとぐらのおおそうじ』作:なかがわりえこ 絵:やまわきゆりこ 福音館書店 2002年2月発行