家の灯りが遠くに消えたころ。
ミエは、あんなに豪語してしまった手前、もう引き下がれなくなっていた。
そう。正直に行ってしまえば、ちょっとどころではなく怖い。何が、というのはない。ただ夜の暗い森があらゆるものを想起させる。例えば沈黙の中に微かに感じる、聞こえるはずのない囁き声や誰かの足音。闇の合間に見え隠れする影、とか。

―――気のせい、でしょ。

自分に言い聞かせないと、一歩も歩けない気がした。本当なら今すぐ引き返して、いっそ今日も泊めてほしいと嘆願したい。黄昏さんは許してくれるに違いない。が、堪えた。なぜならミエは大人だったし、先んじた双子が楽々と森を超えてしまったところを見ているから。
さわさわ、と風に撫でられた草木が囁く。その声に混じって、明らかに何かが動いた気配がした、ような気がする。

―――いやいや、気のせいでしょ。気のせいに、決まってる。

とはいいつつも、一度それを感じ取ると否が応でも意識してしまう。あることないこと想像して、勝手に恐怖を作り上げて怖くなる。ただの風。ただの草のざわめき、ただの足音。

―――足音!

はっとミエは目を丸くした。気づくと、そこは明るいうちに歩いた道ではなかった。全くの見知らぬ場所に迷い込んでいた。
こういう時、さっさと駆け出せる反射神経の良さがあれば。けれどいざ自分の傍に恐怖が横たわっていると、体は硬く強張り金縛りにあったかのように息一つ自分の思いのままにいかなくなる。ただ目線だけは忙しなく動き回り、見たくもないその足音のした方へと向けようとする。
はじめ、それはさくさくと葉を踏む軽い足取りに思えた。言うなれば、人の足音。だが徐々にそれは重くなり、のしのしと大地を踏みしめる重たい音に。

―――人、じゃない?

人でも怖いが、それ以外ももちろん怖い。
それは今やどすんどすんと地鳴りのような足音に変わった。もうわかる、これは人ではないと。
逃げたい。けれど動けない。ただこちらへ向かってくる得体の知れない何かに対峙する自分の姿が、どこか遠くから見下している気分になる。あまりの恐怖に、動けない体を捨てて意識だけが逃げ出したかのように。

それは、来た。

森の影からミエの目の前に姿を現したそれは、巨体を持ち上げ二本の足で立っている。全身濃茶の毛並み。顔の一部が乳白色だが、何よりも凶暴な目つきがその不文律を不気味にさせる。大きな手と鋭い爪。

「……ひっ」

悲鳴にもならない声が喉の奥で響く。飲み込み、ひきつったような寂しい叫び声。

―――ああ、熊手って言い得て妙なんだな。

この期に及んでミエは、自分に向かってくるであろうその四肢を冷静に観察していることにおかしくなった。というか、なんでこんなところにクマなんかいるんだ。
であろう、と思ったのはほんの一瞬。次の瞬間には、もうそれは重たい足取りを速め向かってきた。

―――ああ、マズい。

危ないと思ったら逃げるんだよ、と言った黄昏さんの声が蘇る。いざとなったら無理だ。目の前に差し迫る恐怖から逃れられない。
ミエは叫んだ。ほとんど掠れた声だった。反射的に目を瞑る。これだけがせめてもの抵抗だった。
ミエの頬の横を、風が舞った。それから切り裂くような獣のぎゃっという叫び声。爪を振り下ろした時のものだと思った。けれど、痛みはやってこない。衝撃で痛みすら感じる暇がなく、あっさりと……と思ったが、どうやら体は身じろぎできる。まだ、生きていた。

おそるおそる目を開く。うっすらと開いてから、今度は見開いた。
目の前にはもう、何もいなかったのだ。襲い掛かろうとしていたクマの姿がどこにもいない。暗い森だけがひっそりと佇んでいるばかり。

ミエは突っ立ったままきょろきょろと辺りを見回す。すると、自分の来た道の向こうから、灯りが近づいてきた。黄昏さんだ。

「ミエさん!」

名前を呼ばれようやく金縛りが解けたかのように、ミエは脱力しその場にへたり込んだ。地面に完全に座り込んだタイミングで、黄昏さんも傍で片膝をつく。片手に灯りを持ち、空いている手でミエの背中に触れる。その体温に、思わずミエは涙ぐんだ。

「ミエさん、大丈夫……ではないよね」
「……怖かった、です」
「そうだよねえ」

切迫し慌てたような声ではないが、黄昏さんの手は絶えずミエの背をさする。

「ごめんね。やっぱり無理やりにでも僕もついて行けばよかった」
「いいえ……。私が軽く考えてたから……」

そう言って辺りを見やる。
先ほどまで見知らぬ地だった。が、今はもうその影は一切ない。最初に通った道の真ん中に、ミエはいた。

「ど、どういうこと?」

ああ、と黄昏さんは低い息を漏らす。

「化かされたね」
「化かされた?」

ミエは眉をひそめる。

「でも、あれはクマでした。クマも人を騙すんですか?」
「人間にとって怖い動物に化けておどかしたんだ。ただその辺の野生動物だと、怖くはないだろう」
「確かに……」

タヌキやキツネなら、往来のど真ん中に立たれても怖くはない。いや、タヌキおじさんくらいの等身ならそれなりの恐怖心は抱くが。けれど仁王立ちしたクマの比ではない。
ミエは渇いた喉を鳴らす。

「じゃあ、昼間の三人が襲ってきたってことですか……?」

恐る恐る問うと、黄昏さんは首を振った。ミエは心の奥で、ほっと息を吐く。もしそうなら、裏切られた気分だったから。
いつもの微笑を潜めた黄昏さんの表情。冷たく前方を睨みつけている。

「けれどあいつらもものいう動物だろうね。ミエさんを知っていたかはわからないけれど、人間だから襲おうとしたことだけは間違いない」
「人間だからってだけで……」

ミエは息をのんだ。

「あいつらは自分の住処が壊されないためにあなたを排除しようとしたんだろう。この森は基本、動物たちのものだから」
「そんなつもり、ないのに」
「あなたにその気がなくても、あなたはあいつらにとっては侵入者だから」

黄昏さんははっきりと言った。

「自分とは異なる存在がいたら退けようとするのは自然なことだろう。人間がそうするように、あいつもそうしただけだ」

体にできた異物を取り払うように、自分とは違う存在を排除する。それは人も動物も変わらない。それが何であるのか知る前に、不愉快に思って忌み嫌うのと同じこと。

「ミエさんが思う以上に理解し合うのは大変なことなんだよ。言葉が通じないのだからなおさら。いや、通じていてもわかり合えないことのほうが多いけど。見た目も異なる者同士、完全に歩み寄り合うのはとても難しい。難しいから、争いを避けるためにどちらかが折れるんだ」
「それが共生、ですか?」

ミエの問いに、黄昏さんが小さく頷いた。
奪い合うことを避ける代わりに理解することをやめた。共に歩んでいくために諦めた。

「それが共生だっていうのなら、悲しいです」

ミエは俯き、いまだに震える両手を自分で包む。

「わかり合えないから争うなんて。争いたくないから諦めるなんて。お互いのことを理解する方法はいくらでもあるのに」
「ものいう動物がいなくなったことは、一つの結果でもあるよ」

かつては対話を試みたのだろうか。けれど人間は、ものいう動物など恐ろしいと退けたのだろうか。自分の種族以外はみんな否定するテルマール人のように。
ミエだって、実際に会うまではいるはずがないと思っていた。おとぎ話の中の登場人物でしかないと。もし仮に道端で出くわしたら、きっと恐れて逃げるか誰かと一緒に退治したいと思ったかもしれない。
あるいは真逆に、歩み寄ろうとした人間をものいう動物が拒絶したのかも。
いずれにせよ結果として、奪われることになったのは動物たち。そして今も、住処を奪われてしまった。そして今度は立ち上がって人間たちに立ち向かおうとしている。

ミエはどちらかというと、動物たちがかわいそうに思っていた。無分別に奪われるだけの弱い生き物だと。弱い者いじめをする人間が、ちょっとくらい痛い目に合っても仕方ないと。けれど襲われかけた今とあっては、もうわからない。

―――共に生きるのは、難しい。

ミエは自分の震える両手を情けなく思った。口先ばかりでは何とでも言える。

「私なんかじゃ、何の力にもなれないなあ」

その手を黄昏さんが優しく触れる。はっとして目を上げると、黄昏さんは小さく微笑んだ。

「何にもできないわけじゃないよ」

目の前の暗闇を指さす。その指先を目で追うと、森の奥から四つの小さな輝きが。
それはあっと思う間に消えた。まるでまばたきするかのように。何だったのか、ミエにはわからないまま。
かさこそ、と草木をわける小さな足音が微かに聞こえた。