―――声が聞こえる。誰か話してる。
まぶたの裏に光を感じる。徐々に意識が体に戻りつつあるようだ。未だ暗い目の奥で、その声を頼りに自分のいる場所を思い浮かべた。
「あんなに驚いて。言ってなかったのかい」
「そのうち気づくかなって」
「だがこの娘もこの娘だ。こんなところにぽつんと家が建っていて、おかしいと思わなかったのか。ちょっと抜けてるんじゃないのか?」
「生きるのに精いっぱいだったんだよ。人間の普通って大変なんだよ」
「昔は騙されても驚きはするが気絶まではされなかったんだがね。時代は変わったということか」
「……ごめんよ。僕がうっかりしていたから……」
「うっかりで正体を知られたからこうなったんだぞ!毛皮を剥いで人間に売ってやろうか?」
「ああもう。うるさいなあ。起きるだろ」
うざったそうに遮る黄昏さんの声を頼りに、ミエはようやく目を開けた。
「もう、起きてます……」
そう言って、体を起こす。どうやら自分はカウンターの椅子を並べて、その上に寝かせられていたらしい。会話をしていた全員は立ったまま、ミエを見下ろした。最初に黄昏さんと目が合い、その心配そうな目に微笑みかける。
改めて、ミエは三人のおじさんを見た。というか、おじさんだと思っていた人を見た。
背広は、着ている。等身も変わらない。入店した時と唯一異なっているのは、そのスーツの上にくっついている顔が全員第一印象の動物に変わっていたことだった。
「もう具合はよろしいかね?」
「うわっ」
タヌキおじさんがぬっと顔を近づけるものだから、危うくのけぞりまた卒倒しそうに。今度は黄昏さんの手で視界を遮られたおかげで、ミエはぶっ倒れるのをなんとか堪えられた。その手がミエの額に触れる。それから背中に。鈍い痛みが残っている。倒れた時に痛めたのかも。
「大丈夫?頭は支えられたと思うんだけど」
「大丈夫、です」
「いっそ頭をぶつけて記憶をなくしてもらった方がありがたかったんだけどな」
ウサギさんはぺっと言い捨てた。
ミエは恐々とその相貌を見やる。
ウサギってかわいいものだと思っていたのに。今目の前にいる、自分とほとんど背丈の変わらない白い毛皮のこのウサギ。なんというか、目つきが悪い。今にも悪党を成敗しそうな顔つき。というか、すでに何人か八つ裂きにしている面構えだ。桃色の背広とちんまりした体だけはマスコットキャラクターみたいなのに。
「この人、こんな悪そうな顔してるけど根は悪い人じゃないから」
黄昏さんは庇っているようで全く庇っていない弁明をする。だからといって、無分別に恫喝してくるような人をどうして見直せるだろうか。
―――人。
人、ではないような気が。けれど言葉を話しているし、ひとなのかもしれない。いや、人の言葉を話すからって人というのは。
考えたところで何の意味のないことをぐるぐると巡らせる。そうでもしないと、ミエとしてはこの場でどう構えたらいいのかわからなかった。夢でも見ているのか。だとしたら、一体いつからが夢なのか……。
「夢ではありませんぞ」
まるで考えを読んできたかのように、タヌキさんが口を開く。穏やかな優しい声色。はっとしてミエは顔を上げ、その毛むくじゃらに再度驚き、黄昏さんの袖にすがってしまった。
タヌキさんは一瞬悲しそうな目を見せてから、すぐに打ち消して毛だらけの顔を毛だらけの手で撫でた。
「黄昏さん、このお嬢さんにちゃんとお話ししてください。これ以上人の子を困らせるようなことは、我々としてもしたくはないのです」
「それもそうだねえ」
この場に似合わないのんびりした声。黄昏さんはミエの真横に座り直した。微笑みは絶えず浮かべたまま。ミエはなんとかごくりと喉を鳴らして、待ち構えた。
「そのうち気づくだろうからいいかなって思ってんだけど。うちのお客さん、ほとんどが人ではないんだ」
「……ひと、ではない」
「人間ももちろん来る。必要であればね。けれど比率で言えば、こういう人たちがメインの客層になるね」
そう言って、黄昏さんは三人の動物を見た。
「こういう人たちを“ものいう動物”って呼ぶんだ」
本棚から一冊本を抜き取る。ミエに手渡した。表紙を撫で、タイトルの部分を指でなぞる。
「『カスピアン王子のつのぶえ』……」
背表紙のタイトルの下にライオンのマーク。知っている。「ナルニア国ものがたり」シリーズだ。ミエも子どものころに読んだ記憶があるし、映画も見た。確かこれは二作目にあたるはず。
一作目で大活躍した四人のきょうだいが治めたナルニア国から数百年後が舞台になっている。全盛期が過ぎ、もはや人の世になったナルニアにおいて、ものいう獣は姿を消した。それというのも、どこからかやってきたテルマール人という人間が彼らを追いやってしまったからだ。
テルマール人の王子カスピアンは、叔父に王位を奪われて殺されそうになり、命からがら逃げだすことに。よき人間としてナルニア国の王になるために、姿を消したと思っていたものいう獣と、現世から呼び戻した四人のきょうだいたちと協力して叔父と戦う。これが二作目のあらすじだった。
「ここは言うなればたんすの向こう側。森を境にしているけれど、誰でも来ることができる。求められればね」
たんす、とはナルニア国へとつながる魔法の道具のこと。
納得していいのだろうか。嘘だ、と笑い飛ばすような段階ではない。納得するしかない。
「先に言っておけばよかったかな。ごめんね」
咄嗟にミエは首を横に振った。
黄昏さんの声は、すとんと胸に落ちて溶けていく。自分の持つ常識の枠の中になんとか苦戦としてはめていくのではなく、バターのようにじんわりと馴染んでいくような。
ミエは先ほどから気になっていたことを尋ねた。
「でも、必要とか求められればとかって、どういう意味なんですか?」
「そのままの意味さ」
黄昏さんは肩をすくめた。
「ここは影の国ではない。たとえ森に迷い込んだとしても辿り着く。誰かの噂を耳にして捜したとしても見つかる。求めて知るか、知って求めるか。その違いだよ」
ミエはどちらだったのか。
おそらく求めて知ったのだ。将来という深く先の見えない森に迷い込み、辿り着いた居場所。
「ミエさんのような人間も訪れるのに、ものいう動物がそのままの姿でいたら驚くだろ。だから動物たちは人の姿に化けるんだ。獣が人を騙すのはミエさんだって昔話とかで知ってるよね」
思わずミエは頷いた。
そういえばこの三人は先からの会話で、お嫁さんに逃げられただの背中に火をつけるだの、婆汁だのと言っていた。確かに、ミエも祖父祖母からそんな昔話を聞いたことがある。紙芝居でも見たことがあるし、アニメでも知っている。
「でも、本当にいたなんて……」
「いた、というか、いるだね。驚いただろ」
「当たり前です。私これまで生きていて、一度も見たことないし」
「そりゃ今の時代にうろちょろしてたら大問題だもんね」
続きの話を、タヌキさんが引き取った。
「昔は人間も我々に敬意を払っていた。動物をいじめたりすると報復されると知っていたから。けれど今はどうだろう。人間は我々をないがしろにし、ちかちか光る四角いものを向けてくる。慎ましく生きていこうと思っても、次から次へと住まいを奪っていくのだ。ただそこにいるだけでも、まるで害を及ぼしたかのように追いやっていくのだ」
そう言って、ミエを見た。
「全ての人間がそうではないと知っている。だから共生していこうと、我々が土地から退くのだ」
歯向かったとしても、勝つことはできない。人間のほうが数も多く、強いから。抵抗すれば駆除され、滅ぼされてしまうのだ。
口に出しては言わなかったが、タヌキさんの瞳がありありと語っている。
なんと言えばいいのか、ミエはわからなかった。心が痛んだ。人間の快適のために追いやられる彼らの言葉は、背中にある痛みと同じようにずしりと重く鈍い痛みに感じる。
「……ごめんなさい」
謝ると、ウサギさんがピンク色の鼻を動かして笑った。
「人間はすぐ謝る。だが何もしない。謝って済むと思っているんだ。前も人間に謝られたが、そいつはそれだけ言うと俺の家族を奪っていったぞ。言うだけだ。それで満足するんだ。お前だって、満足しただろ」
「そ、そんなこと」
「ないってか。なら俺たちの住処を今すぐ返してくれないか。緑と水の溢れる自然の状態で」
「……それは」
してあげたくても、できない。なぜならそれはミエだけで解決できる問題ではないから。
何も言えなくなったミエに、ウサギはただ嘲るような笑みを浮かべたまま。それ以上の追及はしなかった。
はあ、とタヌキがため息をつく。
「このお嬢さんが悪いわけではない。あまり責めてはいけないよ」
「で、何をしに来たの?」
黄昏さんは言った。
そうだ。理由があったからわざわざ来たのだ。先ほど言ったではないか。求めれば来ることはできると。
鼻をぐずぐず鳴らしながら、ようやくキツネが答えた。
「僕らの住処が人間の住処に変わるって言うんで、僕ら立ち退こうと引っ越しの準備をしてたんだ。僕、前々から人間がどんなところに住むのか気になってて。ちょっと見るだけならいいかなって思って、見に行ったんだ。そしたら……」
その先は、ミエにも何となく想像がついた。
人間に見つかってしまったのだ。当然、害獣扱いされ駆除の対象に。それを肯定するように、キツネの耳をよく見ると一部が燃えたようにはげていた。もしかしたら服の中にも傷があるのかもしれない。そう思うと、ミエは心が痛む。ウサギになじられたにもかかわらず、抱かずにはいられなかった。
けれど黄昏さんは同情も抱いていない表情を見せている。
「だから、今度は人間に仕返しをしようと?」
声は思いがけず冷たく呆れている。タヌキは重々しく首を振って否定した。