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 当然のように休日出勤をした土曜の夜、私は大衆居酒屋で小学校からの友人である夏帆(かほ)と酒を交わしていた。

「田舎のじいちゃん家を売却ねえ……なんかこういう話していると、あたしらも歳とったんだなって実感するわ」

 ちなみに、話したのは家のことだけだ。信頼の置ける知己とはいえ、莫大な遺産の金額については伏せている。

「そりゃ、私らも二十四だしね。でも夏帆とは付き合いが長いからか一緒にいると学生ノリが抜けなくて、自分がまだ中学生なんじゃないかって錯覚する」

「何言ってんのさ。中学生はこんなジジ臭いつまみで酒は飲まないっしょ」

 夏帆はテーブルの上に並べられたつまみを見ながらケタケタと笑った。

 エイヒレにイカの姿焼き、ホッケに漬物、二十代の女子二人が注文しているとは思えないメニューが並んでいる。私がケーキよりもスルメを、タピオカよりも芋焼酎が好きな女になってしまったのはきっと、家でいつも楽しそうに晩酌をしていたじいちゃんの影響だ。

「はあー……なんでじいちゃん死んじゃったかなあ。あと三十年はくたばらないと思ってたんだけど」

「あんた、相変わらず目つき悪いけど口はもっと悪いね。そんなんじゃモテないよ?」

「別にモテなくていいし。男尊女卑の思想が蔓延る会社で男に負けずに仕事をしていくためには、男勝りじゃないとやっていけないんだって」

「男らしくすることが男に勝つ条件にはならないと思うけど」

 口下手な私はこの手の論争で夏帆を言い負かせたことは一度もない。まだ言いたいことはあるがこれ以上続けるのは得策ではないと思い、黙ってエイヒレに手を伸ばした。

「じゃあさ、この機会に独立しちゃったら? じいちゃんの家って宮城でしょ? そっちに移住して靴屋さんやるの。曜、学生の頃から靴職人として自分の店出すの夢だったじゃん」

 エイヒレを落とした。ずっと頭の中にあった選択肢の一つを明確に言葉にされただけで、自分でも驚くくらい動揺してしまった。

「……いや、いつかは独立したいって考えてはいるけどさあ……まだ実力も経験も足りないし、今の会社で学ぶことも多いし、もう少し先の話じゃん?」

「そう? あたしには曜のじいちゃんが応援してくれているように思うけどなー。幸か不幸か彼氏もいないわけだし、全然アリでしょ」

 夏帆は昔から典型的な「考えるより先に動く」タイプだった。

 中学生の頃に一つ上の先輩に一目惚れした夏帆は、出会ってその日のうちに連絡先を聞いて猛アタックを開始した。その後軽く十回以上は告白したらしいが、見事に全部玉砕したらしい。

 それでも一切の後悔も未練もないと語る夏帆の顔は清々しく、今や定番の笑い話にできるそのメンタルの強さは見習いたいとすら思っている。

 大学生になってからは四年間でいくつ資格を取れるか挑戦したかったらしく、少しでも興味のあるものは片っ端から受験していた。結果、簿記二級やMOSのような履歴書に書ける資格から、チョコレート検定のような就活に全く無関係の資格まで持っている。

 今は旅行会社の広報部で働いているが他にやりたいことが多すぎるため、来年には違う職種に転職したいのだそうだ。見ていて危なっかしいところも多々あるけれど、夏帆のパワーには近くにいる私も元気をもらえるというか、いい刺激を受けることが多い。

「……ねえ、夏帆は皮と革の違いって知ってる? 靴の素材には動物の皮が用いられているんだけど、皮には腐食や変色を防ぐ加工を施す必要があってさ。薬品を使ってこの皮を革にする加工工程を『鞣し』っていって、鞣しが施されて初めて、靴を始めとするすべての革製品の材料になるんだ」

「いや、酔ってんの? 知るわけないじゃん」

「だよね、ごめん。やっぱ、一般的には靴の製法なんてどうだっていい話だよね」

 私は靴が好きだから歴史も材料も製法も全部知りたいと思うけれど、大抵の人は靴に対して私ほどの愛情を持ってはいない。靴は生活の必需品とはいえ、高級靴を買ったり拘りを持って何足もコレクションしたりするのはごく一部の人間だ。

 遠回しな聞き方は性に合わないと実感する。私は小さく息を吸って、夏帆の目を見た。

「百貨店の靴屋とか海外の高級靴を取り扱っている店なんかじゃ、最近は足圧測定器で足にかかる圧力やサイズ、幅、重心を分析して最適の靴を提案したり、3Dプリンターでミッドソールを作ったりするんだってさ。でも私がやりたいのは、お客様の足を手で採寸して木型を削って、自分の目利きで購入した革を手で縫って靴の形にする、昔ながらの伝統的なやり方の店なんだ。……最新技術を持つ大手有名メーカーの中で、た、戦っていけると思う?」

 緊張しながら返事を待つ私の心を見透かしたのか、夏帆はふっと笑った。

「……ははーん? あんた、あたしに背中押してほしいんでしょー? ったく、普段は気が強いくせにさー、酔って甘えるのは男の前だけにしろって!」

 からかうように肩をつついてくる夏帆から視線を逸らした。図星すぎて何も言えない。

「まあ曜の人生だし、あたしがとやかく口出す立場じゃないけどさ……あたしなら行くかな。人生の転機ってそうそうないと思うし、イイ波が来たら乗っておきたいっていうか」

 波というフレーズで、漁師だったじいちゃんのことが思い出された。

 高校を卒業するまで、私は夏休みはじいちゃんの家で一週間程度過ごすのが恒例となっていた。田舎は暮らしてみれば不便なところも数多くあると思うけど、子どもが一週間だけ過ごす田舎というのは異常な楽しさがあった。私が行くとじいちゃんも張り切って、山にも海にもたくさん連れて行ってくれた。

 それは確か十二歳の夏、じいちゃんの漁船に乗って沖まで釣りに行ったときのことだった。

          ◆

「じいちゃん。女が釣りを好きだったり、山でカブトムシ捕まえたりするのって変なの?」

「おお? どうした急にそんなこと言って」

「クラスの男子に『女なのに変なの、男みたいだ』って言われた」

「ほおー、そうか、そんなこと言われたんか」

 じいちゃんは釣り糸を垂らしながら白い歯を見せた。

「いいか曜。好きなことをやるのに男も女も関係ないぞ。本当に大切なのは性別なんかじゃなく、拘りだと思ってる」

「拘り?」

「そうだ。自分の中に一本の強い芯がある奴は、他人から何を言われてもブレねえんだ。その強い芯は磁石みてえに楽しいことや嬉しいこと、それにいい奴らを引き寄せるから、何をやっても人生が愉快になる。だからじいちゃんは毎日が楽しいんだ。もちろん今、曜といるこの時間もな」

「へー……ってことは、じいちゃんの中には強い芯があるってこと?」

 じいちゃんは大きく頷き、しわがれた手で私の頭を撫でた。

 強い芯とは一体どういうものなのか、社会人になった今でもまだ理解できないままだ。

          ◆

「……曜ー? 大丈夫? マジで酔っ払った?」

 夏帆の声で我に返った。自覚はなかったけれど、思い出と現実の境目が曖昧になるなんてかなり酔っているのだろうか。

「……いや、平気。これから考えることもやることもいっぱいあるのに、酔ってなんかいられないって」

「そう? 重い腰が軽くなるなら、酔ったフリをしてみるのもいいと思うけどねー」

 そう言ってビールを飲む夏帆を横目で見つつ、私も同じようにジョッキを呷った。こうやってアルコールを喜んで摂取できるくらいには、私はもう大人なのだ。

 大人には責任が付いて回る。酔っても酔わなくても、決断するのは自分だということだ。



 それからしばらくの間、私は四六時中悩んだ。

 やらない後悔よりやる後悔。

 石の上にも三年。

 失敗は成功のもと。

 急いては事を仕損じる。

 人生の分岐点に立たされた私の頭の中を、先人たちが残してきた数々の言葉が駆け巡ったけれど、どんな金言も結局のところ、自分の中で出ている答えに対して背中を押してほしいから作られたのだと悟った。

 私の中ではもう、とっくに答えは出ていたらしい。

 ――ねえ、じいちゃん。遺してくれたお金、ありがたく使わせてもらうから。

 私はじいちゃんの家がある宮城県笹森(ささもり)市に移住し、夢だったオーダーメイドシューズの店を持つことを決めた。

          ◇

 会社を辞めると決めてからは、あっという間に時間が流れた。

 退職日までの期間は日々の業務と並行して引継ぎもしなければならない。取引先への挨拶は後任の担当者を連れて、可能な限り出向いて直接挨拶した。新村さんの工房に伺ったときは「考えが甘い」だの「女のくせに出しゃばるな」だの暴言を吐かれるだろうと身構えていたが、たまたま新村さんが長期出張で不在だったため顔を合わせずに済み、正直安堵した。

 そしていよいよやって来た退職日当日。廣瀬は私が出社した直後からずっと目に涙を浮かべていた。そんな彼女を見ていたら泣くに泣けなくなってしまい、最終日と言えどいつもと変わらない忙しい一日を過ごした。

「……ついに終わっちゃいました……夏目先輩、本当にお疲れ様でした! でもやっぱり、寂しいです……わたし絶対、先輩の店がオープンしたら行きますから!」

「ありがとう。開店の日取りが決まったらまた連絡するよ。廣瀬も弱音ばっかり吐いていないで頑張りなよ? 四月から入ってくる後輩は廣瀬が率先して引っ張っていってね」

「じ、自信はありませんが……先輩がそう言ってくれるなら、まずは踏ん張って、やれるだけやってみたいと思います!」

 廣瀬はネガティブなやつだけど、仕事量が多く残業が当たり前のこの会社で一年頑張ってきたことは紛れもない事実だ。何かあるごとに私を頼ろうとしていた廣瀬も立場が変われば、きっと目を見張るスピードで成長していくだろう。

 私の退職に対して嫌みを言う人もいたが幸いにもごくわずかで、大方の人は私の夢を応援すると言ってくれた。送別会では体育会系のノリで私は大いに飲まされ、終わりの挨拶の際には顔に似合わぬ綺麗な花束までもらった。花なんてどう生ければいいのかわからないけれど、皆の気持ちが嬉しくてここで初めて涙した。

 勤めたのは四年間という短い時間だったのかもしれないけれど、毎日責任感を持って自分の仕事に全力を尽くして働いた経験は、これからの人生でもきっと糧になるだろうと思った。



「たーだいまあああぁー」

 終電を逃してタクシーで帰宅した私は、玄関に座り込んだまま使い古した通勤靴を眺めた。

 この黒白バイカラーのウィングチップシューズは、強さの中にも華憐さがあるデザインに一目惚れして就職祝いに両親に買ってもらった、小娘の身の丈に合わない値段の靴だ。

 愛着のあるこの靴をゆっくりと脱いで、姿勢を正して座礼した。決して酔っているからではない。四年も一緒に戦ってくれた相棒に最後の挨拶をしたのだ。

 私は人生の節目では必ず靴を新調するというマイルールを定めている。つまり、明日から私がこの靴を履くことはないのだ。

 ――今までありがとう。次のステージでも私、頑張るから。

 胸中で感謝の意を告げて床に額をつけたまま眠りこけてしまった私が、起床してきたお母さんにいい年をして叱られたことは言うまでもない。