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 次に私が向かった場所は、『ジャンティ』で働いていた頃に何度も訪れた新村工房だった。「新村さんがしょんぼりしていましたよ」だなんて廣瀬から聞いたものだから、つい足を運んでしまったのだ。

 あんなに苦手だったはずなのに、なぜここに来たのか自分でも不思議だった。こき下ろされることで生じる怒りを向上心に繋げたかったのだろうか?

 あの頃は見るだけでげんなりとした古びた扉も、今は懐かしい。退職の際に挨拶できなかったし、罵詈雑言を浴びせられた後で追い返されるかもしれないと緊張しながら静かに扉を開けると、変わらないヤニの臭いが鼻を突いた。

「……こんにちはー! 新村さん、いらっしゃいますか? 昔、ジャンティでお世話になりました、夏目ですー!」

 営業で訪れていたときは返事がなくとも勝手に入るのが慣例化していたけれど、今日は仕事で来ているわけではないし、ちゃんとした線引きが必要だと思った私は玄関で待つことにした。

 しかし、奥の作業場から新村さんが出てくる気配は一向になかった。

 意を決してもう一度、さっきよりも大きな声で呼びかけてみた。

「新村さーん! いらっしゃいませんかー?」

「うるっせえ! 黙って入ってこいボケェ!」

 懐かしさを覚える暴言が飛んできた。これは相当機嫌が悪いときの声だ。顔を見られた瞬間に道具を投げつけられる可能性に怯えつつ、背筋を伸ばした。

「失礼します」

 声をかけて新村さんのいる作業場に足を踏み入れた瞬間、全身の皮膚に電撃が走った。

 新村さんが靴職人の巨匠だということは知っている。それはこの人の営業担当になる前に上司から伝えられた情報だし、実際に新村さんの仕事を見てからも「凄い」「上手い」と認識をしていたからだ。

 だがそれはあくまで脳機能における理性が判断した結果であり、技術に見入ることはあっても感情を揺さぶられることは今までになかった。

 しかし今、この瞬間――私はこの翁の偉大さを初めて実感することになった。

 靴職人として働くために、靴作りを本格的に始めてから、一年と少し。短い期間でも一心不乱に靴と向き合い、研鑽を続けてきたからだろうか。

 新村さんの革を見つめる瞳が、糸を縫う太い指先が、彼のすべてが靴の品質を上げているのがわかった。

 ここに来た理由が、ようやく私自身にも明確にわかった。

 私は名実ともに本物の職人――新村幸助から学ばせてもらうことを望んでいたようだ。

 新村さんの仕事を食い入るように見始めてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。窓から入り込む陽射しがオレンジ色になってきた頃、新村さんは吊り込みに使用していたワニを置いて煙草に手を伸ばした。

「お前、何しに来やがった」

 火を点けながら話しかけられ、私の魂はようやく現実に戻ってきた。

「ご、ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」

「はっ、元気なもんかよ。ただでさえ年取ってから力が入んねえっていうのに、白内障になっちまったせいで一足仕上げるのも馬鹿みてえに時間がかかっちまう」

 まだまだ現役レベルの素晴らしい腕前とはいえ、以前よりも痩せたその体に確かに老いを感じ取った。

 どんなときでも靴と向き合って手を動かしている新村さんが道具を置いたということは、私と話をする時間を設けてくれたのだろう。

 自分に都合よく解釈した私は腰を折って、口を開いた。

「ジャンティ退職の際には直接ご挨拶ができなくて申し訳ありませんでした。私は……」

「勿体ぶった前置きはいらねえ。自分の城を持ったらしいな? どんな塩梅なんだ?」

 まるで人の心の中を見透かすような皺の折り畳まれた目が怖いと思った。だけど同時に、どう取り繕おうとしても嘘も建前もすべて露呈してしまうのならば、何もかも正直に話してしまえと自分の中の箍が外れる音が聞こえた。

「……来店されたお客様が履いていたオーダーメイドシューズを、メンテナンスする機会がありました。新村さんは銀座にある老舗……永進堂の知念さんのことはご存じですか? その靴の色気のある美しさに愕然とし、私が作ってきた靴が霞んで見えました」

 水野さんの顔よりも、彼の足元で大きな存在感を放っていたあの革靴の方が遥かに鮮明に思い出せる。

「独立していてもおかしくない腕前を持っていながら企業に勤める職人に、ブランドに守られているわけでも名を上げているわけでもない私の靴が、お客様に選んでいただけるはずがない……一人でやっていくのは難しいのではないかと……そう思うようになりました」

 靴職人になりたい。運良く若いうちに夢を見つけられた私は、夢を叶えるために脇目も振らず走ってきた。努力してきたつもりだった。立ち止まってしまっては動けなくなるかもしれないという恐怖もあったのかもしれない。

 陽葵とのいざこざもあったし、考えないようにしていた。認めてしまうのが怖かった。

 だけど今、言葉にしてみてはっきりと、私は自信を失っていることを自覚した。

「まあ、難しいだろうな。大体、実際に製作の経験もほとんどない若造が独立するなんて馬鹿だろ、早すぎるんだよ。女は感情で動くからいけねえ」

 相も変わらず二言目には女を蔑視する新村さんに腹が立ち、反論しようと口を開きかけたが言葉が出てこなかった。

「なんだ、どうした。いつもみたいに生意気に言い返してこい」

 新村さんが挑発するように憎らしい顔をしてくるものだから、歯噛みしながら目を逸らした。

「……店を成功させようと藻掻くほど、自分の未熟さを思い知ります。こんな気持ちのままお客様に靴を作るのは、失礼ではないでしょうか?」

 苛立つ心とは反対に、私は弱音を止められなかった。

 陽葵の手本になりたかった。廣瀬には憧れの先輩で居続けることを約束した。二人の前でずっと虚勢を張り続けていた私は疲れていたのかもしれない。自分より遥か高みにいる凄腕の職人に思いっきり罵られることを望んでいた。

 根元まで吸った煙草を灰皿に押しつけて、新村さんは腕を組んだ。

「未熟だあ? 当たり前だ馬鹿野郎。この仕事をやっている奴が手前の仕事に満足するようになったら終わりだろうが。だけどな、自分が仕上げた靴は自信を持って世の中に送り出さないといけねえんだ。そうした矛盾の中を死ぬまで藻掻き続けるんだよ」

 予想とは違った返答に驚いた。相変わらず口は悪いけれど、新村さんがこんな助言めいたことを言ってくれるとは思わなかったのだ。

「な、なんですか? らしくないですね新村さん」

「この世界は広くねえ。六十年近くも同じ仕事をしてりゃあ、大体は顔見知りだ。永進堂の知念はな、知ってるも何も、昔土下座で頼みこまれて俺が面倒を見た直弟子だ」

 呆然とする私を見て、新村さんは眉間にたっぷりと皺を寄せて溜息を吐いた。

「物覚えは悪い、すぐ泣き言を言う、いつまで経っても上達しねえ……あいつのことは何度殴ったかわからん。今の時代だったら俺はとっくに、訴えられているんだろうな」

「で、ですが……知念さんは今、靴職人として第一線で働いていらっしゃいます。知念さんはいつ頃から、新村さんが認める製作ができるようになったんですか? 最初は教えるのに手を焼いたのだとしても やはり光るものというか……才能はあったんですか?」

 知りたい気持ちが抑え込めずに前のめりになって尋ねていた。新村さんは「確か……」と前置きをして、顎を触りながら口を閉ざした。

 心臓の音が速くなっていくのがわかる。私は新村さんの回答が未来への指針になることを期待している。

「あー……忘れた」

 それなのに、ようやく唇を開いたかと思えばこれだ。当然、私の落胆は大きかった。

「ええ……? 貴重なお話が聞けると思って期待していたんですけど……」

「うるっせえ! 何十年前の話だと思ってんだ! 掃いて捨てるほどいる弟子の成長なんかいちいち覚えていられるか馬鹿野郎! 大体お前は努力も足りねえくせに一丁前に悩んでんじゃねえよ! そのくせ言い訳は多くてよぉ、これだから女は嫌なんだよ」

 頭に血が昇って体中の血液の温度が一気に上がった。今日二回目の女を見下す発言はもちろん、何も知らないくせに頭ごなしに私の努力を全否定されることが許せなかったのだ。

「めちゃくちゃ努力してますよ! 靴作りも! 店の経営も! やれることは全部やってます! だけど! 結果がついてこないんですよ! ……自分には成し遂げられない夢を抱いてしまったんじゃないかって、不安なんですよ! 怖くて仕方ないんですよ!」

「ああ? だったら成功するまでやれ。やり続けろ。俺は経営のことなんざ息子に投げっ放しで何もわからねえが、靴作りなら上達方法は一つしかねえって知っている。それはな、上手い奴より靴と向き合うことだ。それ意外の道はねえよ」

 職人の本質を端的に表しているような新村さんの持論は、強張っていた私の心にするりと入り込んできた。

 思い出されたのは、漁船の上で何度も何度も潮の流れを見ながら竿や網を投げ続けるじいちゃんの姿だった。仕事をしているときのじいちゃんは自分のやり方に誇りと拘りを持って魚と向き合いながら、結果が出るまでひたすら手を動かし続けていた。そんな姿に私は憧れたのだ。

「……はは、そのめちゃくちゃ古臭い考え方、それでこそ新村さんです」

 皮肉を言ったわけではない。六十年近くも一つの仕事に従事してきた翁の背中を通る鉄心のような軸を、本当に格好いいと思ったのだ。

「古臭えとはなんだ馬鹿野郎。相変わらず可愛気の欠片もねえなお前は」

 舌打ちをして再び煙草に火を点ける新村さんの横顔を見て、私はふっと笑みを零した。

「……あの、新村さん。どうして私に助言をくれたんですか?」

 面倒臭そうに私を一瞥した新村さんは、ゆっくりと白煙を吐いた。

「……お前の顔つきと、手の質が変わった。荒れた指先が女のものとは思えねえほど厚くなってんのは、相当靴と向き合っている証拠だろうからな」

 素っ気ない言葉だったが目頭が熱くなるほど嬉しかった。店を始めてからすっかり硬くなった指先を労わるように、そっと拳を握った。

「……さっきは努力も足りねえくせにって私のこと罵りましたけど、頑張りはちゃんと見てくれたんですね」

「フン、黙れ。……俺はよお、靴が好きなんだよ。だから男にも女にも死に損ないにもクソガキにも、とにかくいろんな靴を作ってきた。いい靴を履いてもらいてえって気持ちは作り手なら皆持っているはずだ。お前だってそうだろ?」

 私は強く首肯した。履いてくれた人が喜んでくれる靴を作りたいと常に思っている。

「だがな、いい靴を作りたいという気持ちは同じはずなのに、この業界には女を受け入れない風潮がある。まあ、それはお前が一番感じていることかもしれんがな。俺はそういう世界を構築してしまった人間の一人だが……もし男女の垣根なく弟子入りの環境が整っていたり、偏見なく評価を受けられるようになれば業界はもっと明るくなるんじゃねえかって、近頃は思い始めてんだよ」

「え!? あんなに女を下げる発言ばかりしているのに、そんなことを思っていらっしゃったんですか!?」

 あまりにも意外でつい大きな声で反応してしまった私は、新村さんの眼鏡の奥で光る鋭い眼に睨まれて慌てて口を閉じた。

「お前は馬鹿だ。才能もないかもしれん。……だが、気骨はあると踏んでいる。だから女であるお前が、この業界に新しい風を吹かせる改革者になれ。靴職人の世界を構築してきた男社会を変えていけ」

 そのとてつもなく魅力的な命令は、大きな矢となって私の胸に突き刺さった。

 改革。私には身分不相応の任務な気がしたけれど、足がすくんだりはしなかった。

 頭で考えるより先に、体中の全細胞が命令を素直に受け入れていた。

「はい、やります。私がやります」

 強い意思を持って返事をする私を見て、白煙を燻らす先駆者は口角を上げた。

「新しいことをやろうってんだ。最初は反発が起こる。反乱が起こる。それでもやれ。やり続けろ。まあ、ちんちくりんでも一応お前も職人だ。一つのことをやり続けるのは得意だろ」

 視界が明確になって、体細胞がどんどん息を吹き返して活発になっていくのを感じていた。

「わかりました。新村さんがご勇退されるまでには必ず、私の名前を世の中に轟かせます」

「俺は老い先長くねえんだからよ。とっととしろや」

 新村さんが私に託した理由の一つが寿命を意識してのことなら、期待に応えるためにもなるべく急がなければと思った。とはいえ、私が素直に新村さんを喜ばせる言葉を返せるわけもなく。

「近いうちに必ず、また来ます。そうですね……次に来るときには、新村さんが棺桶の中でも履きたいと思えるくらい上物の革靴を作ってきますよ」

「あ? 俺に靴を寄越そうとするなんて百年早えぞボケ!」

「私に任務を託すくらいに、弱ってらっしゃると思いましたが?」

 俺がそう簡単にくたばるかよ! とっとと帰れ馬鹿野郎!」

 そう言って怒鳴る新村さんの姿を見て、まだまだ現役で頑張ってくれそうだと確信する。笑って頭を下げた私は、新村工房を後にした。



 自惚れと自尊心を胸に、新たな野望を抱いた私は前を向いて歩き出す。

 迷いは晴れた。視界良好、針路も見えた。

 あとは、ちゃんと自分の足で進むだけだ。