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 年が明けて一週間が経とうとしていた大雪の日の、一日の終わりのことだった。

 閉店時間ギリギリに、痩躯で眼鏡をかけた優しそうな雰囲気の男性が来店した。

「あのー……ここってウエディングシューズも、作ってくれるんですか……?」

「も、もちろんです! セミオーダーでもフルオーダーでも、承っております!」

 久しぶりに注文をくれそうなお客様を逃がすまいと、私は普段よりもずっと爽やかな声と笑顔を意識しながら男性を商談スペースに案内した。瀬川(せがわ)俊哉(としや)と名乗った男性の前にコーヒーカップを置き、詳しい話を聞いていった。

「ウエディングシューズは瀬川様用ですか? それとも、奥様のものをご所望ですか?」

「つ、妻のです。……ちなみに、あの、式まであと一カ月を切っているんですけど、間に合いますかね?」

 あまりにも納期に余裕がないスケジュールを耳にして、表面上では笑顔を取り繕っていた私の背中では冷や汗が噴き出した。

 話を掘り下げて聞いていくと、瀬川さんは来月二月十四日のバレンタインデーに、一つ年下の奥様と結婚式を挙げる予定らしい。

 結婚式は奥様の望むようにやらせてあげたいと思ってはいるものの、奥様は拘りが強いうえに優柔不断な方らしく、何を決めるにも物凄く悩むのだそうだ。式場やドレスや引き出物は散々悩み倒してなんとか決めることはできたものの、靴だけはまだいろんな店を見て回っているらしい。

 式まで時間がないという焦りと、いちいち悩みの相談を受けることに辟易してきた瀬川さんはつい、「ドレスで隠れて見えないし、靴なんてなんでもいいんじゃない?」と口にして奥様の怒りを買ってしまったそうだ。

 いくら謝っても許してもらえなくてと肩を落として語る瀬川さんを見ていると、尻に敷かれていることが安易に予想できる。

「もうこれ以上妻の不機嫌な顔を見るのは堪えられないですし、多少お金がかかったとしても、妻の要望通りの靴を作ってあげた方がいいんじゃないかと思って……」

 余程参っているのか、瀬川さんは初対面の私にも事情を洗いざらい話してくれた。私が全身全霊を込めて作る靴が二人の仲を修復する力になり、記念すべき日の足元を彩ることになるのなら、こんなに嬉しいことはないと思う。

 だけどいくら私がやりたいと思ったところで、注文を決めるのは瀬川さんなわけで。

「よくわかりました。しかし式まで一カ月となりますと、納期の関係上セミオーダーでのご注文しか承ることができません。セミオーダーというのは、デザインやお色、素材など私が提示するバリエーションの中から奥様に好みのものを選んでいただき、それらをカスタマイズして靴を作る方法です。……足のサイズを完璧に奥様のものに合わせ、仕様のすべてを奥様に委ねるフルオーダーはどうしても承れません。それでも、当店でご注文いただけますか?」

 祈るような気持ちで瀬川さんの返答を待った。二人の力になってあげたいという気持ちはもちろん本心だが、赤字続きの我が店にとっては喉から手が出るほど欲しい注文だ。

「……ええ。妻がなんて言うかはまだわかりませんが、前向きに検討するつもりです」

「ありがとうございます。製作にあたりましては採寸と打ち合わせの必要がございますので、次はぜひ奥様と一緒にご来店ください。ただ、納期が差し迫っておりますので、できれば早めにご来店いただければ幸いです」

 奥様の意思が大切になる注文だし、即決に繋がらないのは当然だ。

 ご夫婦で来店してくれることを願って、店の概要が記載してあるパンフレットを手渡して営業用の笑顔を作った。

          ◇

 閉店作業後にウエディングシューズ関係の書類を読み漁っていたこともあって、帰宅したのは日付が変わる少し前になってしまった。

 いつもより遅い帰宅にもかかわらず夕食を食べずに待っていた陽葵に謝り、遅いときは待たずに先に食べてほしいと話した。ちなみにこのお願いを今までに口にしてきた回数は両手では数えきれない。しかし陽葵には全くその気がないのか、適当な相槌を打ちながらテーブルの上に温め直した料理を並べていた。

 帰宅が遅くなった理由を伝える流れで瀬川さんについて話すと、陽葵は目を爛々とさせて食い気味に聞いてきた。

「奥様のウエディングシューズを作ってほしいだなんて、すごく素敵な旦那様だね! わたし、ウエディングドレスもシューズも買うっていう発想はなかったもん」

「日本ではレンタルが主流だから珍しいと思うかもしれないけれど、逆にアメリカでは購入するのが当たり前なんだよね。……もし注文してくれるなら、絶対にいいモノを作ってあげたいと思ってる」

「うん、頑張ってね曜ちゃん! 大仕事の前に体調を崩さないためにも、しっかり食べて!」

 今日のメニューはカレーライスと海藻サラダ、フライドポテトだった。この時間に食べるメニューにしては高カロリーだが、食べないという選択肢はない。

「それじゃ、いただきます!」

 カレーライスを掬ったスプーンを口に入れると、独特の旨味が舌から一気に全身を駆け抜けた。やはりカレーには人を中毒にする魅力がある。香辛料を巡って昔の人が戦争をした史実も今なら容易に理解できるというものだ。

 空腹を一秒でも早く満たすために夢中で食べ進めている私とは対照的に、陽葵の手は進んでおらず、表情もどこか暗いように見えた。

「どうしたの? 疲れてる?」

「ううん、ただ……その人の奥様が羨ましいなって思って。別にイケメンじゃなくても高収入じゃなくてもいいから、わたしだけを一途に好きでいてくれて、浮気なんて絶対しない彼氏が欲しいなあ。ねえ曜ちゃん、そういう男ってどこで見つければいいの?」

「なんだ嫉妬か。っていうか、彼氏のいない私に回答を求めないでよ。わからんし」

 いつもなら「曜ちゃんの意地悪―!」とか言って騒ぐ陽葵は、頬杖をついて小さな溜息を吐いた。

「……やっぱ陽葵、変じゃない? なんかあったのか?」

「……はあ……平気だよって言いたいところだけど……正直、ちょっとしんどいかも。今ね、しつこい男に絡まれてて……結構大きい会社の社長さんだからかな。自分に物凄く自信のある人でね、何度も何度も振ってるんだけど全然めげないから困ってるんだよね」

「優しくされるとすぐ好きになっちゃうとか言ってなかった?」

「そもそも優しくないもん。この人はお金持ちだけど自慢話ばっかだし、人を選んで態度変えるし、平気で他人を見下す発言するし、人間として嫌いなの。生理的に無理ってやつー」

 私への嫉妬を口にしたときですら笑みを浮かべていた陽葵が、こんなに参っているなんて。乗れる相談なら乗ってあげたかったが、生憎私には守備範囲外の内容だ。

「そっか……モテる女っていうのも大変なんだね。私には無縁の世界だから何も言えない。ごめん」

 同情することしかできない私に、陽葵は不服そうに唇を尖らせた。

「もー、なんでそんな他人事なの? 可愛い同居人が困ってるんだから、王子様みたいに助けてくれたってよくない?」

「えー……じゃあ、彼女のフリでもしてその男に『陽葵は渡さない』とでも言えばいいの? 私みたいなガサツな大女がそんなこと言ったところで説得力もないし、余計に男を焚きつけるだけだよ。私に王子様役は無理」

 正論しか言っていないのに、陽葵は頬を膨らませて私のカレー皿の上でラッキョウの入った瓶をひっくり返した。結果、私のカレー皿には苦手なラッキョウがどっさりと乗せられて、ルウがほとんど見えなくなってしまった。

「ちょ、なにすんの⁉」

「曜ちゃんがわたしに無関心なことに怒ってるわけじゃないよ? わたしはね、曜ちゃんが自分の魅力を自覚していないことに怒ってるの! 曜ちゃんは綺麗な顔してるしスタイルもいいんだから、もっとお洒落に気を遣えば一気に垢抜けると思うよ? そうだ、わたしがコーディネートしてあげよっか?」

「いや、別にいい。陽葵が選ぶような洒落た服は私には絶対似合わないし」

 そう言ってサラダを頬張る私を、陽葵はじっと見つめていた。

「……自分に自信がないのは、曜ちゃんもじゃないかな」

「私? 自信がなければ個人経営の店なんてやらないって」

 的外れな指摘を聞き流してトマトを飲み込んだ私に、陽葵はすっと近づいてきた。シャンプーだろうか。陽葵から発せられる甘い香りに意識を取られているうちに、白くて細い陽葵の冷たい指先が頬に触れて背中がゾクッとした。

「……曜ちゃんはとっても綺麗だよ。だから、女であることに胸を張ってね」

 その言葉と色気のある陽葵の声色に、心臓を撫でられる心地がした。

 陽葵は私が、人から女として扱われるのを嫌うくせに、女として見られるのを諦めている矛盾を見抜いている。

 普段はだらしないくせに、私が胸の内に隠していたモノをその手でほじくり返して包もうとしてくるなんて。その傲慢さに抵抗したいのに、私は陽葵の瞳を見つめ返すことしかできなかった。

 有難迷惑、おせっかい、大きなお世話。

 そう言って陽葵を完全に遮断して退けるのは簡単だったのかもしれない。だけど私は陽葵に触れられた頬から全身にかけて、まるで魔法をかけられたかのように動けなかった。

「……ら、ラッキョウって血液がサラサラになるんだってな? この際全部食べてみるか!」

 私の中にある小さなプライドが奮闘し、必死になって陽葵の手を振り払った。戸惑っている顔を陽葵に見られないようにカレー皿を持ち上げて掻き込むと、大漁のラッキョウが口の中に転がり込んできて発狂しそうになったが根性で飲み込んでやった。

「ちょっと曜ちゃん、大丈夫? 無理して食べない方がいいんじゃない?」

「む、無理してない。もう二十五歳だしな。ラッキョウくらい克服しようと思っていたところだったから、ちょうど良かった」

 若干涙目になっていたとは思うが、その強がりは私に悟りを開かせた。

 覚悟さえ決めれば、人間何事にも挑戦できるらしい。