送橋さんとの行為が終わると、ミムラは決まって煙草に手を伸ばす。
二人が肌を重ねるのはいつも送橋さんの自室だった。
「嫌じゃない?」と、最初は紳士に断ってから火を点けていた彼も、二回目からはまるで慣れた喫煙所にいるみたいだった。
灰皿代わりのコーヒー缶も、灰を溜め込みすぎてくたびれているように見える。
送橋さんは流れてくる煙に眉を顰め、身体ごとミムラに背を向けて僕の方に手を伸ばした。
だけどその手は、ミムラによって遮られる。
手を引かれ、くるりと回転した送橋さんの身体はミムラにしなだれかかる体勢になる。
「そんな嫌な顔しなくてもいいのに」
苦笑するミムラ。
僕からは、送橋さんがどんな顔をしているかは見えない。
少しだけ湿った音がして、けほけほと咳き込むような音が続いて聞こえる。
「煙草、嫌いだっけ?」
「好きではないよね」
「そりゃ、悪かった」
ぎゅぎゅぎゅと、缶コーヒーの灰皿に灰が押し付けられる音がする。
「イベントの準備、進んでる?」
「練習はしてるよ」
「見てあげよっか」
「別にいい」
「つれないねえ」
ミムラに対して、送橋さんはずっとこの調子だ。
こんなに冷たいと、好かれていないのかと自分から距離を取ってしまいそうなものなのに、それでもぐいぐい距離を詰めていくのがこのミムラの偉いところだと僕は思う。
少なくとも、僕はそんなキャラには何度生まれ変わってもなれないだろう。
「路上でやんのとステージは全然違うんだぜ。緊張で頭真っ白になっても知らねーぞ?」
「大丈夫。緊張なんてしないから」
「言うじゃん」
ミムラは経験者ぶって鼻で笑うが、自分で言う通り、送橋さんは人前でもまったく緊張しないのだ。
僕だってステージに立った事があるわけじゃないから、ミムラの言うようなステージの緊張感はわからない。
だけど、ステージに立ったぐらいで送橋さんが変わってしまう方が、どちらかと言えば信じられなかった。
ミムラと親しくなった送橋さんは、彼が主催するイベントに出演することになった。
ミムラのイベントがどれほどのものかはわからないが、彼がホームにしている新栄クローバーゼットは、僕ですらその存在を知っていることからも、この辺りではそこそこの位置にあるライブハウスであることも間違いなかった。
ミムラと付き合いのあるバンドやユニットが出演するらしく、送橋さんも〈由宇〉という名前でエントリーさせられていた。
ミムラの言うことをどこまで信用していいかはわからないが、単なる頭数合わせでもないらしい。
「由宇はやれると思ってるから、誘ってるんだぜ」とうミムラはるさいくらいに繰り返すように、 確かに送橋さんはめきめきと腕を上げていた。
ミムラと出会ってから二か月ほどだが、その頃と比べても違う。
今の送橋さんなら、きっといいライブができるだろう。
僕だってそう思う。
だけど、ミムラの盛り上がりほどに、送橋さん自身に火がついていないのもまた事実だった。
「お、」
抱き寄せようとするミムラの腕をすり抜けて、送橋さんはバスルームの方へと歩いていった。
言葉少なな送橋さんの、今日はもうおしまいの合図だ。
ミムラはため息をつき、二本目の煙草に手を伸ばす。
僕の視界の隅で、白煙がくゆり続けている。
やがてバスルームからは艶めかしい水音が響き始めた。
見えているし、聞こえてはいるのに、口は出せない。
そういう状況はわかっていてもストレスが溜まった。
僕にはもう送橋さんを抱き締めるのに必要な様々なものを失くしているから、どうこう言う資格なんてない。
生命の残り滓みたいな意識を、ミムラが溜めた吸い殻の山みたいに燻らせ続けるしかない。
汚れ以上のものを流し落とそうとしているかのように、バスルームの水音は執拗なまでに続いている。
ミムラは不意に大きなため息をついて、吸い殻を乱雑にもみ消すと、ひったくるような勢いで僕に手を伸ばした。
驚きはしたが、声をあげるような間抜けはしなかった。
驚いたところで、飛び上がるような心臓など、僕はもう持っていない。
ミムラはまるでコの字を描くように僕の表面に指を滑らせる。
それは、送橋さんが設定したロック解除のパターンだ。
きっと、何かの機会に送橋さんの手元を見ていたのだろう。
ミムラは今、送橋さんのスマホを覗き見している。
「んん……?」
しばらくスクロールを続けていたミムラが首を傾げるのと、バスルームから送橋さんが戻ってくるのはほとんど同時だった。
「――っ!」
送橋さんはすぐさま駆け寄ってきた。
背面カメラから見る送橋さんはバスタオルすら身に着けていなかった。
無言で僕にとりつき、ミムラの手からむしり取るようにして僕を奪い返した。
「いや、ごめんて。ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
「こんなことするなら、二度と来ないで」
送橋さんは落としたバスタオルを拾うと、僕を掴んだままバスルームの方へ戻り、洗面所のドアに鍵をかけた。
ミムラの表情は僕の位置からはほとんど見えなかった。
送橋さんは僕を洗面台の脇に置くと、項垂れて深いため息をついた。
リビングの方からは、カチャカチャとベルトを締めるような音が聞こえている。
送橋さんは身体も拭かず、前髪からはまだ雫が垂れていた。
「それってさ、流行りのAIってやつ?」
「アンタには関係ない」
何がおかしいのか、洗面台の扉の向こうからは「はは」と乾いた笑いが聞こえた。
送橋さんは洗面台に項垂れたまま、まるで動こうとはしない。
しばらくの沈黙の後、「じゃあ俺、帰るから」と、玄関の扉が開いて閉まる無機質な音がした。
『よかったんですか?』
ワイヤレスイヤホンの接続は切れていた。
僕の声がスマホスピーカーで鳴る。
「いいよ、別に」
『せっかく親しくしてくれてるのに』
言ってから、あまりに皮肉っぽ過ぎただろうかと少しだけ後悔した。
送橋さんは項垂れたまま、口を開こうとしてはやめてを何度か繰り返して、結局黙ったままだった。
僕は僕で、何を言っても失言になりそうな気がして、黙り込むしかない。
送橋さんは蛇口を全開にして、顔を乱雑に洗い、皮膚が傷ついてしまいそうな強さで拭き、僕を掴み、裸のままでベッドに転がった。
送橋さんの腕を雫が伝って、ベッドにいくつも染みが広がっていく。
「軽蔑、してるよね」
『しません』
「嘘」
『セックスはセックスです。それ以上でも以下でもない』
それはおためごかしでも、強がりでもなかった。
心からそう思っているし、たぶん今、僕に身体があったとしても同じことを考えるはずだ。
『セックスは何も証明しませんよ。愛も、恋も、将来も。あるのは、身体をもった人間がそこに二人いるってこと。それだけです』
僕が送橋さんに惹かれたのは、セックスをしたからじゃない。
送橋さんが僕と同じものを見ていて、同じものを見ようとしてくれていたからだ。
僕がギターに求めていたものを、違う形で提示してくれたからだ。
『だって、送橋さんはあいつの首を絞めようとはしないじゃないですか』
もし送橋さんがそうしていたら、僕は彼に嫉妬していたかもしれない。
送橋さんは、僕が僕だったからこそ、僕の首を絞めたのだから。
闇の淵を見ようとしていた僕だからこそ、送橋さんは僕の首を絞めた。
送橋さんが僕の首を絞めたのは、僕を信じてくれていたからだ。
僕以外の誰が、闇の向こう側にあるものを証明しようとするだろうか。
できるはずがない。
僕にしかできない。
送橋さんの両手を受け入れられる僕にしか。
両手を受け入れ、その闇の向こう側から戻って来ることができた僕しか。
送橋さんはずっと裸のままでいた。
身体を伝う雫が流れ尽くそうかという頃に『風邪ひきますよ』と声をかけると、ようやくもぞもぞと起き上がった。
僕に背を向けるようにして立ち上がったので、僕からは送橋さんの顔を見ることはできなかった。
送橋さんはまたふらふらとバスルームに向かった。
さっきのリピート再生を見ているみたいに、バスルームから勢いの良い水音が聞こえてくる。
ベッドに置き去りにされた僕は、それを聞いていることしかできない。
今度のシャワーも、特別長くなりそうだった。
送橋さんの精力的な路上活動は続いていた。
ミムラが主催するライブイベントにはノルマが存在している。
一枚二千円を十枚。
普段は適当にへらへら笑っているミムラも、集客に関しては本気だった。
だけど、送橋さんの路上ライブに集まる人数はどんどん増えていて、十枚程度のノルマの心配はしなくても済みそうだった。
送橋さんはいつも定時で仕事を上がり、家に帰って曲を仕上げ、大曽根に来て歌を歌った。
職場にいる同僚たちは、当たり前みたいな顔をして定時上がりする送橋さんを、あまりよく思っていないようだった。
ただ淡々と仕事をこなす送橋さんには、まるで響いていなかったけど。
頻繁なライブも、歌への真摯さも、熱心な曲作りも、以前の送橋さんじゃないみたいだった。
まるでデビューを目指すシンガーソングライターのようだ。
ミムラ以外にも、ライブの話を持ってくる人間が複数人現れるくらいだった。
『送橋さんは、デビューを目指してるんですか』
と冗談交じりに訊くと、半笑いで「まさか」と返ってきた。
「暇潰しだよ。暇で暇で、仕方がないからさ」
『仕事、あるじゃないですか』
「仕事なんて、頭を使わなくたって出来るよ。頭を使わないとさ、頭が暇になるんだ。そうなると、ろくなこと考えないから。だから、歌ってるの」
『ろくなことって、なんですか?』
「なんだろうね。年金もらえるかな、とか」
もちろん、送橋さんは年金の心配をするタイプではない。
『歌うと頭が暇じゃなくなるんですか?』
「うん。慣れないことだから。ギター弾きながら歌うって、もう何か必死だよね」
必死なんて言葉では、送橋さんの歌は到底言い表せない。
それくらい、送橋さんの歌は鬼気迫る迫力があった。
その歌に誰かの生命がかかっていると言われたら信じてしまいそうになるほど。
ただ自分の中の深淵に潜ろうとしていただけの僕とは違う。
通行人が足を止めるのも当然のことだと思えた。
路上ライブが終わると、送橋さんはいつも言葉少なに去ろうとした。
それでも追いすがってくる人にはライブのチケットを買ってもらっていた。
ギターを担いで、一時間かけて歩いて帰り、ミムラが訪ねてくればセックスをする。
暇潰しだよ――と送橋さんは言った。
その言葉通り、何もせずにただぼうっとしている時間を、ひたすら何かで埋め尽くそうとしているみたいだった。
画用紙に白い部分があってはいけないと思い込んでいる幼稚園児のような必死さで、空白の時間をただひたすら埋めていく。
僕との会話すら、その一つのピースに過ぎないようだった。
何か、とてつもない怪物から逃げようとしているんじゃないかと思った。
その怪物は、少しの空白を与えたら最後、あっという間に宿主ごと食らい尽くしてしまうのだ――そう言わんばかりに、送橋さんは力の限りに逃げ続けていた。
僕には、送橋さんが恐れている怪物が何なのかがわからない。
だって、僕は魂の存在を証明したんだ。
僕の身体が死に、魂だけの存在となって送橋さんのスマホに住みついた。
僕の意識が存在していることそのものが、魂の存在の証明となっている。
それを証明した僕らにとって、もはや死など、恐れる対象足り得ない。
その線引きの向こう側にだって、地平は存在しているのだから。
ライブまであと一週間となった日曜日の昼、送橋さんは「リハーサルスタジオなる場所に行こうと思う」と言った。
『いいですけど、大曽根はいいんですか?』
「ライブまで一週間だから。わたし機材とか使ったことないし、きみに色々教えてもらおうと思ってさ」
『なるほど』
僕をPCのディスプレイに向けてもらいながら、よさそうなスタジオをピックアップした。
混んでいなさそうで、安くて、行きやすいところ。
結論的には守山の方にあるスタジオに行くことにした。
電話すると、空いているとのことだったので、とりあえず三時間押さえてもらった。
駅からは少し距離があったが、髭面長髪のマスターは寡黙な雰囲気で、女一人の送橋さんに対しても余計なことを言わずに準備してくれた。
「何すればいいの?」
『とりあえずスタンド立てましょうか』
このギターにピックアップは搭載されていない。
ピックアップとは、ギターの音を拾い上げて電気的な処理をし、ケーブルを繋いだ先のアンプに出力するための装置だ。
それを搭載していないギターの場合、ギターの前にマイクを設置して、直接音を拾わなければならない。
「スタンドって?」
送橋さんはきょろきょろとスタジオ内を見渡して、スタンドはスタンドでもまったく見当違いの種類のものを持ち上げては首を傾げている。
『ちょっと僕をそのアンプ……黒い箱の上に立ててもらっていいですか?』
「あいよ」
いつものスマホスタンドに立たせてもらう。
これでこの部屋全体が見やすくなった。
『そのミキサー……色々つまみのある機材の隣にある、そうそれです。その折れたところにあるハンドルを回してもらって……あ、それじゃなくて』
どうにか音が出せるというところまで行き着くのにおよそ一時間を費やした。
僕にはもう身体はないのに、なぜかぐったりしてしまった。
送橋さんはと言えば、アンプから出した音に「わあ! わあ!」と、初めておもちゃを与えられた子どものようだ。
「すごいねこの……リバーブ、だっけ? なんか、コンサートホールにいるみたい」
『そういう機能ですからね』
目を輝かせている送橋さんに、あのミムラとの夜の暗さは見当たらない。
暇潰し――その単語が、思考の海の中を幾重にも浮遊している。
送橋さんは何曲か歌った。
その曲のどれも、僕の弾いていた曲とも呼べない曲の断片が組み込まれている。
既に死んでしまっている僕から生まれたものが、形を変えて今、送橋さんの歌の中に確かに息づいている。
全てのものには必ず終わりがあって、例外はない。
それでも、次の一瞬を生きる者のどこかに何かを残せるのだとしたら、理不尽で、無慈悲な終焉からも、逃れることができるんじゃないだろうか。
送橋さんの歌を聴きながら、僕はそんなことを考えていた。
「ねえ」
『はい』
不意に剣呑な声が聞こえた
「さっきから話し掛けてたんだけど」
『本当ですか?』
「聞いてなかったの」
『考え事をしていました』
「何を?」
『死から逃れる方法です』
僕はさっきまで考えていたことを話した。
送橋さんは笑わずに、ちゃんと耳を傾けてくれていた。
「でもそれって、綺麗事じゃない?」
『そうかもしれません』
「もしもわたしの歌が誰かの心に残ったとしても、わたしの意思をそこに残せるわけじゃない。スワンプマンの方がまだまし」
『否定はしません』
「宇宙だって終わるんだよ。そうやって、必死こいて繋いだものだって、いつかは途切れる時がくる」
『それでも、何かが残るとしたら』
熱くなっているな、と思った。
送橋さんの言葉は全て正しい。
僕は極めて観念的な話をしている。
自分でもわかっていた。
ふう、と送橋さんは大きなため息をついた。
もうこの話は終わり――のサインだった。
「相談したいなって思ってさ」
『なんですか?』
「歌う曲の順番……そういうの、セットリストって言うんだっけ? 最後の曲をどれにしようかって悩んでるんだけど、きみはどれがいいと思う?」
送橋さんの歌は甲乙つけがたいほど、どれも好きだった。
ライブの最後を飾るのは、どれが相応しいのか。
考えた末、僕は答えを出した。
『〈旅に出ない理由〉がいいんじゃないかと思います』
ミムラと初めて会った頃にできた曲だった。
ミムラが好きだと言っていた曲でもある。
「もしかして、あいつに気を使ってる?」
『そうじゃないですけど……でも僕もあの曲、好きなんです』
「でも、あれはきみの曲じゃないでしょ」
『送橋さんの曲、いいですよ』
あの曲は、僕のギターを下敷きにせず、送橋さんが一から作った曲だった。
そういう曲は、送橋さんが歌っている十曲のうち、わずか二曲しかない。
その内の一曲がこの〈旅に出ない理由〉だった。
送橋さんの内側から自然と生まれたメロディーだからこそ、僕のギターに引っ張られず、気持ちが素直に表れている気がするのだ。
ミムラが好きだと言ったのも頷ける。
送橋さんは僕のギターの魅力を『揺らぎ』だと言うが、僕からすれば送橋さんの歌こそ闇と光の間で揺らいでいるように見える。
その揺らぎこそが、送橋さんの魅力なんじゃないかと僕は思う。
「わたしはきみのギターの方が好きなんだけど」
『僕は送橋さんの曲が好きです』
「……まあ、きみがそう言うなら」
送橋さんは親指で柔らかく六弦を鳴らした。
重たい弦が振動し、ボディーを揺らしてアンプから淡い音が漏れてきた。
ここは静か過ぎて、ギターの響きが暴力のように襲いかかってくる。
大曽根の雑踏にあるぐらいがちょうどいい具合に紛れるような気がしていた。
「さっきさ、死から逃れる方法って言ったじゃん」
『はい』
「たかがセットリストの話ではあるけどさ。きみが生きた証を残すには、きみの作ったメロディーを選ぶのが一番合理的だとわたしは思うんだけど、そうじゃないの?」
『僕はもう、選んでもらってますから』
「綺麗事はいいよ」
『綺麗事じゃなくて、本当にそう思ってるんです』
送橋さんは、まるで腑に落ちていない、という顔をしている。
僕自身まとまらないまま話しているのだから当たり前なのかもしれない。
『つまり、こういうことです。僕は既に送橋さんから選ばれているんです。送橋さんは僕の曲を聴いて、僕の曲を好きになってくれた。僕の曲は、送橋さんの血肉になって溶け込んで、回り回って、全く違う何かとして、送橋さんのオリジナルとして出力されることになります。送橋さんの中には、もう僕がいるんです。僕が選ばれたのと同じです』
「でも、それはきみの魂とは違うものだと思う」
『違うものです。でも、ある意味では同じなんです』
「……わかんない」
送橋さんはどこか拗ねているようにも見えた。
目を逸らして、抱えたギターに顎をつくようにして。
その仕草が妙に子どもっぽくて、おかしかった。
僕には身体がないので、噴き出すような間抜けな真似はせずに済んだのだけれど。
「わたしは、わたし自身を残したいよ」
『僕も同じです。ただ、こうなったからかもしれませんけど、送橋さんの中にほんの少しでも僕が残っているなら、それでもいいんじゃないか、とも思うんです。〈旅に出ない理由〉には、それがあるんじゃないかと思います』
僕の模倣から始まった送橋さんの音楽の中には、色濃く僕が残っている。
僕の曲を使わなかった〈旅に出ない理由〉だからこそ、それがより鮮明になっているように思う。
僕が散って、溶けて、送橋さんの底に沈殿して。
そして、送橋さんもまた誰かの中に色濃く残って。
そうやって繋がっていくものがあるとしたら、僕は母を飲み込んだあの闇を肯定できるのかもしれない。
この世界を循環する魂の一欠片として。
「……まあ、きみがいいなら、それでいいよ」
まだ何か言いたそうな顔をしながら、送橋さんはもう一度ギターを抱え直し、ナイロンピックをスチールの六弦に当てた。
僅かな金属音はマイクを通してアンプを鳴らし、この部屋全体を微かに揺らした。
旅に出ない理由をいつも探してる
探さなければ見つからないから
歌い始めた頃と比べて、送橋さんの歌は優しくなったように思う。
雨に濡れて柔らかくなった棘のように。
人が人と接する時、必要以上に温かくすることはできなくても、逆に冷たく突き放すこともできないんじゃないかと思う。
生の心を歌った歌を聴いて、足を止めた人に対してなら尚更だ。
『ぱちぱちぱち』
「何?」
『拍手できませんから』
「馬鹿にされてるのかと思った」
『一つ聞いてもいいですか』
「どうぞ」
『送橋さんにとって、旅って何なんでしょうか』
「音楽レポーターなの?」
『送橋さんは僕の推しですから。推しのことなら何でも知りたいんです』
「何それ」
子どもの可愛いいたずらを見た母親のように、送橋さんは肩を揺すった。
僕はこれでも大真面目だ。
「ぶっちゃけさ、出たくないんだよね。旅になんて。だから、いつまでも出なくて済むように、言い訳をずっと並べてるんだ。でも、言い訳の種もいつか尽きるんじゃないかって。わたしはそれがすごく怖いの」
『だから、送橋さんは歌うんですか?』
「そう。暇潰しだからね、全ては」
『暇潰し』
「そう。全力でやらないとさ、いつか暇に追いつかれて、飲み込まれちゃうの。そこからはきっと誰も逃れられないし、みんな見て見ぬふりをしてる。知らないふりをしてる。でもわたしはそれがよく見えてる。いっそ、何も見えなければよかったのにって思う」
送橋さんはギターをスタンドに立てかけた。
壁掛けのアナログ時計は残り時間がもうわずかになっていることを主張していた。
「帰ろっか。片付け方、教えてくれる?」
送橋さんは口元だけで微かに笑い、天を貫くように大きく大きく伸びをした。
二人が肌を重ねるのはいつも送橋さんの自室だった。
「嫌じゃない?」と、最初は紳士に断ってから火を点けていた彼も、二回目からはまるで慣れた喫煙所にいるみたいだった。
灰皿代わりのコーヒー缶も、灰を溜め込みすぎてくたびれているように見える。
送橋さんは流れてくる煙に眉を顰め、身体ごとミムラに背を向けて僕の方に手を伸ばした。
だけどその手は、ミムラによって遮られる。
手を引かれ、くるりと回転した送橋さんの身体はミムラにしなだれかかる体勢になる。
「そんな嫌な顔しなくてもいいのに」
苦笑するミムラ。
僕からは、送橋さんがどんな顔をしているかは見えない。
少しだけ湿った音がして、けほけほと咳き込むような音が続いて聞こえる。
「煙草、嫌いだっけ?」
「好きではないよね」
「そりゃ、悪かった」
ぎゅぎゅぎゅと、缶コーヒーの灰皿に灰が押し付けられる音がする。
「イベントの準備、進んでる?」
「練習はしてるよ」
「見てあげよっか」
「別にいい」
「つれないねえ」
ミムラに対して、送橋さんはずっとこの調子だ。
こんなに冷たいと、好かれていないのかと自分から距離を取ってしまいそうなものなのに、それでもぐいぐい距離を詰めていくのがこのミムラの偉いところだと僕は思う。
少なくとも、僕はそんなキャラには何度生まれ変わってもなれないだろう。
「路上でやんのとステージは全然違うんだぜ。緊張で頭真っ白になっても知らねーぞ?」
「大丈夫。緊張なんてしないから」
「言うじゃん」
ミムラは経験者ぶって鼻で笑うが、自分で言う通り、送橋さんは人前でもまったく緊張しないのだ。
僕だってステージに立った事があるわけじゃないから、ミムラの言うようなステージの緊張感はわからない。
だけど、ステージに立ったぐらいで送橋さんが変わってしまう方が、どちらかと言えば信じられなかった。
ミムラと親しくなった送橋さんは、彼が主催するイベントに出演することになった。
ミムラのイベントがどれほどのものかはわからないが、彼がホームにしている新栄クローバーゼットは、僕ですらその存在を知っていることからも、この辺りではそこそこの位置にあるライブハウスであることも間違いなかった。
ミムラと付き合いのあるバンドやユニットが出演するらしく、送橋さんも〈由宇〉という名前でエントリーさせられていた。
ミムラの言うことをどこまで信用していいかはわからないが、単なる頭数合わせでもないらしい。
「由宇はやれると思ってるから、誘ってるんだぜ」とうミムラはるさいくらいに繰り返すように、 確かに送橋さんはめきめきと腕を上げていた。
ミムラと出会ってから二か月ほどだが、その頃と比べても違う。
今の送橋さんなら、きっといいライブができるだろう。
僕だってそう思う。
だけど、ミムラの盛り上がりほどに、送橋さん自身に火がついていないのもまた事実だった。
「お、」
抱き寄せようとするミムラの腕をすり抜けて、送橋さんはバスルームの方へと歩いていった。
言葉少なな送橋さんの、今日はもうおしまいの合図だ。
ミムラはため息をつき、二本目の煙草に手を伸ばす。
僕の視界の隅で、白煙がくゆり続けている。
やがてバスルームからは艶めかしい水音が響き始めた。
見えているし、聞こえてはいるのに、口は出せない。
そういう状況はわかっていてもストレスが溜まった。
僕にはもう送橋さんを抱き締めるのに必要な様々なものを失くしているから、どうこう言う資格なんてない。
生命の残り滓みたいな意識を、ミムラが溜めた吸い殻の山みたいに燻らせ続けるしかない。
汚れ以上のものを流し落とそうとしているかのように、バスルームの水音は執拗なまでに続いている。
ミムラは不意に大きなため息をついて、吸い殻を乱雑にもみ消すと、ひったくるような勢いで僕に手を伸ばした。
驚きはしたが、声をあげるような間抜けはしなかった。
驚いたところで、飛び上がるような心臓など、僕はもう持っていない。
ミムラはまるでコの字を描くように僕の表面に指を滑らせる。
それは、送橋さんが設定したロック解除のパターンだ。
きっと、何かの機会に送橋さんの手元を見ていたのだろう。
ミムラは今、送橋さんのスマホを覗き見している。
「んん……?」
しばらくスクロールを続けていたミムラが首を傾げるのと、バスルームから送橋さんが戻ってくるのはほとんど同時だった。
「――っ!」
送橋さんはすぐさま駆け寄ってきた。
背面カメラから見る送橋さんはバスタオルすら身に着けていなかった。
無言で僕にとりつき、ミムラの手からむしり取るようにして僕を奪い返した。
「いや、ごめんて。ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
「こんなことするなら、二度と来ないで」
送橋さんは落としたバスタオルを拾うと、僕を掴んだままバスルームの方へ戻り、洗面所のドアに鍵をかけた。
ミムラの表情は僕の位置からはほとんど見えなかった。
送橋さんは僕を洗面台の脇に置くと、項垂れて深いため息をついた。
リビングの方からは、カチャカチャとベルトを締めるような音が聞こえている。
送橋さんは身体も拭かず、前髪からはまだ雫が垂れていた。
「それってさ、流行りのAIってやつ?」
「アンタには関係ない」
何がおかしいのか、洗面台の扉の向こうからは「はは」と乾いた笑いが聞こえた。
送橋さんは洗面台に項垂れたまま、まるで動こうとはしない。
しばらくの沈黙の後、「じゃあ俺、帰るから」と、玄関の扉が開いて閉まる無機質な音がした。
『よかったんですか?』
ワイヤレスイヤホンの接続は切れていた。
僕の声がスマホスピーカーで鳴る。
「いいよ、別に」
『せっかく親しくしてくれてるのに』
言ってから、あまりに皮肉っぽ過ぎただろうかと少しだけ後悔した。
送橋さんは項垂れたまま、口を開こうとしてはやめてを何度か繰り返して、結局黙ったままだった。
僕は僕で、何を言っても失言になりそうな気がして、黙り込むしかない。
送橋さんは蛇口を全開にして、顔を乱雑に洗い、皮膚が傷ついてしまいそうな強さで拭き、僕を掴み、裸のままでベッドに転がった。
送橋さんの腕を雫が伝って、ベッドにいくつも染みが広がっていく。
「軽蔑、してるよね」
『しません』
「嘘」
『セックスはセックスです。それ以上でも以下でもない』
それはおためごかしでも、強がりでもなかった。
心からそう思っているし、たぶん今、僕に身体があったとしても同じことを考えるはずだ。
『セックスは何も証明しませんよ。愛も、恋も、将来も。あるのは、身体をもった人間がそこに二人いるってこと。それだけです』
僕が送橋さんに惹かれたのは、セックスをしたからじゃない。
送橋さんが僕と同じものを見ていて、同じものを見ようとしてくれていたからだ。
僕がギターに求めていたものを、違う形で提示してくれたからだ。
『だって、送橋さんはあいつの首を絞めようとはしないじゃないですか』
もし送橋さんがそうしていたら、僕は彼に嫉妬していたかもしれない。
送橋さんは、僕が僕だったからこそ、僕の首を絞めたのだから。
闇の淵を見ようとしていた僕だからこそ、送橋さんは僕の首を絞めた。
送橋さんが僕の首を絞めたのは、僕を信じてくれていたからだ。
僕以外の誰が、闇の向こう側にあるものを証明しようとするだろうか。
できるはずがない。
僕にしかできない。
送橋さんの両手を受け入れられる僕にしか。
両手を受け入れ、その闇の向こう側から戻って来ることができた僕しか。
送橋さんはずっと裸のままでいた。
身体を伝う雫が流れ尽くそうかという頃に『風邪ひきますよ』と声をかけると、ようやくもぞもぞと起き上がった。
僕に背を向けるようにして立ち上がったので、僕からは送橋さんの顔を見ることはできなかった。
送橋さんはまたふらふらとバスルームに向かった。
さっきのリピート再生を見ているみたいに、バスルームから勢いの良い水音が聞こえてくる。
ベッドに置き去りにされた僕は、それを聞いていることしかできない。
今度のシャワーも、特別長くなりそうだった。
送橋さんの精力的な路上活動は続いていた。
ミムラが主催するライブイベントにはノルマが存在している。
一枚二千円を十枚。
普段は適当にへらへら笑っているミムラも、集客に関しては本気だった。
だけど、送橋さんの路上ライブに集まる人数はどんどん増えていて、十枚程度のノルマの心配はしなくても済みそうだった。
送橋さんはいつも定時で仕事を上がり、家に帰って曲を仕上げ、大曽根に来て歌を歌った。
職場にいる同僚たちは、当たり前みたいな顔をして定時上がりする送橋さんを、あまりよく思っていないようだった。
ただ淡々と仕事をこなす送橋さんには、まるで響いていなかったけど。
頻繁なライブも、歌への真摯さも、熱心な曲作りも、以前の送橋さんじゃないみたいだった。
まるでデビューを目指すシンガーソングライターのようだ。
ミムラ以外にも、ライブの話を持ってくる人間が複数人現れるくらいだった。
『送橋さんは、デビューを目指してるんですか』
と冗談交じりに訊くと、半笑いで「まさか」と返ってきた。
「暇潰しだよ。暇で暇で、仕方がないからさ」
『仕事、あるじゃないですか』
「仕事なんて、頭を使わなくたって出来るよ。頭を使わないとさ、頭が暇になるんだ。そうなると、ろくなこと考えないから。だから、歌ってるの」
『ろくなことって、なんですか?』
「なんだろうね。年金もらえるかな、とか」
もちろん、送橋さんは年金の心配をするタイプではない。
『歌うと頭が暇じゃなくなるんですか?』
「うん。慣れないことだから。ギター弾きながら歌うって、もう何か必死だよね」
必死なんて言葉では、送橋さんの歌は到底言い表せない。
それくらい、送橋さんの歌は鬼気迫る迫力があった。
その歌に誰かの生命がかかっていると言われたら信じてしまいそうになるほど。
ただ自分の中の深淵に潜ろうとしていただけの僕とは違う。
通行人が足を止めるのも当然のことだと思えた。
路上ライブが終わると、送橋さんはいつも言葉少なに去ろうとした。
それでも追いすがってくる人にはライブのチケットを買ってもらっていた。
ギターを担いで、一時間かけて歩いて帰り、ミムラが訪ねてくればセックスをする。
暇潰しだよ――と送橋さんは言った。
その言葉通り、何もせずにただぼうっとしている時間を、ひたすら何かで埋め尽くそうとしているみたいだった。
画用紙に白い部分があってはいけないと思い込んでいる幼稚園児のような必死さで、空白の時間をただひたすら埋めていく。
僕との会話すら、その一つのピースに過ぎないようだった。
何か、とてつもない怪物から逃げようとしているんじゃないかと思った。
その怪物は、少しの空白を与えたら最後、あっという間に宿主ごと食らい尽くしてしまうのだ――そう言わんばかりに、送橋さんは力の限りに逃げ続けていた。
僕には、送橋さんが恐れている怪物が何なのかがわからない。
だって、僕は魂の存在を証明したんだ。
僕の身体が死に、魂だけの存在となって送橋さんのスマホに住みついた。
僕の意識が存在していることそのものが、魂の存在の証明となっている。
それを証明した僕らにとって、もはや死など、恐れる対象足り得ない。
その線引きの向こう側にだって、地平は存在しているのだから。
ライブまであと一週間となった日曜日の昼、送橋さんは「リハーサルスタジオなる場所に行こうと思う」と言った。
『いいですけど、大曽根はいいんですか?』
「ライブまで一週間だから。わたし機材とか使ったことないし、きみに色々教えてもらおうと思ってさ」
『なるほど』
僕をPCのディスプレイに向けてもらいながら、よさそうなスタジオをピックアップした。
混んでいなさそうで、安くて、行きやすいところ。
結論的には守山の方にあるスタジオに行くことにした。
電話すると、空いているとのことだったので、とりあえず三時間押さえてもらった。
駅からは少し距離があったが、髭面長髪のマスターは寡黙な雰囲気で、女一人の送橋さんに対しても余計なことを言わずに準備してくれた。
「何すればいいの?」
『とりあえずスタンド立てましょうか』
このギターにピックアップは搭載されていない。
ピックアップとは、ギターの音を拾い上げて電気的な処理をし、ケーブルを繋いだ先のアンプに出力するための装置だ。
それを搭載していないギターの場合、ギターの前にマイクを設置して、直接音を拾わなければならない。
「スタンドって?」
送橋さんはきょろきょろとスタジオ内を見渡して、スタンドはスタンドでもまったく見当違いの種類のものを持ち上げては首を傾げている。
『ちょっと僕をそのアンプ……黒い箱の上に立ててもらっていいですか?』
「あいよ」
いつものスマホスタンドに立たせてもらう。
これでこの部屋全体が見やすくなった。
『そのミキサー……色々つまみのある機材の隣にある、そうそれです。その折れたところにあるハンドルを回してもらって……あ、それじゃなくて』
どうにか音が出せるというところまで行き着くのにおよそ一時間を費やした。
僕にはもう身体はないのに、なぜかぐったりしてしまった。
送橋さんはと言えば、アンプから出した音に「わあ! わあ!」と、初めておもちゃを与えられた子どものようだ。
「すごいねこの……リバーブ、だっけ? なんか、コンサートホールにいるみたい」
『そういう機能ですからね』
目を輝かせている送橋さんに、あのミムラとの夜の暗さは見当たらない。
暇潰し――その単語が、思考の海の中を幾重にも浮遊している。
送橋さんは何曲か歌った。
その曲のどれも、僕の弾いていた曲とも呼べない曲の断片が組み込まれている。
既に死んでしまっている僕から生まれたものが、形を変えて今、送橋さんの歌の中に確かに息づいている。
全てのものには必ず終わりがあって、例外はない。
それでも、次の一瞬を生きる者のどこかに何かを残せるのだとしたら、理不尽で、無慈悲な終焉からも、逃れることができるんじゃないだろうか。
送橋さんの歌を聴きながら、僕はそんなことを考えていた。
「ねえ」
『はい』
不意に剣呑な声が聞こえた
「さっきから話し掛けてたんだけど」
『本当ですか?』
「聞いてなかったの」
『考え事をしていました』
「何を?」
『死から逃れる方法です』
僕はさっきまで考えていたことを話した。
送橋さんは笑わずに、ちゃんと耳を傾けてくれていた。
「でもそれって、綺麗事じゃない?」
『そうかもしれません』
「もしもわたしの歌が誰かの心に残ったとしても、わたしの意思をそこに残せるわけじゃない。スワンプマンの方がまだまし」
『否定はしません』
「宇宙だって終わるんだよ。そうやって、必死こいて繋いだものだって、いつかは途切れる時がくる」
『それでも、何かが残るとしたら』
熱くなっているな、と思った。
送橋さんの言葉は全て正しい。
僕は極めて観念的な話をしている。
自分でもわかっていた。
ふう、と送橋さんは大きなため息をついた。
もうこの話は終わり――のサインだった。
「相談したいなって思ってさ」
『なんですか?』
「歌う曲の順番……そういうの、セットリストって言うんだっけ? 最後の曲をどれにしようかって悩んでるんだけど、きみはどれがいいと思う?」
送橋さんの歌は甲乙つけがたいほど、どれも好きだった。
ライブの最後を飾るのは、どれが相応しいのか。
考えた末、僕は答えを出した。
『〈旅に出ない理由〉がいいんじゃないかと思います』
ミムラと初めて会った頃にできた曲だった。
ミムラが好きだと言っていた曲でもある。
「もしかして、あいつに気を使ってる?」
『そうじゃないですけど……でも僕もあの曲、好きなんです』
「でも、あれはきみの曲じゃないでしょ」
『送橋さんの曲、いいですよ』
あの曲は、僕のギターを下敷きにせず、送橋さんが一から作った曲だった。
そういう曲は、送橋さんが歌っている十曲のうち、わずか二曲しかない。
その内の一曲がこの〈旅に出ない理由〉だった。
送橋さんの内側から自然と生まれたメロディーだからこそ、僕のギターに引っ張られず、気持ちが素直に表れている気がするのだ。
ミムラが好きだと言ったのも頷ける。
送橋さんは僕のギターの魅力を『揺らぎ』だと言うが、僕からすれば送橋さんの歌こそ闇と光の間で揺らいでいるように見える。
その揺らぎこそが、送橋さんの魅力なんじゃないかと僕は思う。
「わたしはきみのギターの方が好きなんだけど」
『僕は送橋さんの曲が好きです』
「……まあ、きみがそう言うなら」
送橋さんは親指で柔らかく六弦を鳴らした。
重たい弦が振動し、ボディーを揺らしてアンプから淡い音が漏れてきた。
ここは静か過ぎて、ギターの響きが暴力のように襲いかかってくる。
大曽根の雑踏にあるぐらいがちょうどいい具合に紛れるような気がしていた。
「さっきさ、死から逃れる方法って言ったじゃん」
『はい』
「たかがセットリストの話ではあるけどさ。きみが生きた証を残すには、きみの作ったメロディーを選ぶのが一番合理的だとわたしは思うんだけど、そうじゃないの?」
『僕はもう、選んでもらってますから』
「綺麗事はいいよ」
『綺麗事じゃなくて、本当にそう思ってるんです』
送橋さんは、まるで腑に落ちていない、という顔をしている。
僕自身まとまらないまま話しているのだから当たり前なのかもしれない。
『つまり、こういうことです。僕は既に送橋さんから選ばれているんです。送橋さんは僕の曲を聴いて、僕の曲を好きになってくれた。僕の曲は、送橋さんの血肉になって溶け込んで、回り回って、全く違う何かとして、送橋さんのオリジナルとして出力されることになります。送橋さんの中には、もう僕がいるんです。僕が選ばれたのと同じです』
「でも、それはきみの魂とは違うものだと思う」
『違うものです。でも、ある意味では同じなんです』
「……わかんない」
送橋さんはどこか拗ねているようにも見えた。
目を逸らして、抱えたギターに顎をつくようにして。
その仕草が妙に子どもっぽくて、おかしかった。
僕には身体がないので、噴き出すような間抜けな真似はせずに済んだのだけれど。
「わたしは、わたし自身を残したいよ」
『僕も同じです。ただ、こうなったからかもしれませんけど、送橋さんの中にほんの少しでも僕が残っているなら、それでもいいんじゃないか、とも思うんです。〈旅に出ない理由〉には、それがあるんじゃないかと思います』
僕の模倣から始まった送橋さんの音楽の中には、色濃く僕が残っている。
僕の曲を使わなかった〈旅に出ない理由〉だからこそ、それがより鮮明になっているように思う。
僕が散って、溶けて、送橋さんの底に沈殿して。
そして、送橋さんもまた誰かの中に色濃く残って。
そうやって繋がっていくものがあるとしたら、僕は母を飲み込んだあの闇を肯定できるのかもしれない。
この世界を循環する魂の一欠片として。
「……まあ、きみがいいなら、それでいいよ」
まだ何か言いたそうな顔をしながら、送橋さんはもう一度ギターを抱え直し、ナイロンピックをスチールの六弦に当てた。
僅かな金属音はマイクを通してアンプを鳴らし、この部屋全体を微かに揺らした。
旅に出ない理由をいつも探してる
探さなければ見つからないから
歌い始めた頃と比べて、送橋さんの歌は優しくなったように思う。
雨に濡れて柔らかくなった棘のように。
人が人と接する時、必要以上に温かくすることはできなくても、逆に冷たく突き放すこともできないんじゃないかと思う。
生の心を歌った歌を聴いて、足を止めた人に対してなら尚更だ。
『ぱちぱちぱち』
「何?」
『拍手できませんから』
「馬鹿にされてるのかと思った」
『一つ聞いてもいいですか』
「どうぞ」
『送橋さんにとって、旅って何なんでしょうか』
「音楽レポーターなの?」
『送橋さんは僕の推しですから。推しのことなら何でも知りたいんです』
「何それ」
子どもの可愛いいたずらを見た母親のように、送橋さんは肩を揺すった。
僕はこれでも大真面目だ。
「ぶっちゃけさ、出たくないんだよね。旅になんて。だから、いつまでも出なくて済むように、言い訳をずっと並べてるんだ。でも、言い訳の種もいつか尽きるんじゃないかって。わたしはそれがすごく怖いの」
『だから、送橋さんは歌うんですか?』
「そう。暇潰しだからね、全ては」
『暇潰し』
「そう。全力でやらないとさ、いつか暇に追いつかれて、飲み込まれちゃうの。そこからはきっと誰も逃れられないし、みんな見て見ぬふりをしてる。知らないふりをしてる。でもわたしはそれがよく見えてる。いっそ、何も見えなければよかったのにって思う」
送橋さんはギターをスタンドに立てかけた。
壁掛けのアナログ時計は残り時間がもうわずかになっていることを主張していた。
「帰ろっか。片付け方、教えてくれる?」
送橋さんは口元だけで微かに笑い、天を貫くように大きく大きく伸びをした。