あの日から、路上の後は送橋さんの家まで歩き、そのまま泊まっていくのが通例となった。
 それを見越してあらかじめ次の日の準備をしていけば何も問題なかったし、なんならわざわざ自分の部屋に帰る必要があるのかと思ってしまうくらいだった。

「別に、ずっといたっていいんだよ」

 少なくともその言葉は、リップサービスで言っているわけではないように聞こえた。
 その言葉通り、僕は次第に送橋さんの家に入り浸るようになった。
 逆に、ギターだけは必ず僕の家に置きに帰るようにした。
 別に持って来たって構わないと送橋さんは言ったが、ギターを持って大曽根と上前津の間を往復するのは骨が折れたし、あまり甘えてしまうと、自分の部屋を引き払ってしまいたくなる衝動に駆られるのも怖かった。
 あの部屋をどうやって解約するのかはわからないが、保証人になっている父親に連絡がいくのは気が重いのもまた事実だった。

 送橋さんの家にスペアの寝具はなかったので、僕らは一つのベッドで眠っていた。
 初めは遠慮して「床で寝ます」などと言っていたのだが、送橋さんの強い希望により、その申し出は却下された。

 ベッドに入ると、すぐに送橋さんは手や足を絡めてきた。
 ベッドの中の送橋さんはまるで年上とは思えなかった。
 まるで小学生の妹のように甘えんぼになり、僕にありとあらゆることをねだった。
 まあ僕に妹はいないので全て想像だが、そんなに的外れでもないと思う。

 僕らを隔てる衣服はどちらからともなく剥ぎ取られ、肌と肌の境界線がひどく曖昧になる。
 そういうことについて僕はひどく不慣れだったが、何回となく肌を重ねているうちに、段々とうまいやり方がわかるようになってきていた。
 ただ、送橋さんにとって満足のいく動きができていたかどうかはわからない。

 終わった後、送橋さんは必ず馬乗りになって僕の首を絞めた。
 長い間息を止めていられたら、みっともなく咳き込むこともないのだろうけど、苦しそうな僕を見るのが好きなんじゃないかとも思ったので、あえて思いきり咳き込んでみることもあった。
 僕は、できるだけ送橋さんに喜んでほしかった。

「ごめんね、枯野くん。ごめんね」

 首を絞めた後、送橋さんはいつも泣きながら僕に謝った。
 謝る必要はないと何度言っても、送橋さんは謝ることをやめなかった。
 まるで、許そうとしない親に延々と謝り続ける子どものようだった。
 自分が親の目に映っていないのを知っていながら、謝る以外の方法を知らないのだ。

 僕の首を絞める理由を、送橋さんは「落ち着くから」と言った。
 送橋さんの気持ちを落ち着かせることができるなら、僕の首なんかどれだけ絞められたっていい。

 ある日のことだった。
 バイトが終わってから送橋さんの部屋に戻ってきた僕は、ベッドを背もたれにしてうつらうつらしていた。
 毎日夜が遅く、慢性的な睡眠不足になっていた僕は、ほんの短時間でも睡眠を必要としていた。

 突然、僕の首に細くて熱い手がかかった。
 まどろみの縁にいた僕の意識は一瞬で覚醒した。
 何が何だかわからないまま、僕はその人の顔を見た。
 送橋さんだった。
 きれいな化粧を涙でボロボロに崩しながら、髪の毛を振り乱していた。
 昔話に出てくる羅刹とか山姥は、きっとこんな風なんじゃないかと思った。
 心の準備も何もできなかった僕は、送橋さんの握力をまともに食らってしまう。
 目の前の景色がブラックアウトしかけた時、ようやくその戒めは解き放たれた。
 壮絶な咳をして蹲る僕の横にカタカタと振動する送橋さんの足があった。
 僕はどうにか身体を起こして送橋さんを抱き締めると、彼女は胸の中でわんわんと声を上げて泣いた。
 僕はずっと「大丈夫、大丈夫ですから」と、壊れたテープレコーダーのように繰り返し続けるしかなかった。

「何があったんですか?」

 目を真っ直ぐに覗き込んで訊くと、ポツリポツリと言葉が漏れた。

 珍しく仕事が早く終わって帰ってくると、ベッドにもたれ掛かって寝息を立てる僕がいた。
 僕は頭を完全にベッドに預けていて、呼吸のたびに上下する喉仏がなまめかしく蠢いていて、まるで火に誘われる蛾のように僕の首に手を掛けたのだという。

「わたし、枯野くんから離れた方がいいのかもしれない」

 子どもみたいにしゃくりあげながら、どうにか聞き取れるようになった声で、そう言った。
 送橋さんから首を絞められることを、僕が容認しているせいで、送橋さんの中にある衝動の歯止めが利かなくなっているのかもしれない。
 それが完全に失われてしまった時に起こるのは、避けようもなく僕自身の死だ。
 離れた方がいいという送橋さんの主張は、まったくもって正論だ。
 死にたくなければ、離れる以外の選択肢はない。
 だけど僕の口は、そんな一般的な正しさとはかけ離れた意見を紡ぎ出した。

「僕は、嫌です。送橋さんから離れたくありません」

 その言葉に一番驚いたのは、きっと僕自身だったと思う。
 だけど、口に出してみると、自分の気持ちが言葉に沿って形作られていくようだった。

 僕は送橋さんの傍にいたかった。
 そのためなら、他のどんなものを犠牲にしても構わないとすら思った。

「なぜ?」

 溢れ続ける涙をぬぐい続けて、腫れぼったくなってきた目で送橋さんは問い掛けた。「わかりません」と答えたいのは山々だった。
 しかし、どうにかしてこの胸の中にあるわけのわからない気持ちを言語化しなければならない。
 僕は煙が出そうなくらい、酸素の足りていない脳みそをフル回転させた。

「母親が死んで以来、ずっと僕は一人でした。父親には見捨てられたも同然です。送橋さんほど、僕の傍にいてくれた人はいません」
「でも、殺されるのはイヤでしょ」
「積極的に殺されたいとは思いません。でも、この地球上で、僕が殺されても構わない人がいるとしたら、それは送橋さんだと思います」

 話しながら僕は、自分の中にある欲望に気がついてしまう。
 もしも僕が死ぬとしたら、それは送橋さんの手によるものであってほしい――という願いだ。
 母と同じように車に轢かれるのではなく、音楽表現による疑似的な潜航でもなく、送橋さんの手によって死にたい。

「わたし、枯野くんが死ぬの、イヤだよ」
「でも、どうしようもないんでしょう?」

 送橋さんは答えなかった。
 またしくしくと泣き始めた送橋さんを、横から包み込むようにして抱き締めた。
 ちょうど送橋さんの右耳が僕の左胸に当たっていて、うるさいくらいの鼓動が聞こえてしまっているのかもしれない。
 だけど、恥ずかしいとは思わなかった。
 僕は全てを送橋さんに開示した。
 今さら知られて困るようなことは、何一つありはしなかった。

 その日から、大曽根でギターを弾く頻度は極端に少なくなった。
 そもそも、僕がギターを弾いていたのは、母が越えた境界線を見に行くためだった。
 ギターを弾くより原液に近い死を体感できるなら、ギターを弾く理由なんてもうどこにもなかった。

 大曽根に行く代わりに、ドライブする機会が増えた。
 送橋さんの仕事が終わってから、車に乗って高速を飛ばす。
 行き先は決めない。
 送橋さんが適当にハンドルを切るのに任せるだけ。
 三時間くらい走って、山道の途中で車を止め、暗い山林を歩く。
 外界から隔絶された静かなところで、送橋さんは僕の首を絞める。
 もはや、セックスすら必要なかった。
 僕らが求めているのはあくまで死への漸近であり、生殖に伴う快楽など副次的なものだと気づいてしまったからだ。

 首を絞められブラックアウトして、次に気づいた時には泣き腫らした送橋さんの腕の中にいる――そんなことが幾度となくあった。
 また送橋さんのところに戻って来れたという気持ちと、また戻ってきてしまったという気持ち。
 その両方が、僕の中には分かちがたく存在していた。
 生と死は表裏の関係などではなく、まるで双子のように、常に隣り合わせで存在していた。
 その間にある境界線が、いかに薄く曖昧なものかを、僕は実感していた。

 次はもう戻って来れないかもしれない。
 いつしか僕はそう思うようになっていた。
 行く当てのないドライブは、まるで僕の死に場所を探しているようだった。
 静かな川べりもあったし、森の天窓みたいな月光の差す山林の隙間もあった。
 そのどれもが、戻ってきたことを後悔したくなるほど美しい場所だった。

 今日行ったのは、山奥の洞穴のような場所だった。
 山道に車を止めて歩いていると、岩肌に人が入れるくらいの穴を見つけた。
 今日はここだろうと見た瞬間にわかった。
 送橋さんは穴の中に入り、僕を手招きした。
 まるで、美しい死神に招かれているようだった。
 送橋さんは壁にもたれかかるようにして座り、僕はその隣に。
 上半身を送橋さんに預け、その時が来るのを待つ。
 もう、僕らの間に言葉は必要なかった。

 深い闇の中に落ちていく。
 そこに横たわるのは何なのか。もはや僕ではない僕はそれを感覚で理解しようとしていた。
 何もないこと。
 光もなく、音もなく、匂いもしない。
 時間も空間もなく、一瞬で、永遠の世界。

 そして、僕に感覚と時間が戻ってくる。

「おかえり」

 送橋さんの頬に光の筋が輝いていた。
 見ると、洞穴の外に遮るものは何もなく、まん丸い月の光に、僕らは濡れていた。
 首の後ろの温もり。
 僕は、送橋さんの膝を枕にしていた。

「綺麗ですね」
「月が?」
「ええ」

 夏目漱石の有名な翻訳くらいは知っていた。
 もう僕には隠さなければならないものや、恥じなきゃいけないものなどない。
 ただ心に浮かぶものを言葉にすればそれでよかった。

「枯野くんには何が見えてるの?」
「何も」

 何度かに一度、送橋さんはそういうことを訊いてきた。
 正直に答えると、いつも少し寂しそうな顔をする。

「送橋さんにとって都合のいいのはどっちなんでしょうか」
「どっちって?」
「天国があった方がいいのか、ない方がいいのか」
「わかんない」

 笑ってみせるが、その笑顔はひどく弱々しい。

「天国があればいいなって思う。でも、この世になくなってしまわないものなんてないんだろうな、とも思う」
「心の底から信じられる何かがあればいいのかもしれませんね」
「そういうのってもうないじゃない? どこまで行っても脳みそが壊れちゃえばおしまいだって思う。昔の人ってすごいよね。来世で幸せになれるとか、天国に行けるとか、根拠もないのに本気で信じられるんだから」
「根拠がないからこそなのかもしれません」
「それある。今わたしたちが信じてる常識だって、十年後には科学的に否定されてるかもしれない。昔は太陽が地球の周りを回ってるんだって、そう信じない人は非常識とか陰謀論扱いされてたんでしょ?」
「天国とか、永遠だって、いつかは証明されるかも」
「そうかもね」

 けど、その証明だっていつかは覆されるかもしれないのだ。
 そのぐらいのことはわかっているし、わかっているからこそ送橋さんの笑顔はこんなにも弱々しい。
 どこまで行っても、この世界には確かなものなんてない。
 この世界で正しいのは〈無〉だけで、それ以外は全て作り事の嘘っぱちなのかもしれないのに。

 きっと送橋さんの目に映る世界はひどく脆弱なのだと思う。
 全てが壊れやすくて、ふと触れた瞬間ぼろぼろと崩れ落ちてしまうもの。
 ビルの屋上の縁でやじろべえをしている子どもを見ているようなものだ。
 危うくて、恐ろしくて、いっそ壊れてしまった方が安心できるんじゃないかと思う。
 送橋さんが首を絞めるのは、きっとそのせいだ。
 安定させたいのだ。
 やじろべえの揺らぎを止めたい。
 そして、やじろべえを止めるには、その足ごとへし折るしかないのだ。

「送橋さん」
「うん?」
「僕が先に見に行きますよ。闇の向こうに何があるのか」
「でも、行っちゃったら戻って来れないじゃない」
「そうかもしれません」
「でしょ」
「でも、なんとかします」
「なんとかって?」
「化けて出るとか」
「怖いよ」

 送橋さんは僕の頭をずっと撫でてくれていた。
 さっきまで僕の首を万力のように絞めていた、その手で。

「わたしさ、幽霊に会ってみたいんだよ。幽霊がいるなら、人の命が死んで終わりのものじゃないって、少しは信じられるじゃない? でも、わたしは一度も幽霊にあったことない」
「僕がその第一号になります」
「だから怖いって」
「化けて出ると驚かせてしまうなら、何か信号を送るとか、手紙を出すとか」
「ツイッターにリプしてよ」
「それもアリです。でも、僕はツイッターのアカウントを持ってません」
「作ってあげようか?」
「死んでからでいいです」

 〈死〉。
 その単語をきっかけに、僕らの間には長い沈黙が流れた。
 失敗したと思ったが、吐いた言葉はもう一度飲み込むことはできない。
 僕の頭を撫でていた手もいつの間にか止まってしまっている。
 空の月にも、薄い雲がたなびき始めていた。

「僕が向こうに行ってしまったら、約束通りギターはお返しします」
「どうして」
「だってすごく高いでしょ。まかり間違って燃やされたりしたら嫌じゃないですか」
「わたし、ギター弾けないよ」
「僕が教えますよ」
「でも」

 一瞬だけ口ごもる。

「……うん。期待してる」
「どっちみち、大したこと教えられないですけど」
「うん」

 その後、送橋さんはずっと静かに泣いて、泣き疲れて少し眠り、朝日が差し始めたところで二人して車に戻った。
 何も言わない僕らの空気を読まずに、朝からハイテンションなラジオDJがこの世全ての光を集めてこしらえたかのような曲を流す。
 その光は僕らを救いはしないということも知っている。
 そんなまやかしに目を眩ませたまま生きて、そのまま死んでいけるならよかったのかもしれない。
 だけど、幸か不幸か、僕らはこんな風に生まれついてしまった。
 ならば、その落とし前をつけなければならないのだと思う。

 家に着くと、送橋さんはふらふらと仕事に出かけて行った。
 僕は送橋さんのベッドで泥のように眠った。
 夢も何もない、ただ闇に落ちただけの眠り。
 起きたらもう夕方だった。
 僕は顔を洗い、備え付けの鍵で施錠してから送橋さんの家を出た。
 なんとなく、次に送橋さんと顔を合わせた時がその時になると思った。この世で最後にしたいことがあるとしたら、それはなんだろうか――そんなことを考えながら歩いていると、大曽根を通り過ぎた。
 大曽根に来るには、僕の手には得物が足りない。

 最後に一度、送橋さんと出会ったあの場所でギターを弾くのも悪くないだろう。
 そう思った。

 大曽根からの帰り道は、いつもと同じように雑多だった。
 最後だからって、世界は都合よく輝いてはくれない。
 そもそも僕は光っているものや美しいもの、綺麗なものを探しているわけではない。

 目の前にあるものが信じられなかった。
 全てが嘘に見えて、一瞬だけ触れた闇の中の何かだけが真実だと思った。
 その通りに、僕の人生には誰もいなかった。母親は早々に闇の中へと消えて行った。
 父親は僕に触れようとしなかった。
 ただ一人だけ、送橋さんだけが僕に触れてくれた。
 僕の人生にいたのは、送橋さんだけだった。

 大曽根からドームの方へ向かう道を歩き、いかがわしい店があるあたりを左に折れる。
 正面にはニトリやサイゼリヤが入った商業施設がある。

 細い道を行く。
 どこからか鳥の鳴き声が聞こえている。
 ふと気づけばもう秋は深まっていた。

 道に積もった枯葉のように、僕を構成する物質も世界へと還元されていくんだろう。
 僕を形作った細胞や原子、分子は水や空気になり、循環し、また誰かの命を作る。
 ただ、そこにきっと僕の魂はないのだ。
 それでも何か残るものがあるのなら、どうにかして信号を送らなければならない。
 それが、僕に課されたミッションなのだから。

 アパートの門をくぐり、コンクリートの階段を登ると、外廊下の部屋のドアの前に蹲る人影があった。
 その姿を見て、僕は息を飲んだ。

「遅かったな、最果」

 別人のようにやつれた父が、ドアに身体をもたせかけ、自嘲するような笑みを作った。
 そういえば父の笑顔を見たのはこれが初めてかもしれないと、他人事のように僕は思った。