「来月にはこの部署もなくなってるかもなあ」

 マグカップを片手に、送橋さんの背後を通り過ぎようとした男はため息交じりにそう言った。
 いかにも嘆き節なのに、言葉の端にどこか楽しそうな調子が混ざっているのが不思議だった。
 送橋さんはやりかけた作業を中断し、いかにも面倒くさそうに振り向いた。
 デスクに置かれたままの僕は、その様子を視界の端に捉えている。

「何か用?」
「来月の提案、進んでる?」
「見ての通り」

 男はふむふむと送橋さんのディスプレイを覗き込んだ。
 男は訳知り顔で「半分くらいってとこか」と呟いた。
 僕はいつもデスクの上から送橋さんの作業を眺めているのだが、真っ白なキャンパスの上をカーソルや図形、文字がせわしくなく行き交っているばかりで、進捗状況なんて把握しようもなかった。

「全部〈ExcelBird〉ちゃんが考えてくれるなら、俺らがやってきた仕事って一体なんだったんだろうな」

 男の言葉に構わず、送橋さんは作業に戻った。
 彼の嘆きに、送橋さんは全く興味がないようだった。



 僕が送橋さんのスマホに宿ってから、三か月が過ぎようとしていた。
 ろくに休暇も取らなかった八月が終わり、仕事に追われるばかりの九月が台風に吹き飛ばされて消え、気づけば紅葉の十月が到来していた。

 送橋さんの仕事を一言で言えば、企業が作る商品やキャンペーンを一般に広く伝えるために、キャッチーなイメージや宣伝文句を考えて提案する仕事だ。
 こういうクリエイティブな仕事をしたことのない僕には、仕事の内容が全く想像できなくて、今している作業はこの仕事においてどんな役割を担った工程なのかなど、疑問に思ったことを送橋さんに訊いてしまったりもした。
 送橋さんは「やる気あるね。部下に欲しいくらい」と褒めてくれたけど、結局僕には半分も理解できなかった。

 送橋さんの仕事は、ただ黙々と作業するだけではない。
 同僚と会議をしたり、客先に出向いて会議に出たり……素朴な感想としては、送橋さんの仕事はとにかく会議ばかりだった。
 こういう仕事をしたことのない僕は、何をそんなに話すことがあるのだろうと思ってしまったほどだった。
 そういうことを部屋に戻ってから話すと、送橋さんは何が面白かったのか、手りゅう弾が炸裂するみたいに笑った。

「実はね、あの会議の半分くらいは無駄」
『無駄なんですか』
「そう。仕事をしてない人たちが、仕事をした気になるための会議。だってわたしの作ってるプレゼンシートに、あの人とか、あの人とか、あの人の仕事、入ってる?」
『入ってないように見えます』
「適当だよね」
『そんなことでいいんでしょうか』

 人生のすべてを仕事に注ぎ込んでいたような父を基準に考えると、送橋さんの職場にいる人たちはあまりに適当すぎるように感じた。
 仕事がそんな片手間で済むようなものだったら、僕がここまで放っておかれることもなかったんじゃないか。
 送橋さんはからからと笑い、「いいんだよ」と言った。

「仕事なんてさ、所詮は逃避なんだよ。お金がもらえること以外はテレビゲームと何も変わらない。結局は死ぬまでの暇潰しでしかないんだからさ」



 送橋さんのデスクに寄ってきた男は一方的に話し続け、話し終えると満足したかのように去っていった。
 送橋さんが耳にさしたイヤホンはついに気づかれることはなかった。

『送橋さんの部署って、なくなるんですか?』

 返答はない。
 送橋さんの目はディスプレイから剥がれない。

 僕の声は、送橋さんのイヤホンから流れているはずだ。
 生きていた時は、僕は自分が発した声を自分自身で聞くことができていた。
 だけど、スマホとなった僕は自分の身体を振動させて声を出すわけではない。
 内臓されたマイクは自分自身の声を拾ってはくれない。
 自分の声がどう響いているのかわからないというのは、こんなにも不安になるものなのだと僕は知った。

 話しかけてはいけないのかと黙っていると、送橋さんは後ろに身体を反らせて大きく伸びをした。

「ごめんごめん、話しても大丈夫だよ」
『でも、一人で話してる可哀相な人と思われませんか?』
「聞かれても電話してるんだって思われるだけだし。それに、周りには誰もいないから」

 確かに、僕のカメラが写す範囲においては、送橋さんの周りに人はいない。
 この会社のような、決まった席がないオフィスをフリーアドレスというらしい。
 少し前に送橋さんから聞いた。
 送橋さんのような、席に座っている時はただ黙々と作業する人の周りにはあまり人は寄って来ず、気さくにコミュニケーションをとっていそうな人は、いつも人に囲まれている。
 そんな残酷な二極化は、どこか休み時間の教室を思わせた。
 あからさまに孤立している送橋さんに寄ってくるのは、さっきのひょろっとした顎髭の男くらいだ。

「寂しいやつだって、思ったでしょ」
『いえ、そんなことは』
「顔に出てた」
『今の僕に顔はありません』
「あはは」

 送橋さんは少しだけ笑った。
 家にいても、会社にいても、送橋さんはほとんど笑わない。
 彼女が笑っていると、少しだけ安心する。

「確かに、話すのってヤナくらいだからね」
『さっきの男の人ですか?』
「そ。柳沢っていうの。同期入社でね、お節介焼きなんだ」
『いい人なんですね』
「たまに面倒くさいけどね」

 いい人であるのは否定しなかったが、送橋さんが彼に特別な感情を抱くことはなさそうに思えた。
 そのぐらい、彼女が築いている防壁は高く、強固だ。

「あいつ、この仕事好きだからさ。わたしとは違う」
『何かあったんですか?』

 ――全部〈ExcelBird〉ちゃんが考えてくれるなら、俺らがやってきた仕事って一体なんだったんだろうな。

 嘆き節を漏らした時の彼は、寂しそうな顔をしていた。

『さっきの人が〈ExcelBird〉って言ってたんですけど』
「それはAIのこと」

 AI。
 送橋さんと見たテレビのニュースで、その単語が登場していたことを思い出す。

「わたしたちの仕事って、突き詰めれば誰かの心に届く言葉を捻り出すことだから。でも、そういう言葉を瞬時に、勝手に考えてくれる存在が出てきちゃった。わたしたちには給料を払う必要があるけど、AIに給料を払う必要はない。わたしたちは時間かけてウンウン悩むけど、そいつは瞬時にポンって成果物を出しちゃう。だったら、給料を支払う偉い人はどう考えるかって話」
『AIって言うんですか、それ』
「そう、だね」

 なぜか送橋さんは言葉を濁した。

『AIって、機械なんですか?』
「たぶん」
『機械に、人間の心がわかるんですか?』
「どうなんだろうね。でも、あいつらが一瞬で出力した言葉に、何週間も悩み尽くした人間のアイデアが負けることなんてザラだし。もしかしたら、あいつらはわたしたち以上に人間の心がわかってるのかもって、思っちゃうこと、あるよ」

 送橋さんの言葉には、さっきの彼と同種の虚しさが宿っているような気がした。
 仕事なんて、と送橋さんは言うけど、機械に一瞬で取って代わられるのは内心忸怩たるものがあるのだろう。
 僕は、倉庫で僕の何倍もの荷物を運ぶ機械を見ても悔しくはならないが、それは仕事に掛ける僕の気持ちが足らないからなのかもしれない。

『でも、機械に僕らの気持ちがわかるなんて、変な気がしますね』
「どうして?」
『だって、機械は死なないじゃないですか。死なない存在に、いつか死ぬ存在の気持ちがわかるなんて、嘘っぱちな感じがします』

 送橋さんは目を丸くした後、

「それは確かに、そうかもね」

 と何度か頷いた。

『本当は人間の気持ちなんてわからなくて、わかったふりをしているだけなんじゃないかって』
「もしも彼らが人間を擬態しているだけだとしてもさ、その擬態が本当に見事で、誰にも見破れないくらいだったとしたら、それって人間と何が違うんだろうって思わない?」

 反射的に反論しようとして、よくよく考えると、その問いに答えるのは相当難しいことに気づいた。
 見破る方法がない偽物は、本物と何も変わらない。
 見破ることができないからだ。

「スワンプマンって聞いたことある?」
『ないです』

 身体があれば首を振っているところだった。
 生憎僕に身体はない。

「ある人がハイキングに行って、運悪く雷に打たれてしまった。彼は黒焦げになって死んでしまうんだけど、そこで奇跡が起こる。彼の足元にあった泥と雷が化学反応を起こして、黒焦げになった彼と全く同じ身体と、同じ記憶を持つ存在が生まれてしまうの。それが泥男(スワンプマン)。泥から生まれたから、そう名付けられた」
『荒唐無稽ですね』
「思考実験だからね」

 送橋さんは大きく身体を反らせた。

「彼は、黒焦げになった自分を自分とは認識しない。『雷に打たれたけど、俺は運よく助かったんだ』って考えて、そのまま家に帰ってしまう。でも、家族は誰も気づかない。彼は記憶も同じで、身体も同じ。彼自身ですら、自分自身を疑っていないんだから。そこで問題です。スワンプマンは、黒焦げになる前の彼と同一人物だと言えるでしょうか」

 送橋さんは顔の前で手を組んでいて、デスクの上に置かれた僕からは、彼女がどんな顔をしているのかが見えない。
 しばらく考えた後、僕は答える。

『同一人物とは言えないと思います』
「なぜ?」
『だって、彼は雷によって死んでいます。スワンプマンは、あくまで精巧な偽物に過ぎません』

 そこそこ自信のある意見だった。
 送橋さんはすかさず反論してくる。

「でも、誰も彼が偽物だって認識できないんだよ? スワンプマン自身ですら。指紋を調べても、DNA検査をしても、彼が偽物であることは証明できないの。それでも彼が同一人物じゃないって言い切れる?」
『それは……』

 確かに、そこまでしても違いを証明できないのなら、スワンプマンは少なくとも物質的には元の人物と同一であることは認めなければならない。
 だけど、僕らは物質だけでできているわけではない。
 血と骨と肉があれば人間だは言えない。

『……魂があるとしたら、それでいいのかもしれません』
「どういうこと?」
『死んだ彼の魂が泥に宿って、その結果がスワンプマンなんだとしたら、スワンプマンが彼自身だと言っていいと思います。ちょうど、僕のように』

 送橋さんの喉仏が動いて、ごくりと生唾を飲み込む音がした。

『僕が死んで、魂がこのスマホに宿ったのと同じです。僕は僕の身体を失いましたけど、僕は僕です。僕の魂はここにあるんですから』

 送橋さんは大きく息を吐き出して、「それは確かに、そうだね」と言った。

『AIだって同じです。どれだけ精巧に人間を擬態したとしても、彼らは人間とは違います。彼らには、僕ら人間と違って、魂がないんだから』
「わたしたちには、魂があるんだもんね」
『そうです。だから――』

 言葉を続けようとした瞬間、楽しそうにリフレッシュスペースへと向かう女性の集団が送橋さんの後ろを通りがかったのが見えたので、僕は思わず口をつぐんだ。
 彼女らは送橋さんを一瞥もしなかったし、送橋さんもほとんど反応しなかった。
 彼女らが通り過ぎた後にもう一度同じ話をする気にもならず、黙って仕事をする送橋さんを見ていた。



 定時になると、送橋さんは手際よく片づけをしてオフィスを後にした。
 僕が一緒に過ごし始めた当初は毎日残業続きだったのに、よほど外せない会議でもない限りは、残業することはなくなった。

『最近は、仕事忙しくないんですか』
「え? 別に、そんなことないけど」

 ビルのエントランスからエスカレーターで降りていく。
 送橋さんの職場は名古屋駅の真ん前にある。
 巨大な迷路みたいな地下街には、いつも嫌になるほど人が多い。
 耳にイヤホンを差して喋っている人が少なくないので、僕と送橋さんがイヤホンを介して話していても、そこまで目立つことはない。

「なんでそんなこと訊くの」
『だって、最近全然残業しないので』
「なんかね、馬鹿らしくなっちゃって」
『AIのせいですか』
「それもある」

 地下鉄の改札をくぐりかけたところで、送橋さんはぴたりと止まった。
 後方から舌打ちされたのを僕のマイクが集音するが、送橋さんはまるで意に介さない。

「今日は歩いて帰ろっか」
『結構遠くないですか?』
「でもほら、いい天気じゃん」

 ビルの脇にある出口から外に出ると、まだ高い日にレンズを焼かれた。
 最近は少しずつ日が短くなってきたが、まだまだ暑い日が続いている。

『水分補給はした方がいいんじゃないですか?』
「心配してくれてる?」
『だって、暑そうだから』

 この身体になって、暑さを感じなくなったのはいいことだが、僕の外殻が熱くなってしまうのは避けようがない。
 僕はいつも送橋さんの胸ポケットにいるので、僕の外殻と接している部分に汗をかいてしまっているのは、レンズ越しながら察していた。

「じゃあ、そこで水を買っていこう」

 出てすぐの道を折れたところにあった自販機の前で、僕をこちょこちょと操作すると、自販機がピッと鳴って、水のペットボトルがごろんと転がり出してきた。

『便利な世の中ですね』
「使ったことない?」
『残念ながら』

 僕は、小銭入れの中にあるなけなしの硬貨を数えて買ったことしかない。
 その便利さをもう体感することはできないのだと思うと、少しもったいないような気持ちになる。

 送橋さんは右手に僕を持ち、左手にペットボトルを持って、ずんずんと上前津に向かって歩いていく。
 時折何かを思いついたように立ち止まっては何かをスマホに入力している。
 誰かとラインをしたり、ツイッターをしたりしているのではないと、僕は知っている。

『順調みたいですね』
「うん。もう一曲分書けそう」
『すごい』
「すごいのはきみでしょ。これだけの曲を書き溜めたんだから」
『僕は適当にギターを弾いてただけですし。送橋さんみたいに、歌詞を書いたりはできません』
「や、や! こんなん適当だって」

 恥ずかしそうにぱたぱたと僕を振り回すが、歌詞を書いている時の送橋さんの目は、仕事をしている時よりもよほど真剣な光を宿している。

 送橋さんがギターを弾くにあたり、さしあたっての目標は、僕の弾いていた曲を弾くことだった。
 僕はギター一本で伴奏からメロディーまで弾くソロギター方式だったが、送橋さんはギターを弾きながら歌を歌う弾き語りをしたいと言った。
 弾き語りならば、伴奏は最低限の和音をなぞればいいだけなので、そこまで難しくはない。
 問題は、歌の方だ。

『曲はあっても歌詞がないんですけど』
「ないなら、作ればいいじゃない」

 試しに書いたと言っていた歌詞を読ませてもらった限り、僕から見れば、とても素人の書いたものとは思えなかった。

 それ以来、送橋さんは寝ても覚めても歌詞を書き続けた。
 アイデアが浮かべば僕のメモアプリを起動して書き留め、家に帰ってからはギターを抱えて白紙と向き合い、アイデアを練って削って形を作っていった。
 そうして書き溜めた曲は、もう五つ目を数えていた。

『送橋さんの歌詞は、AIには書けないと思います』
「や、そんなことはないよ。ちゃんと指示を出せば書ける。提案書のキャッチだって書いちゃうくらいなんだから」
『AIは歩けないけど、送橋さんは歩ける。送橋さんは、歩いた分だけ歌詞が生まれるじゃないですか』
「確かに、連中は歩けないよね」

 部屋のちゃぶ台に向かって唸っている時よりも、こうして歩いている時の方が生産力が高まるのを、僕はよく知っていた。
 僕をいじる頻度が、歩いている時は段違いになるのだ。

「歩くと血流が良くなって、脳みそへの血のめぐりが良くなるんだって」
『言葉は、血が運んでくるんですか』
「あはは、そうかも」

 横断歩道で止まりながら、歩きスマホであっちこっちに揺れながら、送橋さんはどんどんと歌詞を書き溜めていった。
 歌詞を書いている時の送橋さんの顔は格別で、こんな身体になってしまった僕でも、何度も見惚れた。
 名古屋駅から上前津までは歩けば結構距離があるはずなのに、そうして過ごす時間はあっという間に過ぎた。
 いつの間にか背後のビル群に夕陽が沈んでいったのにも気づかなかったくらいだった。
 送橋さんは近くのコンビニでパスタを買って部屋に戻った。

『たまにはサラダも食べてください』
「きみってさ、たまにお母さんみたいなことを言うよね」

 左手に握ったプラスチックのフォークでパスタを器用に巻きつけながら、右手のペンでがりがり書いていく。
 パスタが消えてからしばらくすると、「できた」と小さな声がした。

「ちょっと聞いてくれる?」

 送橋さんは机の上のスタンドに僕を立てかけ、ギターを構えた。
 ピックも握らず親指で、撫でるようにして弦を柔らかく弾く。
 コードチェンジはまだまだたどたどしいが、ちゃんと曲として聴けるくらいにはなっていた。
 弾き終わると、「……どう?」と不安そうな顔で聞いてくる。

『いいと思います』
「適当に言ってない?」
『僕は、嘘は言いません』

 本当のことを言えば、送橋さんのことを全く知らない第三者が聞いて感動するかと問われると、難しいかもしれない。
 だけど、僕のギターを元にした曲に送橋さんの声と言葉が載っているだけで、泣いてしまいそうになるくらいに感動的だった。
 今の僕に涙を流す器官がないのを悔しく思うくらいには。

「じゃあ、行こっか」
『今日も?』

 大曽根には昨日行ったばかりだ。
 送橋さんはこのところ毎日大曽根に通っている。
 歯を磨いたり、シャワーを浴びたりするみたいに。
 僕に身体があった頃でも、そんな毎日通ったことはない。

「わたしね、ちょっとずつわかってきたんだよ」
『何がですか?』
「毎日歌わないと、下手になるって」

 その言葉には反論の余地がまるでなかった。

 送橋さんは手際よく荷物をまとめると、ギターケースを背負って颯爽と家を出た。
 少しでも早く歌いに行きたいのか、「歩いていこう」とは言わない。
 上前津から名城線に乗って大曽根まで。
 地上に出ると、辺りはすっかり夜だ。
 バスロータリーから少し離れたところに座り、ギターを抱え、譜面台にファイルと僕を乗せた。

「じゃあ、今日もよろしく」

 そう宣言すると、歌い始めた。
 歌うのは専ら、僕が原案を作って、送橋さんが歌詞を書いたあの五曲だけだ。
 たまに酔っ払いが寄ってきて自分勝手にリクエストを告げてくることもあるが、送橋さんはまるで応えない。
 リクエストに応えられるほど色んな曲を知らないというのもあるが、どちらかと言えば、自分の時間を邪魔されたくないと思っているように見えた。

「なんかね、ちょっとずつ上手くなってきてる気がする」
『そう思います』

 それは、お世辞ではなかった。
 固い弦を押さえ続けた左手の指先は鋼鉄のように固くなっていて、僕の表面を鋭く擦った。
 チューニングの狂いにも敏感になってきたし、ただ曲をなぞるだけではなく、そこに表現を込めるという領域に踏み込みつつあるようだった。
 送橋さんの歌は、上手くはないが独特だった。
 一聴してハッと人の足を止めるような力はない。
 だけど、何気なく聴き続けているとほんのりと染みてくるような味がある。
 力や美しさはなくとも、ともすれば、それなしでは生きられなくなってしまうような中毒性が宿っている。
 その底しれない魅力に気づきかけている人も、それなりにはいるように見えた。

『ちょっといいですか?』
「うん?」

 曲と曲の合間、持ってきたペットボトルで喉を潤している送橋さんに話し掛けた。
 歌っている時も、彼女はイヤホンを外さない。
 きっとそれは、僕のためなのだろうけど。

『後ろにいる女子高生の三人組が、送橋さんの歌を聴いてるみたいです』
「へえ」

 送橋さんはあまり興味がなさそうな声を出した。
 僕が知る限り、彼女らは昨日もいた。
 昨日はほとんどこちらに目も向けなかったのに、今日は送橋さんをちらちらと見て、何やらひそひそ話をしているように見える。

「なんかちょっとむずがゆいよね。知らない人に聴かれてるって思うとさ」
『誰にも聞かれたくないなら、リハーサルスタジオに行くという手もありますよ』

 僕もほとんど使ったことはないけど、録音をしたり、マイクやアンプを通して音を出すために二、三度くらいは行った。
 お金はかかるが、あそこならば酔っ払いから酒臭い息で話し掛けられることもないし、誰かに聞かれるのにやきもきすることもない。

「でも、きみはずっとここで弾き続けてたじゃない。誰にも聴かれたくなさそうだったのに」
『それは確かにそうです』
「どうしてきみはここで弾いてたのかな」

 思わぬ方向から水を向けられた。
 僕は送橋さんのスマホという立ち位置に安住しすぎて、自分の身体を持ち歩いていた時のことを思い出しにくくなっていた。
 自分の身体の有無は、思考の在り様にも浅からぬ影響があるのかもしれない。

『あまり自信はないんですけど』
「うん」
『静かなところに一人でいるよりも、騒がしい街の音に包まれている方が、より一人であることを感じられたから、かもしれません』
「一人でいたくなかったってこと?」
『一人になりたいんですけど、本当に一人になりたいわけではないんです』
「でも、干渉はされたくない」
『そうです』
「我儘じゃない?」
「送橋さんも、他人のことは言えないと思います」
「確かにね」

 送橋さんはペットボトルの蓋をきゅっと締めると、小さく肩を揺らした。

「ちょっと、わかる」
『わかってもらえて、嬉しいです』
「でも、わたしはちょっと違うな。なんていうか、一人でいたくないけど、やっぱり一人でいたいんだよ」
『それって同じじゃないですか?』
「微妙に違うと思うよ」

 それは確かにそうかもしれない。
 一人でいたいのに一人でいたくない僕と、一人でいたくないのに一人でいたい送橋さんと。

 出発点は違うのに、結局僕らは同じようなところにたどり着いている。
 それはどこか人間の業のようなものを感じさせて、少しだけおかしかった。
 送橋さんの後方にいた女子高生たちもいつの間にかいなくなっている。
 雑踏の中にいる送橋さんは、川の流れの中にぽつんと置かれた飛び石のように一人だった。

「帰ろっか」

 自己完結のように頷くと、パタンと勢いよくファイルを閉じた。
 ファイルをギターケースのポケットに押し込み、僕を定位置の胸ポケットに入れ、譜面台を畳み掛けたところで、

「終わるの?」

 男の声だった。
 送橋さんは振り返らなかったので、彼の外見はまだ見えないが、年齢は僕どころか送橋さんよりも少し上なんじゃないかと感じた。
 その声にはナンパ目的特有の嫌らしさはなく、本当に残念に思っているような声色だった。

「ちえっ、せっかく早めに切り上げて来たんだけどなあ。遅かったかぁ……」

 送橋さんの手は止まらない。
 完全無視。
 存在自体をシャットアウトしている。
 男は男で、それを咎めるような色を声に出さない。
 譜面台を収納し、ギターケースを背負った送橋さんは、男にまったく構わず歩き出そうとした。

「ちょちょちょ!」

 さすがに焦ったのか、軽い足音とともに男が送橋さんの前に出た。

 ホストっぽい、が彼の第一印象だった。
 明るい髪色、白のTシャツに七分袖のジャケットを羽織って、ボトムスは当然のようにくるぶし丈。
 顎に生えている髭だって無精ではない。
 送橋さんと同じようにギターケースを背負っているが、どこか背負わされている感のある送橋さんと違って、その佇まいが板についている。
 立ち姿だけで、彼の音楽キャリアが浅くないことが感じられる。
 「急いでるので」と避けて去ろうとする送橋さん。

「音源ありますか!?」

 送橋さんが足を止めた。

「音源?」
「いや、もし配信とかしてたら、URL教えてもらえたらなって……あります?」

 送橋さんは男に向き直って首を横に振った。
 メモ程度に、簡単な鼻歌をスマホの録音機能で残したことはあるが、ちゃんとしたレコーディングなんて、僕だってしたことはない。
 送橋さんなら尚更だ。

「ないけど、どうして?」
「いや、お姉さんの曲、結構好きだから。オリジナルでしょ?」
「そうだけど」
「歌詞がすげえいいなって思って。昨日だったかな、たまたま通りがかった時にお姉さんが歌ってるの聴いてたんだ。ほら、あの『旅に出ない理由』ってやつ」

 送橋さんが「あ……」と、男に聞こえないくらいの小さな声を漏らした。

『旅に出ない理由』は、昨日歌詞をまとめたばかりの、まさにできたばかりの曲だった。
 昨日も、まるで身体に馴染ませようとしているかのように、何度も何度も繰り返し歌っていた。

「俺、思ったんですよ。旅ってつまり、命とか、残り時間の言い換えなんじゃないかって。いつか終わりが来るってわかってるからこそ、自分に残された時間がすげえ輝いて見えるって、そういう瞬間のことを歌った曲なんですよね。俺、めちゃくちゃ響いちまって。だから、また会えたら絶対音源教えてもらおうって、思ってたんです」
「ど、どうも」

 送橋さんの声は、嘘みたいにひっくり返っていた。
 今まで見たこともないほどに動揺しているのが、声だけでわかった。
 だが、それも無理からぬことかもしれない。
 彼が話した曲の解釈は、かなりの部分、送橋さんが僕に話したことと重なっていた。
 すれ違っただけの人に、通りすがりに聞こえただけの曲を、ここまで深く理解してもらえるなんて想像すらしなかった。

「俺、ミムラって言って、この辺でよく歌ってます。新栄のクローバーゼットっていうライブハウスでたまにイベントとかやったりしてて……お姉さん、名前、なんていうんすか?」
「あ……おく、送橋、由宇っていいます」
「ユウさん。いい名前っすね!」

 夜が嘘のように、ミムラの笑顔はまぶしかった。
 どことなく、見られることに慣れた人間の笑顔――そんな気がした。

「よかったら場所変えて、ちょっと話しません? せっかく知り合えたんだし、俺、ユウさんともっと仲良くなりたいんで!」

 半ば強引に取られた手だったが、送橋さんは拒まなかった。

 後から思えば、僕はこの時すでに、この後に何が起こるのかを予見していたような気がする。
 もしもその予見を危惧するなら、送橋さんに囁きかけることだって、しようと思えばできたはずだ。

 だけど、僕はそうしなかった。
 その理由は、自分でもよくわからない。

 結局のところ、どこまで行っても僕は人間として生きているわけではなく、送橋さんのスマホに間借りをさせてもらっているだけの存在だ。
 実際に人間として生きている送橋さんの行動に介入する権利なんて、僕にはなかった。

 手を握られた送橋さんがどんな顔をしていたのかを僕は知らないし、特別に知りたいとも思わなかった。
 どちらにせよ僕にはもう、ミムラのように送橋さんの手を握ることは不可能だからだ。

 ただ一つ、送橋さんが彼の首を絞めるのかどうかは気になった。
 今の僕に首はないが、生きている彼には首がある。
 送橋さんが彼の首を絞めた時、すでに終わってしまっている僕は何を思うのだろうか。