まるで死神が命を灯した蝋燭を吹き消すように、駅の照明がふっと落ちた。
隣の送橋さんは「わっ」とその身を微かに竦ませる。
ギターはもうケースに収納した後だった。
前のギターのようなことになってもつまらないので、弾き終わったらすぐに片づけるように心がけていた。
だけど、もしも本当にそう思っているなら、弾き終わったらすぐにこの場を立ち去ればいい。
そうしないのは、僕の隣に送橋さんが座っているからだ。
彼女は、僕が集中している間は決して近づいてこない。
駅の柱に身体を預けて、遠巻きにこちらを眺めている。
今日はもうこれ以上潜れないと思い始めた頃にそろそろと近づいてきて、僕の隣にちょこんと座る。
そのタイミングの完璧さは、まるで僕の気持ちを全て読み取っているかのようだった。
ギターをケースにしまい、片付けが完了したところで「お疲れ様」と、ブラック無糖の缶コーヒーを僕に差し出してくる。
送橋さんが飲むのは決まってミルク入りの微糖だ。
そこからずっと、僕らは話し続ける。
駅の照明が消え、乗降客の流れも徐々に少なくなって、周囲に飲んだくれか半グレくらいしかいなくなっても、まだ居座り続ける。
それが、僕と送橋さんの路上だった。
「大丈夫なんですか?」
「何が?」
「だって今日、平日だし」
「いつものことじゃない」
「それはそうですけど」
この人はまともに社会の中で生きていられるのだろうかと、僕は常々不思議に思っていた。
僕以外の誰かと話しているのなんて一度も見たことがないし、友達から連絡があるような様子もない。
こんなに高価なギターをポンとくれるのだから、お金には困っていないのだろう。
でも、お金に困っていないからといって仕事をしているとは限らない。
親の資産などで、働かなくても死ぬまで食うに困らない人生を送る人間もいる。
そう疑いたくなるほど、送橋さんの雰囲気は浮世離れしていた。
僕は送橋さんと色々なことを話したが、彼女は自分のことを一切話さなかった。
自分の生い立ちとか、出自について話すのはいつも僕で、どれだけ訊ねても、送橋さんははぐらかすばかりだった。
話す内容だって、実にくだらないことだ。
「人間ってさ、死んだらどうなると思う?」
「その話、もう十回はしてません?」
「いいじゃない。こういう話は何回してもいいんだよ」
僕がため息をつくと、送橋さんは決まって微笑む。
いつも夜遅くまで話しているのに、出会ったばかりの頃の疲れた様子はもう見えない。
まるで絵画にでも描かれそうなほどの完璧な微笑みを浮かべる。
「死とは、無の言い換えなんじゃないかと思うことがあります」
何度か繰り返した台詞だ。
それが聞きたかったとばかりに、送橋さんは「うん、うん」と何度も頷き、その度に送橋さんの肩ぐらいまで伸ばした髪が前後に揺れる。
「僕らは生まれてくる前のことを知りません。なぜなら、生まれてくる前、僕らは無かったからです」
「わたしたちは何も無いところから生まれたの?」
「そうです。何も無いところから生まれて、命を使い切ったら無になる。元いたところに戻るんです」
「ふぅん」
ちっとも納得していない笑顔で、送橋さんは頷く。
同意する気はこれっぽっちもないからこそ、軽く頷けるのだろう。
だけど、不思議と虚しさは感じない。
「魂ってあると思う?」
「そもそも、魂が何なのかがわかりません」
「思考っていうのかな、あとは意識?」
「それが魂なんですか?」
「さあ」
送橋さんはぴょこんと首を傾げた。
魂も、思考も、意識も、全て人間が勝手に作った言葉だ。
言葉はただの言葉でしかなく、真実とはかけ離れている可能性もある。
「僕らの思考も行動も、全ては脳みその働きによるものなんじゃないでしょうか。言葉も、感情も、魂も、僕らが『有る』と錯覚してるだけなんじゃないかって。プログラムされた計算機みたいに、そう出力するよう予め決められていたとしたら、僕らに意識や魂なんて、存在するんでしょうか」
「有ると錯覚しているだけで、本当は初めから何もなかった」
「そういうことです」
「じゃあさ、枯野くんはどうしてお母さんの行った先の場所が知りたいの?」
僕は答えられない。
死についての問答はいつも、最終的にはそこに辿り着いた。
理屈で考えれば、魂や霊魂なんて存在しない。
ただ決められた法則に従って動くロボット――それが人間の本質なんだとは思う。
それでも僕らは死んでしまった人の行く先を考えずにはいられないし、死んだ人のために祈りを捧げるのをやめられない。
それは、自分たちの命が特別なものだと信じたい――そんな、悲鳴のような祈りだ。
ふふっと、送橋さんは小さく息を吹き出した。
いわば彼女の勝利宣言のようなものだ。
ただ負けてしまうのが嫌で、半ば凌辱されたような気持ちで、言葉を続ける。
「……嫌なんですよ。母が先に行ったのが、そんな風に何も無い、寂しいところだなんて」
「じゃあ、やっぱり魂はあの世はある?」
「わかりません。理屈で考えれば信じる理由はありません。でも僕の心は全てが理屈でできてるわけじゃない」
「そういうところなのかな。わたしが枯野くんのギターに惹かれるの」
送橋さんは前に置いたギターケースの上に、人差し指をつつつと滑らせた。
「なんか、きみのギターは引き裂かれてる感じがするんだよね。どっちつかずっていうか。絶賛迷子中っていうか」
「……すみません」
「いや、駄目出しじゃなくて。だから、好きなんだよ。わたしもそうだもん。一人で勝手に答え出してる人なんてさ、怖くて近づきたくないじゃん。迷ってる人だからこそ、一緒にいたいって思う。一緒にどこまでも迷ってくれそうだから」
「迷ってるんですか?」
「わたしの人生には迷ってる時しかないよ」
思わず笑ってしまった。
こんな風に、同じ目線で笑い合える人なんて、僕の人生には一人もいなかった。
迷っている自覚もなかったが、送橋さんが一緒なら、迷うのも悪くはないように思えた。
頭上のJRが轟音とともに通り過ぎていく。
終電はもうすぐ終わってしまう。
大曽根から十五分のところに住んでいる僕は歩けばいいが、送橋さんはいつもどこへともなく消えていく。
まさか毎回タクシー使ってるわけでもないだろうが、たまには終電がなくなる前に帰った方がいいんじゃないだろうか。
「そろそろ帰った方がいいんじゃないですか。終電まだ残ってるみたいですし」
「えええ、まだ話そうよ」
「明日も仕事ですよね?」
「気の持ちようだよ」
大人になると、仕事は気の持ちようでなんとかなるのだろうか。
父のことを思い返すと信じられないが、父のような生き方がこの世の中の主流とも思えない。
父と送橋さんのどちらがより普通に近いのか、僕にはわからない。
「ねえ、これからヒマ?」
「この後、家で眠るだけという意味では、ヒマですけど」
路上以外では唯一の予定である倉庫バイトも、明日は休みだ。
「きみも一緒に来てくれるなら帰ってあげる」
「送れってことですか?」
「そう言われるとなんか照れるね」
「まあ……別に構いません」
送橋さんの家がどこにあるのかは知らないが、送るのは別に吝かではない。
僕も一応男なのだし、女性の送橋さんを守る義務が、男の僕にはあるだろう。
「じゃあ、行きましょう。地下鉄ですか?」
「乗らないよ?」
「え?」
送橋さんはニヤリと笑って、駅の向こう側を指さした。
「きみもまだまだ若いんだから、歩かなきゃ」
今さら『やっぱりやめます』とは言えそうにもなかった。
送橋さんの家は、上前津あたりにあるらしい。
国道十九号線と四十一号線がぶつかる高岳交差点辺りで教えてもらった。
最初に教えてもらっていたら、送ることに同意はしなかっただろう。
「あと半分くらいかな。ファイト!」
無責任な励ましの声。
鞄を肩にたすき掛けした送橋さんは身軽だが、僕は片手に重たいギターケースを抱えている。
何度も持ち替えた両手は、攣りそうなくらいに痛い。
どうして家に置いてから来なかったのだろうと何度も悔やんだ。
「重そうだね」
「持ちます?」
「それはまだ枯野くんの物だしねえ」
このギターは借り物で、僕が死んだら送橋さんに返す――そういう約束をしていたことを思い出した。
忘れていたわけではないが、延滞料の発生しないレンタルなんて、もらったのとほとんど変わらない。
「返しましょうか」
「きみが死んだらね。それ以外は受け付けません」
人間、いつ死ぬかなんてわからないが、とりあえず今のところは死ぬ予定はない。
大きなため息をつくと、送橋さんはさもおかしそうにケラケラと笑った。
「実はね、大曽根からはいつも歩いて帰ってるんだよ。すごくない?」
「すごいです」
素直に感心した。
運動は好きじゃないので、必要な移動以外の散歩なんてしたことがない。
しかも、大曽根から上前津までだなんて。
こんな距離を歩く根気が人間に備わっていることすら信じがたかった。
「一時間半くらいかな。きみと別れてから、いつもこうやってぶらぶら歩いて帰るの」
「歩くの、好きなんですか?」
「夜はね。昼の街は嫌い。ごみごみしてうるさいもん」
国道を行く車の数も減り、建物の灯りもまばらで、僕らのように歩いている人すらほとんど見ない。
確かに、昼の街と比べたら静かなのは間違いない。
「でも、静か過ぎるのもだめなんだ。余計なこと考えちゃうから」
「余計なことって?」
「考える必要のないこと」
具体的なことは言わないと、端から決めている口ぶりだった。
僕も、わざわざ突っ込んで訊こうとは思わない。
「いつもこのぐらい静かだったらいいのに。真っ暗闇でもなくて、目を凝らさなくても周りが見えるくらいの暗さがいい。そう思わない?」
「どっちつかずがいい――ってことですか?」
「そうそう! そういうこと!」
送橋さんはバンバンと僕の背中を叩いてくるので、思わずギターを取り落としそうになった。
ケホケホと咳き込みながら非難がましい目で見ると、「ごめんごめん」と笑った。
「小さい頃ね、わたし、空の上には天国があるって信じてたんだ」
手を後ろに組み、大きく背を反らせるようにして星を見上げた。
送橋さんに倣って空を仰ぐと、高架とビルの隙間に星が光っている。
広い国道の向こう側には光の消えたパチンコ屋と風俗店の看板がある。
「天国では、みんな幸せに暮らしてる。空からこっちを眺めて、自分の子どもや孫が元気にやってるかなー、なんて。そんな風にいつまでも幸せに暮らしてるの」
それは、誰もが一度は思い描くような天国じゃないだろうか。
僕もそういうものを想像したことがある。
「天国には苦しいことや悲しいことはないんでしょうか」
「ないよ。そういうくだらないものは全部、下界にしかないの。誰かと自分を比べて悲しくなったりもしない。だって、一生懸命に生きた命だってことは誰もが同じなんだもん。みんな平等で、幸せな世界」
「行きたくなっちゃいますね」
ほんの軽口のつもりだったのに、送橋さんは口が利けなくなってしまったかのように黙り込んだ。
ざっ、ざっ、という互いの足音と、車のエンジン音。
間の抜けた信号の歩行音楽。
ギターケースが軋む音まで、やけに大きく聞こえる。
「宇宙にも終わりがあるって知ってる?」
長い横断歩道を駆け足で渡り終え、若宮大通を右に折れた辺りで、送橋さんは口を開いた。
「考えたこともないです」
「地球や太陽にだって寿命があるんだよ。少しずつ太陽は大きくなって、やがては地球を飲み込んでしまう。それが地球の終わり。そして、太陽もいつかは死ぬ。途方もない時間をかけてね。宇宙も、それと同じなんだって」
送橋さんは空を見上げ続けている。
その目には宇宙の終わりが見えていると言われたら信じてしまいそうだ。
「宇宙って、どんな風に終わるんですか?」
「わかんない。仮説はあるみたいだけどね。宇宙が持ってるエネルギーが全て尽きてしまうとか、誰にも見えないくらいちっちゃくなっちゃうとか、バラバラになっちゃうとか。宇宙だって終わっちゃうんだから、天国だってきっとそうなんだろうなって思ったの。後には、きっと何も残らない。無だけが残るんだ」
それは、僕の直感と似通っている。
『無い』ものは認識しようがない。だってそれは『無い』のだから。
「最終的には何もなくなっちゃうんだから、わたしたちが生きてる意味だって、きっとないんだろうね」
「そういうのって、中学くらいで卒業するって言いません?」
「それ、きみが言う?」
乾いた笑いぐらいしか返すものがなかった。
「全部、なくなるの。人の歴史も、生きた証も、偉大な作品も、くだらない記録も、全部。最後は太陽にのまれて燃えるし、宇宙の終わりと一緒に消えてなくなる。後には何も残らない。時間さえも流れなくなった世界だけが残る。〈無〉だけが、〈有〉るの」
「無いものが有るって、変な物言いですね」
「そう? きみならわかってくれるかもって、思ってるんだけど」
ごうっ――と、歩道にいるのも怖くなるようなスピードで車が走り抜けていく。
後には何も音のない国道だけが残る。
無音の国道を歩きながら、僕は小学生の頃に見たものを思い浮かべていた。
ふっと途切れた記憶と、気づいたら何日も時間が過ぎていたこと。
そこには〈無〉が横たわっていたんだと思い知らされた。
あの時、僕の意識はこの世界から消えていた。世界に本当のものがたった一つあるとしたら、あの日に触れた冷たい感触なのだろうと思った。
〈無〉だけが、〈有〉る。
その矛盾に満ちた言葉が、すっと胸に溶けていく。
溶け残ったその手触りに、きっとこれは僕がずっと探しているものなんだろうと思った。
生涯触り得ないもの。
触れた瞬間、僕らは〈無〉そのものになってしまう。
「怖い?」
「わからないです」
あまりにも途方もなくて、想像することすら許されないような気がした。
本当の闇を、僕はきっと知らないのだろう。
「けど、触ってみたいとは思います。僕がギターを弾くのも、たぶんそのためなので」
「そう」
目の前には広い道路と横断歩道があった。
久屋大通に差し掛かっている。
右手の奥には百貨店が軒を連ねる大津通がある。
その向こうには、このギターを手に入れた楽器店があったのを僕はよく覚えている。
「それっ」
軽い合図とともに、僕らは走り出した。
ケースの中でギターが揺れている。
信号は赤のままだ。
でも、百メートルはある道路に、車は一台も走っていない。
まるで、この一瞬のうちに人が全て死に絶えてしまったみたいだ。
赤い一つ目玉のような歩行者用信号が、ぱっと青に変わる。
その、赤が消える瞬間を、僕は見逃してしまう。
しばらく行くと、送橋さんは細い道に折れていった。
何もわからないままついていくと、あるオートロックのマンションの前で、彼女は立ち止まった。
「ここですか?」
「うん」
「じゃあ、また明日」
何もなく背中を向けようとした瞬間、ギターを持っていない左手をぎゅっと掴まれた。
「上がっていきなよ」
「でも」
「もう遅いしさ」
女性の部屋に簡単に上がり込んではいけない。
世間知らずの僕だったが、そのぐらいの常識は持ち合わせていた。
積極的に上がり込みたいとも思っていなかったし、ほんの少しの期待もなかった。
一般的には、あまり信じてもらえないかもしれないけど。
「取って食いやしないから」
「美味しそうに見えますか?」
「ちょっとはね」
目尻を擦りながら泣き笑いする送橋さんになら、本当に食べられたとしても後悔はないのかもしれない。
何もない部屋だな、と思った。
女性の部屋に対する感想としては失礼にあたるのかもしれないけど。
「ゆっくりしてね」
とりあえず邪魔にならないところにギターケースを置き、ローテーブルの両脇に置かれたクッションのうち一つに座った。
送橋さんは、すぐにキッチンの方に引っ込んでしまって、僕は所在なく座っていることしかできなかった。
その奥に鎮座しているベッドを見てはいけないような気がして目を逸らしていたが、注意を向けざるを得ないほどの吸引力を、そのベッドは有していた。
シーツも枕も、とても綺麗に整えられていて、まるでベッドメイキングが入った後のホテル客室みたいだった。
ホテルなんて、母が生きていた時に一度泊まっただけなのだけれど。
送橋さんは、茶色い液体が入った瓶と氷、空のグラスを二つ載せたトレイを持ってリビングに戻ってきた。
着替えも済んでいた。
柔らかい毛皮のような、ふわふわした薄ピンクの部屋着はまるで毛を刈られる前の羊のようだった。
ボトムは短くて、白い太ももが惜しげもなく目の前に放り出されている。
あまり凝視しないようにしながら、トレイの上の液体を指差した。
「なんですか、それ」
「ウィスキー。飲んだことある?」
「アルコール自体、初めてです」
「じゃあ、これが初体験だ」
送橋さんは手際よく二つのグラスに氷を入れて、ウィスキーを注ぎ、シルバーの棒でさっとかき回して、一つを僕の方に差し出した。
「乾杯」
送橋さんが小さくグラスを掲げたので、それに倣う。
かちん、とグラスが鳴った。
アルコールなんて口にしたこともなかったので、恐る恐る一口だけ含むと、舌が焼けるように熱くなった。
「おいしい?」
「ひりひりします」
ちびりちびりと飲んでいくうちに、徐々に刺激にも慣れていった。
グラスが半分以下にまで減ると、送橋さんは嬉しそうにまた茶色の液体を注いできた。
「いけるクチだ」
「ふわふわしてきました」
身体が火照ってきた。
頬が熱い。
さっきまで歩いてきたせいもあって、ジーンズの尻が湿っている。
少しだけ腰を持ち上げて、下着と肌の間に空気を入れていると、
「なんか、もじもじしてる」
と笑われた。
「お酒、好き?」
「わかりません。初めて飲んだので。でも、今のところそこまで悪くないです」
「よかった」
送橋さんの目がとろんとしてきた。
そのままグラスを傾けるので、僕もそれに倣う。
不意に父のことを思い出した。
父は酒飲みだったが、家では決して飲まなかった。
「私が付き合わないから」と母は言っていたが、僕にはその意味があまりよくわからなかった。
飲みたいなら、一人で飲めばいいじゃないか。
家では飲まず、わざわざ外で飲んで、アルコールの匂いをぷんぷんさせながら帰ってくる父の背中に、心の中ではいつもそんな言葉を投げつけていた。
だけど、こうして送橋さんと一緒に飲んでみると、母の言葉の意味が少しだけわかった気がした。
「どうしたの?」
「いえ、なんでも」
「言いなよ」
ずいっと前に出て、またグラスにウィスキーを注いだ。
なみなみとしていて、飲み切れるか不安な量だった。
言うかどうか迷ったが、結局言うことにした。
言うか言わないかの判断が曖昧になっている。
「僕の父親、家では酒を飲まなくて、それがどうしてなのか、わからなかったんですけど、今日、送橋さんと一緒に飲んで、なんとなくわかった気がして」
「どうしてなの?」
丸いローテーブルの外周を伝うようにして、送橋さんが徐々に近づいてくる。
「一人でお酒を飲むのって、寂しいんじゃないかって。僕の母はお酒が飲めない人でしたから。父は、一人だけで酔っ払うのが寂しかったから、家ではお酒を飲まなかったんじゃないかって、そう思ったんです」
自分で口にして、少しだけ笑いそうになった。
寂しい?
あの父が?
僕を捨てた人間が、寂しいなんて人並みの感情を持っているなど、考えるだけでおかしかった。
「笑ってるの?」
「なんか、おかしくて」
送橋さんとの距離はさらに縮まっていた。
路上で隣に座っている時よりも、さらに。
送橋さんの太ももと、僕のそれとの距離はほとんどなかった。
見ないようにして、グラスに残ったウィスキーを一気に飲み干した。
熱の塊が、胃の底からせり上がってくるようだった。
「おかしくないよ」
「何が」
「寂しいんだよ、一人でお酒を飲むのは」
「送橋さんも?」
「わたしだって、そう」
送橋さんの顔が、目が、唇が僕に近づいてきた。
アルコールに残らずやられた僕の脳細胞は、送橋さんの唇が僕のと重なるまで、目の前で起きていることを何一つ理解しようとはしなかった。
アルコールを含んだ呼気が鼻腔をくすぐる。
こつんと額と額が当たる。
微かな熱が頬をかすめた。
「枯野くんは、寂しくないの?」
「わからないです」
「わたしは、寂しいよ。寂しくて、寂しくて、おかしくなりそうなくらい」
送橋さんの圧に押され、もつれあうように後ろに倒れた。
ふかふかのラグマットのおかげか、後頭部は少しも痛まなかった。
送橋さんの唇が、ついばむように、僕の唇の上を跳ね回る。
それは、小学生の頃に連れて行ってもらった水族館にいた、掃除好きな小魚たちを思わせた。
水槽に手を付けると大量に群がってきて、水中に差し入れた手をついばんでくる。「肌のかすが好物なんだよ。この子達は、私たちの肌をきれいにしてくれるんだ」と母は教えてくれた。 近くに掲示されていた看板によると、その魚はドクターフィッシュというのだそうだ。
取って食いはしないよ、と送橋さんは言っていた。
だけど僕の唇をついばむ送橋さんは、まるであの日のドクターフィッシュだった。
送橋さんは、僕の表面にある古くなった肌を食べて、僕を綺麗にしようとしているのかもしれない。
そしてそれは、送橋さんのためにもなることなのだ。
唇とは独立した動きとして、送橋さんの手がするするとシャツのボタンに降りてきた。
見もせずに、ボタンを一つずつ、器用に外していく。
あっという間にシャツがはだけ、ズボンが降ろされる。
見惚れてしまうほどに流麗な手つきだった。
彼女の右手が僕のトランクスを撫でる。
「あはっ」
送橋さんは玩具を与えられた子どものように笑った。
そこから先のことはあまりよく覚えていない。
互いの身体が混ざり合って、スライムになったらこんな風なんじゃないかと思ったことは覚えている。
送橋さんは周辺の家に聞こえてしまいそうなくらい大きな声を出した。
僕は何もわからないまま、人間がこういう形をしている意味に任せるしかなかった。
気がついたら、僕らは二人並んでベッドの上に寝ていた。
送橋さんは僕の右腕を枕にして、安らかな寝息を立てていた。
その顔は、僕よりも六歳も年上とは思えないほどにあどけなかった。
自由になっている左腕で、その柔らかな髪を撫でたくなってしまうほど。
本当にそうしようかと心の中で迷っていたその時。
(……え?)
送橋さんは突然すうっと起き上がった。
まるで重力を感じない動作。
僕はなぜか寝たふりをしてしまう。
薄く開けた目の向こうで、送橋さんはゆっくりと僕に跨った。
部屋の照明は消えている。
送橋さんがどんな表情をしているのかもわからない。
なんだろう。
また続きをするのだろうか。
彼女は闇に静止したまま動かない。
まるで時が止まってしまったかのように。
雲に隠れた月が顔を出したのか、窓からの光が少しだけ増した。
その光の中にある彼女の表情を見て、僕は身体中が凍りついた。
何も――なかった。
空っぽでもなく、真空でもない。
本当の〈無〉。
温度すらないその表情に、僕の探していたものはこれだったのだろうかと恐れおののいていたその時、彼女の両手が静かに僕の首に添えられた。
ほとんど夏だというのに、その手はひどくひんやりとしていて、添えられた首元から凍りついてしまいそうなほどだった。
送橋さんはゆっくりとその手に体重をかけていった。
僕の気道が塞がれ、酸素が肺へと送られなくなる。
手の力もさらに加わった。
送橋さんはなぜ僕の首を締めているのだろう。
僕が意識できなかっただけで、何か彼女の気に障ることをしてしまったのだろうか。
冷静に考えれば、他人の気分を害したからといって、他人の首を締めていいとはならないのだけど、その時の僕は、送橋さんの行動の原因は自分にあるとしか思えなかった。
その手を受け入れることが自分の義務であり、運命なんじゃないか。
その瞬間はなかなか訪れなかった。
僕の意識が途切れなかったところを見ると、送橋さんの手は僕の頸動脈を塞ぐには至っていなかったのだろう。
息を止めたままでいることぐらいはできる。
それも限界が近づいた頃、僕の喉は自分の意志に反して、
「う、う」
とくぐもった声を出した。
その瞬間、がらんどうだった送橋さんの目に色が戻った。
魂が戻ってきた――そんな感じだった。
パッと手を離し、二、三度首を横に振り、顔を覆ってしくしくと泣き始めた。
急に開いた気道。
僕は何度か咳き込んだ。
「泣かないでください」
「……だって」
ぐすぐすと鼻を鳴らす送橋さんは、まるで小学生の女の子のようだった。
守らなければならないという本能が、僕に送橋さんを抱き締めさせた。
以前送橋さんがそうしたように、僕の腕と胸で、送橋さんの頭をすっぽりと包み込む。
「どうして首を締めたんですか」
送橋さんは答えなかった。
ずっと泣きっぱなしだったから、僕の言葉が届かなかったんじゃないかと思った。
だけど、もう一度それを口にするのはなぜか嫌だった。
僕は、首を締めた理由は知りたかったけど、彼女を責めたいとは思っていなかった。
送橋さんの呼吸が幾分落ち着いてきた頃を見計らって、僕は身体を離そうとした。
送橋さんはまるでUFOキャッチャーのはさみのように腕を使い、腕の下から胴をぐっと掴んで離そうとしなかった。
「どうしたんですか」
「うまく、話せそうにないから」
「聞きます」
「うまくなくても?」
頷くと、僕の顎が送橋さんの頭にコツンと当たった。
「うまくなければ聞いてもらえないなら、僕のギターだって聞いてもらえなかったはずです」
僕と送橋さんの間にあるのはきっと、美しいとか、優れているとか、そういうものではないのだと思う。
送橋さんが僕のギターを聴くのはそういうことではないし、僕が送橋さんの話を聞くのはそういうことではない。
送橋さんは何回か鼻をすすった後、寿命を迎える寸前の羽虫のような声を出した。
「落ち着くから」
「首を締めるのが……ですか?」
送橋さんは頷いた。今度は、送橋さんの頭が僕の顎にごつんとぶつかった。 僕は「なぜ?」と、当然の問いを口にした。腕の中にいる送橋さんが、やけに小さくなる。
「わたしの代わりに、見に行ってくれるんじゃないかって、気がするから」
僕は「何を?」と口にしかけて、その問いが何の意味もないことに気づき、慌てて飲み込んでいた。
「宇宙すらいつかなくなっちゃうって話、したでしょ」
「はい」
腕の中の送橋さんは震えていた。
寒くて震えているというよりは、どこか病的な痙攣を思わせるような震え。
「わたしもね、小学校の高学年くらいの時に父が死んだの。焼き場で焼かれて、骨になったお父さんを見て、そう思ったんだ。怖くて、夜も眠れなくなって、それ以来ずっとそれが怖いの。『無い』のが怖い。命も、意識も、何もなくなってしまうことが怖い。宇宙だって、いつか必ずなくなってしまうんだから」
その震えを止めたくて、より力を入れて送橋さんを抱き締めた。
そうしていると、少しずつ震えは小さくなっていったが、それは彼女の恐怖が小さくなったことを意味してはいないのだろうとも思う。
考えすぎだとか、すぐに忘れてしまうとか、そういう慰めの言葉を彼女は必要としてはいないのだろう。
彼女を救うのはどんな言葉だろうか。
「天国は、信じられませんか?」
「信じてるし、信じようとしてるよ。だけど、ある時にふっと思うのよ。わたしの心は、この脳みそが潰れたら終わるんだろうって。理屈じゃないものは、理屈に勝てない瞬間がある。そんなもの、本当はないんだって、心のどこかでは思っちゃう。だから――」
そこで彼女は黙り込んだ。
その続きは、聞くまでもなかった。
だけど、送橋さんは続きを口にする。
「だから、きみならって思ったの。きみは、自分から進んでそれを見に行こうとしてるから。きみなら、わたしの代わりに、見に行ってくれるかもって」
ようやく彼女の震えが止まった。
そして、考えた。
僕は、送橋さんの代わりにそれを見に行けるだろうか。
僕がギターでしていた潜航などとは比べ物にならない。
崖の辺縁からおっかなびっくり覗き込むだけではだめだ。その淵に身を躍らせたものにしか、それを知る権利は与えられない。
原液の海の底の底を見に行く覚悟が僕にはあるか。
僕は、考えた。
この世に生まれ落ちてから、おそらく一番頭を使って考えたと思う。
それでも、答えは出せなかった。
このままでいてはいけないということだけはわかっていた。
「手を」
「……え?」
「いいから」
僕は送橋さんの両手を取って、僕の首に添え、そのまま後ろに倒れ込んだ。
さっきまでと同じように、送橋さんが僕を押し倒し、僕の首に体重をかけるような体勢になる。
「本当に見に行けるのか、自信はありません。だけど、たまにこうするぐらいなら」
送橋さんの目に理解が灯る。
「い、いいの?」
「僕にできることなんて、このくらいですから」
僕は目を閉じた。
送橋さんがやりやすいように。
送橋さんがゆっくりと僕の首に体重をかけていく。
さっきと同じように、僕の首を通る気道がじわじわと塞がれていく。
酸素の欠乏。
深い闇が横たわる谷底への淵に、ほんの少しだけにじり寄ったような感覚があった。
送橋さんの体勢が少しだけ後ろに傾ぎ、気道が開いていく。
酸素を求める僕の肺が獣のように咳き込む。
送橋さんが不安そうな顔で僕の方を見ている。
「送橋さんの役に立てるなら、嬉しいですから」
大丈夫だと言葉じゃない方法で伝わるように、今までしたことのない笑みを顔中に貼りつけた。
うまくはできていないだろうけど、僕らの間に必要なものはきっとそういう不純物じゃない。
隣の送橋さんは「わっ」とその身を微かに竦ませる。
ギターはもうケースに収納した後だった。
前のギターのようなことになってもつまらないので、弾き終わったらすぐに片づけるように心がけていた。
だけど、もしも本当にそう思っているなら、弾き終わったらすぐにこの場を立ち去ればいい。
そうしないのは、僕の隣に送橋さんが座っているからだ。
彼女は、僕が集中している間は決して近づいてこない。
駅の柱に身体を預けて、遠巻きにこちらを眺めている。
今日はもうこれ以上潜れないと思い始めた頃にそろそろと近づいてきて、僕の隣にちょこんと座る。
そのタイミングの完璧さは、まるで僕の気持ちを全て読み取っているかのようだった。
ギターをケースにしまい、片付けが完了したところで「お疲れ様」と、ブラック無糖の缶コーヒーを僕に差し出してくる。
送橋さんが飲むのは決まってミルク入りの微糖だ。
そこからずっと、僕らは話し続ける。
駅の照明が消え、乗降客の流れも徐々に少なくなって、周囲に飲んだくれか半グレくらいしかいなくなっても、まだ居座り続ける。
それが、僕と送橋さんの路上だった。
「大丈夫なんですか?」
「何が?」
「だって今日、平日だし」
「いつものことじゃない」
「それはそうですけど」
この人はまともに社会の中で生きていられるのだろうかと、僕は常々不思議に思っていた。
僕以外の誰かと話しているのなんて一度も見たことがないし、友達から連絡があるような様子もない。
こんなに高価なギターをポンとくれるのだから、お金には困っていないのだろう。
でも、お金に困っていないからといって仕事をしているとは限らない。
親の資産などで、働かなくても死ぬまで食うに困らない人生を送る人間もいる。
そう疑いたくなるほど、送橋さんの雰囲気は浮世離れしていた。
僕は送橋さんと色々なことを話したが、彼女は自分のことを一切話さなかった。
自分の生い立ちとか、出自について話すのはいつも僕で、どれだけ訊ねても、送橋さんははぐらかすばかりだった。
話す内容だって、実にくだらないことだ。
「人間ってさ、死んだらどうなると思う?」
「その話、もう十回はしてません?」
「いいじゃない。こういう話は何回してもいいんだよ」
僕がため息をつくと、送橋さんは決まって微笑む。
いつも夜遅くまで話しているのに、出会ったばかりの頃の疲れた様子はもう見えない。
まるで絵画にでも描かれそうなほどの完璧な微笑みを浮かべる。
「死とは、無の言い換えなんじゃないかと思うことがあります」
何度か繰り返した台詞だ。
それが聞きたかったとばかりに、送橋さんは「うん、うん」と何度も頷き、その度に送橋さんの肩ぐらいまで伸ばした髪が前後に揺れる。
「僕らは生まれてくる前のことを知りません。なぜなら、生まれてくる前、僕らは無かったからです」
「わたしたちは何も無いところから生まれたの?」
「そうです。何も無いところから生まれて、命を使い切ったら無になる。元いたところに戻るんです」
「ふぅん」
ちっとも納得していない笑顔で、送橋さんは頷く。
同意する気はこれっぽっちもないからこそ、軽く頷けるのだろう。
だけど、不思議と虚しさは感じない。
「魂ってあると思う?」
「そもそも、魂が何なのかがわかりません」
「思考っていうのかな、あとは意識?」
「それが魂なんですか?」
「さあ」
送橋さんはぴょこんと首を傾げた。
魂も、思考も、意識も、全て人間が勝手に作った言葉だ。
言葉はただの言葉でしかなく、真実とはかけ離れている可能性もある。
「僕らの思考も行動も、全ては脳みその働きによるものなんじゃないでしょうか。言葉も、感情も、魂も、僕らが『有る』と錯覚してるだけなんじゃないかって。プログラムされた計算機みたいに、そう出力するよう予め決められていたとしたら、僕らに意識や魂なんて、存在するんでしょうか」
「有ると錯覚しているだけで、本当は初めから何もなかった」
「そういうことです」
「じゃあさ、枯野くんはどうしてお母さんの行った先の場所が知りたいの?」
僕は答えられない。
死についての問答はいつも、最終的にはそこに辿り着いた。
理屈で考えれば、魂や霊魂なんて存在しない。
ただ決められた法則に従って動くロボット――それが人間の本質なんだとは思う。
それでも僕らは死んでしまった人の行く先を考えずにはいられないし、死んだ人のために祈りを捧げるのをやめられない。
それは、自分たちの命が特別なものだと信じたい――そんな、悲鳴のような祈りだ。
ふふっと、送橋さんは小さく息を吹き出した。
いわば彼女の勝利宣言のようなものだ。
ただ負けてしまうのが嫌で、半ば凌辱されたような気持ちで、言葉を続ける。
「……嫌なんですよ。母が先に行ったのが、そんな風に何も無い、寂しいところだなんて」
「じゃあ、やっぱり魂はあの世はある?」
「わかりません。理屈で考えれば信じる理由はありません。でも僕の心は全てが理屈でできてるわけじゃない」
「そういうところなのかな。わたしが枯野くんのギターに惹かれるの」
送橋さんは前に置いたギターケースの上に、人差し指をつつつと滑らせた。
「なんか、きみのギターは引き裂かれてる感じがするんだよね。どっちつかずっていうか。絶賛迷子中っていうか」
「……すみません」
「いや、駄目出しじゃなくて。だから、好きなんだよ。わたしもそうだもん。一人で勝手に答え出してる人なんてさ、怖くて近づきたくないじゃん。迷ってる人だからこそ、一緒にいたいって思う。一緒にどこまでも迷ってくれそうだから」
「迷ってるんですか?」
「わたしの人生には迷ってる時しかないよ」
思わず笑ってしまった。
こんな風に、同じ目線で笑い合える人なんて、僕の人生には一人もいなかった。
迷っている自覚もなかったが、送橋さんが一緒なら、迷うのも悪くはないように思えた。
頭上のJRが轟音とともに通り過ぎていく。
終電はもうすぐ終わってしまう。
大曽根から十五分のところに住んでいる僕は歩けばいいが、送橋さんはいつもどこへともなく消えていく。
まさか毎回タクシー使ってるわけでもないだろうが、たまには終電がなくなる前に帰った方がいいんじゃないだろうか。
「そろそろ帰った方がいいんじゃないですか。終電まだ残ってるみたいですし」
「えええ、まだ話そうよ」
「明日も仕事ですよね?」
「気の持ちようだよ」
大人になると、仕事は気の持ちようでなんとかなるのだろうか。
父のことを思い返すと信じられないが、父のような生き方がこの世の中の主流とも思えない。
父と送橋さんのどちらがより普通に近いのか、僕にはわからない。
「ねえ、これからヒマ?」
「この後、家で眠るだけという意味では、ヒマですけど」
路上以外では唯一の予定である倉庫バイトも、明日は休みだ。
「きみも一緒に来てくれるなら帰ってあげる」
「送れってことですか?」
「そう言われるとなんか照れるね」
「まあ……別に構いません」
送橋さんの家がどこにあるのかは知らないが、送るのは別に吝かではない。
僕も一応男なのだし、女性の送橋さんを守る義務が、男の僕にはあるだろう。
「じゃあ、行きましょう。地下鉄ですか?」
「乗らないよ?」
「え?」
送橋さんはニヤリと笑って、駅の向こう側を指さした。
「きみもまだまだ若いんだから、歩かなきゃ」
今さら『やっぱりやめます』とは言えそうにもなかった。
送橋さんの家は、上前津あたりにあるらしい。
国道十九号線と四十一号線がぶつかる高岳交差点辺りで教えてもらった。
最初に教えてもらっていたら、送ることに同意はしなかっただろう。
「あと半分くらいかな。ファイト!」
無責任な励ましの声。
鞄を肩にたすき掛けした送橋さんは身軽だが、僕は片手に重たいギターケースを抱えている。
何度も持ち替えた両手は、攣りそうなくらいに痛い。
どうして家に置いてから来なかったのだろうと何度も悔やんだ。
「重そうだね」
「持ちます?」
「それはまだ枯野くんの物だしねえ」
このギターは借り物で、僕が死んだら送橋さんに返す――そういう約束をしていたことを思い出した。
忘れていたわけではないが、延滞料の発生しないレンタルなんて、もらったのとほとんど変わらない。
「返しましょうか」
「きみが死んだらね。それ以外は受け付けません」
人間、いつ死ぬかなんてわからないが、とりあえず今のところは死ぬ予定はない。
大きなため息をつくと、送橋さんはさもおかしそうにケラケラと笑った。
「実はね、大曽根からはいつも歩いて帰ってるんだよ。すごくない?」
「すごいです」
素直に感心した。
運動は好きじゃないので、必要な移動以外の散歩なんてしたことがない。
しかも、大曽根から上前津までだなんて。
こんな距離を歩く根気が人間に備わっていることすら信じがたかった。
「一時間半くらいかな。きみと別れてから、いつもこうやってぶらぶら歩いて帰るの」
「歩くの、好きなんですか?」
「夜はね。昼の街は嫌い。ごみごみしてうるさいもん」
国道を行く車の数も減り、建物の灯りもまばらで、僕らのように歩いている人すらほとんど見ない。
確かに、昼の街と比べたら静かなのは間違いない。
「でも、静か過ぎるのもだめなんだ。余計なこと考えちゃうから」
「余計なことって?」
「考える必要のないこと」
具体的なことは言わないと、端から決めている口ぶりだった。
僕も、わざわざ突っ込んで訊こうとは思わない。
「いつもこのぐらい静かだったらいいのに。真っ暗闇でもなくて、目を凝らさなくても周りが見えるくらいの暗さがいい。そう思わない?」
「どっちつかずがいい――ってことですか?」
「そうそう! そういうこと!」
送橋さんはバンバンと僕の背中を叩いてくるので、思わずギターを取り落としそうになった。
ケホケホと咳き込みながら非難がましい目で見ると、「ごめんごめん」と笑った。
「小さい頃ね、わたし、空の上には天国があるって信じてたんだ」
手を後ろに組み、大きく背を反らせるようにして星を見上げた。
送橋さんに倣って空を仰ぐと、高架とビルの隙間に星が光っている。
広い国道の向こう側には光の消えたパチンコ屋と風俗店の看板がある。
「天国では、みんな幸せに暮らしてる。空からこっちを眺めて、自分の子どもや孫が元気にやってるかなー、なんて。そんな風にいつまでも幸せに暮らしてるの」
それは、誰もが一度は思い描くような天国じゃないだろうか。
僕もそういうものを想像したことがある。
「天国には苦しいことや悲しいことはないんでしょうか」
「ないよ。そういうくだらないものは全部、下界にしかないの。誰かと自分を比べて悲しくなったりもしない。だって、一生懸命に生きた命だってことは誰もが同じなんだもん。みんな平等で、幸せな世界」
「行きたくなっちゃいますね」
ほんの軽口のつもりだったのに、送橋さんは口が利けなくなってしまったかのように黙り込んだ。
ざっ、ざっ、という互いの足音と、車のエンジン音。
間の抜けた信号の歩行音楽。
ギターケースが軋む音まで、やけに大きく聞こえる。
「宇宙にも終わりがあるって知ってる?」
長い横断歩道を駆け足で渡り終え、若宮大通を右に折れた辺りで、送橋さんは口を開いた。
「考えたこともないです」
「地球や太陽にだって寿命があるんだよ。少しずつ太陽は大きくなって、やがては地球を飲み込んでしまう。それが地球の終わり。そして、太陽もいつかは死ぬ。途方もない時間をかけてね。宇宙も、それと同じなんだって」
送橋さんは空を見上げ続けている。
その目には宇宙の終わりが見えていると言われたら信じてしまいそうだ。
「宇宙って、どんな風に終わるんですか?」
「わかんない。仮説はあるみたいだけどね。宇宙が持ってるエネルギーが全て尽きてしまうとか、誰にも見えないくらいちっちゃくなっちゃうとか、バラバラになっちゃうとか。宇宙だって終わっちゃうんだから、天国だってきっとそうなんだろうなって思ったの。後には、きっと何も残らない。無だけが残るんだ」
それは、僕の直感と似通っている。
『無い』ものは認識しようがない。だってそれは『無い』のだから。
「最終的には何もなくなっちゃうんだから、わたしたちが生きてる意味だって、きっとないんだろうね」
「そういうのって、中学くらいで卒業するって言いません?」
「それ、きみが言う?」
乾いた笑いぐらいしか返すものがなかった。
「全部、なくなるの。人の歴史も、生きた証も、偉大な作品も、くだらない記録も、全部。最後は太陽にのまれて燃えるし、宇宙の終わりと一緒に消えてなくなる。後には何も残らない。時間さえも流れなくなった世界だけが残る。〈無〉だけが、〈有〉るの」
「無いものが有るって、変な物言いですね」
「そう? きみならわかってくれるかもって、思ってるんだけど」
ごうっ――と、歩道にいるのも怖くなるようなスピードで車が走り抜けていく。
後には何も音のない国道だけが残る。
無音の国道を歩きながら、僕は小学生の頃に見たものを思い浮かべていた。
ふっと途切れた記憶と、気づいたら何日も時間が過ぎていたこと。
そこには〈無〉が横たわっていたんだと思い知らされた。
あの時、僕の意識はこの世界から消えていた。世界に本当のものがたった一つあるとしたら、あの日に触れた冷たい感触なのだろうと思った。
〈無〉だけが、〈有〉る。
その矛盾に満ちた言葉が、すっと胸に溶けていく。
溶け残ったその手触りに、きっとこれは僕がずっと探しているものなんだろうと思った。
生涯触り得ないもの。
触れた瞬間、僕らは〈無〉そのものになってしまう。
「怖い?」
「わからないです」
あまりにも途方もなくて、想像することすら許されないような気がした。
本当の闇を、僕はきっと知らないのだろう。
「けど、触ってみたいとは思います。僕がギターを弾くのも、たぶんそのためなので」
「そう」
目の前には広い道路と横断歩道があった。
久屋大通に差し掛かっている。
右手の奥には百貨店が軒を連ねる大津通がある。
その向こうには、このギターを手に入れた楽器店があったのを僕はよく覚えている。
「それっ」
軽い合図とともに、僕らは走り出した。
ケースの中でギターが揺れている。
信号は赤のままだ。
でも、百メートルはある道路に、車は一台も走っていない。
まるで、この一瞬のうちに人が全て死に絶えてしまったみたいだ。
赤い一つ目玉のような歩行者用信号が、ぱっと青に変わる。
その、赤が消える瞬間を、僕は見逃してしまう。
しばらく行くと、送橋さんは細い道に折れていった。
何もわからないままついていくと、あるオートロックのマンションの前で、彼女は立ち止まった。
「ここですか?」
「うん」
「じゃあ、また明日」
何もなく背中を向けようとした瞬間、ギターを持っていない左手をぎゅっと掴まれた。
「上がっていきなよ」
「でも」
「もう遅いしさ」
女性の部屋に簡単に上がり込んではいけない。
世間知らずの僕だったが、そのぐらいの常識は持ち合わせていた。
積極的に上がり込みたいとも思っていなかったし、ほんの少しの期待もなかった。
一般的には、あまり信じてもらえないかもしれないけど。
「取って食いやしないから」
「美味しそうに見えますか?」
「ちょっとはね」
目尻を擦りながら泣き笑いする送橋さんになら、本当に食べられたとしても後悔はないのかもしれない。
何もない部屋だな、と思った。
女性の部屋に対する感想としては失礼にあたるのかもしれないけど。
「ゆっくりしてね」
とりあえず邪魔にならないところにギターケースを置き、ローテーブルの両脇に置かれたクッションのうち一つに座った。
送橋さんは、すぐにキッチンの方に引っ込んでしまって、僕は所在なく座っていることしかできなかった。
その奥に鎮座しているベッドを見てはいけないような気がして目を逸らしていたが、注意を向けざるを得ないほどの吸引力を、そのベッドは有していた。
シーツも枕も、とても綺麗に整えられていて、まるでベッドメイキングが入った後のホテル客室みたいだった。
ホテルなんて、母が生きていた時に一度泊まっただけなのだけれど。
送橋さんは、茶色い液体が入った瓶と氷、空のグラスを二つ載せたトレイを持ってリビングに戻ってきた。
着替えも済んでいた。
柔らかい毛皮のような、ふわふわした薄ピンクの部屋着はまるで毛を刈られる前の羊のようだった。
ボトムは短くて、白い太ももが惜しげもなく目の前に放り出されている。
あまり凝視しないようにしながら、トレイの上の液体を指差した。
「なんですか、それ」
「ウィスキー。飲んだことある?」
「アルコール自体、初めてです」
「じゃあ、これが初体験だ」
送橋さんは手際よく二つのグラスに氷を入れて、ウィスキーを注ぎ、シルバーの棒でさっとかき回して、一つを僕の方に差し出した。
「乾杯」
送橋さんが小さくグラスを掲げたので、それに倣う。
かちん、とグラスが鳴った。
アルコールなんて口にしたこともなかったので、恐る恐る一口だけ含むと、舌が焼けるように熱くなった。
「おいしい?」
「ひりひりします」
ちびりちびりと飲んでいくうちに、徐々に刺激にも慣れていった。
グラスが半分以下にまで減ると、送橋さんは嬉しそうにまた茶色の液体を注いできた。
「いけるクチだ」
「ふわふわしてきました」
身体が火照ってきた。
頬が熱い。
さっきまで歩いてきたせいもあって、ジーンズの尻が湿っている。
少しだけ腰を持ち上げて、下着と肌の間に空気を入れていると、
「なんか、もじもじしてる」
と笑われた。
「お酒、好き?」
「わかりません。初めて飲んだので。でも、今のところそこまで悪くないです」
「よかった」
送橋さんの目がとろんとしてきた。
そのままグラスを傾けるので、僕もそれに倣う。
不意に父のことを思い出した。
父は酒飲みだったが、家では決して飲まなかった。
「私が付き合わないから」と母は言っていたが、僕にはその意味があまりよくわからなかった。
飲みたいなら、一人で飲めばいいじゃないか。
家では飲まず、わざわざ外で飲んで、アルコールの匂いをぷんぷんさせながら帰ってくる父の背中に、心の中ではいつもそんな言葉を投げつけていた。
だけど、こうして送橋さんと一緒に飲んでみると、母の言葉の意味が少しだけわかった気がした。
「どうしたの?」
「いえ、なんでも」
「言いなよ」
ずいっと前に出て、またグラスにウィスキーを注いだ。
なみなみとしていて、飲み切れるか不安な量だった。
言うかどうか迷ったが、結局言うことにした。
言うか言わないかの判断が曖昧になっている。
「僕の父親、家では酒を飲まなくて、それがどうしてなのか、わからなかったんですけど、今日、送橋さんと一緒に飲んで、なんとなくわかった気がして」
「どうしてなの?」
丸いローテーブルの外周を伝うようにして、送橋さんが徐々に近づいてくる。
「一人でお酒を飲むのって、寂しいんじゃないかって。僕の母はお酒が飲めない人でしたから。父は、一人だけで酔っ払うのが寂しかったから、家ではお酒を飲まなかったんじゃないかって、そう思ったんです」
自分で口にして、少しだけ笑いそうになった。
寂しい?
あの父が?
僕を捨てた人間が、寂しいなんて人並みの感情を持っているなど、考えるだけでおかしかった。
「笑ってるの?」
「なんか、おかしくて」
送橋さんとの距離はさらに縮まっていた。
路上で隣に座っている時よりも、さらに。
送橋さんの太ももと、僕のそれとの距離はほとんどなかった。
見ないようにして、グラスに残ったウィスキーを一気に飲み干した。
熱の塊が、胃の底からせり上がってくるようだった。
「おかしくないよ」
「何が」
「寂しいんだよ、一人でお酒を飲むのは」
「送橋さんも?」
「わたしだって、そう」
送橋さんの顔が、目が、唇が僕に近づいてきた。
アルコールに残らずやられた僕の脳細胞は、送橋さんの唇が僕のと重なるまで、目の前で起きていることを何一つ理解しようとはしなかった。
アルコールを含んだ呼気が鼻腔をくすぐる。
こつんと額と額が当たる。
微かな熱が頬をかすめた。
「枯野くんは、寂しくないの?」
「わからないです」
「わたしは、寂しいよ。寂しくて、寂しくて、おかしくなりそうなくらい」
送橋さんの圧に押され、もつれあうように後ろに倒れた。
ふかふかのラグマットのおかげか、後頭部は少しも痛まなかった。
送橋さんの唇が、ついばむように、僕の唇の上を跳ね回る。
それは、小学生の頃に連れて行ってもらった水族館にいた、掃除好きな小魚たちを思わせた。
水槽に手を付けると大量に群がってきて、水中に差し入れた手をついばんでくる。「肌のかすが好物なんだよ。この子達は、私たちの肌をきれいにしてくれるんだ」と母は教えてくれた。 近くに掲示されていた看板によると、その魚はドクターフィッシュというのだそうだ。
取って食いはしないよ、と送橋さんは言っていた。
だけど僕の唇をついばむ送橋さんは、まるであの日のドクターフィッシュだった。
送橋さんは、僕の表面にある古くなった肌を食べて、僕を綺麗にしようとしているのかもしれない。
そしてそれは、送橋さんのためにもなることなのだ。
唇とは独立した動きとして、送橋さんの手がするするとシャツのボタンに降りてきた。
見もせずに、ボタンを一つずつ、器用に外していく。
あっという間にシャツがはだけ、ズボンが降ろされる。
見惚れてしまうほどに流麗な手つきだった。
彼女の右手が僕のトランクスを撫でる。
「あはっ」
送橋さんは玩具を与えられた子どものように笑った。
そこから先のことはあまりよく覚えていない。
互いの身体が混ざり合って、スライムになったらこんな風なんじゃないかと思ったことは覚えている。
送橋さんは周辺の家に聞こえてしまいそうなくらい大きな声を出した。
僕は何もわからないまま、人間がこういう形をしている意味に任せるしかなかった。
気がついたら、僕らは二人並んでベッドの上に寝ていた。
送橋さんは僕の右腕を枕にして、安らかな寝息を立てていた。
その顔は、僕よりも六歳も年上とは思えないほどにあどけなかった。
自由になっている左腕で、その柔らかな髪を撫でたくなってしまうほど。
本当にそうしようかと心の中で迷っていたその時。
(……え?)
送橋さんは突然すうっと起き上がった。
まるで重力を感じない動作。
僕はなぜか寝たふりをしてしまう。
薄く開けた目の向こうで、送橋さんはゆっくりと僕に跨った。
部屋の照明は消えている。
送橋さんがどんな表情をしているのかもわからない。
なんだろう。
また続きをするのだろうか。
彼女は闇に静止したまま動かない。
まるで時が止まってしまったかのように。
雲に隠れた月が顔を出したのか、窓からの光が少しだけ増した。
その光の中にある彼女の表情を見て、僕は身体中が凍りついた。
何も――なかった。
空っぽでもなく、真空でもない。
本当の〈無〉。
温度すらないその表情に、僕の探していたものはこれだったのだろうかと恐れおののいていたその時、彼女の両手が静かに僕の首に添えられた。
ほとんど夏だというのに、その手はひどくひんやりとしていて、添えられた首元から凍りついてしまいそうなほどだった。
送橋さんはゆっくりとその手に体重をかけていった。
僕の気道が塞がれ、酸素が肺へと送られなくなる。
手の力もさらに加わった。
送橋さんはなぜ僕の首を締めているのだろう。
僕が意識できなかっただけで、何か彼女の気に障ることをしてしまったのだろうか。
冷静に考えれば、他人の気分を害したからといって、他人の首を締めていいとはならないのだけど、その時の僕は、送橋さんの行動の原因は自分にあるとしか思えなかった。
その手を受け入れることが自分の義務であり、運命なんじゃないか。
その瞬間はなかなか訪れなかった。
僕の意識が途切れなかったところを見ると、送橋さんの手は僕の頸動脈を塞ぐには至っていなかったのだろう。
息を止めたままでいることぐらいはできる。
それも限界が近づいた頃、僕の喉は自分の意志に反して、
「う、う」
とくぐもった声を出した。
その瞬間、がらんどうだった送橋さんの目に色が戻った。
魂が戻ってきた――そんな感じだった。
パッと手を離し、二、三度首を横に振り、顔を覆ってしくしくと泣き始めた。
急に開いた気道。
僕は何度か咳き込んだ。
「泣かないでください」
「……だって」
ぐすぐすと鼻を鳴らす送橋さんは、まるで小学生の女の子のようだった。
守らなければならないという本能が、僕に送橋さんを抱き締めさせた。
以前送橋さんがそうしたように、僕の腕と胸で、送橋さんの頭をすっぽりと包み込む。
「どうして首を締めたんですか」
送橋さんは答えなかった。
ずっと泣きっぱなしだったから、僕の言葉が届かなかったんじゃないかと思った。
だけど、もう一度それを口にするのはなぜか嫌だった。
僕は、首を締めた理由は知りたかったけど、彼女を責めたいとは思っていなかった。
送橋さんの呼吸が幾分落ち着いてきた頃を見計らって、僕は身体を離そうとした。
送橋さんはまるでUFOキャッチャーのはさみのように腕を使い、腕の下から胴をぐっと掴んで離そうとしなかった。
「どうしたんですか」
「うまく、話せそうにないから」
「聞きます」
「うまくなくても?」
頷くと、僕の顎が送橋さんの頭にコツンと当たった。
「うまくなければ聞いてもらえないなら、僕のギターだって聞いてもらえなかったはずです」
僕と送橋さんの間にあるのはきっと、美しいとか、優れているとか、そういうものではないのだと思う。
送橋さんが僕のギターを聴くのはそういうことではないし、僕が送橋さんの話を聞くのはそういうことではない。
送橋さんは何回か鼻をすすった後、寿命を迎える寸前の羽虫のような声を出した。
「落ち着くから」
「首を締めるのが……ですか?」
送橋さんは頷いた。今度は、送橋さんの頭が僕の顎にごつんとぶつかった。 僕は「なぜ?」と、当然の問いを口にした。腕の中にいる送橋さんが、やけに小さくなる。
「わたしの代わりに、見に行ってくれるんじゃないかって、気がするから」
僕は「何を?」と口にしかけて、その問いが何の意味もないことに気づき、慌てて飲み込んでいた。
「宇宙すらいつかなくなっちゃうって話、したでしょ」
「はい」
腕の中の送橋さんは震えていた。
寒くて震えているというよりは、どこか病的な痙攣を思わせるような震え。
「わたしもね、小学校の高学年くらいの時に父が死んだの。焼き場で焼かれて、骨になったお父さんを見て、そう思ったんだ。怖くて、夜も眠れなくなって、それ以来ずっとそれが怖いの。『無い』のが怖い。命も、意識も、何もなくなってしまうことが怖い。宇宙だって、いつか必ずなくなってしまうんだから」
その震えを止めたくて、より力を入れて送橋さんを抱き締めた。
そうしていると、少しずつ震えは小さくなっていったが、それは彼女の恐怖が小さくなったことを意味してはいないのだろうとも思う。
考えすぎだとか、すぐに忘れてしまうとか、そういう慰めの言葉を彼女は必要としてはいないのだろう。
彼女を救うのはどんな言葉だろうか。
「天国は、信じられませんか?」
「信じてるし、信じようとしてるよ。だけど、ある時にふっと思うのよ。わたしの心は、この脳みそが潰れたら終わるんだろうって。理屈じゃないものは、理屈に勝てない瞬間がある。そんなもの、本当はないんだって、心のどこかでは思っちゃう。だから――」
そこで彼女は黙り込んだ。
その続きは、聞くまでもなかった。
だけど、送橋さんは続きを口にする。
「だから、きみならって思ったの。きみは、自分から進んでそれを見に行こうとしてるから。きみなら、わたしの代わりに、見に行ってくれるかもって」
ようやく彼女の震えが止まった。
そして、考えた。
僕は、送橋さんの代わりにそれを見に行けるだろうか。
僕がギターでしていた潜航などとは比べ物にならない。
崖の辺縁からおっかなびっくり覗き込むだけではだめだ。その淵に身を躍らせたものにしか、それを知る権利は与えられない。
原液の海の底の底を見に行く覚悟が僕にはあるか。
僕は、考えた。
この世に生まれ落ちてから、おそらく一番頭を使って考えたと思う。
それでも、答えは出せなかった。
このままでいてはいけないということだけはわかっていた。
「手を」
「……え?」
「いいから」
僕は送橋さんの両手を取って、僕の首に添え、そのまま後ろに倒れ込んだ。
さっきまでと同じように、送橋さんが僕を押し倒し、僕の首に体重をかけるような体勢になる。
「本当に見に行けるのか、自信はありません。だけど、たまにこうするぐらいなら」
送橋さんの目に理解が灯る。
「い、いいの?」
「僕にできることなんて、このくらいですから」
僕は目を閉じた。
送橋さんがやりやすいように。
送橋さんがゆっくりと僕の首に体重をかけていく。
さっきと同じように、僕の首を通る気道がじわじわと塞がれていく。
酸素の欠乏。
深い闇が横たわる谷底への淵に、ほんの少しだけにじり寄ったような感覚があった。
送橋さんの体勢が少しだけ後ろに傾ぎ、気道が開いていく。
酸素を求める僕の肺が獣のように咳き込む。
送橋さんが不安そうな顔で僕の方を見ている。
「送橋さんの役に立てるなら、嬉しいですから」
大丈夫だと言葉じゃない方法で伝わるように、今までしたことのない笑みを顔中に貼りつけた。
うまくはできていないだろうけど、僕らの間に必要なものはきっとそういう不純物じゃない。