「なんかこうしてると、寂しい人みたいじゃない?」

 送橋さんはグラスを少しだけ傾け、まるで十代の少女みたいに笑った。
 僕はささやかな抵抗みたいに『みたい、ではないと思います』とだけ言い、隣に置かれた安っぽいケーキに目をやった。

 あのライブの日から、早いものでもう五年以上が過ぎていた。
 当時まだ二十五才だった送橋さんは、今日で三十才になる。

 ――たとえば、きみのために生きるってのはどう?

 あの言葉通り、送橋さんは本当に僕を手放さないまま、三十才を迎えてしまった。

 送橋さんはテーブルのスマホスタンドに僕を載せ、その隣にコンビニで買ってきた三百二十六円のケーキを置いた。
 もちろん、送橋さんの前にもある。
 こういう時、送橋さんは決まって僕の分も買ってくる。
 結局送橋さんの胃袋に収まるのだから意味がないのだが、送橋さんはその儀式をやめようとはしない。
 まあ、買ってくるのはお世辞にも高級とは言えない、どこにでもあるようなショートケーキなのだから構わないのかもしれないけど、少なくとも、一人で三十路を迎える女性が口にしていいデザートではない。
 住んでいる部屋も変わらず上前津の1DKだ。
 内装もほとんど入れ替えていない。まるでこの部屋ごと、時の流れをせき止めてしまったかのようだ。

「寂しくないって。だって、きみがいるもん」
『僕は人間じゃありません』
「いい加減認めなさいって」
『送橋さんは恋人を見つけるべきだと思います』

 この五年間を振り返って、一番その位置に近かった人間は、やはりミムラだったのだと思う。
 しかし送橋さんは、ギターを枯野最果に返して音楽をやめるのと同時に、ミムラとの縁をばっさりと切ってしまった。
 ミムラはミムラで、送橋さんに執着するようなことはなかった。
 僕の目から見ると、二人ともドライすぎる気がする。
 一度そういう話をしたことがあるが、「そんなもんじゃない?」と送橋さんにはまるでピンとこなかったようだった。

「歌ってよ」
『ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデーディア、』

 その後をどう続けようか僕は悩み、悩んだ結果、『……送橋さん』と続けた。送橋さんは破裂したかんしゃく玉みたいに笑った。

「由宇でいいじゃん」
『どうにも抵抗が、ありまして』
「思春期か」
『思春期ですよ』

 少なくとも、僕はそのくらいの年代でコピーされたのだから、僕を思春期と呼んでも間違いではないだろう。

「でも、そうかもね。わたしも実は思春期かも」
『送橋さんは大人じゃないですか』
「ずっと思春期でいたいのよ」

 その気持ちは理解できる気がした。
 だけど、この五年間を思い返すと、それは手にし得ない願いであるようにも思える。
 こんな風になっても僕は色んなことを覚えて、成長する。
 忘れていくものも多いけど、拾って集めたものの数の方が多かった。
 だけどそれは、送橋さんにとってもそうだったのかはわからない。

 幸せだった。
 こんなに幸せでいいのだろうかと思ってしまうくらいに。
 送橋さんは全てにおいて僕を優先した。
 仕事も、大手の代理店から地場のデザイン会社のパートタイマーに変えた。

 送橋さんはいつも僕と一緒にいてくれた。
 それは、翻せば送橋さんは僕以外の人とは関わろうとしなかったということを意味している。

『送橋さん』
「うん?」
『もう僕は、ここにいるべきじゃないと思うんです』
「またその話?」

 送橋さんは露骨にうんざりした顔をした。
 そんな顔をされても仕方がないほど、僕は幾度となくこの話を持ち出していた。

「だから、今度バッテリー交換の予約も取ったし。ちょっと怪しくなってきた部品の交換もまだ間に合うって話だしさ」
『でも、その次はもう難しいと思います』

 僕を収めた機種の型式もどんどん古くなっている。
 メーカーだって、いつまでも交換用の部品をストックしておいてはくれないだろう。
 僕が動けなくなる日は、遠からず訪れる。
 それはまるで、生物にとっての逃れ得ぬ死のように。

「じゃあ言うけどさ、旦那の余命が残り半年だったからって、その場で放り出す妻がいると思う?」
『それは、いるんじゃないですか?』

 んー、と送橋さんは宙を仰いで唸った。

「……いるかもだけど、それはわたしの主義じゃない」
『義理や責任なら、もう十分だと言ってるんです』

 段々と語気が荒くなってきたのを自分で感じる。
 感情が昂っている。
 昂る身体なんてありはしないのに――と、少し前までなら考えていたのかもしれない。
 今の僕の身体は昂るし、熱くなる。
 年もとれば、衰えだってする、ひどく脆弱なものだ。

 言い返そうとした送橋さんの顔が曇った。
 送橋さんは僕の身体に手をやって、その背面を撫でて、手をひっこめた。
 こういう時の僕の身体は、とても熱くなっているのだという。
 使い続けたバッテリーも徐々に膨らみ始め、背面パネルは丸みを帯びている。
 机の上におかれると、丘のようになった部分がゆりかごの支点になっていて、ぐらぐらと安定しない。
 もうこの半年くらいはずっとそんな調子だ。
 ふと気づくと、送橋さんの顔が目の前にあった。

『もしかして、またフリーズしてました?』

 送橋さんは小さく頷く。

『もう、駄目ですね』
「だめじゃないよ」
『この前行った修理の店でも、もう部品がありませんって言われたじゃないですか』
「それはあの店だけでしょ。ネットで探してみたら、完全にサポート終わったわけじゃないって書いてあったし。バッテリーだって交換してもらえばさ」
『それで、五年後に、また同じやり取りをするんですか』

 送橋さんは黙り込んでしまう。
 脇に置かれたケーキはまだ手つかずのままだ。
 冷たいところから出て、いちごの表面は微細な汗をかいていた。
 まだ僕の思考が動いているうちに、言わなければならないことは山ほどある。

『僕、送橋さんの時間をこれ以上止めたくないんです』
「時間は止まらないよ。止められるんなら、苦労なんてしない」
『とにかく、僕にはもう修理は必要ありません。僕はもうこのままでいいんです』

 それだけ言うと、僕の意識はまた途切れた。
 次に気づいたのは真夜中で、僕は送橋さんの枕元に置かれていた。
 すぐ隣には送橋さんの顔がある。
 すうすうと聞こえてくる安らかな寝息には似つかわしくない涙の筋が、疲れて見える顔を輪切りにしていた。
 その目尻には、出会った頃よりも少しだけ皺が増えている気がした。
 僕は送橋さんの顔をなるべく意識しないように、カーテンの隙間から見える星の数を、何度も何度も数え直して過ごした。



 翌朝、何もなかったかのように目覚めた送橋さんは、顔を洗うとすぐに「今日は、お出かけしよう」と言って、車のキーとモバイルバッテリーを持ち出した。
 僕のバッテリーはほとんど機能しなくなっていて、外出する時にはモバイルバッテリーが必需品となっていた。
 まるで点滴ですねと言ったら、送橋さんは露骨に嫌な顔をしたので、それ以来言わないようにしている。

「どこに行きたい?」
『送橋さんが行きたいところなら』
「じゃあ、適当に」

 五年前から乗り続けているワゴンに乗り込む。
 いつものようにホルダーに挟まれると少しだけ落ち着いた。
 モバイルバッテリーのままだとダッシュボードの上には置き場がなく不安定なので、代わりに車から伸ばした充電ケーブルに僕は繋がれた。
 走り出した車は大津通を南に走り、名古屋高速都心環状線へ。
 小牧ジャンクションから中央道へ入り、ひたすら道なりに進んでいく。

『もしかして、あの山に向かってます?』
「あれ、そうかな?」
『道順は』
「やば、全然意識してなかったよ」

 ぺろりと舌を出し、ちょうど表示されたパーキングエリアに入り、自動販売機でブラックコーヒーを買ってきた。
 さすがに僕の分はないが、「いただきます」とキャップを開ける前のコーヒー缶を掲げられた。
 特に何の意味もなく『召し上がれ』と言ってみる。

 車の前にできている水たまりに集まった何匹かの小鳥が、ぴぴぴと囀りながら水たまりの中にいる何かを啄んでいる。
 その光景がたまらなく美しいものに見えて、目を逸らしたくなるけど、僕には目もなければ、映像を自分から遮断する機能も搭載されていない。
 苦し紛れに、『そう言えば、昼間にあの山へ行くのって初めてですね』と話を振ってみた。

「そうかな」
『いつも夜ばかりだったじゃないですか』

 そう言ってから、夜に何度もこの山に来たのは僕じゃなく枯野最果だったことを思い出した。
 それに気づいたか気づいてないかはわからないが、送橋さんはとぼけた顔で、

「そうだったっけ?」

 と首を傾げていた。

 それは送橋さんの優しさなのかもしれないが、気を使われたのかもしれないと思うと悲しくなる。
 泣けもしない自分が悔しくて、僕はまた身体を熱くしてしまう。

 意識は途切れ途切れで、景色は瞬間ごとにぶつ切りになっていた。
 ついさっきまで目的地まで二百キロはあったというのに、次の瞬間にはもうあと五十キロのところまで来ていたりする。
 道のりの大半を僕は覚えていなかった。

 正直言って、いつ終わりになってもおかしくないと思う。
 次に意識が途切れる時が最後かもしれない。
 今見ている送橋さんの顔が、僕がこの世で見る最後になるのかもしれない。

 そもそもこの世という言い方もおかしい。
 〈この世〉というのは、〈あの世〉があることを前提にした言い方だ。
 〈あの世〉なんてないのだから、〈この世〉などと他の世界との差別化をはかるための言い方なんて必要ない。

 〈この世〉が終われば、終わり。
 この意識が途切れたら、それで終わり。

 僕が闇の淵だと思っていたそこには、何もなかった。
 闇すらもない、本当の〈無〉。
 わかっていたはずなのに、その本当の意味が、僕には理解できていなかった。
 五年前に生まれた僕の意識は途切れながら、一歩一歩そこに向かって歩みを進めていく。
 足を止めることはできないし、そもそも僕には足なんてない。

『……ごめんなさい』
「どうしたの」
『僕は……枯野最果は、本当は、送橋さんの気持ちなんてこれっぽっちもわかってなかったんじゃないかって、思ったんです』

 闇の淵を見ようとして、その寸前になって身を翻した彼のことを思う。
 その淵に身を投じる直前になって、そこに落ちたらもう二度とこの世に関われないと気づいてしまった彼のことを。
 送橋さんは、ずっとそこを見つめていたのに。

「枯野くんのことは、もうわかんないけど」

 送橋さんはエンジンスイッチを押した。
 ぶるんと車体が揺れる。
 そろりと動き出した車に、水たまりにいた小鳥が弾けるように散って、青い空へと飛び去って行く。
 送橋さんはバックしかけた車を止め、飛び去って行った先の空を覗き込んでいる。

「でも、きみのことならわかる気がするんだ。もう長いからね、わたしたち」
『……なら、嬉しいです』
「わたし、思ったんだよ。もしきみがスワンプマンで、あの時の枯野くんのカーボンコピーだったとしても、きみには魂があるんじゃないかって」

 がくんと車体が揺れた。
 勢いよく車が後ろに下がり、その勢いで隣の車にぶつかりそうになって止まった。
 「あーあぶな!」と送橋さんは笑っている。

『どういう意味ですか?』
「だからさ、枯野くんに魂があるように、きみにも魂があるんじゃないかってこと。きみの魂はあの山で生まれたの。踵を返すしかなかった枯野くんの後悔が、わたしのスマホに魂を生み出したんだ。だってあんな、セックスみたいなつまらないことだって魂が生まれるんだよ? 強い気持ちが何かを生み出すのって、そんなに変なこと?」

 僕は答えられない。
 考えたこともない言葉に、混乱もしていた。
 エンジンが唸りを上げ、送橋さんの運転するワゴンは高速道路の暴力的な流れに溶け込んでいく。
 その流れは、遥か天空を流れる星の流れを思わせた。

 大きな星があって、小さな星があって、それが無数に連なって、大きな流れを形成している。
 その星々がどこから生まれたのかを僕らは知らない。

 どこで生まれて、
 どこに行きついて、
 なんのために、
 誰のために輝いているのか。

 その営みは不可思議で、深くて、大きくて、まるで川のようだと、僕は思った。

「だから、今のわたしは、そんなに怖くないの。首だって、絞めてないでしょ?」
『僕には首が、ありませんから』
「きみの呼吸を止めるのは、無理だからね」
『そもそも呼吸してませんし』
「したこともないし?」
『そういうことです』

 僕らは笑った。
 送橋さんのハンドルが揺れて、隣の車の運転席がぎょっとした顔をした。
 僕の身体は笑えないけど、僕の中にあるはずの魂で、僕は笑った。

『送橋さん、もし僕がこのまま止まってしまったら、僕はそのままあの山に埋めてください』
「やだよ。修理に出すんだから」
『それでも直らなかったら、でいいです』
「直るよ。直るに決まってる」
『お願いしました』

 もしも僕に魂があるとしたら、それはこの身体のどこにあるのだろうか。
 CPUか、メモリーか、あるいはバッテリーなのか。
 人体に備えられた器官とスマホの構造を照らし合わせながら、無為に考え続けた。
 致命的な部品を交換した僕は、僕のままでいられるのだろうか。
 それはスワンプマンと何が違うのだろうか。

「また黙る」
『すみません』
「いいよ。それがきみだもんね」

 送橋さんは笑った。
 心の中で、僕も笑った。

 それから僕らはまた長い沈黙を過ごした。
 話したいことはいくらでもある気がするのに、言葉にすると全てが陳腐になってしまう気がした。
 あの山まで、まだまだ先は長い。
 何度か意識を失うとしても、まだいくらかは話もできるだろう。
 何の根拠もないのに、僕はそう思っている。

 僕らはやがてあの山に着くだろう。
 その時に僕の意識は止まってしまっている可能性もゼロではない。
 可能性は常に存在している。
 だけどその時、僕の抜け殻を送橋さんの手で、あの洞穴の奥に埋めてもらえるのなら、それはとても幸せなことなのだろうと僕は思う。

〈了〉