***

 私はたぶん、人より欠けている部分が大きいんじゃないかって思うんだ。

 例えば、仕事になると狂ったように燃えて大きなプロジェクトを何個も同時に熟せるのに、家に帰った途端に廃人みたくなってしまって、家事も掃除も何もできなくなってしまったり。

 例えば、いつだって表情はニコニコしているのに、心の中では常に誰かと競い合っていなくちゃ自分を保てなかったり。

 例えば、未だに……彼氏がいないことだったり。


***


 「──え?えっと……え?ごめん、二人とも。もう一回言ってくれない?」

 私たち三人が"いつものところ"と呼び合う居酒屋『のんべぇ』の、一番奥の個室。

 昔、『あの三人は飲んだらうるさいからあそこに閉じ込めておけ』と店長に指定された特別席で、私はジョッキを片手に大きく目を見開いて二人の顔を交互に見合わせた。


 「わたしね、ついに離婚できることになったんだよぉ」

 「だから、あたしは両親に女が好きだって言ったら明らかに気まずくなっちゃったから、家を出ようと思うって言ったんだよ」

 「い、いやいや待ってよ!情報過多だよ!」

 大学を卒業してから半年後に結婚し、今は六歳になる娘がいるエンちゃんこと縄田 円(なわた まどか)と、アパレルショップの店長に昇進したばかりの浅木 結衣華(あさぎ ゆいか)とは、六歳のころからの幼なじみだ。

 三人とも同じ高校を卒業してから、エンちゃんは実家から通える私立大学に進学し、結衣華はファッションの専門学校へと進んだ。かくいう私は、親からの『法学部に行け』という重圧を跳ね除けて、なんとか希望どおり国立大学の外国語学科に進学することができた。

 三人とも進路は違えど、毎日のように連絡は取り合っていたし、社会人になった今でもこうして数ヶ月に一度のペースで会うくらいには仲がいい。

 だから今回の飲み会も、いつもと同じような温度感で、最近あった出来事や愚痴をこぼすような、そんな会になるものだとばかり思っていた。

 それがどうだろう。まるで人生の分岐点になるような、あまりに大きな出来事を二人から同時に言いだされたせいで、今日は気持ちよく酔ってやろうと思っていた私の計画は一瞬にして総崩れとなった。


 「ま、まずはエンちゃんね?えっと、ついにあのモラハラ旦那と離婚できた……ってこと?」

 「うーん、まだ調停中なんだけどねぇ。でも担当の弁護士さんはほぼ確実に離婚もできちゃうし、親権も取れますって言ってくれたんだぁ!」

 「そ、それはおめでとうって言っていい……んだよね?」

 「もちろんだよぉ。やっとあの地獄から抜け出せたんだもん」


 エンちゃんは大学を卒業してすぐに入社した会社で、鬱病になった。

 勤め先の会社が相当なブラック企業で、なおかつ度を越すほどのパワハラ上司の元で働いていたせいで、社会人三ヶ月目に突入するころには、どんなときも食欲旺盛だったエンちゃんがご飯を食べられないほどに病んでしまっていた。

 そんなときに出会ったのが、同じ会社の別部署の先輩であり、後に彼女の旦那となる男だった。そして半年も経たずに二人はスピード結婚を果たし、エンちゃんは寿退社を決め、二年後には可愛い子供にも恵まれた。

 それ以来エンちゃんは一度も働きには出ず、ずっと専業主婦として過ごしてきている。


 「おめでとう、エン。やっとあのクズ旦那と離婚する決意をしたことがまず偉いよ」

 「えへへ。ありがとう、結衣華ちゃん」

 「ドラマに出てくるようなモラハラ旦那だったもんね。私も結衣華も、エンちゃんの話聞くたびにはらわた煮え繰り返ってたもん」

 「アハハ!本当だよねぇ、よく十年も一緒にいたんだって自分に感心しちゃうよぉ」


 人は良くも悪くも年を重ねていくうちに変わっていく、というけれど、エンちゃんの旦那は悪いほうへ変わっていってしまった。

 最初は家事や掃除の仕方を細かく指示してくるようになって、そしてそれがだんだんと金銭面でも指摘が入るようになり、エンちゃんは毎月のお小遣いを三千円にまで下げられた。

 次第に『料理がまずい』、『お前も働きに出ろ』『俺が稼いでやっているのに』『養われている分際で生意気だ』だなんて、まるで定型文のようなモラハラ発言を繰り返されるようになって、そこへ義母まで参戦してくる有様だった。

 それでもエンちゃんは耐えていた。

 働くことができなくなった自分の環境を変えてくれた、唯一の人だったから。それになによりも、娘から父親という存在を奪わせないために必死だったんだと思う。

 そんなエンちゃんが、このたび離婚を決めたのだ。きっと相当な何かがあったに違いない。



 「力になるからね、エンちゃん。なんだったらウチの姉か兄を召喚しても……」

 ビールジョッキを机に置いて、真っ直ぐにエンちゃんと向かい合った。

 「ふふっ!千里ちゃんのお兄さんもお姉さんも弁護士さんだもんねぇ。でもあんな優秀な弁護士さんに依頼できるほどお金持ってないよぉ」

 「いつでもあたしたち二人はさ、エンの味方だから」

 「……ありがとう、結衣華ちゃんも」

 エンちゃんはそう言って笑った。その笑顔は少しだけ、窶れて見えた。

 テーブルに置かれたたくさんのつまみは、今日は一向に減る気配を見せない。

 いつもなら『足りない』『もっと頼もう』と、最初のうちから飛ばしてしまうせいで、最後はお腹がはち切れそうになりながら、ジャンケンに負けた人がひとくちずつ残ったものを食べていくという地獄の時間が訪れるのが毎度のお決まりだったはずなのに。



 「で、次は結衣華の番だけど……」

 すっかり冷えたなんこつの唐揚げを口に入れながら、私は結衣華のほうを見た。

 結衣華は話を振られると、自分を嘲笑うようにフッと鼻を鳴らしながら頬杖をついて目を細める。

 「あたしはエンみたいに重たい話じゃないんだけどさ?ただ両親に『実は女が好きなんだよね』ってカミングアウトしたら、明らかに態度が変わってきて居づらくなったから、家を出ようと思うってだけの話」

 「そもそも、どうして親に言おうと思ったの?」

 結衣華の恋愛対象が女性だということは、高校三年のときにはじめて知った。いや、知ったというより、今みたいにサラッと何事もなく突然打ち明けてきたのだ。

 エンちゃんと結衣華の三人で、お昼休みにトイレの鏡で身なりを整えていたとき、それはもう、本当にサラッと。

 あのとき私は使っていた櫛を手洗い場の中に落とし、エンちゃんはリップの芯をポキッと折った。



 「彼女とね、同棲しようって話が出たの」

 「ど、同棲!?」

 「うん。だからいい機会だなと思って親に打ち明けてみたんだよね。あわよくば紹介してもいいかな、くらいの気持ちでさ」

 「そう、だったんだ」

 「まぁ、でも現実はそんなに甘くはなかったみたい。彼女にも『なんで親に言ったのよ!』『結衣華の親に会いたいなんて言ってないし!』ってキレられて別れる寸前だしね、今」

 結衣華は見た目でよく『サバサバしてそう』と周りから言われてきていた。実際に彼女はこの三人の中で誰よりもあっさりしているし、あまり物事に執着するような性格でもないと思う。

 けれど、本当の彼女は他人に対してすごく誠実で、卑怯なことは絶対にしない。それに、普通なら『まぁ、いっか』と言って見過ごしてしまいがちな小さなルールを破ったりすることもしないから、人間的にもものすごく信頼のおける存在となっている。


 女三人が長年一緒にいれば、一度や二度は大きな喧嘩騒動が勃発してしまうものだけれど、私たちの間にそういった噴火が一度も起こらなかったのは、結衣華の功績が大きいってことを私は知っている。

 だから彼女さんとの同棲の件も、きっと結衣華は本気で考えていたはずだ。親に打ち明けて、紹介もして、一つずつ段階を踏んでクリアにしていきたかったんだと思う。

 「エンちゃんも結衣華も、ちょっと会わないうちにそんなことがあったんだね……」

 『のんべぇ』の店長が、どうして今日はこんなに静かなんだと心配そうな顔を浮かべながらこちらをチラチラと見てきているのを横目に、私は小さくため息を落とした。



 「ごめんねぇ。会って早々にこんな暗い話題をぶつけちゃって……」

 「それを言うならあたしもじゃん?」

 「そ、そんなことないって!そりゃビックリしたよ!?ビックリは、したけど……」


 エンちゃんと結衣華の話を聞いて、私には想像もつかないことばかりだなと思ったのが、正直な最初の感想だった。

 私にはもう何年も、いや、もしかしたらこれまで生きてきた三十年という人生の中で、二人のように根幹を揺るがすような大きな事件は一度も起こってはいない。

 毎日同じ時間に起きて仕事をして、終電ギリギリまで働く日もあれば、取引先の人たちと接待に行ったり、ときには会社の同僚や後輩たちと飲みに行くこともある。

 毎日それなりに充実しているし、正直なところ同年代の人たちに比べれば年収も高いほうだとは思っている。

 それでも、エンちゃんのように結婚に出産、そして今回離婚まで経験した濃い人生とは程遠いと思うし、結衣華のように将来を見据える存在すらいない私は、どこか人より欠けているんじゃないかと考えてしまう。




 「ところで、千里は?確かアンタもあたし達に言いたいことがあるんじゃなかった?」

 「そうだったね!グループメッセージでそう言ってたね!」

 「あ、あぁ……そうだったね」

 氷が溶け切って分離しているハイボールを飲みながら、今度は結衣華が私に話題を振った。

 本当なら今日は、私にも一つだけ二人に報告したいことがあった。

 けれど、まさか二人からこんな重い話をされるとは思ってもいなかったから、あのときの私は意気揚々と『二人にご報告がありまーす!★』だなんて、含みを持たせるような浮かれたメッセージを送ってしまったことを、今、このうえなく後悔している。

 「なになに!?千里ちゃんの報告って!?」

 「ずっと気になってたんだよね」

 「あ、いや、その、なんていうか……そんな大したことじゃないんだけど」

 「そういう前置きいいから、サッと言いなよ」

 「気になっちゃうよぉ」

 「じ、実は──……新築マンションを購入しましたって、報告を……したかっただけ、なんだよね……アハハハ」

 自炊力は皆無、部屋の中は衣服と通販の段ボールで溢れかえっている生活能力のまるでない私が、たまたまSNSで見かけた『#丁寧な暮らし』に憧れて、心機一転マンションを買ってみたんだよね、とはとてもじゃないけれど言えない。

 二人の凄まじい話を聞いたあとでこれを言うのは、なんだかバカみたいじゃないか。

 「すごいじゃん、千里」

 「す、すごくなんかないよ別に」

 「さすが千里ちゃん!ビックリしちゃったよぉ!」

 「いくらの物件だったの?何階に住むの?部屋数は?」

 「あ、えっと、諸費用込みで六千万くらい、かな。部屋は二十三階の3LDK……」



 マンション購入はほとんどが勢いだった。

 たまたま会社の近くにマンションが建つんだってねという情報を同僚から聞いて、興味本位で資料を取り寄せたところから購入に至るまでにかかった期間はザッと三ヶ月程度のものだった。

 仕事の合間にモデルルームに足を運び、住宅ローンのことや資産価値などの話を聞いて即決した。

 銀行もこんな私に大金を貸してくれるだなんて『大丈夫なの?』と思ったりもしたけれど、社会的に信用されているんだ、私には六千万円を貸すに値する人間なのだと認められた気がして嬉しかったんだ。

 こんなことでしか喜びを得られない自分に軽いショックを受けたことも、また事実だけれど。



 「いつ引っ越すの?」

 「来週が鍵の引き渡し日だから、運が良ければ来月から新居に移れるかもって不動産の担当が言ってた気がする」

 「うわぁ、すごいね!楽しみだね!わたしたちの仲で一番の出世だねぇ!」

 「そんなことないって。私、働くことしかできないからさ」



 離婚を決めたエンちゃんに、彼女と破局寸前の結衣華に、マンションを買った私。

 なんだ、このデコボコなトリオは。

 そういえば昔、中学の先生に不思議がられていたっけ。 『お前達は性格も頭の良さも何もかも違うのに、どうしてそんなに仲がいいんだ?』って。



 「わたしも家探し、始めないとなぁ。このまま旦那と同居するわけにはいかないもん」

 「あたしも。一人暮らしなんてしたことないけど、実家にはもう居たくないし」


 エンちゃんと結衣華が同時にため息を落としたとき、私は頭の中で『ピコンッ』と音を立てて閃いた。

 「──ねぇ、二人とも。だったら私のマンションに住まない?」



***


 「おーい、千里ちゃーん。そろそろ起きないと、遅刻しちゃうよぉ!」

 今日も小さな天使が、小振りな歩幅で朝を伝えてきてくれる。

 私の体をゆさゆさと揺さぶりながら、必死に起こしてくれようとしている姿に癒された。



 「……あと三時間だけ寝させてくれない?」

 「ダーメ!早く起きないとダーメ!」

 「うーん、じゃあ二時間」

 「……ママー!千里ちゃんがバカなことばっかり言って全然起きないよぉ!」



 小さな天使はお手上げだと言わんばかりに両手を万歳にして、キッチンに立っているママの元へ走り去ってしまった。

 そんな彼女の名前は梨々菜ちゃん。小学一年生になったばかりのエンちゃんの娘だ。



 「……ふふっ、かわいいなぁ。癒されるなぁ」

 私はもう一度布団を頭までスッポリとかけて、思いきり深呼吸をしながら眠気を飛ばした。

 そして目を擦りながらゆっくりと体を起こす。


 八畳の私の部屋には炊き立てのご飯の匂いと、お味噌汁の匂いが漂ってきている。

 あぁ、エンちゃんが作ってくれる今日の朝ごはんは絶対和食に違いない。

 隣の六畳の部屋からはズシズシと重低音の激しい音楽が微かに漏れていた。結衣華は朝の支度をするとき必ずテンションの上がる音楽を流すから、その影響で私もこれまでまったく興味のなかった曲をよく聴くようになった。



 「あ、おはよう千里ちゃん。もうすぐ朝ごはんできるからね、先に身支度してきてくれる?」

 「おはようエンちゃん。いつも本当にありがとう!」

 「ふふっ、いいっていいって!わたしはほら、お料理大好きだし、こんな素敵なマンションにだって住まわせてもらってるんだし。そんなことより、もう八時だよ?早く支度しないと遅刻しちゃうよぉ!」



 朝起きてすぐ、無音じゃないこの空間がとても心地よく感じた。

 カーテンはきちんと紐で結ばれていて、ワイドオープン設計のリビングからは心地よい朝の陽ざしが差し込み、適度に風が靡いている。

 目覚めたら音のない空間で、絶望的な朝を迎えていた頃とは大違いだ。

 毎日同じ時間に起きて、同じ順番で朝の身支度をはじめて、バタバタと忙しなく動き回る。朝ごはんを食べる余裕なんてないから、いつもコンビニでサンドウィッチとカフェラテを購入して職場へ向かう日々。

 仕事は嫌いじゃないから、これまではそんな自分の毎日に何も思わなかったけれど、三十歳という節目を迎えたとき、ふと疑問に思ったんだ。



 “私って、いったいいつまでこんな毎日を過ごしていけばいいの?”って──。

 職場の二個上の先輩は結婚して家庭を持ちながらも、未だに営業成績を落とさずに働き続けているし、同期の桜子は激しい闘争心を燃やしながら婚活に命をかけている。

 エンちゃんや結衣華だって、子育てや自分の趣味を堪能して過ごしているというのに、私はただ働くことしかしていない。

 私から仕事を取り上げたら、本当に何も残らないんだってことに気づいてしまったんだ。

 これまで仕事で残してきた成績も、実績も、キャリアや資格も全部、『社会に出ているときの私』を強くはしてくれても、『自然体の私』の前では何も意味を為さない。

 そして『じゃあ私の存在している理由って何?』と考えはじめたあたりから、きっと私は今も迷走し続けている。




 「……千里、食べないの?」

 結衣華の声に、ハッと我に返った。

 エンちゃんと梨々菜ちゃんもみんなダイニングテーブルを囲んで私を心配そうに見ている。



 「──え?あ、ううん。食べる食べる!ちょっと考えごとしてた!」

 「ごはんのときはみんなで楽しいお話しなくちゃダメなんだよ?梨々菜の担任の先生がそう言ってたよ?」

 「ごめんね梨々菜ちゃん!今日の夜ごはんのときは、いっぱい楽しい話するからね!」

 「うん!梨々菜も千里ちゃんが笑うお話するね!」



 なんの穢れもない屈託の笑みを浮かべる天使を見ていると、少し前までの悩みもどこかへ飛んでいく。

 エンちゃんはそんな梨々菜ちゃんの口元についたごはん粒を取りながら早く食べるように急かして、結衣華は朝の眠気と戦いながら懸命にお味噌汁を啜っている。


 『──ねぇ、二人とも。だったら私のマンションに住まない?』

 あのひらめきから、半年が経った今。

 一人じゃないって、こんなにも満たされるんだ。

 孤独を感じないというだけで、こんなにも充実感を得られる。

 結衣華とエンちゃん、それから梨々菜ちゃんとの暮らしがここまであたたかいものになるとは正直思ってもいなかった。



 『結婚はいつするの?いつまでも独身のままではいけないでしょう?』

 『将来はどうするつもりなんだ?一人だと待っているのは孤独死だけだぞ』

 『老後はどうするつもりなの?早く結婚して、子供を授かりなさいよ』

 頭のかたい親戚や、常識のない上司からの言葉を全部無視して、その反発と言わんばかりにマンションを買った。

 私は一人でも十分幸せで、一生一人でやっていけるだけの立場にいるんだぞと見せつけたかった。



 別に結婚願望がないわけじゃない。

 ただ、『良い人がいれば、いつかは』くらいの気持ちで、誰かに急かされたり、年齢に追われて焦ったりしたくないだけ。


 人生のパートナーは一人じゃないとダメなの?

 結婚という契約を交わさなければ、人生のパートナーにはなれないの?

 「……」


 そんなことを考えながら、手に持っているお茶碗の中で輝く白ごはんと見つめ合った。

 気づいたら、とっくに家を出る時間になっていた。



***



 「やばいやばい、遅刻気味ー!」

 「千里がボーッとしてるからでしょ」

 「あのね、結衣華さん。そりゃあ三十歳にもなれば悩みの一つや二つ、三つ四つはありますとも」

 「多すぎじゃん。可哀想に」



 結衣華は駅前の大きな商業施設の中にあるアパレルショップに勤務している。彼女が早番のときは私と家を出る時間が重なるから、いつも車で近くまで送ってあげるのが日課だ。


 エンちゃんと結衣華と一緒に暮らすことが決まったとき、いくつかの取り決めをした。

 一つ、エンちゃんは生活費を出さない代わりに家事全般を担当すること(ただし自分たちもちゃんと手伝うこと)。

 二つ、結衣華は住宅ローン返済額の三割と、食費や光熱費代として月々七万円を支払うこと。

 三つ、各自の部屋は綺麗に保つこと。

 四つ、友人を連れてくるときは事前に知らせること。

 全員で同居するためのルールを決めていたとき、まるで学生のころに戻ったような気分になっていた。

 当時はよく『社会人になったら三人でシェアハウスしようよ!』だなんて言いながら、一緒に住む想像を繰り広げては部屋の割り当てや規則なんかを決めていたっけ。

 まさか三十歳になってあのときの想像が現実になるなんて、きっと誰一人思っていなかったはずだ。



 「車の鍵、車の鍵……っと」

 そんな懐かしい思い出に浸りながら、駆け足でマンションを出て一階のエントランスへ降りた。



 「ところで結衣華さ、最近彼女さんとどうな──……」

 結衣華と二人で駐車場へ向かいながら、ずっと気になっていた彼女さんとの話題を振ろうとしたとき。



 「──あの」

 突然、私たちの間にスッと割って入るように声をかけてきたのは、スーツ姿の男性だった。

 私は驚いて大きな声を出して仰け反り、結衣華は微動だにせず目の前のスーツ男性を睨みつける。


 「(だ、誰?エントランスにいるってことは、同じマンションの人?……それとも住人の誰かの知り合い?)」

 「ど、どちら様でしょうか……」

 私は結衣華の後ろへくっ付きながら、恐る恐る声をかけた。

 ここには監視カメラも付いているし、もうすぐマンションの管理人さんも来るころだ。大丈夫、うちのマンションのセキュリティはかなりのものだって、ちゃんと説明を受けているんだから。

 『心配ない』『平気だ』と何度も自分に言い聞かせながら、もう一度目の前の身長の高いスーツ男と向かい合った。


 「神部千里(かんべ ちさと)さん、あなたですよね。"うちの妻"を匿っている人というのは」

 「……!?」


 ──うちの妻。

 その一言で、理解した。



 「……千里、こいつ」

 「うん。分かってる」



 エンちゃんの、旦那さんだ。


 「うちの妻、あなたの家に居候していますよね?」

 彼は一歩、また一歩とこちらへ詰め寄るように圧力をかけながら歩み寄ってくる。

 どうしてこのマンションに住んでいることがバレたのか分からないけれど、部屋番号を知られるわけにはいかない。


 「そ、それ以上近づいたら……っ、警備の人呼びますからね!」

 「そう警戒しないでくださいよ。僕はただ、妻と子供に会わせてもらいたいだけですよ」

 「け、警戒するに決まってます!そもそも、どうやってこのエントランスに入ってきたんですか!?」

 「開いていたから入っただけですが?」



 エントランスゲートが開けっぱなしにされているなんてあり得ない。

 ……この人、朝の通勤で外へ出る人に紛れて入ってきたんだ。


 エンちゃんと旦那さんの離婚調停は、結局不成立に終わり、今は訴訟へ移行されているのだと教えてもらっている。

 エンちゃん自身は早く離婚の成立を望んでいたのに、彼が自分の非を認めず、これまでの言い訳ばかりを並べるどころか、今度は逆にエンちゃんが不倫をしていた疑いがあるなどとあり得ない言いがかりをつけてきたせいで、今も裁判が続いているそうだ。


 ただ、エンちゃんの弁護士さんいわく、結論はほとんど出ているようなもので、離婚は確定、親権はもちろんエンちゃんで、財産分与もきっちりと半額受け取れることになっているという。



 「あの、裁判中は当人同士が会うことは禁止されていますよね?」

 「おや、詳しいんですね」

 「……父と、それから姉と兄が弁護士なものですから」

 法曹一家の末っ子として生まれた私は、幼いころから姉や兄の受験勉強に強制的に付き合わされながら育ってきた。

 特に気の強い姉には決して逆らえず、『勉強は誰かに教えられるようになることで初めて覚える』などと意味の分からない持論を振りかざされて、当時はまだ小学生だった私に、永遠と民法や刑法を教えようとしてきたあのときは気が狂いそうになったことを今でも鮮明に覚えている。



 「あいつ、突然自分と娘の荷物だけ持って逃げたんですよ。家のことを何もせずにいったいどこで何をしているのかと思ったら……友達の家に居候だなんて。とんだ恥晒しですよ」

 「……はい?」

 「オッサン、今なんて?」

 私と結衣華の声が重なった。

 エンちゃんの旦那さんとは、二人の結婚式のときに一度会ったきりで、それ以降顔を合わせることはなかったけれど、一見、"人当たりの良い優しそうな男性"というのが第一印象だった。

 それは今も変わることはなく、姿形だけを見れば、前髪をあげて清潔感の漂う、スーツがよく似合う男の人だ。


 けれど、エンちゃんのことを話すときの彼の表情は怒りに満ちていた。

 それは発言からも滲み出ている。



「あなたも嫌でしょう?こんな立派なマンションに、赤の他人とその子供が居候しているなんて。それにあいつは何をやらせてもノロマでどうしようもない奴ですから、見てるとイライラしますでしょう?」

 
 エンちゃんから旦那のモラハラが酷いという相談は前々から嫌というほど聞いていた。

 『昨日こんなふうに言われちゃったんだよね』と訴えかけてくるエンちゃんは、それでも最後は笑って『最低だよね、本当』と言うだけで、決して彼を貶めるようなことを言わなかった。


 それなのに、当の本人はここまでエンちゃんを下げるような発言を平気で繰り返している。

 そんなモラハラ旦那の発言に、最初に堪忍袋の緒が切れたのは結衣華だった。



 「オッサン。言葉遣いには気をつけなよ」

 「……」

 「アンタ、八年も一緒にいてなんにも知らないんだね。エンのこと」

 結衣華の地を這うような声に、モラハラ旦那はピクリと表情筋を跳ねさせた。


 中学生のころから、結衣華は所謂不良少女と呼ばれていた。

 あれは忘れもしない中学二年のときだった。結衣華は突然髪を金髪に染めて、ピアスを六個もつけて登校してきた。

 私は彼女の姿を見て目が飛び出そうになった。もともと顎関節症に悩んでいたエンちゃんは、タイミング悪く本当に顎が外れてしまったんだっけ。

 結衣華はただ単純に三歳年上のお姉ちゃんの影響で同じような容姿にしたかっただけだと言っていたけれど、周りからは恐れられ、それに加えて一七〇センチの長身と目つきの悪さが相俟って、当時の担任の先生が付けたあだ名は『突発性金髪不良少女』だった。



 「エンちゃんは私たち三人の中で誰よりも頑張ってくれてるんですよ。料理だって上手だし、掃除も抜かりなくしてくれるし、私の仕事の事務作業までしてくれるんです!何もできない人なんかじゃありませんよ!」


 エンちゃんが家のことを全部担ってくれるおかげで、私と結衣華は以前よりも格段に健康になったし、家もピカピカにしてくれているから、本当にストレスがなくなった。

 家事ができない私と結衣華は、そんなエンちゃんの家事能力の高さにどれだけ感謝していることか。



 「でも失敗だらけでしょう?ワイシャツの一枚だってまともにアイロンがけできないような女なんですよ?」

 「エンちゃんは一度だって失敗したことないです。そもそも、私から声をかけたんです。一緒に住もうよって」

 「……チッ」

 「あなた、それでも本当にエンちゃんの旦那ですか?」

 「そんなことはもうどうでもいいので、一度円を呼んできてもらえます?夫婦間のことに首を突っ込まないでいただきたい」



 ……あぁ、この人、まともに会話ができない人だ。

 自分の都合が悪くなったら話を逸らして、優位に立とうとする。


 「(いるんだよね、こういう人)」

 「とにかく、本当に警備の人を呼ばれたくなかったらさっさと帰れよオッサン」

 「だ、だから僕は……」

 「エンは呼ばないって言ってんだよ。そろそろ理解してくれます?あたしたち仕事あるんで」



 いいぞ、結衣華!

 結衣華の圧力には敵わないと悟ったのか、モラハラ旦那は私たちに聞こえるような音で舌打ちをして去っていく。

 そして帰り際にもう一度立ち止まって、こちらへ振り返った。



 「……あぁ、そうだ。円に言っておいてもらえます?僕と直接話し合いに応じないなら、今後一切、婚姻費用も養育費も払わないからねっと」

 「……はい?」

 「社会に出て金を稼ぐ能力もないくせに、偉そうにするもんじゃないんですよ」



 ──クズだ、この男は。

 どうしようもない男なんだ。

 これ以上何も言わずに帰ってもらったほうがいいと分かっているのに、それでもひとこと言わずにはいられなかった。



 「……婚姻費用を払わない?養育費を払わない?」

 「えぇ、今まで僕の働いた金で生きてきた分際で身勝手なことをするからですよ」

 「どうぞ?好きにしたらどうですか?そんなクズな言い分がどこまで通用するか分かりませんけど」

 「はい?」

 「そもそも、なんのための法律だとお思いで?"強制執行"って言葉を知らないんですか?お前の給料から毎月自動的に養育費と婚姻費用が差っ引かれるようになるだけなのでこちらはなんの問題もありませんけどね?……あぁ、そうなればもちろんお前の勤め先の会社にも事情を知られるわけだから、とんだ“恥晒し"になるのはお宅のほうですけど大丈夫なんですかぁ?」

 「……っ」

 「分かったら二度とエンちゃんに近づくな!このクソバカ男!お前が何しようが、私がエンちゃんと梨々菜ちゃんを養っていくからなんの問題ないんだよ!とっとと消えろ!この三下!」

 「千里、ちょっとストップ。他の住人がビックリしてるから、ほらもう行くよ。このままじゃ二人とも遅刻するし」



 今度は怒り狂った私を、結衣華が引き留めるようにして駐車場へ向かった。

 ……あぁ、ムカつく、本当に信じられないような男だった。



 エンちゃんからあのモラハラ旦那のことは散々聞いていたから、どんな奴なのか分かっていたつもりだったけれど、実際に会ってみてよく分かった。

 あんな典型的なモラハラ男に、エンちゃんはずっと耐えてきたのだろうか。彼女のこれまでの苦労を想像するだけで、涙が出てきそうになる。



 「……今日のことはさ、エンちゃんには言わないほうがいいよね?」

 「うん、言わないほうがいい。エンのことだから、きっと過剰に気にしてしまうだろうし」


 車に乗り込むと、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った空間が漂った。

 あのモラハラ男の言葉が何度もリピートされて、そのたびに苛立ちを募らせる私の横で、結衣華は一点を見つめて何かを深く考え込んでいる。



 「とりあえず、仕事に行こっか。お互いにね」

 「そうだった。……てかこれもう遅刻じゃん」

 「いい!今日はもう遅刻したっていい!それよりもエンちゃんを守り抜いたことを誇りに思うべきだよ結衣華!?ね!?」

 「千里、アンタおかしなテンションになってるよ?」

 「おかしなテンションにもなるよ!ハイだよ、ハイ!ハイテンションだよ!」

 「バカ!ハイテンションで運転するな!事故するでしょうが!」

 「出発進行じゃあー!」

 「千里……っ!」


***


 「千里さん、そういえば今日はどうして遅刻したんですか?」

 「……ゲッ。市瀬くん、それ聞いちゃう?」

 「差し支えなければぜひ。だって千里さんが遅刻なんて初めてでしょう?」


 営業先の商談を一つ終えて、少し遅めのお昼ご飯を食べていたとき。

 二歳年下で、今は同じチームを組んでいる市瀬くんが興味津々でこちらを見ながらそう言った。


 彼は大学院を卒業してからうちの会社に入社し、そして去年、期待の星と言われながら私と同じ営業一課に配属されてきた優秀な後輩の一人だ。


 外資系企業のこの職場は、とにかく成果主義のため、年齢や勤続年数は一切関係ない。

 仕事を取ってきた者こそが勝者となるこの世界で、彼は流暢な英語と頭の回転の速さ、それからコミュニケーション能力の高さで常に上位の成績を残し続けている強者だった。


 「……やっぱりさ、男の人ってどこかで女性を見下しちゃうものなのかな?」

 「ゴホッゴホッ!いきなりどうしたんです!?……もしかして、誰かに何か言われたんですか?」


 市瀬くんは口に入れたばかりのとんかつに咽せながら、苦しそうに咳を繰り返した。

 「あ、ごめんごめん!私の話じゃないんだけどね?たださ──」


 私はエンちゃんとモラハラ旦那のことを掻い摘んで、少しだけ市瀬くんに話した。

 好き同士で結婚したはずの人に、どうしてあんなにも酷いことが言えるんだろう。

 一番守らなくちゃいけないはずの存在に、どうして一番鋭い刃を向けることができるの?


 エンちゃんは穏やかで、落ち着いていて、あんなにも場を和ませてくれる子なのに。

 料理上手で、綺麗好きで、私が憧れるものを全部持っているような人なのに。



 「千里さん。少なくとも僕は、女性を下になんて見たことは一度もないですよ」

 「……うん。市瀬くんはなんとなくそんな気がする」

 「僕は上に姉が二人いるんですけど、どちらもすごく怖い人だったのでよく言われていたんです。"女を傷つける奴は生きている価値がない"、"女がいないとお前は存在しなかったんだからな"、"絶対にお前はあたしの元彼のようなクズにだけはなるな!"……とか」

 「きょ、強烈だね、オネーサンたち」
 
 「それに、今、僕の目の前には尊敬できる女性がいてくれるので、見下すなんてそんなこと……絶対にできないです」

 「……?」

 「僕、憧れてるんです」

 「市瀬くん、好きな人いるの?」

 「千里さんの鈍感」

 「んんん!?」


 途中から彼の話はよく分からなかったけれど、世の中の男性全員があのモラハラ旦那のような考え方を持っているわけではないらしい。

 それが分かっただけでも安堵した。


 今日は仕事が終わったら有名なケーキ屋さんに寄って、エンちゃんの大好物の一つであるフルーツタルトを大量に買って帰ろう。

 結衣華は甘いものが得意じゃないから別のものにするとして、梨々菜ちゃん用にカラフルなマカロンと瓶に入ったプリンも一緒に買っちゃおう。

 そして今朝のことはもう忘れよう。

 そう思いながら、私は最後に取っておいた海老カツにかぶり付いた。

 そんな私を見て、目を細めて微笑む市瀬くんのことを私は知らなかった。


***




 「ただいまー!」

 「おかえり千里ちゃん」

 「あ、エンちゃん、ハイこれ!私からのお土産だよ!美味しいって有名なフルーツタルト!」

 「……ありがとう」

 「え、え、どうした!?なんかエンちゃん元気ない?」

 「あ、ううん?そうじゃないんだけど……千里ちゃん、今日何かあったの?」

 「──え!?」


 エンちゃんは昔からとにかく感が鋭い。

 社会人になりたての頃、仕事のことで悩んでいたときに真っ先に『今日どうしたの?何かあった?』と声をかけてくれていたのがエンちゃんだ。


 ……もしかして、モラハラ旦那と一悶着あったことがバレたとか!?


 「な、なな、なんで?」

 「だって変だよ。さっき結衣華ちゃんもわたしにこれと同じフルーツタルトを買ってきてくれたんだよ?」

 「な……っ!」

 「なんでもない日に二人が同じものをわたしに買ってきてくれるなんて、逆にこっちが何かあったのかって心配になっちゃうよぉ」



 ……盲点だった。

 最初から結衣華と打ち合わせをしておくべきだった。



 「……あぁ、千里今帰り?今日は帰り早いんだ」

 「た、ただいま……」

 まさか同じものをエンちゃんにプレゼントして逆に疑われているだなんて微塵も思っていない結衣華は、呑気にお風呂上がりのまま髪をタオルオフしながらほくほくの状態で顔をのぞかせにやってきた。



 「ちょっと二人とも、ご飯の前にリビングでお話しよっかぁ」

 「……はい」

 「え、なんで?あたし全然話が読めないんだけど」

 「結衣華がフルーツタルト買ってきたせいでバレたの」

 「なんで?」

 「なぜなら私も同じフルーツタルト買ってきちゃったからだよ」

 「……バカじゃん。そりゃエンに勘付かれるわけだ」

 「私たち大馬鹿だよ!」



 それから私と結衣華は、今朝の出来事を包み隠さずにエンちゃんに話した。

 モラハラ旦那に家がバレてエントランスまで侵入されたこと、直接エンちゃんと話がしたいと言っていたこと、それに応じないなら一切の金銭を払わないと言ったことも、すべて。


 「そっかぁ。あの人、いよいよここまで来ちゃったんだね」

 エンちゃんは今朝起こった出来事の一連の話を聞くと、どこか遠くを見つめながらため息混じりにそう言った。


 「で、でも部屋の階数とかはバレてないし、大丈夫だから!」

 「あたしらが全力で追い返してやったからね」

 「うんうん!それにね、もしもあの男が本当にお金払わなくなったとしても、私がエンちゃんと梨々菜ちゃんはしっかり養っていくから安心して!ね!?」

 「じゃああたしもついでに千里に養ってもらおうかな」

 「結衣華はダメ!」

 「ひど」


 どれだけ結衣華と二人で面白おかしく会話を続けてみても、エンちゃんの表情は曇っていく一方で、どんどん下へ俯いていく。

 そして、エンちゃんは涙を流した。

 今まで一度だって涙を見せてこなかったエンちゃんが……静かに涙をこぼした。


 「ごめんねぇ、二人とも。朝から迷惑かけちゃって」

 「そ、そんなことないよ!エンちゃんが謝ることじゃないし!」

 「うん。千里の本当か嘘かよく分からない法律の知識でビビらせてやったし」

 「ちょっと結衣華!?」

 「……ふふっ。わたし、千里ちゃんと結衣華ちゃんの幼馴染で本当によかったよぉ。人生の宝物だよぉ」


 そう言ってエンちゃんはいつものように柔らかく笑ったけれど、それでも涙は止まらない様子で、彼女は何かの糸が切れたかのように笑いながら泣き続けた。

 そんなエンちゃんを見て、結衣華はそっと寄り添って背中をさする。

 私は部屋から出てこようとした梨々菜ちゃんを引き留めるようにケーキの箱を持って、一緒に映えの写真撮影会をはじめた。


 そして梨々菜ちゃんが寝静まったあと、私たち三人は再びリビングのソファへ集まった。

 大量のフルーツタルトと一緒に。



 「わたしね、本当は離婚する気はなかったんだぁ。あんな人でも、わたしと梨々菜のために働きに出てくれていることは事実だったしねぇ」

 「……うん」

 「……」

 「でも、あるとき彼に"飯炊女のくせに"って言われたときにね、考えちゃったの。あぁ、わたし、彼が死ぬまで一生ご飯を作るためだけに生きていかなくちゃいけないんだなぁって。そう思ったら、なんだかそれまで頑張ってきたことがプツンッて切れちゃって」


 エンちゃんは本来、ご飯を作るのも食べるのも大好きで、二十代のときから三人で美味しいご飯屋さんを開拓していた。

 それを誰よりも美味しそうに、幸せそうに食べていたのがエンちゃんだった。



 「好き同士で結婚したはずなのに、いつのまにか彼と目に見えない上下関係ができちゃって、いつもあの人の顔色を窺って過ごすようになってたんだぁ。あの人が仕事から帰ってくる時間になるとだんだん怖くなってきて、目眩や動悸までするようになって」

 「そんな……っ」

 「それって、わたしが働いていたときに感じていたことと同じなの。あのとき苦しんでいたわたしを助けてくれた人が、今度は恐怖の対象になっちゃうなんてね。それでご飯も食べられなくなって、わたしが好きだったものを……どんどん嫌いにさせられたの。だから離婚しよう、ううん、離婚しなくちゃって思ったんだぁ」



 エンちゃんの本音が、宙を舞って消えていく。

 『ごめんね、こんな情けない話しちゃって』と言って笑った彼女の手は、微かに震えていた。



***


 「今日はエントランスに、あのモラハラ旦那いないよね?」

 「二日連続で来たらホラーじゃん。いないでしょ」

 「だ、だよね。流石にね?」

 次の日、私と結衣華は今日も同じように二人で家を出て、恐る恐るエレベーターへ乗り込んで一階のエントランスへと向かった。

 そして忍足でエントランスを出た先に──……。


 「い、いるじゃん!」

 「いたね。ヤバ男だね」

 「ヤバ過ぎ男だよ!」


 昨日と同じスーツを着たエンちゃんのモラハラ旦那が待機していた。

 慌てて身を潜めて隠れたものの、私のヒールの音で彼はいち早く察知してこちらへ向かってきた。

 昨日の今日で、一体今度は何を言いに来たっていうの?


 「あぁ、神部さん……っ!僕の妻と子供に会わせてくださいよぉ!」

 「は、はぁ?」

 「あなたたちはなんて酷い人なんだ!僕はただ、自分の妻と娘に一目会わせてほしいと言っているだけじゃあないですか!」


 モラハラ旦那の次の作戦は、泣いて、喚いて、周りの人たちに訴えかけるという陳腐なものだった。

 誰が見たって演技くさい泣き落としで、ただひたすらに『妻と子供に会わせてください』と叫び続けている。


 「……こいつ、涙出てないけど」

 「ってか恥ずかしいんだけど!他の住人にヤバい人って思われちゃうんだけど!」

 「警察呼ぶ?」

 「そ、それしかないよね」

 できることならエンちゃんや梨々菜ちゃんのためにも大ごとにはしたくなかったけれど、こればっかりは目に余る。大迷惑だ。

 私は鞄の中からスマホを取り出して、ゴクリと生唾を吞み込みながら電話のアプリをタップした……そのとき。



 「──迷惑だから静かにしてもらえますか?」

 「エン?」

 「エンちゃん!?出てきちゃダメだよ!」


 突然のエンちゃんの登場に、私と結衣華は慌てて彼女を隠すように歩み寄った。

 けれどそんな私たちを差し置いて、エンちゃんは堂々とモラハラ旦那の前に立ちはだかる。


 「(まどか)。やっと話し合いに応じる気になったのか?やっぱり金か?金だろ?な?僕と離婚なんてやめて、許してやるからもう一回家に帰ってこいよ、な?」

 「お金を払いたくないのであればご自由に。こちらも然るべき対処を取るだけですから。それと、家にも帰りません」

 「なっ、なんなんだよその物言いは!」


 エンちゃんが真っすぐに彼を見ながらそう反論したのが余程驚いたのだろうか。

 モラハラ旦那はあからさまに動揺の色を見せはじめている。


 「も、もしかしてそこの友人に金を借り続けるのか?本気で養ってくれると思ってんのか?」

 「いいえ、わたし自身が働きに出るから結構ですということです」

 「はぁ!?お前が?」

 「梨々菜のためだったらなんでもします。あなたの力はもう必要ありません」


 昨日まで手を震わせて泣いていたエンちゃんとは、まるで別人のように見えた。

 きっとエンちゃんは見えない部分で相当な覚悟を持って、今、目の前の恐怖の対象と言っていた人と向き合っているんだ。




 「おま、なんで……っ」

 こんなにも真剣な表情のエンちゃんを、はじめて目の当たりにした。

 それは結衣華も同じだったようで、息を呑むように二人のやりとりをジッと見守ることしかできない。


 ただ、私はエンちゃんの右手を、結衣華は彼女の左手を、互いにギュッと握りしめながら──。

 そしてエンちゃんも力強く、私たちの手を握りしめていた。



 「──渉さん、わたしと離婚してください」



***



 あのモラハラ旦那騒動から、二週間が経過していた。

 エンちゃんはあの騒動からすぐに就職を決めて、梨々菜ちゃんと二人で住む家の契約まで済ませた。

 あと一週間もすれば、私のマンションからエンちゃんと梨々菜ちゃんがいなくなってしまう。


 『エンちゃん、無理して働かなくたっていいんだよ!?ずっとここに居ていいんだから!』

 『ふふっ、ありがとう千里ちゃん。でもね、梨々菜のために、わたしも少しは強くならなくちゃなって思ったの。もうわたしも30歳でしょ?二十代の何も言えずに上司の言いなりだった頃とは違うし、自分でお金を稼いで、自分の力で生きてみたくなったんだよ』

 『でも……っ』

 『それは千里ちゃんのおかげなんだよぉ?千里ちゃんはずっと昔から、わたしの憧れだったんだから』


 一度覚悟を決めた女性は強い、と昔誰かが言っていたけれど、エンちゃんがまさにそれだった。

 あの日、モラハラ旦那の目の前で離婚を叩きつけた瞬間から、エンちゃんは強くなった。六歳のときからずっとエンちゃんを見てきたけれど、あんなにも格好いい彼女の姿ははじめてだった。


 「寂しくなっちゃうなぁ」

 「どうかしましたか?千里さん」

 「……あ、いや!ごめん市瀬くん!心の声が漏れちゃったてたね」


 今日も彼と二人で社内を出て、近くにある行きつけの和食屋さんへ足を運ぶ。

 外の空気もだんだんと冷たくなってきて、秋風が余計に私の心を寂しくしていくから厄介だ。



 「なんだか千里さん、元気がないので今日は僕がご馳走しますね」

 「い、いいよいいよ!私のほうが先輩なんだし、後輩に奢ってもらう先輩なんていないよ!」

 「いいじゃないですか、たまには。今日はいつも悩んでやめている高級ヒレカツ定食、頼んでいいですよ」

 「……市瀬くん」

 あぁ、後輩に気を遣わせてしまった。反省だ。

 市瀬くんもエンちゃんと似ていて、察しがいいほうだと思う。

 彼と一緒に働きはじめてまだ一年も経っていないけれど、きっと市瀬くんは女の子にモテモテだろうなと思う瞬間が多々散見される。

 例えばお店の扉は必ず開けて先に出させてくれるところとか、どんなに疲れていても車の運転を買って出てくれるところだったり、重たい資料がたくさん入った荷物をいつもさりげなく持ってくれるところだったり。

 今日も例外なく、こうして和食屋さんの扉を開けて『お先にどうぞ』と言ってくれる彼の優しさに、思わず甘えてしまいそうになる。


 「あ、ありがとう」

 私はぎこちなくお礼を言って、今ではすっかり馴染みのある店内へ入ろうとしたときだった。


 ──バチンッと皮膚を弾く強烈な音と共に、左頬に猛烈な痛みが走った。

 それが誰かによってビンタされたのだと理解したときには、私は道路へ倒れていた。


 「千里さん!?」

 市瀬くんが咄嗟に私の腕を引いてくれなければ、今ごろ顔面からアスファルトへダイブしていたことだろう。

 ……それに、今のは人生の中でも五本指に入るほどの痛さだ。

 そして、倒れた頭上から容赦なく放たれた一言。


 「やっと見つけた……っ!この、腐れビッチ!」

 「(腐れ……ビッチ)」


 キンと耳を弾くような甲高い声で、金髪のツインテールの女の子が私に向かってそう言った。


 ──私が、ビッチ?え、え、ビットの間違い?

 これまでの人生の中で、ほとんど男性との浮いた話を持たないと有名な、この私が……ビッチ?


 「……アンタ、誰だよ」

 「うるさい!よそ者は黙ってて!」

 「よそ者じゃないから言ってんだよ。いきなり人を叩くなんて正気?」

 「うるさいうるさいっ!あたしはそのビッチに用があんの!!」

 「……僕がこのまま千里さんと君を会話させると思う?」



 市瀬くんは膝をついて私を支えてくれながら、目の前の女の子と言い争っている。

 この辺りに人がいなくてよかった。今はSNS時代だから、こんな場面を誰かに見られでもしたら私は晒し者になってしまうところだった。

 市瀬くんの力を借りてゆっくりと立ち上がって、私は目の前の女の子と向かい合う。



 「あの、まずあなたは誰?」

 「……このっ。お前が今付き合ってる女の元カノだよ!」

 「つ、付き合っ……元カノ……え、え?」

 「だから!結衣華と付き合ってんだろ、お前!しかも同棲までしやがって!言っとくけどあたしと結衣華はまだ完全に別れてないから!」

 キーッと威嚇するように私を睨みつけながらそう叫んだ彼女の正体が、分かった気がした。



 「も、もしかして……結衣華の彼女さん?」

 「だからそうだって言ってんじゃん!」

 「言ってないでしょ、アンタ一言も」

 「うっさいこのオジなんなの、さっきから!?」

 「(うちの会社で市瀬くんのことをオジだなんて呼んだら刺されるんじゃないかな……)」


 二十八歳の市瀬くんのことを『オジ』と呼ぶくらいに、目の前の彼女は若かった。

 金髪に見合う派手なメイクに、派手な服装。
 
 厚底ブーツに、フリルがたくさんついたリュックを背負っている。


 「(結衣華の彼女ってこんな子だったんだ)」

 「なんであたしの好きな人取るんだよぉ……!ヒック、あたしはまだっ、結衣華と別れたくないよぉ!」


 ──誤解だ。誤解すぎる。

 訂正したい箇所がありすぎて、頭の中がグルグルして一向にまとまらない。


 「あの、いくつか述べてもいい……かな?」

 「何よ!」

 「まず私はビッチじゃない」

 「はぁ!?おちょくってんの!?」

 「次に、私は結衣華と付き合ってない。ただの幼馴染です」

 「……え?」

 「最後に、結衣華とは同棲してるんじゃなくて、一時期家を貸してあげているだけです」

 ポカンと開いた口に、大きな目をして、目の前の金髪彼女はあんぐりとした表情を見せた。

 「念の為にもう一度言うね?私は、決して、ビッチじゃない」


***



 テーブルの上には分厚い卵サンドとミネストローネ、それから気持ちばかりの野菜と、最近一番の流行りだと書かれてあったグリークヨーグルトが置かれている。

 すっかりヒレカツ定食の口になっていたというのに、どうして私は今、市瀬くんと金髪彼女の三人で、こんなオシャレなカフェに来ているというのか。


 「ご、ごめんなさい……その」

 「そんな声じゃ聞き取れませんよ」

 「くっ、このオジムカつく……っ」

 「人を殴っておいて警察を呼ばれていないだけ有難いと思うべきでしょ。千里さんに感謝してください」

 「そ、それは本当に……っ、ごめんなさい!」

 少し前までの威嚇していたときとは打って変わって、今はしょんぼりと頭を下げて反省しているように伺えるこの金髪彼女は、ミリヤちゃんという名前らしい。

 正直、ミリヤちゃんが結衣華の彼女じゃなかったら、きっと今頃通報していたに違いない。

 そのくらい、左頬の衝撃は凄まじいものだった。



 「……はぁ、それで?どうしてミリヤちゃんは結衣華と私が付き合ってるって思ったの?」

 やっとエンちゃんのモラハラ旦那……じゃない、"元"モラハラ旦那との一件が落ち着いたばかりだというのに、今度は一体なんだっていうのよ。
 

 「最近、結衣華が実家に帰ってないって聞いて……後をつけてみたらアンタと一緒に通勤したり、帰る場所まで一緒だったから……その、あたしのことなんて忘れて、とっととアンタと付き合ったんだって思って……」



 そういえば、結衣華は彼女と別れる寸前だと言っていたはずだ。

 二人は同棲するという話が上がっていたけれど、結衣華が親に紹介しようとして、そのせいで喧嘩になっていると言っていた。


 「ねぇ、千里!結衣華は今、千里の家にいるんでしょ!?だったらさ、あたしのことどう思ってるか聞いてくれない!?」

 「……」


 なんて身勝手な子なんだろう。

 勝手な勘違いで人の頬を思いきりビンタした挙句、市瀬くんの前でビッチなどとはしたない言葉を投げかけてきたくせに。

 そのうえ結衣華に自分のことをどう思っているか聞け、ですって?

 ……あぁ、だから恋愛って好きじゃない。

 全然周りが見えていないじゃない。

 周りが見えずに、一人熱くなっちゃって、とんだ勘違いをして喚き散らして……そんなふうになるまで他人のことを好きだって思えるミリヤちゃんのことが──……羨ましくて仕方ない。



***


 「家まで送ってもらっちゃってごめんね、市瀬くん」

 ミリヤちゃんと別れてから、市瀬くんは自分の車で私のマンションまで送ってくれた。

 後輩にこんなことまでしてもらうなんて、先輩として失格だ。猛省だ。


 「いいんですよ。それより本当に病院に行かなくて平気ですか?僕、付き添いますよ」

 「い、いいのいいの!だって考えてもみてよ、医者に『この傷どうされたんですか?』って聞かれて『腐れビッチと言われながら若い女の子に叩かれました』なんて言えないでしょ?」

 「僕がちゃんと説明しますから」

 「ふふっ。私は市瀬くんが怒ってる姿を見れたからもう満足なんだよね」

 いつも穏やかで爽やかな彼が、あんなふうに人を睨みつけて怒っている姿をはじめてみた。

 私を抱き寄せながら支えてくれて、私のために怒ってくれる姿を見たとき、なんだかすごく嬉しかったんだ。



 「あ、でも一つ訂正させて?私、本当にビッチじゃないからね?」

 「ハハッ、知ってますよ」

 「ほ、本当に私、ビッチとかじゃないから!」


 マンションの入り口で停めてくれた市瀬くんの車を降りながら、もう一度念押しでそう言った。

 何度も執拗にそう繰り返す私に、市瀬くんは目を細めて笑ってくれたから、今はそれだけで十分だ。


 「大丈夫、知ってますから。千里さんはそんな女性じゃないってこと。僕、ずっと千里さんのこと見てきてるので」

 「あ、う、うん。そっか、分かってくれたなら……もう大丈夫」


 あれ、おかしいな。

 いつもと変わらないはずの市瀬くんに、今日はまともに目を合わせることができない。


 ビンタされてスッ転ぶという醜態を晒してしまったせいだろうか。

 ……確かに職場の先輩が見知らぬ女の子に「腐れビッチ」と言われながらビンタされる有様を見ればドン引きだ。


 だからだ、そのせいだ。

 あぁ、会社ではポンコツな自分をひたすらに隠していたのに。

 まるで生活能力のないダメでつまらない人間だから、せめて社会に出たときの私くらいは格好よくいたかったのに。


 「きょ、今日は本当にごめんね市瀬くん」

 「……」

 返事がない。

 やっぱりドン引いているんだ。最悪だ。



 「じゃ、じゃあ今日はこれで!また明日!」

 「──千里さん!」

 「は、はい!」

 「あの、もっと僕のことを頼ってください!」

 「……はい?」

 「それから、もっと……僕を見て」


 ねぇ、市瀬くん。

 なんでそんなに顔が赤いの?

 どうしてそんな潤んだ瞳で私を見ているの?

 ──僕を見てって……何?


***


 「ただいまぁ」

 「あ!おかえりなさい千里ちゃーん……って」

 「あ、梨々菜ちゃんただいま〜!えへへ、今日も可愛いねぇ、天使だねぇ」

 「うわーーーーん!ママァ、千里ちゃんのほっぺたがぷくぷくさんになってるよぉ!」


 玄関を開けてすぐ、梨々菜ちゃんと鉢合わせになってしまったことが間違いだった。

 私の腫れ上がった左頬を見て、大泣きしながら夜ご飯の準備をしているエンちゃんのところへ走り去ってしまった。


 「ど、どしちゃったの千里ちゃん!?」

 「アンタそれ……誰かと殴り合いでもした?」

 そうなると必然的に、大騒ぎになってしまうわけで……。


 梨々菜ちゃんにはヒール靴のせいで転んじゃったせいだと伝えて、大人の時間になると、私たち三人はまたいつもの指定位置であるソファに腰掛けた。左から結衣華、私、エンちゃんの順に座るのが私たちの指定席だ。


 「……で?何があったの?」

 「結衣華の彼女さんに会ったんだよ」

 「……は?ミリヤに?」

 結衣華はソファの背もたれから離れて、私の顔を覗き込むように凝視しながらそう言った。

 みんなで同居する前に、居酒屋『のんべぇ』で結衣華とミリヤちゃんとの関係を簡単に聞いたきり、その後どうなったのかは知らない。


 「私と結衣華が付き合って同棲までしてるって勘違いしちゃったみたいだよ」

 「それで、叩かれたわけ?」

 「まぁ、それはもういいんだけどさぁ。今二人の関係ってどうなってるの?ミリヤちゃんが聞いてきたんだよね。今、結衣華がどう思ってるのか聞いてほしいって」


 別れる寸前まで陥っているとはいえ、一度は同棲を考えていたくらいだ。

 結衣華のことだし、きっとうまく仲直りできると思うのだけど。

 「……知らない。もう別れてるから」

 「なっ!?え!?」

 「結衣華ちゃん、お別れしちゃったの!?」

 「うん。だからどう思うも何もないよね?振ったのは向こうだし」

 けれど、結衣華は淡々とそれだけ言って、キッチンからペットボトルの水を取りに行った。

 どうしちゃったんだろう。なんだかいつもの結衣華じゃないみたいだ。

 エンちゃんも何かを感じ取ったようで、結衣華にそれ以上追求はせず、救急箱を取り出して私の頬の傷の手当をしてくれた。

 「(……大丈夫かな、結衣華)」



***


「千里ー!聞いてくれた!?ねぇねぇ、結衣華はあたしのことなんて言ってた!?」

「……ゲッ。なんで今日もまたいるのよミリヤちゃん」

「だって昨日言ったじゃん!結衣華の気持ちを聞いて来てって!」


 今日は商談も午前中に一件しかなく、あとは溜まりに溜まった事務作業に追われていたのだけれど、いよいよ集中力が切れた私は夕方ごろに退勤して、大きなビルをあとにした。


 あと三日でエンちゃんと梨々菜ちゃんは、あのマンションを出ていくことになっている。

 エンちゃんは小さな鉄筋工場の事務職での採用が決まり、時短勤務とはいえすでに働き始めている。家の荷物もほとんど運び終えていて、今週末にはお別れの時がやってくる。

 だから今日は何か美味しいものでも買って帰ろうとしていたというのに、またミリヤちゃんと再会してしまうことになるなんて。


 「あれ、今日はあのオジいないの?」

 「あのねぇ、市瀬くんって職場ではすっごくにモテモテなんだよ?あとね、二十八歳をオジとは言わないから」

 「まぁまぁ、怒んないでよ!あの人がいなくて寂しいんでしょ!?」

 ニヤニヤしながらいやらしい目つきで擦り寄ってくるミリヤちゃんを軽く押し退けた。

 若い子って恐ろしすぎるよ。

 「ミリヤちゃんってば、あれでしょ?男女が一緒にいたらみんなカップルとか付き合ってるとかって思うタイプでしょー?」

 「違うの?」

 「違うから!あぁ、やだやだ。これだから若い子ってばもう〜」

 「でも普通に考えて、好きでもないただの職場の上司を庇ったり支えたり、代わりになって怒ったりしなくない?」

 「……」


 ミリヤちゃんの言葉で思い出したのは、市瀬くんと最後に交わしたあの言葉。

 『あの、もっと僕のことを頼ってください!』

 『それから、もっと……僕を見て』


 あの言葉の意味を聞く暇もないまま、市瀬くんは別のプロジェクトの参加が決まり、今朝から出張で海外に飛んでいる。

 けれど、聞かなくて正解かもしれない。


 あの言葉の真意を聞いてしまったら、今の彼との関係が壊れてしまうことは明らかだから。

 ……いやだよ、恋愛なんてもののせいで関係が悪くなってしまうのは。絶対にいや。市瀬くんとの関係が悪くなるということは、仕事にも影響を及ぼしてしまうことにもなるんだから。

 一緒に仕事をして、たまにお昼ご飯を一緒に食べて、仕事の愚痴をこぼしたり次の商談の打ち合わせや計画を楽しく練っている今の関係でいい。それがちょうどいいんだ。



 「それより千里〜!結衣華のこと聞いてくれてないのぉ!?」

 私の上をブンブンと振り回しながらそういうミリヤちゃんに、昨日の結衣華の言葉を聞かせるのは酷だと思った。

 ただ、私が結衣華の言葉を捏造して「好きって言ってたよ!」とは絶対に言えない。


 「……とりあえずどこかお店に入る?」

 「やった!昨日と同じカフェがいい!」

 「やだ、一緒のお店はいや。違う場所のカフェにして」

 「えぇ!?」



***



 「わ、別れてるぅ!?」

 「ちょっとミリヤちゃん!静かにしてよ!」

 まだ夕方とはいえ、店内にはたくさんの若いお客さんで溢れていた。

 店内全体がキツいピンクで塗られていて、机や椅子、周りの小物たちもド派手チックに着飾られているせいで全然落ち着けない。


 「別れてるから知らないって……何よそれっ」

 「でもミリヤちゃんのほうから振ったって聞いたよ?」

 「だ、だって女の人と付き合ってるなんて親に知られたくなかったし!だいたいあたしは誰にも関係を言わないで欲しかったんだもん!」

 「……誰にも知られずに同棲するつもりだったの?」

 「そうだよ!だって褒められた関係じゃないんだもん!ミリヤ、結衣華と一緒にいるときに変な目で見られたくないんだもん!」


 ミリヤちゃんはプイッと横を向いてそう言った。

 彼女は今二十三歳で、結衣華が店長を務めるアパレルショップのとなりのお店でアルバイトをしているそうだ。結衣華と出会ったのは二年前で、ミリヤちゃんから猛アタックしたらしい。


 結衣華とミリヤちゃんの間には七歳差という壁がある。きっと結衣華のことだから、そういうところにも考慮して、同棲をはじめるならちゃんとしたかったんだと思う。


 「あのさ、ミリヤちゃん。同棲するってことは簡単なことじゃないと思うよ?ただ一時期一緒に住んでいるだけの私たちとは訳が違うんだからね?」

 「……うん」

 「だから結衣華はミリヤちゃんのことを責任持って大切にしたかったから、親に言って関係を明かしたかったんだと思うよ?」

 「……っ」

 「二年も結衣華と一緒にいたら分かるでしょ?あの子がどんな子かってことくらい」

 「あたし……っ、どうしよう」


 ミリヤちゃんはこの派手なお店にそぐわない表情で、ポロポロと涙をこぼした。

 「あたしね、軽はずみで何回も"別れる"って言っちゃう癖があって……っ。結衣華に「そうやってすぐに関係を断ち切るようなことは言うな」って言われてたのに、あたしまた言っちゃったから……っ、本当に別れることになっちゃったんだぁ」


 目の前で一生懸命に泣くミリヤちゃんの姿を見て、不謹慎にもとても綺麗な涙だと思った。

 結衣華のことが好きで、好きで、たまらない涙。


 「(私には一度も流したことのない涙だな)」

 「うぅ、別れたくないよあたしっ。結衣華と、もう一回やり直したいよぉ」

 「ちゃんと話し合ってみなよ。結衣華はそんな薄情な人じゃないから」

 「でもっ、あたし言われてたの……っ。次、もう一回別れるって言ったときは、本当に別れるときだからねって……っ」

 「……ふふ。私もまだ小学生のときにね?よく結衣華と喧嘩して「もう幼馴染やめてやるからー!」とか「明日から友達やめるからー!」って何回も言ってた時期があるんだけど。そのたびに結衣華は意地っ張りな私の家まで来てくれて仲直りのきっかけを作ってくれてたんだよね。だから、きっと大丈夫だよ。もう一回、ちゃんと話してごらん?今度はミリヤちゃんのほうからちゃんとね」


 綺麗な涙はいまだに彼女の頬を伝っていた。

 目の前に出された『しゅわしゅわポップな虹色のミックスジュース』は全然中身が減らないままだった。


***


 「今まで本当にありがとう、千里ちゃん。それから結衣華ちゃんも」

 「ううん。エンちゃん気をつけてね。無理しないでね?嫌なこと言われたり、無理難題を押し付けられたりしたら、それはパワハラだからね?我慢しちゃダメなやつだからね!?」

 「ふふっ!大丈夫だよ、千里ちゃん」

 「体に気をつけてね、エン」

 エンちゃんと梨々菜ちゃんがマンションを出ていく日がやってきた。

 「千里ちゃんに結衣華ちゃん!今度は梨々菜とママの新しいお家に遊びにきてね!」

 「ぜーったいに行く!もう梨々菜ちゃんがうんざりしちゃうくらい、お泊まりとかしーちゃお!」

 「それはただの迷惑なやつだよ千里」

 「じょ、冗談だし!」

 エンちゃんは梨々菜ちゃんが今の小学校へそのまま通えるように、同じ区内へ引越しを決めた。

 だから私のマンションからだって近いし、通おうと思えばいつだって行き来できる距離にいる。


 それでも、お別れというのは悲しいものだ。

 私は今、ちゃんと笑えているかな。もう立派な大人なのに、エンちゃんと梨々菜ちゃんがいなくなるという事実がこんなにも胸が苦しくなるほど寂しく思うなんて。


 「ちゃんとご飯は作って食べるようにね?宅配ばっかりに頼りすぎちゃうとダメだからね?私もたまにはおかずを持って行くけど、だけどちゃんとご飯を炊いてあたたかいご飯を食べてね?いい?」

 「も、もちろん!心配しなくていいよ!結衣華と二人でやっていくし!ね!」

 「うん。エン、ウチらのことは心配しなくていいから大丈夫」

 「……うん。じゃあ、もう安心だね」

 エンちゃんと梨々菜ちゃんの後ろ姿を、結衣華と二人で最後まで見送った。

 四人で一つのマンションに住み始めて、七ヶ月が経ったころの話──。



***


 エンちゃんたちがマンションを出て、二週間が経った。

 あれだけ毎日のように会社の前に待ち伏せしていたミリヤちゃんも、今ではすっかり見かけなくなって、今はどこで何をしているのかサッパリ分からない。

 かく言う結衣華は相変わらず二人の関係のことは何も言わないし、言おうともしない。

 彼女自身は平静を保とうとしているようだけれど、どう見たって落ち着かない様子だし、飲みに行く回数も増えている。ミリヤちゃんと別れたことがダイレクトに響いているってことを、本人は気づいていないのか。それとも気づかないふりをしているだけなのか。



 「(結衣華もきっと、いろいろ悩んでいるんだろうなぁ)」

 そういえば、もうすぐ市瀬くんが海外出張から戻ってくる頃だ。今抱えている仕事の案件の進捗や報告はメールでやり取りしていたけれど、会うのはもういつぶりだろう。


 『それから、もっと……僕を見て』

 あの会話が最後だったから余計に、次に会うときが余計に緊張してしまう。


 「あぁ、これ以上考えるのナシ!ダメダメ!」

 これ以上市瀬くんのことを考えることをやめようと、頭をブンブンと横に振って消し去った。

 ……そうだ、今日は結衣華も早番で早く帰ってくると言っていたはずだし、明日は二人とも休みが重なっていたはずだ。

 今日は一緒にお鍋でも作って、久々に語り合おう。ミリヤちゃんとのことも、そのときに確かめればいいや。


 我ながらナイスな閃きだと言わんばかりに、軽い足取りでスーパーに立ち寄った。

 お鍋の具材とちょっといいお酒を大量に買い込んで、気分よくお店を出たとき。


 「あー!千里発見ー!」

 久々に聞いた、あのツンとした金張り声……ミリヤちゃんだ。

 外はもうすっかり日も暮れて、夕方のオレンジ空が広がっている。


 「ミリヤちゃん。久しぶりだね」

 「じゃじゃーん!これ見てよ!」

 出会って早々に、得意げな表情で『ババン!』と効果音を付けながら私の目の前に見せつけてきたのは、一枚の書類だった。


 「賃貸借契約書……?」

 「あたし!家借りたの!」

 「えぇ!?……またどうして?」

 「そんなの決まってるでしょ!結衣華と一緒に住むためだよ!」


 ミリヤちゃんは鼻を高くしながら、当時二人で決めていた物件を自分名義で借りたのだという。

 「でもユイカちゃんアルバイトだよね?家を借りるには保証人が必要じゃなかった?」

 「……うん。ママが保証人になってくれたよ」

 「それって……」

 「ミリヤ、ママに結衣華のことを話したの。好きな人がいるんだって、初めてちゃんと自分からお付き合いしたい人ができたんだって」

 「ミリヤちゃん」

 「何言われるのか怖かったし、おかしいんじゃないの!って言われるのも覚悟してたんだ。でもね、ママ喜んでくれた。あたしね、それまでロクな恋愛してこなくて、そのたびに両親に迷惑かけるようなことばっかりしちゃってて。だから、こうやってちゃんと紹介してくれたことが嬉しいって。一緒に住みたいんだけどって言ったら、喜んで保証人になってくれたよ」

 「あたし、ちゃんとユイカのパパとママにも会うつもり。ちゃんと……認めてもらえるように」


 なんてまぶしい子なんだろう。若いから?まだ二十三歳だから?

……ううん、私がミリヤちゃんと同じ年だったとしても、きっとこんなにもまっすぐに何かに向かっていけなかったと思う。



 「そっか。ミリヤちゃん、結衣華に本気なんだね」

 「……うん。この契約書をね、今から結衣華に渡してくるの!でね、ちゃんと謝んの。簡単に別れようなんて言ってごめんねって。もう二度と言わないから、もう一回ちゃんと付き合いたいって。そして最後に言うんだ。あたしと一緒に住もうよって」

 「……」

 「結衣華がちゃんとしてくれるから、あたしもちゃんとする!」



 ミリヤちゃんの真っすぐな言葉が眩しすぎた。彼女の行動力のすごさに、目が眩みそうになった。

 そして、その日結衣華がマンションに帰ってはこなかった。

 メッセージには、ただ一言『ミリヤと会ってくる』とだけ残して。



***


 「この家って、こんなに広かったっけなぁ」

 結衣華と二人で食べようと思っていたお鍋の具材を冷蔵庫に入れることもしないまま、広すぎるリビングで一人、大の字になって横になった。

 このマンションを購入してから一度も一人になったことがなかったからか、エンちゃんや結衣華がいないひとりぼっちの空間が、不気味な程に静まり返っている。

 これが私の日常になるはずだった。この静けさ、この孤独感、このひとりぼっちが私の日常だったはずなのに。


 「……寂しいっ」

 あぁ、私、寂しんだ。孤独なんだ、今。

 ずっとエンちゃんや結衣華たちと一緒に居られるわけじゃないって分かっていた。

 みんな大人になって、それぞれに生活があって、大切にしているものがある。

 そんな当たり前のこと、分かっていたはずなのにな。


 「……こんな大きな家、買うんじゃなかったな」

 目尻に溢れた涙が、ゆっくりと頬を伝う。

 一人って、こんなにも寂しいんだ。


 そのとき、鞄の中に入れっぱなしにしていたスマホが鳴り響いた。

 このまま出ないでおこうかなとも思ったけれど、どうにか体を起き上がらせてそれを手に取ると、着信の相手は市瀬くんだった。

 彼の名前を見た途端、ドクンッと心臓が大きな音を立てる。


 「はいっ」

 《お久しぶりですね、千里さん》

 「……うん。久しぶりだね」

 《今、千里さんのマンションの前にいるんですけど、ちょっとだけ出てきてもらうことってできますか?》

 「え!?なんでウチに……?」

 《海外から帰ってきてすぐ会社に寄ったんですけど、千里さん今日はもう帰ったって聞いたから……その、どうしても会いたくて》

 「ねぇ。じゃあウチで、お鍋、一緒に食べない?」

 市瀬くんとの関係を壊したくないと思っていた。

 彼とは一線を超えず、今のままの関係を保っていようと思っていた。

 でも、今の私に彼の落ち着いた優しい声色に……抗えない。
 

 《……お鍋、食べたいです》

 「23階の、2307号室だから」

 それだけ伝えて、電話を切った。

 いつか壊れてしまうんじゃないかと心配になるくらい、心臓が大きな音を立てて脈を打ち続けていた──。
 

***


 「なんだか久しぶりだねぇ、三人で集まるのって」

 「確かに。一緒に住んでたころが懐かしく感じるな」

 「……で?今日はなんの集まりだっけ?」


 私たちのいつもの溜まり場、居酒屋『のんべぇ』。

 そこには一ヶ月ぶりとなるエンちゃんと結衣華の姿があった。


 「みんな報告したいことがあるって言うから集まったんだよ!」

 「あはは!そうだったねぇ」

 「誰から報告する?」

 「うーん、じゃあまずはエンから!」

 テーブルには軟骨の唐揚げにポテトサラダ、鰹のタタキにサラダの盛り合わせにだし巻き卵からさまざまなメニューがどっさりと注文されている。

 
 「わたしはねぇ、彼氏ができたよ」

 「嘘、マジ?」

 「えぇ!?ちょっ、エンちゃん詳しく詳しく!」

 「ふふふっ!それよりわたしは早く結衣華ちゃんと千里ちゃんの報告も聞きたいよぉ」


 ちょうど一年前、ここで私たちが一緒に住むことが決定したんだっけ。

 突拍子もなく始まった、幼馴染三人との同居生活。


「じゃあ次あたしね?あたしは別にそんな大した報告じゃないんだけど、来年ミリヤと二人でアパレルブランドを立ち上げることが決まったのと、この夏にハワイに行ってウェディングフォトを撮ってくることになったこと……くらいかな」

 「えぇ!アパレルブランド?すごいねぇ、結衣華ちゃん」

 「ウェディングフォトって素敵!最高じゃん!絶対見せてよ!?ってかどうせなら結婚式挙げてくればいいのに!そうしたら私とエンちゃんも絶対呼んでよ!?」

 「ふっ、はいはい。考えとくから。……で?千里、アンタの報告は?」



 三人で生活を共にしたあの一年は、私にとってかけがえのない時間だった。

 自分の力で生きていくことを決意したエンちゃんが家を出て、その次に結衣華がミリヤちゃんとの同棲を始めるために出て行ったあの日。

 私は一人、孤独に苛まれてこれまでにないほどの痛みを味わった。

 それまでは一人で生きていくことになんの恐怖も、痛みも、寂しさも感じなかった私だったのに。けれどエンちゃんと結衣華と過ごした、たった一年の生活が楽し過ぎて、愛おしすぎて、その生活がなくなったあのときは、とても苦しかった。

 そんな私を救ってくれたのが──……彼だった。



 「えっとね。その、か、彼氏ができました!」

 「えぇ!?」

 「もしかして、あの人?ほら、同じ会社の後輩?」

 「う、うん……っ。市瀬くんって言うんだけど」

 「ちょっとちょっと!千里ちゃんの話から一番に聞かせてほしいよぉ!」

 「い、いやいいって!私はエンちゃんの彼氏さんの話から聞きたいんだけど!」


 恋愛なんてしなくていいと思っていた。

 結婚願望がなかったわけではないけれど、きっと私は誰かを心から愛することのないまま、一人で一生を過ごしていくものだとばかり思っていた。

 だけど、そんな私の手を差し伸べてくれたのが市瀬くんだった。



 『僕が、千里さんの隣にいてはダメですか?』

 『好きです、千里さんのことが』

 『僕の一生をかけて、千里さんを愛します。もう寂しいだなんて思わせない、孤独だと言って涙を流させることもしない』

 『だから千里さんは、ゆっくりでいいから──……僕のことを愛してください』



 彼があの日、孤独に押しつぶされそうになっていた私にくれた言葉の数々は、決して忘れない。

 私の宝物──。



***


 その日の私たちは、時間を忘れてたくさんの話で盛り上がった。

 『のんべぇ』の店長がこっそりと閉店時間を延ばしてくれていたことに気づいたのは、深夜の一時をすぎたころだった。


 「今日はよく飲んだー!」

 「本当だねぇ、わたしお酒なんて久々だよぉ」

 「深夜まで飲むとか……あたしらもう三十歳過ぎてるんだけどね?」


 月明かりに照らされながら、静かな夜道を三人で歩いた。

 この道は、かつて学生だったころの私たちがいつも通っていた登下校の道だ。


 「あたしたち、婆さんになってもたまにはこうして飲み歩こうよ」

 「大賛成だよぉ!千里ちゃんに結衣華ちゃん、そしてわたしの三人の仲はどんなことがあっても不滅なんだから」

 「アッハハ!何その十代の子が言うようなセリフ!」


 きれいな夜空に三人の笑い声が響いた。

 でも、簡単に想像できるよ。きっと私たち、何年経ったもこうしてずっと笑ってるはずだよ。


 たとえどんなことがあったとしても、私たちが揃えば最強なんだから。

 私たちの絆は、永遠なんだからね──。

【完】