赤味をまとった紅葉、黄色に染められたイチョウの葉。化粧を施し、多くの人を魅了した美しい秋の風物詩も、今ではそのほとんどが地面に落ち、箒によって砂利とともにかき集められている。
 春夏秋冬。文字通り、春が一年の始まりとするのなら、その終わりを知らせる最後の季節が裸となった木々の枝のように、どこか哀愁を漂わせながら行き交う人々を包み込もうとしていた。
「最近、一層と寒くなってきたよな」
 吐き出す息が、薄っすらと白味を帯びる。あまりにも瞬間的に消えるその白に、氷野祐輔は魚のような口でもう一度、肺に残った空気を身体の外へと逃がす。
「あんたといると、余計に寒く感じるから不思議だわ」
 首を左右に小さく振りながら、隣を歩く木島遥香は言う。
「またその話かよ……普通に歩いてる時にまで、俺が『氷野』って名字だってこと、思い出したりなんてしないだろ。それに何回も言ってるけどな、この名字の人は全国に百人近くいるんだぞ」
「たった百人なんでしょ? この国にはね、一億二千万人近くの人がいるわけ。それなのに、たった百人で偉そうに……選ばれし百人だとでも言いたいわけ?」
「遥香だって、もうじきその選ばれし百人の仲間入りってわけか」
「そう、本当に嫌になっちゃう」
 遥香は眉根を寄せ、露骨に大きなため息をつく。皮肉なことに、そのため息もまた、神聖な季節に染まるような色に染まっていた。
 祐輔と遥香は結婚する。高校三年生の頃から交際を始め、次の十二年で丸十年。気が付けば、三十代がすぐそこまで迫っていた。
 あの頃は、自分はもう少し早く結婚するものだと思った。大学を出て、社会人になる。社会の波にもまれ、あっという間に大人になる。そんな未来図を描いてさえいた。
 しかし、現実はそう甘くはなく、社会に出たからと言って、大人になっているという自覚を持てることはなかった。言葉遣い、所作、気遣い。そんなものをいくら学ぼうと、所詮それは、余所行きの自分を作り上げるためのもの。上司に叱られる日々を過ごす日常は変わらない。
 だからこそ、遥香から遠回しに結婚をほのめかす言葉を聞かされても、なかなか結婚には踏み切れずにいた。
 そんな祐輔の気持ちが変わったのは、あの日、父親の和俊からある話を聞いたことがきっかけだった。

「お前もそろそろ、結婚を考える歳になったんじゃないか? 遥香さんとは、どうなんだ?」
「結婚ねぇ……。考えてはいるんだけど、こう、どうしても踏み切れないというか、重い腰が上がらないというか、なんというか」
 そう言って小さく息をつくと、はっはっは、と和俊は自分の太ももを叩きながら、決して歯並びが良いとは言えない歯を見せつけるように大口を開けて笑った。
「そうか、そうか。お前もなのか。いやぁ、血は争えんもんだよなぁ」
「お前もってなんだよ。父さんもそうだったの?」
「恥ずかしい話だがな。母さんにもなかなかプロポーズを切り出せなくて、随分と急かされたもんだ」
 指輪まで用意していたのに、だぞ。と昔を懐かしむように言って、和俊は棚の上に飾ってあった一枚の写真を手に取った。祐輔の物心がついたころからそこに置いてあった写真で、桜が優しく柔らかく舞う中で、大きな満月の光に照らされた和俊、まだ赤ん坊だった祐輔を愛おしそうに抱いた母親の小雪が写っているものだ。
「へえ。母さんが」
 意外だった。もちろん、和俊が奥手だったこともそうだが、それ以上に、小雪が結婚を急かすような人だとは思えなかった。
 小雪は、祐輔が生まれて間もなく病気で亡くなった。だから祐輔は母親の顔を、この写真以外では知らない。そのせいか、祐輔が抱く母親のイメージは、この顔から滲み出ている通りに優しく、物静かで穏やかで、愛の深い人――そんなイメージだった。
 実際に、和俊は小雪の話が出るたび、まるで写真の中の小雪に語り掛けるように「お前は母さんに、本当に愛されていたんだぞ」と嬉しそうに話していた。
「それで、父さんはどうして、母さんと結婚しようって決めたの?」
「よく言うだろ。結婚は勢いだ。いつまで経っても決心がつかないと思っているのなら、流れに身を任せても良いんじゃないか? それも一つの運命だ」
 なんの参考にもならないし、それができないからここまでズルズルと来ているんだ、と口から出掛けたが、「とまぁ、それも事実ではあるんだが」と和俊が真面目な顔をして続けたので、祐輔は言葉を飲む。
「父さんが結婚を決意したのはな――……見つけたから、なんだ」
 遠くを見るような目で、和俊は言う。
「見つけた? それは愛だ、とか言うのだけはやめてくれよ?」
「ははは。それもそれで恰好良いが、残念ながらそうじゃない」
 鋭い視線が、祐輔を捉える。
「父さんが見つけたのは〝桜〟だ」
「え……桜? たしかに母さんが大好きだったっていうのは聞いたことあるけど……。でもそれって、別に見つけるって言わなくない? この街にも桜の木はたくさんあるし、春になったら嫌でも目に付くでしょう?」
 それどころか、どちらかと言えば地元の桜は有名な方で、春になれば観光客だって訪れる。見つける、見つけないの話ではない。
「普通の桜じゃないぞ。その桜はな、冬にだけ咲く桜なんだ」
「それって、冬桜のこと? へえ、この辺にもそんな品種があったんだ」
 そういう話ならわからなくはなかった。なぜならこの二十八年間、祐輔は冬に桜を見た記憶がないからだ。思い返せる桜はすべて、春に花を咲かせている。
「冬桜なんて、どこに咲いてたの? 聞いたこともないんだけど」
 祐輔が尋ねると、腕組みをしたままの和俊は、不気味な笑みを浮かべて言った。
「祐輔。気になるのならまず、お前自身で探してみるんだな。見つけたら、父さんが結婚を決意した理由も教えてやる」
「またそれか」
「はっはっは、良いじゃないか」
 いつもそうだ、と祐輔は肩を落とす。和俊はいつも肝心なところを教えてはくれず、「宿題」として、自分で答えを見つけてくるよう促してくる。「自分でみつけるからこそ財産となり、強くなれるんだ」というのが決まり文句だ。
 冬桜を見つけることと結婚。その二つがどう繋がっているんだよ、と思っていると、そんな心情を見越したかのように、バシバシと和俊が祐輔の背中を叩く。
「父さんからの宿題は……これで最後だ。ま、最後に相応しい難題だがな」
 その絵に描いたように作られた笑顔の中に、祐輔はどこか、寂しさを感じた。それに気付いてしまったら、もう断る理由もなかった。
「それが結婚とどう繋がるのかはわからないけど……気になるから、探してみるよ。父さんからの宿題、提出しないわけにはいかないからね」
「難題であることに違いはないが、大丈夫だ。お前も、きっと見つけられる」
 和俊はそう口にして立ち上がり、部屋を出て行く。その背中はいつもよりも少しだけ、小さく映った。

 その日を境に、祐輔は街中を探した。休日はもちろん、通勤を含めた仕事の隙間時間をも活用して、この時期に蕾、あるいは花の咲いた桜を探して回った。
 だが、一週間が経っても、手掛かりの一つも見つけらなかった。
「わたしも探すよ」と遥香に言われたのは、何気なしに冬桜のことを話した後だった。当然ながら、この街で育った遥香も街の冬桜については知らなかった。
「もうこの街も大体見たけど、蕾はおろか、葉っぱ一枚付いてる木だってないよ。本当に、冬桜なんてあるのかな?」
「父さんの宿題だし、街の外ってことはないと思ってたけど、母さんとの思い出の場所って可能性もあるのかなぁ。でも、だとしたらいよいよ見つけられないよ」
 枝だけとなり、虚しささえも感じる桜の木を見上げながら、祐輔は嘆息する。自分の存在を主張するように色を纏いながら、ため息は空へと昇っていく。
「この街のどこかにある」という先入観で、今日まで探し回った。が、ここにきて、根本から間違っている可能性が浮上しつつある。「これは本当に難題だぞ」と、顎を掻きながら祐輔は呟いていた。
「なるほど、二人の想いでの場所ね……たしかに、その可能性はあるかも」
 遥香がそう言うと、不意に沈黙が訪れる。見つけるのは無理ではないか。その言葉が互いの頭に過っていることが手に取るようにわかる。それを口にしないのは、社会に出て、必要以上に協調性とやらを養ったからなのかもしれなかった。
「と、とりあえず、あそこのお店に入らない? わたし、寒くって」
 手袋をした手をこすり、遥香は暖を欲する仕草をする。この重みを増した空気を変えるための嘘とはわかりながらも、祐輔はその優しさに乗ることにした。
 店内はすっかり冷え込んだ胸の内とは違い、賑わいを見せている。入店と同時に運良くすれ違いの形でカップルが店を後にしたので、二人は待ち時間もなく窓側の席へと案内された。
「ラッキーだったね」と笑顔を交わして席に着き、ホットコーヒーを注文する。冬桜の話を切り出したのは、遥香の方だった。
「それで……さ。ふたりの思い出の場所、心当たりとかあるの?」
 また空気が重たくなると思ったので、祐輔はできる限り明るく答えた。
「それがまったく。父さんからそんな話を聞いたこともないし、母さんに至っては、話した記憶すらないんだから困ったもんだ」
 祐輔は頬杖をつき、わざとらしく視線を窓の外に向ける。そこから見えるのも、普通の桜の木だけだった。
 その枝には、風で飛ばされたであろうビニール袋がぶら下がっている。
「そう……よね。ねえ、これってさ、ヒントを貰えたりしないの?」
「うーん、父さんの性格上、なにも教えてはくれないだろうなぁ」
 そっか、とため息交じりに遥香が言ったところで、コーヒーが運ばれてくる。二人は黙ったまま、カップに口をつけた。
「ちなみにこの宿題? は、初めてじゃないのよね? それも全部、なんのヒントも無しに答えてきたの?」
「そう……だったかな、うん。特に聞いた覚えはない」
「じゃあ、今まではどんな宿題があった?」
「今までか……。そうだな、今まではこんなにあちこちを探したりするんじゃなくて、ぜんぶ身の回りというか、身近なものが答えだったりしたんだよな」
「例えば?」
「それこそ家の中とかさ。小学校の頃は、庭に埋められてたこともあったっけ」
 当時を思い返すと笑えてくる。なんでこんなところに、というより、それを見つけた時の和俊の笑顔が、いつも嬉しそうな顔をしていたからだ。
「なるほど、それはたしかに身近なところ……って、あれ?」
「ん、どうした?」
「祐輔の家の庭にも、桜の木が植えられてなかった?」
「植えてあるけど、それこそ毎年のように見てるんだよ? 今年だって、四月くらいに開花してたし。普通の桜が急に冬桜に変わるなんて、あり得ないだろ?」
「だけどさ、祐輔は『冬にだけ咲く桜』って聞いたんだよね? 冬桜とは、聞いていないんだよね? だとしたら、もしかしてそこに何らかの意味があったのかも」
 まるで真実に近づいたとでも言わんばかりに、遥香は口角を上げる。理屈が通っていないわけではないのだろうが、なに一つの確証もない。
 とはいえ、こうして時間を割いて協力してくれている遥香の意見を無下にすることも心苦しく、コーヒーを一口啜ると、諦めるように祐輔は言う。
「じゃあ一応……調べてみようか?」
「そうこなくっちゃ」
 遥香は残りのコーヒーを一気に飲み干すと、「早く! 善は急げよ!」と伝票を持って会計へと向かう。祐輔も慌てて上着や鞄を手に持って、遥香の後に続いた。
 店を出ると、二人は祐輔の軽自動車に乗り込んだ。運転中、もう何度も見た風景ではあったが、ここ一週間で癖がついたのか、道中の桜にも目が行ってしまう。
「気にして見るとさ、やっぱりこの街って桜が多いわよね」
 遥香がフロントガラス越しに外を覗くように言う。どうやら、遥香も同じような癖がついてしまっているらしい。
「そうだね。もしこの中に冬桜が一本だけ混じってる、なんてなったら、噂のひとつ立ちそうなものだよね」
 自分で口にして、改めてこの街に冬桜などないと、祐輔は思ってしまっていた。
 時刻は十七時を回ろうとしている。外はすっかり暗くなり、視界も悪くなった。
「日が落ちるのも、だいぶ早くなったよね」
「これじゃあ桜が咲いていても見えないよ。もう少し、街灯を増やしてくれれば良いのに」
「今の時期じゃ、寂しい枝だけが照らされるけどね」
「たしかに。それは怖いか」
 めっちゃ怖いよ、と遥香が頬を緩めると、その顔とあの写真に写った小雪の顔に重なる部分があったのか、ふと、家族写真が頭を過る。
 そういえば、あの写真もこれくらい薄暗かったよな――。
 そんなことを思いながらも車は暗闇を照らして進んでいき、程なくして、自宅へと到着した。

「遥香さん、いらっしゃい」
 事前に連絡していたこともあり、珍しく和俊が玄関まで迎えに来る。
「こんばんは。すみません、急に押し掛ける形になってしまって」
「ぜんぜん。いつでも歓迎だよ。さあ、上がって」
 明るい笑顔に急かされるように、二人は家に上がる。室内は、ほのかにまろやかな匂いが漂っていた。
「ちょうど豆乳鍋ができたところなんだ。せっかくだから、遥香さんも晩御飯をうちで食べいくと良い。豆乳鍋……平気かい?」
「はい! わたし、豆乳鍋大好きなので、この時期は家でもよく作っているんです」
 それは良かった、と和俊はさらに上機嫌になり、何も聞かずに冷蔵庫から缶ビールを取り出して、テーブルの上に置いた。祐輔と遥香が洗面所から手洗いをして戻った時には、すっかり晩御飯の準備は整っていた。
 数ヶ月前に遥香が来た時以来、久し振りに三人で食卓を囲む。気前よく、和俊がそれぞれの器に鍋を取り分けてくれた。
「ありがとうございます、いただきます……あ、わたしが作るのより断然美味しい」
 そんな小さな一言に、和俊は照れるようにビールを傾けた。ガスコンロに熱された鍋が香りを運ぶとともに食欲を煽っている。
 その後も世間話をしながら食を進め、気付けばあっという間に鍋の中身は空っぽになった。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです、お腹いっぱい」
「そりゃ、締めの雑炊までしっかり食べればね」
「はっはっは。良いじゃないか。それにしても、一人増えただけで賑やかになって、なんだか嬉しいね」
 和俊の酒はいつの間にか日本酒へと変わり、ほのかに酔いも回っているようだ。その表情は笑顔というよりも締まりがないと言ったほうがしっくりくる。
「わたしもいつも家で一人なので楽しかったです。……あ、あれってたしか、祐輔くんのお母さんのお写真――ですよね?」
 遥香が棚の上に置かれた家族写真を指差す。
「そうだよ。これは、祐輔が生まれてすぐの時だ」
「だからですね、おふたりともとっても嬉しそう。この場所は裏のお庭ですかね? まだ桜の木が一本しか無いみたいですけど」
 窓の外を覗きながら、遥香は言う。庭には二本の桜の木が立っている。
「そう、そこの庭だ。この写真を撮った後に、小雪の希望でもう一本植えることになってね。まあ、元はといえば最初の一本も、小雪のお願いだったんだけど」
「そうだったの? 初めて聞いた」
 昔からあるものとばかり思っていた。桜が好きとは聞いていたが、まさか自宅の庭に植えることを提案したのが実の母親だったとは、祐輔は考えてもみなかった。
「そうだったんですか……。じゃあ最初の一本は、お二人がご結婚された時だったりするんですか?」
「残念ながら違うんだ。はじめの一本を植えたのは、まだプロポーズもしていない時だ。私の父――亡くなった祐輔のおじいちゃんは昔、造園工事業として働いていてね。引退してからはたまに庭いじりをするくらいだったんだが、ちょうど小雪が遊びに来た日、じいちゃんが手入れをしていて。それを見て、小雪が言ったんだ。『このお庭に、桜が咲いたら素敵だな』って。その翌日だった。じいちゃんが桜の木を植えたのは」
「……母さんのお願いより、じいちゃんの行動力に驚くよ」
 それもそうだ、と和俊と遥香は笑った。
 日本酒をあおり、再び和俊は話し始める。
「それからは毎年のように、桜は元気に花を咲かせてる。小雪とは何回も一緒に見たんだ、あの庭で。今でも鮮明に覚えている」
「それならさ、もっと写真に残しておけば良かったのに。桜の木の前で撮ったのは、この一枚だけなんでしょ?」
 前々から疑問に感じていた。桜が好きだというわりに、写真に収められている桜は、この写真しか残っていない。好きならば、他の写真があっても良いものだ。
「母さん……小雪はな、待っていたんだよ。桜が一番美しく見える瞬間を」
「つまり、それがこの写真に写る桜だと?」
「遥香さん、もしかして、なんだが、祐輔から宿題のことを聞いていないかい? まるで探りを入れているようだ」
 いたずらに、子どものように和俊は笑う。観念したというように、ばれましたか、と遥香も笑って応えた。
 この写真に写る桜が一番美しい瞬間か――祐輔が写真に写る三人、そして桜の木を見比べていると、和俊が言う。
「たしか今日は満月だったか。あの日と同じだ。たまたまなのか、昔話をしていたせいか……」
 その言葉に、祐輔は視線を上げる。古びた木枠の窓、桜の木の奥に、大きく丸い月は光輝いていた。しばらくそのまま満月を堪能し、遥香が口を開く。
「少し、庭に出ませんか?」
「もちろん良いとも。だがこれ以上、ヒントは無しだぞ」
 わかっています、と笑い合い、三人は庭へと出た。
 フィルターを取り除いて見る月は圧巻だった。胸の内まで届くような強い光で、それでいて、太陽のように見る者の視線を拒むようなこともせず、瞳の奥へと飛び込んでくる。
「うわー……、大きな満月ね……。うん、これなら写真に収めたくなるかも」
「たしかにこれは、一番美しいと思うわ……」
 空に向かって伸びる白い息に、満月がぼやける。
「いや、小雪が撮りたかったのは、桜の木だよ」
 腕組みをして、和俊が桜に近づいて行く。桜の下に立つと、優しく幹に触れながら、感慨深そうに口にした。
「向こうにある、じいちゃんが最初に植えた木は、ある程度大きくなった桜を植えたんだがな、こっちの桜は、小さな苗木から育てたんだ。祐輔とはほとんど同い年だな。早いもので、もうじき三十歳になる……なんだか、ふたりの子どもを育てた気分だよ」
「祐輔のお兄ちゃんだ」
 遥香の笑みにつられるように、祐輔も「そうだな」と笑みが零れる。
 和俊が昔を思うような顔で、視線を上げて言う。
「最初に植えた桜に花が咲いた日は驚きのあまり、写真を撮るのも忘れていたっけな……」
「忘れてたって、毎年咲いているんだから、また違う日、違う年にでも、写真を撮る機会はいくらだって――」
 すべてを言い終える、少し前。頬に外気とは異なる冷たい感覚が走る。
 空を見上げると、不規則ながらも互いを尊重するように進路を変えてゆっくりと、綿のような細かな雪が、はらはらと舞い降りてきていた。
「雪だ……」
 そう祐輔が口にすると、和俊が声を震わせながら言う。
「小雪、見えているか……。祐輔は、こんなに大きくなったぞ」
 なに言ってんだよ――そう、視線を下げた時だった。
「え……こ、これって」
 月明かりに反射し、淡い光をまとった小さな雪たちが、まるで花びらのように舞っている。その幻想的な光景に、祐輔は思わず言葉を失い、無言のままに立ちすくむ。
 少しずつ、桜の枝にも雪は積もっていく。そして。
 祐輔の前に、美しい桜は開花した。
「……見つけた。やっと見つけたよ。父さん。これが父さんの見た、冬桜なんだね」
 ――返事がない。「父さん?」と祐輔が和俊を見ると、和俊は瞳いっぱいに涙を浮かべ、その涙を溢さないように、唇を噛んでいた。
 祐輔の視線に気付くと、和俊は小さく頷いてから言った。
「そうだ……。これが、父さんの見た冬桜だ。ただ父さんも、〝祐輔の兄ちゃん〟が咲いているのを見るのは初めてだ」
「すごい……。仲良く咲いているみたい……」呟くように遥香が言う。
 三人は静かに。二本の冬桜を見つめた。
「祐輔。母さんがどうしてもう一本、桜の木を植えたいと言ったかわかるか?」
 わからない、と祐輔は首を振る。
「あの写真を撮った時には、もう長くないと医者から言われていたんだ。それでもお前の成長を傍で見ていたいからって、あいつは祈るようにここに苗を植えたんだ。さっきは二人の子どもなんて言ったが、これはあいつ……小雪の生まれ変わった姿だと、父さんは思ってる。祐輔はいつも母さんに見守られ、愛されていたんだぞ」
 和俊の笑顔が、月夜に照らされる。
 そういえばあの写真、父さんもこんな風に笑っていたっけ――。
 頬に当たる雪が温かく感じたのは、いつの間にか流れていた、涙のせいかもしれなかった。
「この冬桜を見た時、父さんは春の桜以上に儚さを感じた。さっきまで目の前で輝いていたのに、瞬きほどの時間で消えてしまうんだからな。だが……いや、だからこそ、この奇跡のような一瞬を大切にしたいと思った。隣にいる小雪のことを、今よりももっと、幸せにしたいと思ったんだ。それが……父さんが結婚を決めた理由だよ」
「そうだったんだね……」
 祐輔は決めた。
 今夜、遥香にプロポーズをしよう――と。


 ◆

「そんなこと言うなって。ほら着いたぞ。婚姻届、ちゃんと持ってるか?」
「持ってるわよ。何のためにここまで来たと思ってるの。それに……ほら。ちゃんと見届けてもらおうと思って、これも持ってきた」
 遥香は鞄の中から何かを取り出し、笑顔で口にする。
「〝四人で〟撮った家族写真」
 二人はしばらく見つめ合うと、手を握って歩き出す。
 手渡された写真には、満月に照らされる三人と、二本の冬桜が写っていた。