庭でカーン、カンと木刀を打ち込む音がしなくなり、遥香は小さなたらいに水を汲んだ。彰良が剣の稽古をしていたのが終わったらしい。
 水と一緒に手拭いを持って縁側に出る。激しく動いた彰良は、額に大粒の汗を浮かべていた。もう立秋は過ぎたが、まだまだ残暑が厳しい。

「お疲れさまです」
「ああ」

 目に軽く戸惑うような色をたたえる彰良だったが、小さく一礼し手拭いを受け取った。

「上着のまま稽古するなんて、暑くありませんか」
「この格好で動けるようにしておかなければ意味がない」
「ああ……そうなんですね」

 体を鍛えるだけではなく、軍服で戦うことにも慣れなければいけないのか。感心しながら遥香はお茶を淹れに台所へ戻った。

「……怪異を斬り祓うと、おっしゃったっけ」

 だから剣の稽古が欠かせない。一心に励むのを見れば、まじめなひとなのだ。
 魂まで滅すると言い切られたときには「なんて冷たい」と思ったものだが、官舎に来てからは遥香が困らないよう配慮してくれているとわかった。言葉すくなくても本当のことしか言わないし、ひどいことはしない。
 冷酷なひとではないのだろう。もしかして、意外に不器用なのかしら。そう考えて遥香はほほえんだ。

「あっ――」

 遥香がお茶を運ぶと、彰良はシャツまで脱いで上半身を拭いていた。遥香は目をそらしたが、ギクリとした彰良も体を隠すべきか迷ったようだ。

「……あ、あの、お気づかいなく。働くひとは、ふんどし一丁だったりもしますから」
「そうか」

 横浜は港と運河の町。小舟で荷を運ぶ男たちはそんなものだ。
 それでも厚い胸板と鍛えられた腕にはうろたえる。ちゃぶ台に湯のみを置き、彰良を見ないようにしたままササッと洗濯済みのシャツを出してきたら彰良にとがめられた。

「下女のようなことはするな。そんなつもりで来させたんじゃない」
「でも……やることがなくて困るんです」

 ここで遥香にできるのは家事ぐらい。食材は届けてもらえるので外に出る必要もない。洗濯も、彰良たちのぶんは断られてしまった。
 今日は喜之助が出かけているが、帝都の本部との通信で電信局へ行くそうだ。そんな用事に遥香は手出し無用だし、手持ちぶさたで仕方がない。

「……豆腐と遊んでやれ」

 そそくさとシャツを着て湯のみを取った彰良は、考えた末にそんなことを提案した。
 豆腐、と呼ばれるのも、もう何故か気にならない。遥香は小さくほほえんで向かいにちょこんと座った。

「とうふちゃんには、妖怪同士のお付きあいもあるみたいなので」

 豆腐小僧はふらりとあらわれたり消えたり、気ままにすごしている。妖怪の友だちもいるのだから遥香が相手をしなくてもいいのだった。

「お仕事に呼べば来てくれるそうですし」
「呼ぶ……」

 眉をひそめる彰良は、納得いかなそうだ。

「……まあ、無理はするな。女に戦わせるほど困っているわけでもないのに、うちの爺さまが我がままを言ったんだ」
「お爺さま?」

 お茶でひと息ついたせいか、めずらしく彰良がぽろりと自分の話をして遥香は首をかしげる。口をすべらせた彰良は逡巡したあげくに言った。

「――狐の血を継ぐとうわさの娘がいるから会ってみたいと。爺さまの道楽に巻き込んで、すまない」
「そんな、謝らないでください」

 彰良に頭を下げられるなんて調子がくるう。おろおろしていると、顔を上げた彰良が遥香を見てかすかに笑った気がした。初めて見る彰良のやわらかな目にどきりとした。

「うちの特殊方技(ほうぎ)部は、通称を芳川連隊というんだ」
「芳川――え?」
「そう、俺の名だな。連隊長は芳川高聡(たかさと)。俺の育ての親だ。歳は祖父のようなものなんで、爺さまと呼んでいる」
「育ての、なんですか」
「ああ。俺は生まれながらに異能があると言われ、村でもてあまされていた。それを聞きつけて引き取ったのが芳川家。陰陽寮(おんようりょう)暦師(こよみし)の役をたまわっていた家系だ」

 芳川家は行き場をなくした陰陽師(おんみょうじ)たちを取りまとめ、軍の中でひっそり仕事を続けられるようにした立役者。後継の育成にも力を入れている。
 その家で幼いころから戦う術を叩き込まれた彰良は、二十二歳にして歴戦の人材――だが、はみ出し者なのだそうだ。

「俺は陰陽師じゃない。基本は身につけたが、それとは違う俺だけの異能で怪異を斬ってきたからな」
「小さいころから戦っていたなんて……どんな力なのか、お聞きしても?」
(あか)い炎で焼き、祓う」

 無造作に言われて遥香は絶句した。
 彰良が怪異に対する時、剣は緋く燃えるそうだ。その炎に触れると怨霊も魔物も炭のように黒く崩れ去ると、彰良は淡々と言った。

「――ついでだ、怪異には大きくわけて三つあると覚えておけ。ひとつは妖怪。豆腐もそうだな」
「は、はあ……」
「次に怨霊。幽霊とも言うが、人のうらみが()ったものだ。(たた)ると面倒なので通報があれば祓う。あと魔物は、(うつつ)の生き物が成ったものだ。元は獣や虫ということになる」
「……私の母も、魔物でしょうか」

 思わず遥香がつぶやくと、彰良はじっとこちらを見た。

「……そうだ。獣は長く生きたり多くの命を吸ったりすると力を溜め、魔性の者と成る。そこらの化け狸ていどならともかく、荒ぶり(さわ)るようになれば祓うしかない」
「母は、ただ暮らしていたんです。なのに石を投げられ追われた。どうしてそんな……!」

 うつむいたまま早口で言いつのる遥香は、泣き出しそうになって黙った。彰良に言っても仕方のないことなのに、なんて迷惑を。

「……すみ、ません」

 ふるえる息をととのえ謝ると、彰良は表情を消したまま首を横に振った。

「いや――妖狐は大きな力を持つこともあるからな。人がおそれるのも無理はない」
「……はい」
「母上がどんな狐かなど誰も考えない。そこに化ける狐がいるというだけで、人は憎むんだ。おまえは悪さをするようには見えないが、それでも避けられてきただろう?」
「……はい」
「そういうことだ」

 彰良は飲み終わった湯のみを持って立ち上がった。台所に去ろうとする背中に、遥香は問いかける。

「――私は?」

 立ちどまった彰良はふり返らなかった。

「私は、狐なのですか。私が何かしたら、私のことを祓いますか」
「――もちろん滅する。妖怪でも怨霊でも、魔物でも。人に仇なすものであれば、俺はためらわないと決めている」

 冷たい声で彰良は言い切った。
 ためらわない。それがともに働くかもしれない遥香であれど。
 彰良の緋い剣で斬られ、ぼろぼろと黒く崩れ落ちる自分が見えた気がして、遥香はしばらく動けなかった。