「――遥香」
芳川家の離れに彰良が顔を出すと、遥香はチクチクと針を動かしていた。裁縫はここのところの習慣なので、すこしは上達したのじゃないかと本人も思っている。
「暗くないか。障子を閉めていて」
「だいじょうぶです。もう寒いですから開けないで下さいな」
室内には火鉢が置かれている。あの騒ぎからはすでに二ヶ月が経ち、師走の冷え込みが座敷に忍び込んでいた。
でも遥香が障子を開けないのは、庭を見たくないから。惨劇の跡は片付けられ植木も池も直されているが、どうしても母の最期の姿が脳裏にちらつく。
「芳川家の方は、だいぶ目処が立った」
そう言うと彰良は向かい合ってあぐらをかいた。遥香の膝の縫い物をチラリと見る。明るい色柄は、彰良が贈った女物。
ならば覚悟してくれたのだろうか、これからも生きると。
「皆さま納得して下さいました?」
「渋い顔はされているな」
彰良は今、芳川家の仮の当主ということになっている。跡継ぎだった義兄の悟までが死んでしまい、悟の子はまだ六つと四つだ。仕方なく彼らが成人するまで家督を預かることになったのだ。
だが、養子とはいえ遠慮することはないと一部の親族が主張した。さすが実力第一でやってきた陰陽師の家なだけある。彰良が軍においても実績を上げているのは明白、ならば仮などといわずに家を継ぐべし、と言うのだった。
「そうはいくかよ。俺は陰陽師じゃなく半妖として働いてきたんだ」
彰良はつい、ぼやいた。
半妖の血のことは、親族にも軍部にも、ごく近しいところにしか伝えられていなかったらしい。だからそんな話が出たのだが、彰良としては固辞するしかなかった。
とはいえ育ててくれた家を放り出すわけにもいかない。家と財産のこと、義理の甥の養育と陰陽道の教育など、この先の手配を決めるのに時間がかかり横浜に戻れなくなっていた。
その間、遥香はずっと離れで暮らしていた。
遥香の「祓ってほしい」という願いを叶えることなど彰良にはできない。それを言うならば彰良だって魔物だ。ともに死ぬのなら筋が通るが。
だが祓うのを拒否したところで遥香が唯々諾々と方技部の仕事に戻るとは思えなかった。だから彰良は「とにかくそばにいてくれ」と頼み、問題を先送りした。時が遥香を変えてくれるのを願って。
離れには彰良も毎日顔を出し、本や小物や新しい反物を贈った。おかげで遥香は生きることへの未練ができすぎて困っている。物より何より彰良の心が遥香へ向けられているのがよくわかるから。
「もう、年の瀬ですね」
「そう――だな」
間もなく新しい年が来る。まだ何も悪いことなど起こっていない、瑞々しい春が。
その季節を、ただ幸せに生きていけたらいいのに。
遥香だって変わりたいと思っている。
彰良に「そばに」と望まれて、とろける思いがした。このままうなずけばいいのだと頭は言う。なのに心の片隅で誰かが泣いているような気がするのだ。
それは母なのか。それとも遥香が殺してしまった人なのか。自分の中の魔物が不幸になりたいと叫んでいるのかもしれない。
「遥、香。あのな」
「――はい」
探るように彰良は言った。
ここでの遥香はなんだか淡々としていて、横浜にいた時のように照れたりあわてたりしてくれない。「祓って」と言ったあの時以来泣くこともない。それが生きるのをあきらめているように見えて彰良の不安をあおる。
「新年は、横浜で迎えないか」
「え?」
「――帰ろう、宿舎に。おまえは稲荷の巫女だろう。新しいお社の、初めての新年だぞ」
きゅう、と遥香の胸がしめつけられた。
ずっとしまい込んだままの巫女装束。それを着て豆腐小僧や水乞と一緒に怨霊を清めたことを思い出した。
喜之助と、山代一家。静かに横浜方面支部を守っているらしい。特殊方技部の連隊長がすげ替わっても、怪異には関係ないのだ。
帝都に出張してきた山代は、子どもらを弘道が可愛がってくれると笑っていた。人手が足りないから職務怠慢していないで早く戻れと軽口にまぎれ気づかわれた。
あそこでの暮らしは、とても楽しかった。
「父上の墓参もするべきだし」
「……はい」
天音の書き置いた手紙にあった寺へ、弘道は息子の遺骨を取りに行ったそうだ。きちんと供養し直したその墓に、天音の最期を報告に行かなければならない。
だけどそうして日常を過ごし始めたら。
きっと流されて、遥香は幸せに溺れてしまう。魔物に堕ちたこの身にそんなことが許されていいものか。
「なあ、遥香」
「――はい」
「俺も、魔物だ。だがまだ生きなきゃならない。俺が壊した芳川家だけど、預かってしまったから」
壊すことになったのは、利用され殺されかけたから。だがそこはもういい。元から遥香も彰良も死んでやむなしと計算された企みだったと生き残り術師は自白したが、計画はついえた。
遠峰はあらわれず、屋敷の騒ぎだけでは政府は動かず、陰陽寮の復活はならないだろう。中佐と悟は懐古の妄執に憑り殺されたのだと思っている。それを清めるため、起こるべくして起きた事件だったのだ。
そして、清めたのはやはり遥香の力。
すべてをいつくしむ遥香のやさしさが、彰良には愛おしい。遥香を手放すなどできない。
観念した彰良は、腹をくくってそのまま伝えてみた。
「俺に、おまえを祓えるわけがないだろう。だから、あきらめて俺と生きてくれないか」
「――私、我がままですね」
「まだ祓われたいのか?」
生きると素直に言えない遥香はなんて頑固者。でも、生きる自信がない。
「――私は人に災いをなした狐です」
「それを言ったら天音さんも、遠峰の山で死んでおくべきだったとなるが」
「そんな」
「違うよな? 天音さんが生きてくれたから、俺はおまえに会えた」
困り顔の遥香に、彰良は畳み掛けた。
「遥香が生きる意味はあるだろう? おまえがいなきゃ怪異を清められないんだぞ。残された俺は、すべてを滅するまで一人で戦うことになる――ああ怨霊が可哀想だな、俺も大変だなあ」
「ちょ、ひどいです!」
大げさにため息をついてみせたら遥香が久しぶりにおろおろした。こうなれば彰良もヤケだ。
「でもそうだろう。遥香がいればそんなことにはならないのに。なんてひどい女だ」
「で、でも……」
うろたえる遥香の手を取り、彰良はにじり寄った。遥香の目を見つめながら、その手の甲に唇をつける。
「――っ!」
「これまでのお返しだ」
彰良は動かない。吐息がかかりジンとする手に遥香は目のふちを赤くした。
くらくらして倒れそう。彰良の腕に飛び込んでしまいたいという熱に浮かされる。
――想うなら、貫きなさい。
いきなり胸に響いた言葉に心臓が跳ねた。母のほほえみが見えた気がした。
母さん?
――もういいのよ、遥香。
ぐうっ、と胸が詰まる。
もういいだなんて、そんな。だって私は。
「――障子を。窓を開けて下さい」
「遥香?」
胸を押さえ絞り出した言葉に怪訝そうにしながら、彰良が立ってくれた。冷たく乾いた風が吹き込む。
庭は冬枯れていた。そこに天音の姿はない。
だけど何故だか母の気配を感じて遥香は縁側に歩み出る。すると胸もとに詰まっていた何かがあふれた。
「あ――」
それは白い光。霧のように遥香からあふれる光。
「母さん!」
遥香は叫んだ。涙があふれる。
そうだ、あの時の天音は光となりつつも遥香を取りまいてチカリと集束した。もしや遥香の中に眠り、娘を守っていたのではないか。
遥香が悲しみで死なないように。
遥香が想うひとに向き合えるように。
――心にしたがえばいいのよ、ちゃんと生きてごらんなさい。
だいじょうぶ、できるわ。
あなたは私の娘なんだから!
笑うように伝えて、天音の光は冬空に舞い上がった。
白く、白く輝いて。
気ままな狐はやっと、愛した男の元へ行けるのかもしれなかった。人間と恋をし、その想いをつらぬいた狐は踊るように空を目指す。
何にも負けず、気持ちのままに。
遥香にも、そうできたら。
ううん、きっとできる――だって私は母さんの娘。
立ち尽くし見送る遥香を、背中から彰良が静かに抱いた。あたたかい。
ああそうか。不意に遥香にもわかった。
ここが私のいるところなんだ。このひとの腕の中が。
「彰良さん――」
「うん」
「帰りたい、です。横浜に。あなたと」
ようやく心を言葉にできて、遥香はすっきりと笑った。ごしごし、と手で涙をふく。その仕草に彰良も笑った。
「子どもみたいだな」
「おかしいですか」
「いや――もう泣かせたくないと思っただけだ」
ふり向けば、交わるまなざし。
このひととなら生きていてもいいような気がした。
このひとならば、狐の娘が嫁ぐにふさわしいと思えた。
「――あら?」
ぽつり。
ぽつ、ぽつ。
天気雨? 晴れた冬の風にのり、水滴が飛んでくる。これは――母の嬉し涙なのか。
そうっと抱きしめる彰良にもたれながら、遥香は天音の消えていった空を見上げた。
私は幸せな花嫁になってもいいのだ。そう、思えた。
終
芳川家の離れに彰良が顔を出すと、遥香はチクチクと針を動かしていた。裁縫はここのところの習慣なので、すこしは上達したのじゃないかと本人も思っている。
「暗くないか。障子を閉めていて」
「だいじょうぶです。もう寒いですから開けないで下さいな」
室内には火鉢が置かれている。あの騒ぎからはすでに二ヶ月が経ち、師走の冷え込みが座敷に忍び込んでいた。
でも遥香が障子を開けないのは、庭を見たくないから。惨劇の跡は片付けられ植木も池も直されているが、どうしても母の最期の姿が脳裏にちらつく。
「芳川家の方は、だいぶ目処が立った」
そう言うと彰良は向かい合ってあぐらをかいた。遥香の膝の縫い物をチラリと見る。明るい色柄は、彰良が贈った女物。
ならば覚悟してくれたのだろうか、これからも生きると。
「皆さま納得して下さいました?」
「渋い顔はされているな」
彰良は今、芳川家の仮の当主ということになっている。跡継ぎだった義兄の悟までが死んでしまい、悟の子はまだ六つと四つだ。仕方なく彼らが成人するまで家督を預かることになったのだ。
だが、養子とはいえ遠慮することはないと一部の親族が主張した。さすが実力第一でやってきた陰陽師の家なだけある。彰良が軍においても実績を上げているのは明白、ならば仮などといわずに家を継ぐべし、と言うのだった。
「そうはいくかよ。俺は陰陽師じゃなく半妖として働いてきたんだ」
彰良はつい、ぼやいた。
半妖の血のことは、親族にも軍部にも、ごく近しいところにしか伝えられていなかったらしい。だからそんな話が出たのだが、彰良としては固辞するしかなかった。
とはいえ育ててくれた家を放り出すわけにもいかない。家と財産のこと、義理の甥の養育と陰陽道の教育など、この先の手配を決めるのに時間がかかり横浜に戻れなくなっていた。
その間、遥香はずっと離れで暮らしていた。
遥香の「祓ってほしい」という願いを叶えることなど彰良にはできない。それを言うならば彰良だって魔物だ。ともに死ぬのなら筋が通るが。
だが祓うのを拒否したところで遥香が唯々諾々と方技部の仕事に戻るとは思えなかった。だから彰良は「とにかくそばにいてくれ」と頼み、問題を先送りした。時が遥香を変えてくれるのを願って。
離れには彰良も毎日顔を出し、本や小物や新しい反物を贈った。おかげで遥香は生きることへの未練ができすぎて困っている。物より何より彰良の心が遥香へ向けられているのがよくわかるから。
「もう、年の瀬ですね」
「そう――だな」
間もなく新しい年が来る。まだ何も悪いことなど起こっていない、瑞々しい春が。
その季節を、ただ幸せに生きていけたらいいのに。
遥香だって変わりたいと思っている。
彰良に「そばに」と望まれて、とろける思いがした。このままうなずけばいいのだと頭は言う。なのに心の片隅で誰かが泣いているような気がするのだ。
それは母なのか。それとも遥香が殺してしまった人なのか。自分の中の魔物が不幸になりたいと叫んでいるのかもしれない。
「遥、香。あのな」
「――はい」
探るように彰良は言った。
ここでの遥香はなんだか淡々としていて、横浜にいた時のように照れたりあわてたりしてくれない。「祓って」と言ったあの時以来泣くこともない。それが生きるのをあきらめているように見えて彰良の不安をあおる。
「新年は、横浜で迎えないか」
「え?」
「――帰ろう、宿舎に。おまえは稲荷の巫女だろう。新しいお社の、初めての新年だぞ」
きゅう、と遥香の胸がしめつけられた。
ずっとしまい込んだままの巫女装束。それを着て豆腐小僧や水乞と一緒に怨霊を清めたことを思い出した。
喜之助と、山代一家。静かに横浜方面支部を守っているらしい。特殊方技部の連隊長がすげ替わっても、怪異には関係ないのだ。
帝都に出張してきた山代は、子どもらを弘道が可愛がってくれると笑っていた。人手が足りないから職務怠慢していないで早く戻れと軽口にまぎれ気づかわれた。
あそこでの暮らしは、とても楽しかった。
「父上の墓参もするべきだし」
「……はい」
天音の書き置いた手紙にあった寺へ、弘道は息子の遺骨を取りに行ったそうだ。きちんと供養し直したその墓に、天音の最期を報告に行かなければならない。
だけどそうして日常を過ごし始めたら。
きっと流されて、遥香は幸せに溺れてしまう。魔物に堕ちたこの身にそんなことが許されていいものか。
「なあ、遥香」
「――はい」
「俺も、魔物だ。だがまだ生きなきゃならない。俺が壊した芳川家だけど、預かってしまったから」
壊すことになったのは、利用され殺されかけたから。だがそこはもういい。元から遥香も彰良も死んでやむなしと計算された企みだったと生き残り術師は自白したが、計画はついえた。
遠峰はあらわれず、屋敷の騒ぎだけでは政府は動かず、陰陽寮の復活はならないだろう。中佐と悟は懐古の妄執に憑り殺されたのだと思っている。それを清めるため、起こるべくして起きた事件だったのだ。
そして、清めたのはやはり遥香の力。
すべてをいつくしむ遥香のやさしさが、彰良には愛おしい。遥香を手放すなどできない。
観念した彰良は、腹をくくってそのまま伝えてみた。
「俺に、おまえを祓えるわけがないだろう。だから、あきらめて俺と生きてくれないか」
「――私、我がままですね」
「まだ祓われたいのか?」
生きると素直に言えない遥香はなんて頑固者。でも、生きる自信がない。
「――私は人に災いをなした狐です」
「それを言ったら天音さんも、遠峰の山で死んでおくべきだったとなるが」
「そんな」
「違うよな? 天音さんが生きてくれたから、俺はおまえに会えた」
困り顔の遥香に、彰良は畳み掛けた。
「遥香が生きる意味はあるだろう? おまえがいなきゃ怪異を清められないんだぞ。残された俺は、すべてを滅するまで一人で戦うことになる――ああ怨霊が可哀想だな、俺も大変だなあ」
「ちょ、ひどいです!」
大げさにため息をついてみせたら遥香が久しぶりにおろおろした。こうなれば彰良もヤケだ。
「でもそうだろう。遥香がいればそんなことにはならないのに。なんてひどい女だ」
「で、でも……」
うろたえる遥香の手を取り、彰良はにじり寄った。遥香の目を見つめながら、その手の甲に唇をつける。
「――っ!」
「これまでのお返しだ」
彰良は動かない。吐息がかかりジンとする手に遥香は目のふちを赤くした。
くらくらして倒れそう。彰良の腕に飛び込んでしまいたいという熱に浮かされる。
――想うなら、貫きなさい。
いきなり胸に響いた言葉に心臓が跳ねた。母のほほえみが見えた気がした。
母さん?
――もういいのよ、遥香。
ぐうっ、と胸が詰まる。
もういいだなんて、そんな。だって私は。
「――障子を。窓を開けて下さい」
「遥香?」
胸を押さえ絞り出した言葉に怪訝そうにしながら、彰良が立ってくれた。冷たく乾いた風が吹き込む。
庭は冬枯れていた。そこに天音の姿はない。
だけど何故だか母の気配を感じて遥香は縁側に歩み出る。すると胸もとに詰まっていた何かがあふれた。
「あ――」
それは白い光。霧のように遥香からあふれる光。
「母さん!」
遥香は叫んだ。涙があふれる。
そうだ、あの時の天音は光となりつつも遥香を取りまいてチカリと集束した。もしや遥香の中に眠り、娘を守っていたのではないか。
遥香が悲しみで死なないように。
遥香が想うひとに向き合えるように。
――心にしたがえばいいのよ、ちゃんと生きてごらんなさい。
だいじょうぶ、できるわ。
あなたは私の娘なんだから!
笑うように伝えて、天音の光は冬空に舞い上がった。
白く、白く輝いて。
気ままな狐はやっと、愛した男の元へ行けるのかもしれなかった。人間と恋をし、その想いをつらぬいた狐は踊るように空を目指す。
何にも負けず、気持ちのままに。
遥香にも、そうできたら。
ううん、きっとできる――だって私は母さんの娘。
立ち尽くし見送る遥香を、背中から彰良が静かに抱いた。あたたかい。
ああそうか。不意に遥香にもわかった。
ここが私のいるところなんだ。このひとの腕の中が。
「彰良さん――」
「うん」
「帰りたい、です。横浜に。あなたと」
ようやく心を言葉にできて、遥香はすっきりと笑った。ごしごし、と手で涙をふく。その仕草に彰良も笑った。
「子どもみたいだな」
「おかしいですか」
「いや――もう泣かせたくないと思っただけだ」
ふり向けば、交わるまなざし。
このひととなら生きていてもいいような気がした。
このひとならば、狐の娘が嫁ぐにふさわしいと思えた。
「――あら?」
ぽつり。
ぽつ、ぽつ。
天気雨? 晴れた冬の風にのり、水滴が飛んでくる。これは――母の嬉し涙なのか。
そうっと抱きしめる彰良にもたれながら、遥香は天音の消えていった空を見上げた。
私は幸せな花嫁になってもいいのだ。そう、思えた。
終