彰良たちの三間(5m強)ほど先で立ちどまった女は透きとおるような気配をただよわせていた。だが彰良を見る目に険がある。
 これが天音か。彰良はしげしげとながめた。遥香によく似た目鼻立ちだが、はかなさが先にくる娘に比べ芯の強さがうかがえた。

「――狼、ね」

 風に彰良の匂いをクンと嗅ぎ、天音は確認した。彰良は小さくうなずく。

「半分は。俺は遠峰の子らしい」
「遠峰――!」

 ギクリと天音の肩がゆれた。おびえる色が目によぎったのは、遠峰の怒りにふれ山を追われた過去のせいか。

「俺は人の家で育ったので父に会ったことはない。あなたは天音さんだな」
「そうよ。娘を、遥香を返しなさい」
「返したいが……俺も一緒でいいだろうか」
「ハルカとこの人は想いあってるんです、アマネさま」

 横から口を出す水乞はやや伏し目がちだった。さま、と敬称で呼ぶところを見るに、怪しの者としての格が違うらしい。

「……久しぶりね、水乞。でも何を言うの、遥香は無理強いされたと」
「それは嘘だ。芳川の者が管狐を使って妙なうわさを流したらしい。今の遥香は屋敷の離れに滞在しているだけで無事だ。あなたのことをとても心配している」
「狼の言うことなど」

  信用できない、と言いかけた天音がハッとなった。彰良もあたりを見まわす。
 屋敷に張られていた結界が消えたのだった。天音の侵入をはばんでいたこれを解いたということは、どうぞ入ってくれという意味になる。妖狐を迎える支度ができたのだ。
 悠々と正門の方から道を来たのは、芳川中佐。それを見て豆腐小僧と水乞が闇に逃げた。

「やあやあ、お会いできて嬉しい。私は芳川家の当主、高聡(たかさと)と申す者。天音さんをお招きしたくて悪意あるうわさを流したことは申し訳なく思っとるよ。だましたりして、まことにすまんかった」
「爺さま、いったい何故こんな」
「彰良はすこし黙っとれ――天音さん、この彰良はうちの養い子だ。遠峰の血を引いておって、父親を恨んどる。なんとなればこれの母親は、あんたが引き起こした山津波のせいで贄になった娘でな」
「――母さん!」

 悲鳴のような声で中佐は黙る。ふり向けば、彰良の出てきた通用門から転び出ようとする遥香がいた。その腕を悟がつかんでいる。

「道端で立ち話などしていないで、中にどうぞ。この通り、娘さんは無事ですよ」
「兄さん、遥香を放せ!」
「ほう、遥香だなどと――まさか嘘のうわさなど流さなくともいずれそうなったのか?」
「彰良さ……嫌ッ」

 悟は遥香をぐいと庭に引き戻す。彰良は天音に背を向けてそちらを助けに行ってしまった。話の腰を折られ、中佐は口をへの字にする。

「まったく若い者らは忙しない。どうだろう、座敷とは言わん、せめて庭ででも話さんか。私は天音さんの力を借りて、遠峰を帝都に誘き出したいのだよ」
「遠峰を?」
「あの大妖に帝都で災いをなしてもらいたくてな。それを治めるぐらいのことをやれば我らの復権もなる。ついでに彰良の個人的な恨みも晴らせ、おまえさんも恐ろしい相手がいなくなり、万々歳というものだ」
「災いを起こさせるですって」

 天音は険しいまなざしを中佐に向けた。
 どうやら遥香のことは偽の話をつかまされていたようだ。天音を利用して企んでいることが何なのか要領を得なくて躊躇するが、遥香の身柄が屋敷の内にあるのは確か。十年ぶりにちらりと会えた娘は見間違えようがない。
 淡々と招き入れる中佐を警戒しながらも、天音は門の中に足を踏み入れた。

「母さん! 母さん!」
「遥香……!」

 飛びついてきたのは遥香だった。彰良が悟との間に割り込んで義兄をにらんでいる。
 どうやら離れからようすをうかがっていた遥香のことを悟が門まで引きずってきたようなのだ。遥香への乱暴に憤慨した彰良は、抱き合う母娘の再会を守るように身がまえる。

「彰良よ、そうにらむな。おまえに何も言わず天音さんをだましたのは悪かった。そういうやり口をおまえは好かんと思ったからだ」
「はん、褒めてくれているのか、爺さま」
「皮肉を言いおる。本当に褒めとるんだぞ、おまえは真っ直ぐないい男に育った――遥香さんのことは本気か? ここに母上がいらっしゃるのだから、結婚の了解でも求めたらどうだ」
「爺さまッ! 今そんな話は」
「私もな、彰良の嫁にどうだろうと思っていたのだよ、初めはな。今となっては他にやってもらうことができたのだが」

 スウと陰陽師の顔になった中佐に対し、彰良の中で警鐘が鳴り始めた。遥香とのことがバレて照れるどころではない。
 どうなっている。ここは自分が育った家のはずなのに、いきなり敵地にいるように総毛立った。
 義父も義兄も元から甘える対象ではなかったが、今日は得体の知れない連中のように感じられた。屋敷にいた術師たちも庭に出てきて、それも彰良の側とは思えない。天音にも同じに見えたようだ。

「狼、あなたは本当に遥香の味方なのね」
「彰良さんよ、母さん」

 遥香は母の肩から顔をあげた。会わない間に追いついていた背の高さ。よく似た母娘はほほえみ合う。
 大事そうに彰良の名まえを口にされて、天音には娘の心がわかった。想う相手を見つけたのかと安堵し、天音は彰良の背に伝えた。

「ならば教えてあげる。遠峰は筋の通らないことはしない。あなたの母親との間に何があったのかわからないけど、真実を知らずにただ憎むのは幼い子のすることよ」
「ほう」

 反応したのは中佐だった。瞳が冷たく光った。

「では天音さん、あんたは遠峰を怒らせるだけのことをしたと認めるのだね」
「――ええ」

 天音は娘を後ろに隠し、ずいと出た。彰良と並んで中佐に対峙する。

「遠峰の山の頂にある社、そこに供物をささげ参拝する役目の男たちに、山道で声をかけたの。迷ったとね」

 食べ物や細工物を持っていて、欲しくなったからだ。はじめ、それが供物とは気づいていなかった。
 天音はちょっと荷をちょろまかすだけのつもりだったのに、綺麗な娘に頼られて舞い上がった若者二人が参拝するよりも天音を案内して下山したがった。どちらが天音に同行するかで喧嘩になり、その拍子に供物がひっくり返り壊れてしまう。一人は怪我までして、荷は血で汚れた。

「あ――」

 母の語る山での出来事に遥香は目をつむってしまった。
 それは凶事。神の物を人の血で(けが)すなどあってはならない。ほんのすこしのめぐり合わせの悪さだとはいえ、天音が遠峰の山に穢れを招いたのは否めなかった。

「怪我をさせた男はうろたえて逃げ出した。でもその途中、山道で足をすべらせ谷に落ちて死んでしまって――神事の最中にそれだもの、遠峰が怒るのはあたりまえなのよ」

 儀式を邪魔した天音への雷、村をおそった土砂、神事の失敗に畏れおののいた人々。山を鎮める役目を負った小雪。
 何もかもがどうしようもなくて。誰にも避けられないことで。

「いいえ。私がいたずらをしなければそんなことにはならなかった。恨むなら遠峰じゃなく、私になさい」

 そう言って、天音は寂しそうに笑った。