「母、ですか……?」

 それは妖狐、天音。何があったのかと遥香は胸の前で手を握った。
 母の名は教えたが、それぐらいですぐに見つかるわけはない。もしやとっくに方技部が祓い滅していた記録でも出たのではと思って血の気がひいた。

「ああいや、行方はわかっとらん」

 青ざめた遥香の考えたことが伝わったのか、芳川中佐は落ち着きなさいと手で示す。だが座った遥香に、悟は冷ややかだった。

「生死は不明だ」
「ふめ、い……」
「うちで祓った記録はなかった。生きている可能性はある」
「消息が知れないのに何故呼ばれたんだ。しかも俺は関係ない」

 彰良はわざと突き放した言い方をした。
 どうやら義父と義兄は、彰良の知らない情報を持っているらしい。なので遥香とは仕事上の間柄でしかないと、とっさによそおった。何しろ彰良も遥香も半妖なのだ。狼と狐が寄りそうことが芳川家から許されるものなのか、彰良にもわからない。
 中佐は彰良を見据え、重々しく告げた。

「おまえではなく、おまえの父親に関わりのある狐だったのだ、天音さんは」
「父――?」
「狼の、な。遠峰と呼ばれる、山の主よ」

 不意をつかれて彰良は黙った。
 遠峰。彰良の憎しみの対象。
 武蔵野の西につらなる山々の、高い峰にいるという狼。それが遠峰だ。
 山を荒らす者には容赦がないが、里を襲うことはない。ふもとに恵みの水をもたらす山の神として、畏れつつ敬われている狼だった。その狼の山へ、小雪という村娘が生け贄に行ったのは何故か。

「村をおそった山津波は、天音が引き起こしたものだ」

 淡々と悟が告げて、遥香はこおりついた。母が災いを起こした? 顔色をなくした遥香をジロリと見ながら悟は語り聞かせた。

 ――天音は化け狐の例にもれず、美しい女の姿で人間をたぶらかしていた。
 男に貢がせるばかりではない。女や子どもと遊んだり、化かしてからかったりも好きだったようだ。あちこちの里と山を渡り歩く気ままな狐だった。
 それが遠峰の山に来た時、何があったのか山の主を怒らせたらしい。激怒した遠峰の遠吠えは雲を呼び雷を落とし岩をくだいた。そして、山はくずれた。

「何故そんなことがわかったんだ。昔のことなのに」

 初めて聞く狼と狐の因縁に彰良はうめくが、義兄は冷静だ。

「おまえを引き取るにあたって、ある程度は調べているに決まっているだろう。あのころから狐がからんでいるとは知れていた。天音の名までは出ていなかったが」

 彰良が芳川家に来た時、悟はすでに十代半ばの陰陽師。父の下にあり、さまざまな事柄を直接知っていたのだ。

「……俺は聞いていない」
「子どもに聞かせてもどうもならんからの。狼も狐もと憎む相手が多いのはよくないと考えた。おまえは一本気な子だったのでな」
「爺さま……だが」
「狐なら、うちにも管狐(くだぎつね)を遣う者がいる。天音という狐の話をさかのぼらせたら、遠峰にいき当たった」

 うろたえる彰良を気にせず、悟は遥香に言い聞かせた。

「そのうち天音の行方も知れるだろう。村に災いをなした魔物だ、方技部としては祓うしかないのでそのつもりでいるように」
「え――」
「兄さん、それは」
「悟よ、待ちなさい」

 厳しい声で息子を制止した中佐は、息をするのも忘れそうな遥香をいたましげに見た。

「杓子定規にもほどがあるぞ。人にまぎれて暮らした間、天音さんは何の悪さもしておらん。遠峰の山で何があったのかもはっきりわからんのだからな」
「いえ、父さんは甘すぎます!」

 忌々しげに悟は言い返す。

「怪異は祓う。そうやって我々がいる意味を見せつけていかなければ、やっと手に入れた軍での立場すら失いかねない」
「落ち着きなさい、悟」

 苦々しく顔をしかめ、中佐は申し渡した。

「あせるでない。罪のない者を処断するような術は、かえってすべてをそこなう」
「……は。もちろん」
「先走ってはならんぞ。それと彰良、おまえもだ。仇が増えたなどと考えず、まずは呑み込んでよく考えるがいい」

 仇。その言葉が遥香の心を突き刺した。
 そう、天音がいなければ、彰良の母は人里で普通に暮らしていられたかもしれないのに。
 彰良も同じことを考えたのだろうか、遥香を横目で見るまなざしがゆれているように思えた。


 それから、遥香は離れに案内された。そこは幼いころ彰良が使っていた部屋だそうだ。客間は母屋にあるのだが、そちらだと悟が妻子と暮らす場所に近い。あんなことを言われた後では居心地が悪かろうと中佐が気をまわしてくれたのだった。

「彰良が客間を使うようにしなさい――悟の物言いがきつくてすまんの」
「いえ……母が、申し訳ないことを」
「謝らんでいい、きみが生まれる前のことだ――悟は陰陽寮を再興したがっていてな。実績が欲しくて、はやっておるのだろう。叱っておかねば」

 ニコニコしてくれる中佐だったが、その目の奥に冷えたものを感じてしまう。こんなに良くして下さるのに、自分が卑屈になっているせいなのかと遥香は恥じ入った。彰良に何度も言われたじゃないか、そういう考え方はうっとうしいと。
 だがその彰良の頬はいつも以上に硬く、遥香のことを見ようとしない。横浜からの道中で遥香を包んでいたやわらかなまなざしは、どこかに消えていた。

「二人とも、しばらくここにいるといい。天音さんが見つかればすぐに教えられるし、横浜に戻っても落ち着かんだろう。いいな」

 言い聞かせるようにされ、彰良は無言でうなずいた。ならば遥香に否やはない。だが何も言わぬまま母屋へと去っていく彰良の背に、ひどく心細くなった。



 それから彰良はぱたりと姿を見せなくなった。
 その日だけではない。翌日も、その翌日もだ。どうしているのかと世話をしてくれる女に尋ねたが知らないとの返事だった。
 食事は膳で運んできてくれるのを一人でいただいた。風呂まで使わせてもらい、浴衣も貸してもらえた。不自由はない。
 だが、どう過ごしていればいいのか。
 方技部の仕事もなく、おそらく下働きを手伝うのも無作法だろう。出かけてみるにしても帝都のことはほとんどわからず金もろくに持っていない。
 外に出る時はいつも彰良が守ってくれていたのだと思い知らされた。なのに今、彰良は寄りつこうとしない。

「――私が、仇の娘だからでしょうか」

 ここに来て教えられた因縁を思い、遥香は唇をかんだ。
 母は、天音という妖狐は何をしたのか。そして今、どこにいるのか。
 ただ時が経つのを待ちながら、遥香は芳川家の離れに囚われているような寂しさにふるえていた。
 ――彰良に、会いたい。