「ちゃんとご挨拶なさいね、志乃、龍治」
そう子どもたちをうながしたのは、山代の妻、久乃だった。
夫とともに新天地横浜にやってきた山代夫人は、おおらかながら子どもの首根っこはしっかりつかんでいるらしい。十二歳の志乃と八歳の龍治は姿勢よく一礼した。
「これから、お世話になります」
「よろしくおねがいします!」
「こちらこそ、よろしくおねがいします」
遥香はにっこりと、弘道はあっさりと頭を下げる。妹や弟ともいえる年ごろの二人が家に来て、にぎやかになりそうな予感に遥香はほほえんだ。
彰良と喜之助は、姉弟とすでに面識があるそうだ。初対面の遥香と弘道への挨拶を見届けて、父親の顔の山代は子らに申しつけた。
「よーし、まずは自分の荷物を片づけなさい。それができたら庭のお稲荷さまにお詣りだ。後でよろしくお願いします、弘道さん」
「ああ、わかっとる」
子どもたちは「家にお社があるなんてすごい」と弘道を見上げる。久しぶりに尊敬のまなざしを受け、弘道の顔色も明るくなったような気がした。庭をあらためて掃き清めに出ていく背がシャンと伸びている。
こんな大家族で暮らすだなんて数ケ月前まで思ってもいなかった遥香は、めぐり合わせの不思議に目をうるませた。志乃や龍治が、孫のように弘道になついてくれたら嬉しい。この縁を結べただけでも遥香が軍で働く意味があったかもしれない。
だが遥香にとって、ここでのいちばんの出会いはもちろん彰良だ。まだ大っぴらな間柄ではないが、そっと交わす目くばせだけで頬がほころぶ。
「ああ、吾妻よ」
二階へかけ上がる子どもと妻を見送って、山代は喜之助をふり向いた。
「なんです」
「本部宿舎近くの小間物屋の看板娘って、おまえが気にしてたコか」
「……あ、まあ。そうですね」
「なんか見合いしたらしいぞ。ずっと渋ってた話に急に乗り気になったって」
彰良はギクリとした。それはまさか彰良への不毛な気持ちにあきらめがついたからだろうか。静かに畳にくずれ落ちた喜之助の肩を山代はポンポンとなだめた。
「帝都に未練がなくなってよかったじゃないか。横浜にもいい女がいるだろうから、頑張れ」
「そ、そうだな。それにおまえ最近は水乞みっちゃんと仲がいいし」
「彰良……そりゃ大人のみっちゃんに迫られるとグラッとするけどさあ」
「なんだ迫られたのか、吾妻!」
ビアホールに行った日、どうもそんなことがあったようだ。うっかり白状した喜之助の言葉に山代が食いつく。
山代はまだ水乞に会ったことはないのだが、喜之助との成りゆきを追うのは横浜での楽しみが増えたというもの。だが相手は妖怪だ。祝福していいのかどうか。
「あと――こっちの二人には出頭命令が出てる。明日、帝都に向かえ」
「は? 俺たちだけですか」
言われたのは遥香と彰良だった。帝都からの伝達のうち、むしろ本題はこちらだ。
半妖の二人のみに何の用が――心細そうにする遥香に山代は肩をすくめる。どんな内容で呼ばれたのかは知らされていないのだった。喜之助も自分のことはともかく不穏なものを感じて眉をひそめた。
面倒なことにならなければいいのだが、と全員が不安にかられた。
横浜駅を出た汽車は、貨物、倉庫などが雑然とする場所を過ぎると堤防の上の鉄路をゆるやかに曲がる。
きらめく入り江を窓からながめていた遥香は、隣の彰良をそっとふり向いた。
「どうした?」
「いいえ」
彰良がすぐに反応する。つまり遥香を見ていたのではないのか。だからふり返ったんです、と言うのが恥ずかしくて遥香はうつむいた。
縫い上げた藤色の矢絣を着て、髪は左右の三つ編みをぐるりと頭にまわす外巻き。水乞にせがまれて買ってきた女学雑誌という女性向け流行誌で勉強した髪型だ。彰良の目にはとても愛らしく映る。
「案じるな」
愛おしげなやわらかい声に遥香は顔を上げた。呼び出されて不安がっていると思われただろうか。
遥香と彰良を帝都に、というのはたしかに気になる。しかも方技部本部ではなく芳川家の屋敷にというのだった。となれば半妖としての二人に用があるとしか考えられない。
「俺がいる」
「――はい」
ドキリとしながら、なるべく静かにうなずいた。彰良もやや照れたように思えた。
だけどそう。この人がいてくれるからだいじょうぶ。
二人だけで汽車の旅だなんて、理由はどうあれちょっと嬉しい。
心をかよわせた日、涙をふかれ、そのまま腕の中におさまった。遥香を確かめるようにそっと抱きよせられて、鼓動は速まるのに安堵した。見上げた彰良のまなざしが熱かった。もちろんそれ以上遥香にどうこうなどしないのが彰良だったが。
だけどあれ以来、なかなか二人きりにはなれない。なったとしても皆と暮らす宿舎の中だ、視線を合わせ頬を染めるぐらいが遥香の精いっぱいだった。
だから今、隣の彰良と肩が触れるだけでも幸せがこみ上げる。
この時間がずっと続けばいいのに。
だが汽車は到着してしまった。今日はあまり酔わずに済んで、やはり前は緊張しすぎだったのだとからかうように言われた。そのかすかな彰良の笑顔に胸がきゅうとした。
そこからまた人力車で芳川家に向かう。屋敷は本部とはすこし離れた下谷区にあり、古い寺社に囲まれた静かなところだった。そんなに大きな家じゃないと言われていたのに長く続く築地塀に驚き、気がひけた。
正門を入ると、ピリ、と何かを感じた。遥香のかすかな反応に彰良が気づく。
「――結界だ」
「あ――」
そうだ、本部にも掛けられていた術。だが以前よりはっきりとわかったのは遥香がそういうものに敏感になったからなのか。
玄関にたどり着くと、迎えてくれたのは芳川悟少尉だった。
「待っていたぞ」
「兄さん。家に呼ぶなんて何があったんだ」
「話は座ってからにしよう」
スス、と寄ってきた使用人らしき女性に手を差し出され、遥香は戸惑った。気づいた彰良がささやく。
「荷物を。ここに泊まる」
「方技部の宿舎ではないのですか」
彰良にしてみれば当然すぎて言うのを忘れていただけだったが、わけもわからずついて歩く遥香を悟はどう思っただろう。こんな調子では、いずれ嫁にと彰良が申し出ても認めてもらえないかもしれない。
見たことのない重々しいたたずまいの屋敷に遥香はすっかり呑まれていた。
「おお、遥香さん。よう来たよう来た」
奥座敷で歓迎してくれたのは芳川高聡中佐だった。その笑顔にすこしだけホッとして頭を下げた遥香だが、続く言葉にこおりついた。
「きみを呼んだのはな、天音さんのことで話があるからなのだよ」
そう子どもたちをうながしたのは、山代の妻、久乃だった。
夫とともに新天地横浜にやってきた山代夫人は、おおらかながら子どもの首根っこはしっかりつかんでいるらしい。十二歳の志乃と八歳の龍治は姿勢よく一礼した。
「これから、お世話になります」
「よろしくおねがいします!」
「こちらこそ、よろしくおねがいします」
遥香はにっこりと、弘道はあっさりと頭を下げる。妹や弟ともいえる年ごろの二人が家に来て、にぎやかになりそうな予感に遥香はほほえんだ。
彰良と喜之助は、姉弟とすでに面識があるそうだ。初対面の遥香と弘道への挨拶を見届けて、父親の顔の山代は子らに申しつけた。
「よーし、まずは自分の荷物を片づけなさい。それができたら庭のお稲荷さまにお詣りだ。後でよろしくお願いします、弘道さん」
「ああ、わかっとる」
子どもたちは「家にお社があるなんてすごい」と弘道を見上げる。久しぶりに尊敬のまなざしを受け、弘道の顔色も明るくなったような気がした。庭をあらためて掃き清めに出ていく背がシャンと伸びている。
こんな大家族で暮らすだなんて数ケ月前まで思ってもいなかった遥香は、めぐり合わせの不思議に目をうるませた。志乃や龍治が、孫のように弘道になついてくれたら嬉しい。この縁を結べただけでも遥香が軍で働く意味があったかもしれない。
だが遥香にとって、ここでのいちばんの出会いはもちろん彰良だ。まだ大っぴらな間柄ではないが、そっと交わす目くばせだけで頬がほころぶ。
「ああ、吾妻よ」
二階へかけ上がる子どもと妻を見送って、山代は喜之助をふり向いた。
「なんです」
「本部宿舎近くの小間物屋の看板娘って、おまえが気にしてたコか」
「……あ、まあ。そうですね」
「なんか見合いしたらしいぞ。ずっと渋ってた話に急に乗り気になったって」
彰良はギクリとした。それはまさか彰良への不毛な気持ちにあきらめがついたからだろうか。静かに畳にくずれ落ちた喜之助の肩を山代はポンポンとなだめた。
「帝都に未練がなくなってよかったじゃないか。横浜にもいい女がいるだろうから、頑張れ」
「そ、そうだな。それにおまえ最近は水乞みっちゃんと仲がいいし」
「彰良……そりゃ大人のみっちゃんに迫られるとグラッとするけどさあ」
「なんだ迫られたのか、吾妻!」
ビアホールに行った日、どうもそんなことがあったようだ。うっかり白状した喜之助の言葉に山代が食いつく。
山代はまだ水乞に会ったことはないのだが、喜之助との成りゆきを追うのは横浜での楽しみが増えたというもの。だが相手は妖怪だ。祝福していいのかどうか。
「あと――こっちの二人には出頭命令が出てる。明日、帝都に向かえ」
「は? 俺たちだけですか」
言われたのは遥香と彰良だった。帝都からの伝達のうち、むしろ本題はこちらだ。
半妖の二人のみに何の用が――心細そうにする遥香に山代は肩をすくめる。どんな内容で呼ばれたのかは知らされていないのだった。喜之助も自分のことはともかく不穏なものを感じて眉をひそめた。
面倒なことにならなければいいのだが、と全員が不安にかられた。
横浜駅を出た汽車は、貨物、倉庫などが雑然とする場所を過ぎると堤防の上の鉄路をゆるやかに曲がる。
きらめく入り江を窓からながめていた遥香は、隣の彰良をそっとふり向いた。
「どうした?」
「いいえ」
彰良がすぐに反応する。つまり遥香を見ていたのではないのか。だからふり返ったんです、と言うのが恥ずかしくて遥香はうつむいた。
縫い上げた藤色の矢絣を着て、髪は左右の三つ編みをぐるりと頭にまわす外巻き。水乞にせがまれて買ってきた女学雑誌という女性向け流行誌で勉強した髪型だ。彰良の目にはとても愛らしく映る。
「案じるな」
愛おしげなやわらかい声に遥香は顔を上げた。呼び出されて不安がっていると思われただろうか。
遥香と彰良を帝都に、というのはたしかに気になる。しかも方技部本部ではなく芳川家の屋敷にというのだった。となれば半妖としての二人に用があるとしか考えられない。
「俺がいる」
「――はい」
ドキリとしながら、なるべく静かにうなずいた。彰良もやや照れたように思えた。
だけどそう。この人がいてくれるからだいじょうぶ。
二人だけで汽車の旅だなんて、理由はどうあれちょっと嬉しい。
心をかよわせた日、涙をふかれ、そのまま腕の中におさまった。遥香を確かめるようにそっと抱きよせられて、鼓動は速まるのに安堵した。見上げた彰良のまなざしが熱かった。もちろんそれ以上遥香にどうこうなどしないのが彰良だったが。
だけどあれ以来、なかなか二人きりにはなれない。なったとしても皆と暮らす宿舎の中だ、視線を合わせ頬を染めるぐらいが遥香の精いっぱいだった。
だから今、隣の彰良と肩が触れるだけでも幸せがこみ上げる。
この時間がずっと続けばいいのに。
だが汽車は到着してしまった。今日はあまり酔わずに済んで、やはり前は緊張しすぎだったのだとからかうように言われた。そのかすかな彰良の笑顔に胸がきゅうとした。
そこからまた人力車で芳川家に向かう。屋敷は本部とはすこし離れた下谷区にあり、古い寺社に囲まれた静かなところだった。そんなに大きな家じゃないと言われていたのに長く続く築地塀に驚き、気がひけた。
正門を入ると、ピリ、と何かを感じた。遥香のかすかな反応に彰良が気づく。
「――結界だ」
「あ――」
そうだ、本部にも掛けられていた術。だが以前よりはっきりとわかったのは遥香がそういうものに敏感になったからなのか。
玄関にたどり着くと、迎えてくれたのは芳川悟少尉だった。
「待っていたぞ」
「兄さん。家に呼ぶなんて何があったんだ」
「話は座ってからにしよう」
スス、と寄ってきた使用人らしき女性に手を差し出され、遥香は戸惑った。気づいた彰良がささやく。
「荷物を。ここに泊まる」
「方技部の宿舎ではないのですか」
彰良にしてみれば当然すぎて言うのを忘れていただけだったが、わけもわからずついて歩く遥香を悟はどう思っただろう。こんな調子では、いずれ嫁にと彰良が申し出ても認めてもらえないかもしれない。
見たことのない重々しいたたずまいの屋敷に遥香はすっかり呑まれていた。
「おお、遥香さん。よう来たよう来た」
奥座敷で歓迎してくれたのは芳川高聡中佐だった。その笑顔にすこしだけホッとして頭を下げた遥香だが、続く言葉にこおりついた。
「きみを呼んだのはな、天音さんのことで話があるからなのだよ」