「幽霊だよッ、吉五郎がたたりやがったんだ!」
そんな声が聞こえてきて彰良と遥香は顔を見合わせた。怨霊が出たのだろうか。
人をかきわけて近づいてみると、騒ぎになっているのは芝居小屋の裏口のようだった。三味線をかかえ中をうかがう囃子方がおり、楽屋着の浴衣のまま飛び出してきた役者は白粉が塗りかけだ。
「どうした」
つかつかと近づいた彰良が声をかけると、軍人とわかって一座の者がすがる目になった。
「芝居の書き割りが倒れて、道具係に怪我人が」
「助けの手は足りているか? それだけにしては大騒ぎだが、幽霊がどうのとも聞こえたのはどういうことだ」
「へい……この間、稽古中に死んだ者がおりまして」
彰良に問われた楽屋番は口ごもるが、年配の役者が青い顔で横から言った。
「あたしァ見たよ。幕の裏からいきなり人影があらわれて、書き割りを蹴り倒した」
それが幽霊だと断言する。剣豪に扮しているその男は、支度が済んで舞台袖にいたそうだ。
「大騒ぎの道具係を尻目に花道に走り出てスラリと刀を抜く仕草、ありゃ吉五郎だった。あたしの弟子だったんだから見間違えやしないよ。色気のある男でね、いい役者になると思ってたのに」
その吉五郎が亡くなった事故。舞台上に置いたはりぼての岩から飛び降りて見得を切る、そんな芝居をするはずだったそうだ。だが跳ぶ瞬間はりぼてが壊れ、吉五郎は頭から落ちたのだとか。
「芝居への未練が捨てられず、怨霊になったというのか?」
芸事に興味のない彰良にはわからない世界だ。遥香も首をかしげて聞いていたが、心残りをかかえ暴れる怨霊がいるならば救ってあげたいと思う。
「私たちで今、祓ってもよいのでしょうか」
「行き会ってしまったからにはやむを得ん。まだ吉五郎の怨霊は中にいるか?」
「さ、さあ。なんとかしていただけるんで? ならご案内しましょう」
楽屋番の後について、裏から小屋に入れてもらう。袖から怖々のぞき込む裏方たちの視線の先に、薄暗い舞台でゆらりと動く人影があった。
「――ああ。生きた人ではないな」
「はい」
うなずく遥香に目をやって、彰良は言いにくそうにした。
「剣劇の役者が相手となると、おまえでは近づけない――俺の剣に、力をくれるか?」
それは、口づけをとの要請だ。申し訳なさそうに目を伏せる彰良に、恥じらいながらも遥香はきっぱり答えた。
「もちろんです。あのひとを助けてあげてください」
「――わかった」
彰良は剣を抜く。一座の者がざっと退がる中、剣が緋い炎をまとった。その剣を遥香の目の前にかかげる。
遥香は彰良の手に手をそっと添え、唇を寄せた。剣の根元から炎が紫に変わっていく。
「――!」
息をのむ人々のまなざしを背負い、彰良は舞台に進み出た。
炎立つ剣。
そんな芝居がかったものを引っさげて男が来れば、吉五郎の怨霊も思ったに違いない。「役者がそろった」と。
書き割りが倒れ、道具のひしゃげた舞台の上。怨霊と彰良は対峙した。
スラリと日本刀をかまえる吉五郎の立ち姿は美しい。斬りかかる足さばきは舞踊のようだ。
対する彰良には無駄な動きがいっさいなかった。相手を見切り、わずかな動きだけで常に吉五郎を正面にとらえ、見すえる。
斬り結ぶ二人。
尾を引く紫の炎が薄暗い舞台に映える。
舞うように人の目を惹きつける吉五郎の身のこなしに遥香は見とれた。生きていれば一座の看板役者になっただろうに。
だが実用一辺倒の彰良の剣もすごい。吉五郎のような派手さはないが、虎視眈々と相手に斬りこむ隙を狙うさまは一枚の絵のようだ。
「吉五郎――」
そっと客席に下り、二人の殺陣を涙ぐんで見ているのは師匠だと名乗った役者だ。目を掛けて育てた弟子の、最期の晴れ舞台を心に焼きつけているのだろうか。斬りかかり跳びすさった吉五郎が見得を切るように客席に流し目をくれたところで「いよッ」と声をかける。
その声に吉五郎の怨霊はハッとなり――その一瞬を見逃す彰良ではなかった。
「ぐ……ッ!」
彰良の剣に胸を貫かれた吉五郎は芝居がかった動きでよろめいた。そして――蒼白い光となりながら、客席の師匠にまなざしを向ける。
「吉五郎――ッ! 一世一代の立ち回り、しかと見せてもらったよ!」
たった一人から飛んだ声援に、怨霊はかすかにほほえむ。そして――ホッとしたような顔をすると、白く輝いて消えた。
「吉五郎……ッ」
消え失せた弟子を見送って、おいおいと泣く剣豪姿の役者。
清めたとはいえ斬り祓った側になる彰良は舞台に一人取り残され、とても居心地が悪かった。
「町に買い物に出て怨霊を祓ってくるって、おまえら何してんの」
「たまたま出くわしたんだ、仕方ないだろう」
夕飯の席であきれる喜之助に、彰良は仏頂面だった。通報されて陸軍経由で指示が回ってくるのを待つのが面倒だっただけだが、本来ならば良くはない。荷担した遥香も同罪なので小さくなった。
でもあの後に、芝居小屋で書林の場所を尋ねて目的の料理本は手に入れられた。今日は時間がなくなってしまったが、読むのが楽しみで仕方ない。
突然の仕事だったけれど、そのおかげで紫の炎を使うことが嫌ではないのだと彰良に伝えられたし、遥香は吉五郎の怨霊にちょっと感謝していた。
取り調べによると、どうやら吉五郎が死んだ一件は一座の内紛だったらしい。今日怪我をした道具係が白状したのだ。売れそうな吉五郎をねたんだ中堅の役者が、はりぼてに細工するよう強要したのだとか。弱みを握られていて逆らえなかったと号泣していたそうだ。
「それで化けて出たんですね……あんなにお芝居が好きなのに舞台を壊すなんておかしいと思いました」
「お? 遥香さんから見て、怨霊の芝居は良かったんだね」
「ええと、芝居小屋なんて初めて行きましたが……なんて素敵なんだろうと思いました。亡くなられたなんて、もったいないなあと」
「彰良より吉五郎か……」
ふむ、とうなずいた喜之助の言葉に、遥香は「ひゃ」と変な声をあげてしまった。そういう意味ではないのに。
「あの、あの、そうではなくて」
「ん、何? 彰良も格好よかった?」
「はい! え――!」
喜之助の誘導に引っかかった遥香が真っ赤になってしまう。喜之助はニヤリと悪い顔で笑った。
「まあまあまあ、ごちそうさまでした!」
さっさと立ち上がり自分の皿を下げにいく喜之助は、後ろで硬直したままの二人にため息をついた。煮え切らない奴らめ。
だが怨霊を清めてきたということは、ちゃんと遥香の力を吹き込んでもらえたということだ。彰良にしては頑張ったといえる。
「だけど、ほめてなんかやらねえからな」
ふん、と喜之助は口をとがらせてすねた。
芝居小屋の主人が言っていたそうなのだ。「なんて顔のいい軍人さんだ。ぜひウチに出てくれ」と。
いくら彰良の見た目が格好良くても、立ち回り以外は大根役者に違いない。喜之助は勝手にそう決めつけて溜飲を下げた。
そんな声が聞こえてきて彰良と遥香は顔を見合わせた。怨霊が出たのだろうか。
人をかきわけて近づいてみると、騒ぎになっているのは芝居小屋の裏口のようだった。三味線をかかえ中をうかがう囃子方がおり、楽屋着の浴衣のまま飛び出してきた役者は白粉が塗りかけだ。
「どうした」
つかつかと近づいた彰良が声をかけると、軍人とわかって一座の者がすがる目になった。
「芝居の書き割りが倒れて、道具係に怪我人が」
「助けの手は足りているか? それだけにしては大騒ぎだが、幽霊がどうのとも聞こえたのはどういうことだ」
「へい……この間、稽古中に死んだ者がおりまして」
彰良に問われた楽屋番は口ごもるが、年配の役者が青い顔で横から言った。
「あたしァ見たよ。幕の裏からいきなり人影があらわれて、書き割りを蹴り倒した」
それが幽霊だと断言する。剣豪に扮しているその男は、支度が済んで舞台袖にいたそうだ。
「大騒ぎの道具係を尻目に花道に走り出てスラリと刀を抜く仕草、ありゃ吉五郎だった。あたしの弟子だったんだから見間違えやしないよ。色気のある男でね、いい役者になると思ってたのに」
その吉五郎が亡くなった事故。舞台上に置いたはりぼての岩から飛び降りて見得を切る、そんな芝居をするはずだったそうだ。だが跳ぶ瞬間はりぼてが壊れ、吉五郎は頭から落ちたのだとか。
「芝居への未練が捨てられず、怨霊になったというのか?」
芸事に興味のない彰良にはわからない世界だ。遥香も首をかしげて聞いていたが、心残りをかかえ暴れる怨霊がいるならば救ってあげたいと思う。
「私たちで今、祓ってもよいのでしょうか」
「行き会ってしまったからにはやむを得ん。まだ吉五郎の怨霊は中にいるか?」
「さ、さあ。なんとかしていただけるんで? ならご案内しましょう」
楽屋番の後について、裏から小屋に入れてもらう。袖から怖々のぞき込む裏方たちの視線の先に、薄暗い舞台でゆらりと動く人影があった。
「――ああ。生きた人ではないな」
「はい」
うなずく遥香に目をやって、彰良は言いにくそうにした。
「剣劇の役者が相手となると、おまえでは近づけない――俺の剣に、力をくれるか?」
それは、口づけをとの要請だ。申し訳なさそうに目を伏せる彰良に、恥じらいながらも遥香はきっぱり答えた。
「もちろんです。あのひとを助けてあげてください」
「――わかった」
彰良は剣を抜く。一座の者がざっと退がる中、剣が緋い炎をまとった。その剣を遥香の目の前にかかげる。
遥香は彰良の手に手をそっと添え、唇を寄せた。剣の根元から炎が紫に変わっていく。
「――!」
息をのむ人々のまなざしを背負い、彰良は舞台に進み出た。
炎立つ剣。
そんな芝居がかったものを引っさげて男が来れば、吉五郎の怨霊も思ったに違いない。「役者がそろった」と。
書き割りが倒れ、道具のひしゃげた舞台の上。怨霊と彰良は対峙した。
スラリと日本刀をかまえる吉五郎の立ち姿は美しい。斬りかかる足さばきは舞踊のようだ。
対する彰良には無駄な動きがいっさいなかった。相手を見切り、わずかな動きだけで常に吉五郎を正面にとらえ、見すえる。
斬り結ぶ二人。
尾を引く紫の炎が薄暗い舞台に映える。
舞うように人の目を惹きつける吉五郎の身のこなしに遥香は見とれた。生きていれば一座の看板役者になっただろうに。
だが実用一辺倒の彰良の剣もすごい。吉五郎のような派手さはないが、虎視眈々と相手に斬りこむ隙を狙うさまは一枚の絵のようだ。
「吉五郎――」
そっと客席に下り、二人の殺陣を涙ぐんで見ているのは師匠だと名乗った役者だ。目を掛けて育てた弟子の、最期の晴れ舞台を心に焼きつけているのだろうか。斬りかかり跳びすさった吉五郎が見得を切るように客席に流し目をくれたところで「いよッ」と声をかける。
その声に吉五郎の怨霊はハッとなり――その一瞬を見逃す彰良ではなかった。
「ぐ……ッ!」
彰良の剣に胸を貫かれた吉五郎は芝居がかった動きでよろめいた。そして――蒼白い光となりながら、客席の師匠にまなざしを向ける。
「吉五郎――ッ! 一世一代の立ち回り、しかと見せてもらったよ!」
たった一人から飛んだ声援に、怨霊はかすかにほほえむ。そして――ホッとしたような顔をすると、白く輝いて消えた。
「吉五郎……ッ」
消え失せた弟子を見送って、おいおいと泣く剣豪姿の役者。
清めたとはいえ斬り祓った側になる彰良は舞台に一人取り残され、とても居心地が悪かった。
「町に買い物に出て怨霊を祓ってくるって、おまえら何してんの」
「たまたま出くわしたんだ、仕方ないだろう」
夕飯の席であきれる喜之助に、彰良は仏頂面だった。通報されて陸軍経由で指示が回ってくるのを待つのが面倒だっただけだが、本来ならば良くはない。荷担した遥香も同罪なので小さくなった。
でもあの後に、芝居小屋で書林の場所を尋ねて目的の料理本は手に入れられた。今日は時間がなくなってしまったが、読むのが楽しみで仕方ない。
突然の仕事だったけれど、そのおかげで紫の炎を使うことが嫌ではないのだと彰良に伝えられたし、遥香は吉五郎の怨霊にちょっと感謝していた。
取り調べによると、どうやら吉五郎が死んだ一件は一座の内紛だったらしい。今日怪我をした道具係が白状したのだ。売れそうな吉五郎をねたんだ中堅の役者が、はりぼてに細工するよう強要したのだとか。弱みを握られていて逆らえなかったと号泣していたそうだ。
「それで化けて出たんですね……あんなにお芝居が好きなのに舞台を壊すなんておかしいと思いました」
「お? 遥香さんから見て、怨霊の芝居は良かったんだね」
「ええと、芝居小屋なんて初めて行きましたが……なんて素敵なんだろうと思いました。亡くなられたなんて、もったいないなあと」
「彰良より吉五郎か……」
ふむ、とうなずいた喜之助の言葉に、遥香は「ひゃ」と変な声をあげてしまった。そういう意味ではないのに。
「あの、あの、そうではなくて」
「ん、何? 彰良も格好よかった?」
「はい! え――!」
喜之助の誘導に引っかかった遥香が真っ赤になってしまう。喜之助はニヤリと悪い顔で笑った。
「まあまあまあ、ごちそうさまでした!」
さっさと立ち上がり自分の皿を下げにいく喜之助は、後ろで硬直したままの二人にため息をついた。煮え切らない奴らめ。
だが怨霊を清めてきたということは、ちゃんと遥香の力を吹き込んでもらえたということだ。彰良にしては頑張ったといえる。
「だけど、ほめてなんかやらねえからな」
ふん、と喜之助は口をとがらせてすねた。
芝居小屋の主人が言っていたそうなのだ。「なんて顔のいい軍人さんだ。ぜひウチに出てくれ」と。
いくら彰良の見た目が格好良くても、立ち回り以外は大根役者に違いない。喜之助は勝手にそう決めつけて溜飲を下げた。