チクチクと、遥香は藤色の着物を縫っていた。前に彰良から贈られた反物だ。
これはただの給金がわりなのだから特別な意味を見出だしてはいけないとわかっている。けれど遥香にとっては大切なものなので、お針に自信がなくても綺麗に仕上げたかった。
もうずいぶん秋めいたから、単衣ではなく袷にする。糸と一緒に揃えてくれた裏地が役に立って嬉しい。袷を着る季節になってもここにいられるとは、なんて幸せなんだろう。
「――ふう」
縫い物をしているのは縁側の近く。糸をプツリと切ると、遥香は軒の向こうの空を見上げた。高いところをスイスイ飛ぶのは赤とんぼだ。
「だいぶ、出来上がったか?」
「え。あ、はい!」
静かに声をかけたのは彰良だった。ふり返った遥香はパアッと汗ばむのを感じる。空気は涼しくなってきても彰良に不意打ちされたらもう駄目だ。
跳ねる心臓に耐えながらぎこちなくほほえむ遥香に、彰良は遠慮がちに歩みよった。実は遥香が針を置くのを見はからっていたのだ。うっかり驚かせると指を刺しかねないとわかっているから。
「そんな物を買い求めて、手間をかけさせることになったな」
「いえ、まともな着物を持っていないのは本当ですから。ありがたいです」
遥香との間をややあけて、彰良はあぐらをかいた。
急に近づかない。動きはゆっくりと低い位置から。殺気や怒気でおびえさせるな。
それは犬猫をなつかせるために必要なことだそうだ。教えたのは喜之助。失礼な言いぐさだが、彰良も遥香も人との関わり方が下手くそだ。いっそそのぐらいの気持ちで始めた方が距離を縮められるのではとの提案で、「だって狼と狐だろ」と言われれば反論しづらかった。
彰良の手に慣れてほしい。目標はそこだ。
だがそれはどういう状態なのだろう。遥香の方から手に頬ずりしにくるようでは、まさに犬猫。望むのはそれではない。話しかけたものの途方にくれて、彰良は庭をながめた。
「あ、の……」
おずおずと言い出したのは遥香だった。
「ずっと出来ずにいて申し訳ないと思っていたことがあるんです」
「何のことだ?」
「お肉、なんですが」
「肉?」
遥香は肉を料理したことがない。鳥肉などはそんなに珍しいものでもないが、少々お高くて稲荷では買えなかった。帝都に行った時に牛も豚も食べさせてもらって濃い味つけに驚いたのだが、調理法までは未知だ。
「滋養によいのでしょう? ご飯にお出しできたら、と」
「ああ……まあ、食えれば嬉しいな」
それは遥香なりの精いっぱいの意思表示だった。ここで暮らしていたい、そして彰良の役に立ちたいと伝えるための。
先日の紫の炎からこっち、彰良にようすを探られている気がして落ち着かない。いつも気づかってくれる彰良のことだから、唇を、などと要求して遥香に嫌がられたと考えているのだと思う。
そんなことはないです、力になれるなら嬉しいです。そう言えればいいのに恥ずかしくてできない遥香だった。なので回りくどいが食事で喜んでもらおうと思った。言われた彰良がすこし明るい顔になった気がするから、きっと正しい。
「肉を手に入れてくればいいのか?」
「あ、いえ。お料理のやり方を知りたくて。何かご存知ありませんか?」
「う……俺は、まったく」
「そうですか……では山代さんが越して来られるのを待った方がいいでしょうか。奥さまに訊けば教えて下さいますよね、きっと」
先のことを遥香が話して、彰良は安堵した。このまま方技部にいる気持ちはあるらしい。
しかし何となくモヤモヤしたのは何故かというと、遥香が「山代さん」と上官の名を口にしたからだ。彰良のことは、芳川とも彰良とも言ったことがないのに。
もちろん彰良だって、いまだに遥香の名を呼んだことはない。そのくせモヤモヤするなんてずるいのだが、気恥ずかしくて今さら何と呼べばいい。「遥香」と呼んでみたいけど。
「――じゃあ料理の本を買うのはどうだ」
彰良は思いついて言ってみた。西洋料理を紹介した本や、当世流行りの料理を集めた本があるはずだ。
「お肉料理の本なんてあるんですか?」
「いろいろあると思うぞ。町で探せばいい」
「え――あ、そう、ですね」
本、と聞いて食いついた遥香の勢いがいきなりなくなった。一人で町に行くのかと思うとためらわれる。引っ込み思案な遥香がおかしくなって彰良はかすかに笑った。
「――俺が行ってきてもいいが。読みたいのはおまえだ、一緒に来い」
二人で出かければ、気まずさもうやむやになるかもしれない。彰良はそう期待した。そしてまったく同じように遥香も思ったのだった。
二人での外出、目指すは伊勢佐木町あたりか。
ここは芝居小屋が並ぶ歓楽街。裏道や横道まで回れば、牛鍋屋もコーヒーハウスも流行りのものは何でもある。書林ぐらい探せば見つかるだろう。
彰良に贈られた淡萌黄の着物と杏色の帯揚げで装い、髪を編んでマガレイトにまとめた遥香は目をひく美人になった。
だが厳しい顔の軍人が隣を歩いているので誰もぶしつけな視線などよこさない。こんな繁華な場所ならば不心得者もいるものだが、遥香に指一本触れさせてなるものかと彰良は気負っていた。
「あの……」
遠慮がちにきょろきょろしていた遥香が小声で言った。人の多さに押され、彰良にぶつからんばかりに歩かざるを得なくてモジモジしてしまう。
「横浜に、ずいぶん慣れているんですね。こんなににぎやかなところ、私は何がなんだか」
「仕事でたまに来ていただけで慣れてはいない。ここも初めてだ」
「え」
「どういう場所か、何となく把握しているが……書林がどこにあるかも知らんから少し歩かせるぞ。悪い」
「そんな。私ひとりでは人に突き飛ばされておわりですし」
人ごみに埋もれかける遥香は、その言葉通り向こうから来た男たちにぶつかられそうになる。ぐいと肩を抱いてかばう彰良の腕に当たった男は、にらまれてそそくさと逃げた。男同士わあわあと何やら論じながら行く連中はろくに周りを見ていないが、ここらはそんな者も多い。
「……確かに。おまえ一人でこんなところに出すわけにいかないな」
ふん、と眉根を寄せた彰良は、内心では喜んでいた。遥香に触れた手を離すのが惜しい。こつんと胸に当たった小さな肩をそのまま抱きしめてしまいたくなって困った。
「あり、がと……ございます」
遥香の方も不意に引き寄せられて、その腕の居心地よさにふるえていた。
この人のそばは、どうしてこんなにほっとするのだろう。恥じらいながらも、ほほえみがこぼれた。
「うわああっ!」
「ひいいっ!」
突然野太い悲鳴があがり、二人はハッとなって体を離した。あたりの人々もザワザワとふり返る。
何があったかと彰良が背伸びしてみると、それは横道から聞こえたようだった。
これはただの給金がわりなのだから特別な意味を見出だしてはいけないとわかっている。けれど遥香にとっては大切なものなので、お針に自信がなくても綺麗に仕上げたかった。
もうずいぶん秋めいたから、単衣ではなく袷にする。糸と一緒に揃えてくれた裏地が役に立って嬉しい。袷を着る季節になってもここにいられるとは、なんて幸せなんだろう。
「――ふう」
縫い物をしているのは縁側の近く。糸をプツリと切ると、遥香は軒の向こうの空を見上げた。高いところをスイスイ飛ぶのは赤とんぼだ。
「だいぶ、出来上がったか?」
「え。あ、はい!」
静かに声をかけたのは彰良だった。ふり返った遥香はパアッと汗ばむのを感じる。空気は涼しくなってきても彰良に不意打ちされたらもう駄目だ。
跳ねる心臓に耐えながらぎこちなくほほえむ遥香に、彰良は遠慮がちに歩みよった。実は遥香が針を置くのを見はからっていたのだ。うっかり驚かせると指を刺しかねないとわかっているから。
「そんな物を買い求めて、手間をかけさせることになったな」
「いえ、まともな着物を持っていないのは本当ですから。ありがたいです」
遥香との間をややあけて、彰良はあぐらをかいた。
急に近づかない。動きはゆっくりと低い位置から。殺気や怒気でおびえさせるな。
それは犬猫をなつかせるために必要なことだそうだ。教えたのは喜之助。失礼な言いぐさだが、彰良も遥香も人との関わり方が下手くそだ。いっそそのぐらいの気持ちで始めた方が距離を縮められるのではとの提案で、「だって狼と狐だろ」と言われれば反論しづらかった。
彰良の手に慣れてほしい。目標はそこだ。
だがそれはどういう状態なのだろう。遥香の方から手に頬ずりしにくるようでは、まさに犬猫。望むのはそれではない。話しかけたものの途方にくれて、彰良は庭をながめた。
「あ、の……」
おずおずと言い出したのは遥香だった。
「ずっと出来ずにいて申し訳ないと思っていたことがあるんです」
「何のことだ?」
「お肉、なんですが」
「肉?」
遥香は肉を料理したことがない。鳥肉などはそんなに珍しいものでもないが、少々お高くて稲荷では買えなかった。帝都に行った時に牛も豚も食べさせてもらって濃い味つけに驚いたのだが、調理法までは未知だ。
「滋養によいのでしょう? ご飯にお出しできたら、と」
「ああ……まあ、食えれば嬉しいな」
それは遥香なりの精いっぱいの意思表示だった。ここで暮らしていたい、そして彰良の役に立ちたいと伝えるための。
先日の紫の炎からこっち、彰良にようすを探られている気がして落ち着かない。いつも気づかってくれる彰良のことだから、唇を、などと要求して遥香に嫌がられたと考えているのだと思う。
そんなことはないです、力になれるなら嬉しいです。そう言えればいいのに恥ずかしくてできない遥香だった。なので回りくどいが食事で喜んでもらおうと思った。言われた彰良がすこし明るい顔になった気がするから、きっと正しい。
「肉を手に入れてくればいいのか?」
「あ、いえ。お料理のやり方を知りたくて。何かご存知ありませんか?」
「う……俺は、まったく」
「そうですか……では山代さんが越して来られるのを待った方がいいでしょうか。奥さまに訊けば教えて下さいますよね、きっと」
先のことを遥香が話して、彰良は安堵した。このまま方技部にいる気持ちはあるらしい。
しかし何となくモヤモヤしたのは何故かというと、遥香が「山代さん」と上官の名を口にしたからだ。彰良のことは、芳川とも彰良とも言ったことがないのに。
もちろん彰良だって、いまだに遥香の名を呼んだことはない。そのくせモヤモヤするなんてずるいのだが、気恥ずかしくて今さら何と呼べばいい。「遥香」と呼んでみたいけど。
「――じゃあ料理の本を買うのはどうだ」
彰良は思いついて言ってみた。西洋料理を紹介した本や、当世流行りの料理を集めた本があるはずだ。
「お肉料理の本なんてあるんですか?」
「いろいろあると思うぞ。町で探せばいい」
「え――あ、そう、ですね」
本、と聞いて食いついた遥香の勢いがいきなりなくなった。一人で町に行くのかと思うとためらわれる。引っ込み思案な遥香がおかしくなって彰良はかすかに笑った。
「――俺が行ってきてもいいが。読みたいのはおまえだ、一緒に来い」
二人で出かければ、気まずさもうやむやになるかもしれない。彰良はそう期待した。そしてまったく同じように遥香も思ったのだった。
二人での外出、目指すは伊勢佐木町あたりか。
ここは芝居小屋が並ぶ歓楽街。裏道や横道まで回れば、牛鍋屋もコーヒーハウスも流行りのものは何でもある。書林ぐらい探せば見つかるだろう。
彰良に贈られた淡萌黄の着物と杏色の帯揚げで装い、髪を編んでマガレイトにまとめた遥香は目をひく美人になった。
だが厳しい顔の軍人が隣を歩いているので誰もぶしつけな視線などよこさない。こんな繁華な場所ならば不心得者もいるものだが、遥香に指一本触れさせてなるものかと彰良は気負っていた。
「あの……」
遠慮がちにきょろきょろしていた遥香が小声で言った。人の多さに押され、彰良にぶつからんばかりに歩かざるを得なくてモジモジしてしまう。
「横浜に、ずいぶん慣れているんですね。こんなににぎやかなところ、私は何がなんだか」
「仕事でたまに来ていただけで慣れてはいない。ここも初めてだ」
「え」
「どういう場所か、何となく把握しているが……書林がどこにあるかも知らんから少し歩かせるぞ。悪い」
「そんな。私ひとりでは人に突き飛ばされておわりですし」
人ごみに埋もれかける遥香は、その言葉通り向こうから来た男たちにぶつかられそうになる。ぐいと肩を抱いてかばう彰良の腕に当たった男は、にらまれてそそくさと逃げた。男同士わあわあと何やら論じながら行く連中はろくに周りを見ていないが、ここらはそんな者も多い。
「……確かに。おまえ一人でこんなところに出すわけにいかないな」
ふん、と眉根を寄せた彰良は、内心では喜んでいた。遥香に触れた手を離すのが惜しい。こつんと胸に当たった小さな肩をそのまま抱きしめてしまいたくなって困った。
「あり、がと……ございます」
遥香の方も不意に引き寄せられて、その腕の居心地よさにふるえていた。
この人のそばは、どうしてこんなにほっとするのだろう。恥じらいながらも、ほほえみがこぼれた。
「うわああっ!」
「ひいいっ!」
突然野太い悲鳴があがり、二人はハッとなって体を離した。あたりの人々もザワザワとふり返る。
何があったかと彰良が背伸びしてみると、それは横道から聞こえたようだった。