「母狐? そんなことを訊いてどうするんだ、兄さん」

 遥香のまなざしに気づいたのか偶然か、彰良が不審げにする。悟は歳の離れた義弟に苦笑いを向けた。

「おまえがさっさと調べるべきだった。行方知れずなんだろう? 名のある妖狐ならば方技部(ウチ)の連中が祓ってしまいかねないじゃないか。そんなことになっていないか記録をあたるんだ」
「あ……!」

 遥香はその可能性にやっと気づいて小さく悲鳴を上げた。それを見る中佐の目が痛々しげだ。

「すまんな遥香さん、私もそこに考え至っていなかった。消息がわかれば連絡するのでな」
「はい……お心づかい感謝します。ええと、母は天音(あまね)と名乗っていました。人としての仮の名かもしれませんけど……」
「あまね。天音か。わかった、気にかけておこう。悟、調べてみてくれ」
「わかりました。見た目の特徴があれば、それも教えてほしいが」
「……狐の姿は見たことがありません。それに私は七つのころに別れておりますので。きれいなひとだった、ぐらいしか」

 そう聞いて、中佐はハッハと笑った。

「化け狐は美人だと言われるな。まあ遥香さんを見れば母上も美しかろうとわかる。見つかれば話してみたいものだ。私は魔物だとて問答無用で祓うのは反対だから、安心しなさい」
「そうなのですか」
「彰良にもそう教えてきた。人に害を為すか否かだ、と」

 だが遥香はギクリとなる。
 彰良からは父を殺したいと聞いたばかりだ。育ての親からのその教えは彰良の中で、害を為せば祓ってもよいと言い替えられていた。
 その気持ちを、彰良は義家族に打ち明けているのだろうか。中佐は遥香の気がかりなど知らぬ風で話し続ける。

「――日本には八百万の神がいる。天つ神、国つ神。そして木霊や付喪神のように何にでも神が宿るとされる。脈々とつないできた〈人ならざるもの〉の血脈は、文明開化の世の中だからと無くしてはいかんのだよ――そもそもウチのような陰陽師が、西洋の文明から見ると怪しいものらしいがね」

 やや不愉快な顔をしてみせて、芳川中佐はため息をついた。自分の軍服を見下ろして嫌そうに指先でつまんでみせる。

「軍にまぎれてしか働けんとは」
「父さん、軍属になりたての娘さんの前で言うことじゃありませんよ」

 悟がたしなめるが、確かにその通り。そんな愚痴を言われても遥香は反応に困ってしまう。まさに軍にまぎれて働きだしたばかりなのに。

「まあ軍服を着る羽目になろうとも、やるべきことはやらねばならん。遥香さんにも期待しとるよ……ああ、君は巫女装束でかまわんぞ」

 中佐から茶目っ気たっぷりに目配せされて、遥香は赤面した。動きやすさ最優先で袴をはいているのは報告されていたらしい。
 だって軍服なんて大きさも合わないし仕方ない。着物の裾をはねあげて走ることになったら困るもの。すねを彰良に見られるなんて、はしたない。
 そう考えて遥香はまた、自分の心にドキンとした。
 彰良、なのか。ほかの誰でもなく。

「おやおや、からかってすまん」

 火照る頬と耳を押さえてしまった遥香のことを、芳川中佐は目を丸くして笑った。


 遥香たちが執務室を出ていってから、悟は難しい顔だった。

「確かに彰良の相手としては興味深いですが、身上調査ぐらいしてからでしょうに」
「すまんすまん。半妖の娘など他におらんので気が急いてしもうた」

 芳川中佐はあまり反省もしていなさそうに笑った。実は妖狐の娘のうわさに食いついたのも横浜に二人を置くのも、女っけのない彰良のためなのだ。
 会ってみれば遥香は美しく、気づかいに満ちた娘だった。嫁に迎えるに申し分ないと中佐はほくほくしている。

「彰良はのう、不憫な育ちのせいで自分を抑えすぎだ。あれが心を動かすところなど、見てみたくないか?」
「あいつが潔癖なのは実の父への嫌悪というやつです。ちょっと女を近づけたぐらいでどうにかなりますかね。だいたいあの遥香というのは怪異に同情するような女なんですよ、うっかり彰良がほだされたら面倒です」
「彰良が迷っては困るが」

 しかし彰良は魔物相手にためらう男ではない。そういう風に育てたのだ。遥香が妖怪と友人になり魔物に情をかけるような人柄だとはいえ、彰良の性根がそうそう変わるとも思えなかった。

「心配することもあるまい。時を見はからって本人たちにも話してみよう。なに、遥香さんは従順な娘さんだ、きっと芳川家のためになってくれるぞ」

 悟は小さく肩をすくめた。父は甘い。半妖の二人が怪異に肩入れするようなことが起きたらどうするつもりだ。
 まあ彰良が反旗をかかげるようなことがあろうとも、たかが半妖ぐらい方技部の面々にかかればどうということもない。その覚悟のもとで彰良を引き取り、養育してきた芳川家なのだった。




「ええー、ぼくにおみやげはないのぉ?」
「ごめんね、とうふちゃん」

 横浜に戻った遥香のところにあらわれて、豆腐小僧は口をとがらせた。遥香の膝に甘える豆腐小僧をながめる彰良の目は、あいかわらず無愛想だ。

「ほんの何日か帝都に行っただけだぞ。土産も何もない」
「でも私、横浜を離れたのは初めてでした。とても嬉しかったんです」
「……そうか」

 ほのかに笑う遥香からフイと目をそらし、彰良は自分の気持ちがわからなくなっていた。「嬉しい」と遥香に言われることが、彰良も嬉しいのは何故なのか。

「ハルカ、このきもの、きれいだね。よかったねえ」

 豆腐小僧が頭を起こし、遥香の膝をペチペチとする。遥香はそっぽを向く彰良に目をやった。これは彰良から贈られた着物だ。

「そうね、おかげで帝都を歩いても気が引けなかったの」
「がんばってぬったもんね。たくさんチックンってして、いたかったけど」
「とうふちゃんッ……!」

 不器用ぶりを告げ口されて、遥香は豆腐小僧をぶつふりをした。コロンと転げて逃げる豆腐小僧は彰良のかげに隠れてしまう。遥香がそっちには追ってこられないとわかってやっているのだ。

「へへへーん、アキラくんにばらしちゃった!」
「もう!」

 怒りながら困っている遥香を見て、ゆるみかける頬を彰良は我慢していた。給金がわりの反物で仕立てた着物は本当に遥香によく似合っている。
 これを縫いあげた時、おずおずと仕上がりを披露した遥香のことを彰良は無言でながめてしまい喜之助に叱られた。だって古びた格好でみすぼらしく下を向いてばかりだった遥香が、可憐な花柄をまとって恥ずかしげに立つ姿に目をうばわれたのだ。
 小間物屋に行った時もそうだ。喜之助のことなどどうでもよくなって、着物に似合う小物をつい手にしていた。ほんのり頬を染め、伏し目がちに喜ぶ遥香が見たいと思ってしまった。

 彰良はため息をかみ殺す。これが、ひとを想うということなのだろうか。

 考えてみればこれまで身近に女などいなかった。いや、視界に入れないように生きてきた。女への欲に身を堕としたら、父親と同じ魔物になってしまう気がした。
 ――だが、笑い合う遥香と豆腐小僧を間近でながめているのはなんだかとても安らぐ。この気持ちをどうすればいいのか。
 戸惑って彰良は黙り込んだ。