今日はすっかり暗くなってからの外出だった。
 怪異を何とかしてくれとの通報による出動なので、また軍人二人と巫女という三人連れになっている。夜歩きに慣れない遥香のために喜之助が提灯をかざし、彰良が周囲に目を配っていた。
 行先は繁華街の端にあたる、運河の間の町。居酒屋や食事処の並ぶ通りの裏に女の怨霊が出るらしい。襲われるのは男ばかりだとか。
 暗闇に沈む町をさまよう女には、どんなうらみつらみがあるのだろうと遥香はいたましく思った。

「色街も近いしな、なんだかんだ事件は起こるそうだ」

 そう言った喜之助は微妙な顔だ。男女の愛憎や情念ににぶい面々だという自覚はある。堅物の軍人と稲荷に引きこもっていた巫女だから仕方がなかった。

「痴情のもつれの果てに命を断ったか。それとも男に殺されたのか――」

 さらっと口にする彰良だが、自身はそんな激情を味わったこともない。ある理由で女に近づかずにいたために、一般論しかわからないのだった。
 遥香は大事に水筒を抱えていた。手伝ってもらう友だちのために、冷ました茶を詰めてある。それを喜之助がチラリとした。

「ええと、水乞(みずこい)ちゃん、だったっけ」
「はい――でもどんな怨霊さんかによって、とうふちゃんに来てもらっても何とかなると思います」
「その場で対応を変えるのか」

 彰良に驚かれ、遥香はすこしだけ照れてしまった。
 自分はたいした力もない小娘だ。ひとりでは戦えなくて友だちに頼ってしまっているのだから、感心してもらえる立場ではない。
 ――でも、それでも、できることがあるならばやってみたい。この人たちに必要だと言ってもらいたい。
 そして無念を抱えて消え去るしかない悲しい怪異をなくすことができるならとも思う。滅するなんて、彰良の本意だとは信じられなかったから。
 すべてを斬り捨ててきた彰良がどんな気持ちを抱えて戦っているのか遥香にはわからない。でも幼いころから剣をふるってきた裏には何かがあるのではないか。
 とてもやさしい人だと感じたのは、きっと嘘じゃない。彰良の本当の心に触れてみたい。

「――!」

 自分が考えたことにびっくりして遥香は顔を赤くした。心に触れたいだなんて、そんな。
 だけど、それが遥香の気持ち。
 彰良はいつも突き放すふりをするくせに、遥香を気づかってくれている。そんなひとにこたえたい知りたいと思うのはあたりまえだと遥香は自分に言い訳した。
 こっそり盗み見た彰良の横顔は、いつも通り遥香のことなど気にしていないように思えるけれど。


 通報があった場所は、表通りから一本入った路地だった。真っ直ぐの細い道の真ん中にどぶ板が敷いてある。両脇は店々の裏口ばかりだ。

「町って、華やかなだけじゃないんですね……」

 遥香はビクビクしながら小さくあたりを見回した。提灯を高くかかげた喜之助が闇を見透かす。
 ちらちらと店の灯りがもれ、話し声や三味線の音が壁の向こうで聞こえていた。通りの雑踏も不思議に遠く、この暗がりだけがぽっかりと虚ろだ。

 ザリ、と後ろに足音がした。ふり向く。

「きゃっ!」

 ゆら。ゆら。
 思ったより近く、一間(1.8m)ほどの所にびしょ濡れの女が立っていた。

 悲鳴を上げた遥香の腕を彰良がつかみ、跳びすさった。近すぎる。
 喜之助は提灯を地面に置き身がまえた。隠しに手を入れるのは、そこに呪符があるから。これでも陰陽師だ。
 距離を取った三人を見比べるように、女はゆれた。

「――いけそうか?」

 怨霊から目を離さない彰良にささやかれ、遥香はゴクリと唾をのんだ。

「はい」

 遥香もヒタと怨霊を見据えたまま、水筒を手にささやく。

「みっちゃん、来てくれる――?」
「――いいよ」

 遥香の前に、カサと乾いた風が渦巻いた。そこに現れたのは幼い女の子――だが痩せ細り、髪も頬もガサガサだ。

「お茶を」

 急いで差し出す水筒に、水乞(みずこい)のみっちゃんは飢えたようにかじりつく。
 ぐびぐび。ぐび。

「っあー!」

 一瞬で飲み干すと、水乞はつややかな肌と髪を取り戻し、頬もふっくらしていた。

「――!?」

 彰良と喜之助はギョッとしてそれに目をうばわれた。その瞬間、

「――ド、シテ」

 怨霊がブワと肉薄した。
 彰良は遥香を、喜之助は水乞をかかえて跳ぶ。

「やん!」
「あ、ごめん!」

 水乞に悲鳴を上げられ、こんな場合だが喜之助は反射的に謝った。謝りながら姿勢は怨霊を警戒し、水乞をかばっている。そこに遥香の声が飛んだ。

「みっちゃん、あの人を!」
「かしこまり!」

 楽しそうに言うと水乞は怨霊に両手を向ける。

「きゅうッ!」

 じゅじゅ、じゅじゃじゅ。
 そんな感じの音がしたように思えた。
 すると次第に怨霊の髪が乾いていく。着物も。そして体の中も。

「ウラ、ギ――」

 怨霊はまだズリ、と動き、何か言った。遥香があせったようにつぶやく。

「濡れすぎてたかしら――?」
「おん まか らぎゃ ばぞろ しゅうにしゃ」

 喜之助が真言(しんごん)を唱え始めた。せめて助力になれば、と。怨霊の動きが鈍る。

「ばざら さとば じゃくうん ばん こく」

 じゅじゅ、じゅ。
 じれて駆け寄ろうとする遥香を彰良が抑えた。怨霊はまだ動いている。遥香を傷つけさせるわけにいかない。

「――イ、ヤ」

 怨霊の体が干からびてくる。それがわかるのか、怨霊は手で顔を隠しうずくまった。

「よしっ!」

 彰良の声で遥香は転がり出た。
 しゃがみ込む怨霊の頭に手を触れる。蒼い光があふれた。

「――」

 遥香は何も言わず、ほほえむ。
 彰良は、そして喜之助と水乞も、かたずをのんで見守った。

 怨霊は力の抜けたように腕をおろす。
 白さを増す光の中で上げた顔が、ふっくらと美しさを取り戻し――そして透き通る。
 怨霊だった蒼い光は、白に集束していき――そして、まばゆく散った。

「ハルカ」

 立ち尽くし、何だか頬を上気させている遥香に近づいたのは水乞だった。だが。

「え!?」

 喜之助が仰天するのも無理はない。
 水乞は今、年頃の女になっていた。さっきまでは女の子だったのに、もう喜之助と同い年ぐらいか。それを見た遥香も顔色を変えた。

「ごめんなさい、みっちゃん。たいへんだった? ずいぶん水を吸ったのね」
「へいき。あの人、川に落ちたんだわ」
「そうね――」

 悲しげにする遥香の肩を水乞はポンポンとたたいた。

「大人になるのも嫌いじゃないから」
「ありがとう。こんどお礼に何かごちそうしなきゃ」

 力なく遥香が笑うと、それに水乞が瞳を光らせた。

「なら私、飲んでみたいものがあるんだけど」
「なあに?」
「あのねえ、ラムネ!」

 それは舶来の味。居留地から売り出された炭酸飲料は、手軽に味わえる西洋物として人気だ。
 妖怪とはいえ世の流行に敏感とは。女なんだな、と彰良と喜之助は感心した。